序章 ♩=96
※必ずお読みください※
「第1幕から2幕へリチウムを加えて」をお読みいただいた皆さま、本当にありがとうございました。
皆さまのおかげで、何度筆を持つ手が軽やかになったことか、計り知れません。重ねて感謝を申し上げます。
さて、前作は「男の子同士でも強がらずに、ケアする友情を」というコンセプトから書き始めたのですが、作者の意図を超えて自然とふたりに愛情が育ってしまいました。
読者の皆さまがすでに愛してくださった「ジャンル・ブロマンス」としてのイメージは今でも大切にしたいと思っています。
しかし、本人たちを尊重せずに、すでに作中へと溢れ出しているふたりの心に対して、作者の都合で「これは愛ではありません」と何度もラベルを貼り直すことは、傲慢であり、作家のエゴだと考え改めました。
よって今作においても、脚色を加えないふたりの新しい生活を続編としてお届けします
ブロマンスとしてお楽しみくださった方は、本作の展開についてあらかじめご留意ください。
作中には恋愛描写、および軽微な性描写が含まれます。
⚠️【トリガーワーニング(閲覧注意)】-Trigger warning-⚠️
※頭痛薬への依存描写・詳細な頭痛描写があります※
本作には、頭痛に悩むキャラクターによる市販の解熱鎮痛剤への過度な依存描写、および頭痛に伴う生々しい身体感覚やパニック状態の詳細な描写が含まれます。
ご自身の体調や精神的なコンディションに合わせて、ご無理のない範囲でお読みください。
目の下にどす黒い……とまでは言わないが、アーモンド型のクマ。
燎太郎が鏡を見るたびに憂鬱になる理由をそっと撫でる。
ドーランを塗る時は隠せるけど、と小さくため息を吐く。
かつて高校の同級生に「映画のセットみたい」と言わしめたあの広い洗面台とはいかないけれど、やっと持てた自分の洗面台の前。
燎太郎は、右のこめかみを押さえた。
実家からそう遠くないベッドタウンのターミナル駅近、それなりのお家賃なのにそう広くもない部屋なのは、このアパートは防音設備が整っているからだ。
グレーのタイル張り、鉄筋コンクリートのこのアパートの住人は、ほとんどが音大生か音楽をやっている人だ。
まあ、挨拶くらいしかしないけど、と燎太郎は廊下と呼ぶにはあまりにも短く感じる板張りを踏み締める。
ワンルームの部屋には、どこからかチェロの音がかすかに聞こえてくる。
サン=サーンスの『白鳥』
燎太郎は「この曲が緊張型頭痛に効く!」と謳った動画を幾度となく見たことを思い出して、苦笑いをした。
ヴォーカルスコアが積み上がった黒いデスクをゴソゴソ漁る。
すぐ横、窓からからかうように朝の光が差した。
天板、五線が山ほど踊っている。ここには無し。
微かな期待を込めてペントレーを引き出す。鍵がついてるんだ。きっとおあつらえ向きだ。
中には、シャープペンシルと、万年筆、そのインク。紙切れが数枚と寂しげな風景。だからこそすぐに分かる、ここにも無し。なにが、おあつらえ向きだか。
その次に、袖引き出しをひとつずつ引き出すが、出し損ねのハガキや未開封の便箋。なにに使うか分からないコードなど、細々としたもの。ここにも無し。
結局はデスクの中にはなかったことになり、無駄足をキッチンへと向ける。
黒いアップライトピアノの横を通って、流し台の前に据えられた丸椅子二脚の、小さなダイニングテーブルに目をやる。
友達が遊びに来た時に花を生けるため、今はカラの花瓶。出しっぱなしのランチョンマット。これまた空っぽのカトラリーケースをひっくり返す。
あれえ、と思わず漏らしながらも肘を掴んで、もう片方の手でこめかみをトントンと叩く。
その時、目に入ったワインレッド。ツードアの冷蔵庫。
「まさか」
はっきりと声に出しながら冷蔵庫のノブを掴んで冷気を吐き出させると、一緒にブーッという駆動音が聞こえてくる。
小さなPP張りの箱。テカリと青く光りながら、マーガリンと一緒にひんやりとよく冷やされていた。
「嘘だろ、なんでこんなところに入れたんだろ」
燎太郎はため息を、誰が聞いているでもないのにわざとらしく吐き出すと、ひったくるように手のひらより一回り小さな冷たい箱を掴んだ。
赤茶のタイル調、向かいのタワーマンションが燎太郎を見下ろす。さっき開けたばかりのカーテンなのにもう閉めたい。
燎太郎は、流しの上に置かれた水切りラックからグラスを拾い上げると、ろくに洗いもせずに水道水を注ぎ込む。ダイニングテーブルに叩きつけるように置くと、箱からアルミとプラスチックのシートを取り出す。
――ナフサ、ナフサ……プラスチックの材料……バイオマス……。
一時期、ニュースを賑わせた言葉が、意味もなく響いていたが、シートを割るパキッという音にかき消される。
アルミの擦れ合う音に眉を寄せたら、そのままごくりと白い錠剤を飲み込む。
あ、さっき水汲んだんだっけ――。
思わず、ダイニングテーブルの脚にもたれかかるように座り込むと、昔は水をたっぷり使っても、えずいていたくらい薬が苦手だったのに、と、再び燎太郎はこめかみを押さえる。
薬箱、買った方がいいのかな。そう考えると燎太郎は、ダイニングテーブルの天板に掴まり、のろのろと立ち上がる。
さっき汲んだ水を、申し訳程度にちびちび飲みながら、嚥下の時、薬が喉に引っかかる感覚を思い出して、重い瞬きを繰り返す。――絶対、喉に良くない。
今までは薬には頼らないような生活だった。病院は嫌いだし。
実家にいる時は、薬箱といえば湿布や絆創膏くらいしか用事はなかった。だから、必要性に気付かなかっただけだ。でも、決まった場所にしまっておいた方がいい気がする。
燎太郎は誰に向けたものか分からない言い訳を連ねながらも、ピアノの対面、オリーブグリーンのベッドへすりすりと歩いて行く。
空調のまだ効かない部屋は肌寒い。
今度こそ期待を込めて、ベッドに放り投げていたスマホを拾い上げる。
祈るように電源ボタンをカチッと親指の腹で押すが、ロック画面の通知センターには何も届いていなかった。
念の為、メッセージアプリを立ち上げて確認するが、新着メッセージはなにも届いていなかった……なにも。
燎太郎はまた、ため息をつくと、スマホを枕の横に放り投げ、堪えきれず、ベッドへ横になる。
鼻の奥に、苦味のようなものが広がっているので、よし、今日は大人しく効いてくれてる……そう言い聞かせながら、白い天井をじっと眺めた。
四分の四拍子、四分音符イコール九十六。こめかみの中で脈打つリズム。
Toréador, en garde ……Toréador,Toréador……
それをメトロノーム代わりに、燎太郎は掠れたウィスパーヴォイスで歌う。
Et songe bien, oui, songe en combattant……
こんなやる気のない歌い方、先生は間違いなく「バチギレる」だろうな。
燎太郎は、ふふと笑う。血管の中で暴れる液体に、また眉をひそめる。
「ボーッとする」そんな形容詞でしか表せないような状態になったら、肘に体重をかけてベッドから起き上がる。無駄に腹筋を鍛えておいてよかった、こんなに体が重いのにかろうじて起き上がれるから。いや、無駄ではないんだけれど。
もうそれ以上余計なことを考えないように、脳がボーッとする副反応に任せるまま薬を切り分ける。ピルケースに入れておかなければ、もうそろそろなくなりそうだった。
何気なく、ベッドに置かれたスマホに目をやると、真っ暗な待ち受け状態からロック画面へと液晶表示が移行する瞬間を捉えた。
燎太郎は小走りに、スマホが光った場所へと引き返す。車がクラクションをパッパーッと鳴らして行った。
パッと消えゆく通知のバナーに「おはよう」と見えたが、それは誰からだかはすぐに分かった。
そんなメッセージを交わす友達は一人しかいない。
スマホを拾い上げ、小さなボタンを親指の腹で押すと、吹き出しの形をタップしてメッセージアプリを開く。
おはよう
友人の名前を冠したスレッドにはただそれだけ。ただ、それだけ。
……別に、それでもいいんだけど。
昔はさ、昨日見たネットの記事の感想とかさ、添えてたじゃん。
燎太郎は、それ以外なにも書かれていないことは分かっていたが、何かを期待してスクロールする指を止められなかった。




