七章 あるブラフ(中編)
「あのさ、なんで県内移動なのに一回東京に出なきゃいけないんだろうね」
燎太郎がマスタードイエローの座席に沈み込みながらくすくす笑った。
「そうそう、東京への縦移動は強いのに、県内の横移動が弱いのは課題だよね。渋滞も含めて。その他はおおむね住みやすい街なのに、もったいないっていうかね」
健吾は、ボトルに汲んできたほうじ茶を傾けながら同調した。
家の最寄駅から埼京線で池袋まで行くと、特急専用ホームの改札があったのでそこへ進む。
丸い吹き抜けと、白を基調とした壁や床。どことなく近未来を感じさせるデザインだ。
しかし、吹き抜けにライトアップが反射してゆらゆら球のような光が揺れる様は、どこかキャンドルを灯した神聖な夜のようでもある。朝なのに。
今回の旅行では、三日目の朝から渓流のレジャー施設でマス釣りをする予定なので、いつものコートではなく、裏起毛のマウンテンパーカーで防寒対策をしていた。モコモコの青虫みたいな腕がシャカシャカと音を立てる。燎太郎は黒で、健吾はオフホワイト、オセロみたいに並んで歩く。
思惑通り、人通りもそこそこといったところで、ハイシーズンを避けて正解だったと、健吾は思った。
キャリーケースはコンビニに配送を頼むと、宿に預けられる便利なサービスがあったので、ありがたくそれを利用させてもらった。
そこには着替えやスキンケアなど、宿の中で使うものを健吾のケースにふたり分詰めたので、手元になくても不自由はないだろうと思った。
スチームパンク風味のあるゲームなんかで、地下に潜るとこんなステージがある。ごつごつとしたコンクリートや剥き出しのパイプ。そんな質感をもつホームで特急電車を待っていると、鈍色の車体が滑り込んで来た。丸っこい先頭フェイスは、レトロな映画の宇宙船のようだ。
ボストンバッグを持って車内に乗り込むと、
「荷物あげるねー」
言うが早いか、燎太郎はひょいとその大きな茶色いバッグを透明な荷物棚に上げてしまった。――やっぱり旅慣れてるな。
素早く座席に滑り込むと、人の往来を見送る。邪魔になったりはしていないようで良かった。
これで荷物は燎太郎のボディバックと健吾の肩掛けバッグと、最小限にまとまった。
燎太郎は、
「すごーい。ロボットアニメのコクピットみたい」
と、体を包み込むようなフォルムのシートに座り、声を抑えながらもはしゃいでいた。この座席はドビーモケット張りで、ソファーのような肌触りを感じさせる。
座席間は広々としているので、圧迫感はない。燎太郎の長い脚も窮屈ではないだろう。どちらが窓際に座るか、譲り合いが永遠に続いてしまわないかと危惧したが、「燎太郎が主役」だと健吾が言うと、素直に従ってくれた。
燎太郎は普通の電車の何倍もある、大きな絵画のように切り取られた窓の横で、ヘッドレストを動かしてみたり、インアームテーブルを引き出してみたり、小さな探検を始める。――ふふ、また勇者の鎧の中から子どもの自分を引っ張り出している。
健吾はフッと笑うと、鉄道博物館は自分の趣味に付き合ってもらったものだと思っていたが、案外燎太郎自身も楽しんでいたのかもしれない、とそう考えた。
ホームが動き始める。進むというより、なんかホームが置いていかれてるみたい、そう思ったから。
待ってー。と声を上げる池袋駅を夢想しながら、自分はこんな非科学的な想像をする人間だったかな、と振り返る。……してたかも。自分は合理的だ、とそう思い込んでいただけで、こんなくだらないことをよく空想してたかも、まあ、誰かさんの影響でそれが豊かになったという事実も否めないけど。ま、悪くないと思う。
ホームをすっかり置き去りにしてしまった車体は、大きな窓にビルの群れを映し出す。百年後、二百年後はこの街並みも「歴史的」な風景として絵画に残るのだろうか、と健吾はふと考えた。
「思ったより車内静かでびっくりだけど、一応イヤマフしていいかな?」
ヘッドホンのような耳栓、黒くて艶を抑えたボディを握りしめ、燎太郎は健吾に尋ねた。
「うん、そうしなよ」
健吾が頷くと、燎太郎も頷き返してヘッドバンドを広げる。耳をすっぽり覆うと、燎太郎はニコと笑って再びマスタードイエローのシートにまっすぐ沈み込んだ。
離脱症状が酷い時から年始にかけては、耳栓で対応していた。
しかし、それも長時間使用になると、耳の圧迫感が感覚を刺激して逆効果になってしまった。
元々聴覚に対して感覚が過敏気味だった燎太郎は頭痛外来で医師と相談し、イヤーマフを勧められた。それをカスタムし、耳障りな周波数をカットする遮音設定などを施した。
聖ハニエル記念音楽大学――燎太郎の通っている大学でも、イヤーマフをつけながらの講義や学内活動は認めてもらったが、今度、シリコンで燎太郎の耳穴を型取りした遮音プラグを作りに行く予定だ。それならば、舞台の上で装着していても、目立たない。
「ちょっと、そんなに見られたら、おれまた顔色悪いのかなって思っちゃうってば」
健吾側のマフをずらして、燎太郎がくすぐったそうにこう言った。考え事をしながら、燎太郎の顔を凝視してしまったらしい。
「すまない」
恥ずかしくなって、健吾は慌て顔を逸らすと、燎太郎はふふと笑ってまたイヤーマフをはめ直した。
そろそろ頃合いかな、そう思った健吾は膝に抱えた肩掛けバッグにガサゴソと手を突っ込む。
ひんやりとした感触に辿り着くと、カチカチに凍っていたアイスクリームの容器を引っ張り出した。
さっき構内の売店で買ったそれを外側からそっと押すと、フニフニと柔らかくなっていた。
やっぱり食べごろだ、健吾は思わずニヤつくと、指先を結露で濡らしながらも、先ほど引き出しておいたインアームテーブルにことりと置いた。
その様子を見た燎太郎も、ボディバックに手を突っ込む。さっき売店でプレッツェルのお菓子を買っていたが……。
燎太郎は、お菓子の箱をバッグから取り出すと、イヤーマフを首に掛けながら健吾の方を見てニッと笑った。
「健吾もおひとつどうぞ」
紙箱のミシン目をぺりぺりと引っ張ると、燎太郎は内装の口を開け、あらわになった細いしょっぱ味のプレッツェルを健吾の方に向けた。
「ありがとう。こっち、アイスだからあげられないけど……」
健吾が旅行の定番、そのお菓子をアルミ袋から引っ張り出すと、申し訳なさそうに言葉を濁した。
「いいって。健吾、ミルクを使ったアイス好きだもんね、楽しんで」
燎太郎はそう答えると、ぽりぽりと小気味のいい音を立てた。
健吾は塩気のきいたプレッツェルをぽきりと食べると、バターの風味が広がる。その風味がが残るうちに紙製スプーンでアイスを一口掬った。
「うん、これ甘じょっぱになっていいね。交互にいくと」
右手にスプーン、左手にプレッツェルを抱え、健吾は笑う。その様子を見た燎太郎も愉快そうに笑った。
――なんか、高校の時の修学旅行を思い出すな。
燎太郎は、学校行事の旅行に行くのは初めてだと飛行機の中で言っていた。「おれ、初めて冷泉って苗字で良かったと思うよ」燎太郎は続けてこう呟いたが健吾は当時、何を大袈裟なと笑っていた。出席番号で班や移動の乗り物の席順を決めるから、こうして健吾と隣り合うことができた、だそうだが。今、考えると燎太郎……結構大胆なことを言ってない?
健吾は気づくと、また顔が熱くなる。アイスを食べてクールダウンせねば。
目を細めてプレッツェルをポキポキ折っては、ボトルの白湯を啜る燎太郎。修学旅行の大部屋でも楽しそうにこの旅行の定番をみんなに配ってたな。
学級委員長としてお世話になった高嶋さん、マル。そしてシロも……。元気にしてるかな。
健吾は「あれ、なんか高校生のぼくらも一緒に旅行に連れて来てない?」と思わず窓の外、通路をキョロキョロ見渡してしまう。
なんか、そんな内容のアニメ映画があったな、とぼんやり考えながら健吾は、すっかり柔らかいアイスを舌の上に乗せる。両のこめかみがつうんと、小さな針で刺されたようになる。眉間に皺を寄せ、つい人差し指で押さえてしまう。しまった食べるペースが早かったか。
摩天楼という言葉が頭を掠めるビル街はもうとっくに抜けて、民家やマンション、ショッピングモールなどの商業施設が立ち並ぶ。段々と背が低くなってゆく鉄筋コンクリート。
ふたりでその移り変わりを眺めていると、ふとずしりとした重みが肩にかかる。
燎太郎だ、うとうとしているとは思っていたけど。
シートに体を沈ませたまま前のめりで、健吾の肩へ器用に寄りかかっていた。
大きな窓が一瞬で鏡に変わる。大型の高架が太陽の光を遮ったから。
安心したような表情を浮かべ、頭をすっかり健吾に預けてしまっている燎太郎。
……ぼくも、こんな顔で燎太郎に寄りかかっていたのかな。
燎太郎を家に送るいつもの車の中、アクアラインを通って内房総へ遊びに行った時も、ぼくはこうやって燎太郎の肩に寄りかかっていた気がする。
目覚めた時、なんかいつもより睡眠効率が良かったと、そんなことしか考えていなかったけど、それはこうやって燎太郎の肩を借りていたからなのか。
お父さんとお母さん、どう思っていたんだろう。
巨大な鏡はパッとコンクリートの街並みを絵描くスクリーンへと変わる。暗闇はそんなに長くは続かないか……。
健吾はフッと笑うと、燎太郎のイヤーマフの材質の硬さを肩で感じた。
「燎太郎、次の駅でスイッチバックするって、進行方向が変わるからぼくは座席回したいんだけど、どうしよ」
健吾は、燎太郎の手の甲を軽くつつくと、寝ぼけまなこを向ける燎太郎に車内アナウンスが告げた内容を教えた。
燎太郎は小さくあくびをすると、
「そうだね、ここ最後尾だし……様子見て回させてもらおうか」
イヤーマフを首にかけこう答えた。進行方向と逆向きに座ると酔ってしまう、健吾がそう言わずとも伝わっていそうだ。
電車が駅へと滑り込むと、ぽつぽつと見える他の乗客は幾人か立ち上がり、座席横レバーを踏むと黄色い椅子を掴み、くるりと進行方向に合わせる人もいた。
健吾たちもそれに倣う。座席に戻り周囲を確認すると、他の乗客が立ち往生になったりしていないようで安心した。
今度は車両の中で最前列になるふたりの座席。ここが最前列でなかったらボックス席になってしまい、誰も乗っていなかったとしても気まずくなっただろうから、ちょっと良かったと健吾は思った。その場合は他の席を勝手に回していいものかどうかもよく分からないし。
燎太郎は、進行方向が変わってから徐々に緑深くなる景色を興味深そうに見ているが、陽光が時々チカチカと強くさす、冬だというのに。空気が澄んでいるからだろう。遠くの山並みがうっすら雪化粧していることも関係ありそうだ。
健吾は燎太郎に「カーテン引く?」と尋ねたが、彼は景色が見たいと偏光サングラスを掛けた。……耳が忙しそう。
トンネルをいくつか通過するが、やはり暗闇はいつまでも続かなかった。くるみ割り人形のようにポカンと下顎を落として窓の外を眺めるふたりを置いて、流れて行く。
しばらくは野畑や遠くの山々、そういったものを車窓が切り取っていたら、やがてぽつぽつと民家が並び、背の低いビルも見え始めてくる。そんなふうに、車窓スクリーンの上映を楽しんでいたら、終着駅を告げるアナウンスが響いた。
ガラスの荷物棚に預けていたボストンバッグを、燎太郎が素早く回収する。健吾の反対に抱え込むようにして、絶対に自分が持つというような構えに見えた。健吾は、まあ燎太郎が疲れてきたら自分が持つかと、小さくため息をつく。
デッキで乗客の列に加わると、乗降ドアがプシュっと車体に吸い込まれる。そのまま人の流に沿って進むと、さっきまで自分たちをこの遠い地に運んでくれていた鈍色のボディを横に歩き、労りと共に別れを告げた。
平日だというのに観光客で賑わうコンコースは、和風の装飾がところどころに施されていた。古民家のようなスギの柱や梁、まん丸な提灯。遠くから写真に収める人もいたが、とえりあず改札から出るというタスクで頭がいっぱいの健吾は、カメラ兼スマホを取り出せない。焦らずいかねば。
人の波から外れて一息ついた健吾を、燎太郎は駅舎の壁際に誘導しながら、
「お腹すいてる?」
と尋ねた。健吾が「空いた」と答えると、
「じゃあ、食べに行こう、お蕎麦」
満面の笑みで燎太郎は健吾を昼食に誘った。
宿へのシャトルバスの時間を確認すると、通りへ向かう。駅前のロータリーにはタクシーや、観光バスで賑わっていた。
遠景には尖った山々が連なり、あの関東平野の日常から脱出して旅に来たんだ、という実感をじわりとまた一段強くさせる。
少し歩くと、駅前の喧騒から外れ住宅街に近くなるが、そこに一軒の古民家風な蕎麦屋さんがあった。スマホであらかじめ調べておいたお店だ。
燎太郎は健吾に顔を向けると「入る?」と尋ねるので、健吾は頷く。とはいえ、昼時なのでお店の外まで行列が出来ていた。ふたりはその列に加わる。
賑わう店内の小上がり、ふたりで座るとちょうどいいくらいのテーブルでふたりは蕎麦を啜った。
このあたりの名産品であるクルミを使った甘だれ。こういったところでも旅に来たという実感をくすぐる。
燎太郎は、拳よりもさらに大きなトンカツが乗ったどんぶりも食べている。
健吾はジャガイモを天ぷら粉で揚げ甘味噌ダレをかけた、これまたこの辺りのご当地グルメを齧った。一口大にカットされたそれは、まだ熱々で歯茎の裏を容赦なく赤くさせる。――でも、美味しい。サクサクの衣が歯に当たる食感も楽しかった。
健吾はこれを食べたのは初めてじゃなかった。両親が釣りに連れて行ってくれた時に、サービスエリアや道の駅でよく買ってくれたから。
もともと好きではあったが、今日は一際美味しく感じられた。ジャガイモはみずみずしく、それなのに衣の方は非常に軽い。水分バランスが完璧だ。
両親と一緒に食べたものも充分美味しかったのだが……なんだろうこの、ちょっとした罪悪感。子鳥も巣を飛び立つ時にこんな気持ちになるのかなあ。健吾は少し不思議な感覚を抱きながらも、サクサク軽快な口元のリズムを楽しんでいたらば燎太郎が、
「ひとつ、もらっていいかな?」
恥ずかしそうに、尋ねた。健吾が頷くと、燎太郎はパッと顔を綻ばせながら、平皿に盛られた黄金色のポテトを箸で摘み上げた。
――別に、本当に構わないんだけど、お腹いっぱいにならないのかな。
健吾はまた改めて、その大きな身体を維持してゆくのは本当に大変なんだなあ、としみじみ思った。
宿へのシャトルバスに乗り込む。小型マイクロバスだが、燎太郎と並んで座ることができた。
「酔い止め飲んできたっけ?」
座るなり、心配そうに燎太郎が健吾に尋ねる。どうしても、全席指定の特急電車よりは窮屈だからだ。
「飲んできたったら、もお。旅先で子ども扱いやめてよ」
健吾は抗議しながら「あれ、なんか既視感ある」と、きょとんとした。燎太郎はくすくす笑うと「あったね」と返し、微笑んだ。……ああ、アクアラインに向かう両親の車内で。健吾も思い出し、恥ずかしくなってきた。
燎太郎は、シートに沈み込んでリラックスの姿勢を取ると、またイヤーマフとサングラスを装着する。
バスが走る山道が深くなってゆくにつれ、窓から見える枝を縁取るように雪が残っている箇所がある――主に日陰になった部分。その純白が昼の陽光をキラキラ反射するからだ。
一〇分強バスが走ると、今日からお世話になる旅館に到着した。
お礼を告げてバスから降りると、緑の傾斜にしがみつくようにホテルが佇んでいた。功一が務める会社の保養所に似た、白いリゾートホテルといったてい。その周りをうっすら雪化粧した山々が天そそる。
こういった所で薫ってくるフィトンチッドは悪くない。どころか、同じ物質だというのにどうしてこうも爽快なのだろうか。アイスの棒から匂う時は「邪魔だ」としか思わない、申し訳ないけど。
ルリビタキがヒイヒイと歓迎の歌声を上げている。いや、揶揄われてるだけだったりして。健吾はひとつ鼻を啜る。
そんな事を考えながら自動ドアを潜り、シャンデリアをぶら下げたエントランスホールへと歩いて行く。
フロントでチェックインの手続きをしていると、隣で燎太郎がそわそわと落ち着かない様子で健吾のやり取りを見ている。プレゼントって、そう言ったんだからちゃんとやる。健吾は、少しだけムッとしながらも記帳を続けた。昔ながら、そんなフロントの台帳にボールペンを走らせる。フェニキシエタノールがつんと健吾の鼻を掠めた。
預けておいたキャリーケースを引き取って客室へと進む。スタッフがフロントカウンターの奥から持ってくると、燎太郎が持ち手に手を伸ばしそうになるので、健吾は慌ててひったくった。――燎太郎はボストンバッグも持ってるんだから、車輪を転がして引くぐらいぼくにもできる。
健吾は燎太郎の顔を見てみると、その表情からは何も読み取れなかったが、エントランスホールの奥に全面ガラス張りの窓が庭園の雑木林を映し出すと、目を細めた。サラサラと小川のせせらぎも聞こえる。
客室スタッフに連れられて、次の間まで来ると、燎太郎は慣れた様子でスタッフに心付けのポチ袋を渡した。
日本の場合は、サービス料込みと予約サイトには書かれていたり、でも渡す人もいて、旅好きの人のブログを読んだりしても意見が一致しない。正直に言うと「暗黙の了解」の領域なので、こればかりは旅慣れた燎太郎が対応してくれて助かったと、思った。
しんとした客室にせせらぎだけが響くようだった。
次の間からは浴室へと続く脱衣所の大きな扉が見えたので、それだけで民家の風呂場より豪華な露天風呂を予感させる。
燎太郎は、わーっと声を上げるが、廊下を滑るようにして客室に入って行く。健吾も後に続くと、木々を縫うように、しかしたっぷりと日の光が畳の部屋を照らした。
窓の外には一面の緑が広がっている。
細長い板であしらわれた座卓には二脚、座椅子が据えられ、鶯色の座布団が先に座っている。
焦茶のその卓には、ステンレスの保温ポット――中身がなくなったら交換してくれるとさっき説明を受けた――と、お茶菓子が用意されていた。
「お風呂、まずお風呂入りたいー!」
ボストンバッグを広縁に置くなり、燎太郎は弾んだ声を出す。
「わかるけどさ、先にお茶飲んで少し休もうよ」
健吾は吹き出すと、燎太郎に座椅子へ座るよう促した。
健吾が茶びつから湯呑みを取り出すと、いつの間にかサングラスとイヤーマフを外した燎太郎が広縁に小走りする。そして彼はボストンバッグからジッパー付きポリ袋を取り出す。
「ハーブティーのティーバッグ持って来ちゃった」
軽く掲げると燎太郎は座椅子に座り直した。健吾は小さく笑みをこぼすと、尋ねた。
「え、二十個くらい入ってない? そんなに飲む?」
「まあまあ、余ったら家で飲めばいいだけだし」
透明な袋の中で整列されたテーバッグをひとつ、引っ張り上げながら燎太郎もえへへと笑い声を上げた。
お茶菓子をぽりぽり齧りながら――これも名物のクルミを使った焼き菓子――一息ついていたところ、燎太郎の我慢の糸が切れたようだ。
「お風呂、入ろう」
言うと同時に、脱衣所に向かって小走りで向かった。しかし、着替えを用意していなかったことに気がついた燎太郎が脱衣所から引き返してきた。忙しない。
「わー!」
脱衣所の扉を開けると燎太郎の歓声が反響した。すぐそこに掛け流しの露天風呂があったから。
ウッドデッキにぽつりと置かれた巨大な檜の桶は、放物線を描く温湯を受け止めていた。
ぼわりと微かに硫黄が匂う。いわゆる茹で卵臭だ。――アルカリ性単純硫黄温泉のこの湯。事前に調べた通りなら肩凝り緩和が期待できる。
浴槽の横の洗い場でざっと身体を洗い流すと、燎太郎はゆっくり湯の中に体を沈めた。あぐらをかいて脚を収めている。健吾も続いて足を沈めると、燎太郎の向かいに収まった。あーっという濁点のついた呻き声のようなものをふたりして上げる。
ふたりがそろそろと体を沈めるたび、湯船の縁から絹糸を垂らしたかのようにお湯が逃げて行った。
透明度の高い、とろりと肌に絡みつくような泉質だ。健吾は手で少し掬うと、とろみの足りない生姜湯……そんな事を連想して少し笑ってしまった。
「燎太郎どう? 肩凝り楽になった、ってまあそんなに急に効果はでないか」
眼鏡が曇ってしまうので、額にあげながら健吾は尋ねた。
「うん、でもすごく気持ちいいよ。緊張がほぐれる感じ、プラシーボ的なアレでもこの際いいじゃん」
顔や肩を上気させながら燎太郎が微笑み、息を漏らす。
「そっか、湯あたりしないように。それだけ、気をつけよ」
健吾も再び、あーっと声を漏らしながらこう言った。
夕飯まで外をぷらぷら散歩することにした。
客室からはゴツゴツとした山が遠くに見えたが、エントランスから一歩出ると、林道が四方に散らばる。もう森の中といった感じだ。
息が白くなる。漫画の吹き出しを吐き出しているみたい。
そんなシュールなことを考えていると、張り詰めた山の空気に耳がじんと冷たくなる。
あまり当てにしすぎても悪いが、マップアプリを参考に大きな公園めがけて歩き出した。歩道が狭いのでふたりは縦一列に、気をつけて歩く。
女神の名を冠した大型パークに到着する。すっかり葉が散ってしまったイチョウ並木の下を歩くと、
「ウチの大学にもイチョウ並木があるけど、どこで見ても立派なものだねえ」
燎太郎がしみじみと言った。
「今日の晩ご飯にも銀杏が入ってたりして」
かと思うと、また食べる話してる。健吾はそう思いながらも、今日の夕飯はどんな感じか、思いを馳せた。
先程、客室に向かう道すがら、
「お客さん、ラッキーですね。……って言いたらアレですけど、猟師さんは大変だったから」
と、苦笑いと共にスタッフから話を切り出された。
どうやら、良い牡丹肉が入ったようで、追加料金を支払うと牡丹鍋が食べられるという案内だった。
健吾はいい機会だから体験してみたいと思ったし、燎太郎の顔を見ると「訊くまでもない」顔をしていたので、夕食に追加してもらうことにした。
燎太郎が大きく両手で手を振っている。健吾はなんだろうと思い、そちらの方に目をやると、小さく赤いレトロな汽車を模した乗り物が遊歩道を横切っていた。
子どもたちは、満面の笑みで手を振りかえしている。――ぼくにもあんな頃あったけな。健吾は胸の辺りで控えめに手を振った。
青かった空に少しだけ雲が広がる。
しばらく歩くと、頭上に展望台のようなものが見えたので、ふたりは顔を見合わせると頷き合ってそちらに向かった。
木製の階段を上がると、細長い渡り廊下のような通路が目の前に広がる。ひとつ、違うことがあるとすれば、この渡り廊下は公園を見渡せるような高さにまで浮いている……ような感じで支柱が何本か突き刺さっていた。
「見て、この手すり五線譜だ! 音符ついてる」
両の手すりを指差しながら、燎太郎がはしゃいだ声を上げる。すると、リング状のアーチから中高生の歌声と思われる合唱が流れ始めた。センサーで人通りを察知し、自動で再生される仕組みのようだ。
「あ、さっきさ、看板に書いてあったよね。あの定番卒業ソングはここで生まれたって」
燎太郎は目を細めると、続けてこう尋ねた。
「ウチの中学はこの曲歌った、健吾のとこはどうだった?」
「うん、ウチも歌ったな」
健吾が答えると、燎太郎は微笑む。しかし、その顔はどこか寂しげだ。
「そっか、同じだったんだ。うん、同じ歌、歌って卒業した……それだけでもいっか」
二度と取り戻せないものを惜しむような、そんな声にも聞こえたが、失ったものの中から、なんとかきらりと閃くものを拾い上げた。そんな強がりとも、なんとか折り合いをつけてどうにか満足したとも、どちらとも取れる笑顔を燎太郎は浮かべている。
健吾は燎太郎の手を取る。燎太郎は健吾の顔を見て目をまん丸にさせた。……誰もいないし、それに、
「ちょっと、足場が狭く感じるから、つかまらせて」
健吾はそういうことにしておこうと思った。お互いに着けているニットの手袋越しにも、燎太郎の手の平からあたたかさが伝わってきた。――ぼくは指先が冷たいから、体温泥棒になっちゃうだろうか。健吾がそんなことを考えていると、燎太郎は微笑みを浮かべた。少しだけ強く健吾の手を握りしめて、そのまま手を引いて円形のデッキ部まで進んだ。
山々が街を見下ろすように取り囲む、自分たちはその上に浮かんでいるみたい。遠近法を使ってそう設計しているのだろうが、旅先では不意にファンタジーな空想が流れ込んでくる。もう朝からずっとだけど。
しばらくそこに立って、その光景をじっと見ていた。雲がうっすらかかった水色も、徐々に薄い桃色へと変わってゆく。
緩やかな螺旋を描く階段を降りながら、燎太郎はしきりに「気をつけてね」と健吾に声をかけていた。
このパークの近くに有名な斜張橋があるので、それを見物したら宿に帰ろうということになった。
日本最大級のこの橋は、各種メディアで取り上げられることも多く、天高くそびえ立つ主塔から斜めに張られたあのワイヤーのビジュアルを見れば、ああアレか、とピンとくる人も少なくないのではないかと健吾は思う。
アスファルトで車道は舗装してあるが、両脇は林。そんないかにもな山道を緩やかに下りながら、目的地を目指す。歩道は相変わらず狭い、また一列に並んで歩く。ここでも勇者を先頭に歩く九十年代のアールピージー・ゲームだ。
その橋はもう遠くに見えるが、すでにでかい……。主塔がハイパーヨーヨーを何本もぶら下げて「犬の散歩」という技を繰り広げているみたいだ。
近づくにつれ、歩道も広くなってゆくので、
「帰り、登り坂で大変かもね」
燎太郎が健吾の横に立つことができた。彼は、苦笑いを浮かべている。
「ええ、そっか。燎太郎……もしもの時は、ちょっとだけ押してくれる?」
不安を露わにし気弱になった健吾は少し下を向く。その背中を、ぽんぽんと燎太郎の手のひらが軽く叩いた。もちろん、とか、大丈夫? とか、そんな諸々がないまぜになった無言の鼓舞だろう。……燎太郎の手のひら、本当にあったかいな。
再び健吾は顔を上げると、橋を渡り始める。タイル張りの歩道を両脇に、二車線の車道が駆け抜けている。
車道と歩道はしっかりガードフェンスで分離されているので、さっきの山道よりは気楽に歩けた。
ふうふうと吐く息が霧のように纏わりつく。
主塔の足元、橋の中腹に到着すると出窓のような出っ張りがあって少し歩道が開ける。燎太郎はその出窓部分に入ると、ボディバッグからスマホを出した。
「ちょっと、写真撮らせてね」
燎太郎が尋ねるので、健吾は「いいよ」と答えた。燎太郎はにっこりと滑らかに口角を上げると、スマホを構えて色んな角度からシャッターを切っている。張り巡らされた太いワイヤーや、主塔に施されたレリーフなどをカメラに収めているようだ。燎太郎は、建築物を鑑賞することが結構好きだからな。
……メチルイソボルネオール。
こんな大きな川でもやっぱりこれは匂うのだろうか。夕風にふわふわ漂ってくる気がした。
そもそも、この橋がかかる河川はどれくらいの大きさなんだろう。あ、橋のたもとには何級河川って書いてあっけ。この規模の水系だと流石に一級だとは思うけど、看板には実際どう記載されていたか、確認すればよかった。
それにしても、この下にはどんな光景が広がっているんだろう……気になる。
健吾は、魔が差した、とでも言うのだろうか、この橋の真下の景色が見たくなってしまった。
そう思ってしまったら最後、無意識にガードレールに手をかけてしまった。
顔を前に突き出して、河川の水面を覗こうとしたら、何かがぶつかって来たのかと思った。凄い勢いで。
なにが起こったのか、健吾は最初、分からなかった。衝撃ばかりが残る。
徐々に頭が働いてくる。すると、燎太郎が強い力で抱きしめていることが、分かった。すっぽりと胸の中に健吾を包み込んでいる。
燎太郎の肺は激しく上下して、マウンテンパーカーの素材がシャカシャカ音を立てる。
「びっくり、した。……また、身を乗り出しちゃうと、思ったから」
燎太郎の声は不気味なくらいに平坦だった。
「燎太郎……」
健吾がおずおずと声をかけると、燎太郎はハッと我に返ったようで、「ごめん」と焦った声を出しながら後退りした。
――あ。
健吾は、もしかしたら、今まで考えないようにしたかっただけ――そうだったのかもしれない。
燎太郎の大切なもの――楽譜を取り戻してあげたかったから、ぼくは手を伸ばした。ぼくにとっては本当にそれだけだったんだけど……。
いま、対面で微かに震える燎太郎の顔は真っ青だ。
――そうか、あの時、燎太郎は怖かったよね、すごく。
健吾は今更になってどれだけ燎太郎を傷つけたか、自分がしでかしたことの重さを思い知り、全身がガクガク震えてくる。
「ごめん……なさい。あの時、怖かったよね。燎太郎」
思わずポロポロと涙が溢れた。なんで、今までなんでもないふりをしていたんだろう。健吾はほんとうに自分が情けなくなる。荒くなる呼吸に嗚咽が混じり始めた。
燎太郎はすぐに、健吾が何について言っているか分かったようで、まっすぐ手を伸ばすと一瞬だけ間を開けて、その胸の中に再び健吾を包み込んだ。
「うん、じゃあお願い。また約束して欲しい。もう二度と無茶はしないって。おれたち、生き抜いてやろうよ、子どもの頃の分まで上乗せしてさ。しぶとく生き抜いてさ、一緒にずっとお茶飲んだりとか、したいんだ」
健吾の髪にあたたかい雫が落ちる。燎太郎の声は酷く震えていた。
「約束する。約束するよ燎太郎」
しゃくりを上げながらも、力強く返事した、つもり。……ぼくも声が、生まれて初めてこんなに震えているから。
でも、そっか。確かに子どもの頃は――あの頃は生きた心地がしなかったかも……。それ、今からでも取り返して上乗せしても、いいんだ。そんなものなのかなあ……いや、燎太郎がそう言うならそんな気もしてきた。
こんなに泣いたの、いつぶりだろう。燎太郎が「カッコ悪い」って恥ずかしがる気持ち、ちょっと分かったかも。
すっかりオレンジに染まった巨大な橋、そのタイル張りの歩道を、お揃いのスラックス――ガングラブチェックの燎太郎と健吾は駆け抜けて行った。モコモコのマウンテンパーカーを着たふたりの横を通り過ぎて行く。
健吾はその足音をそっと見送った。




