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八章 ポーン・アンド・ナイト

「Ah, bravo Figaro! Bravo, bravissimo! Ah, bravo Figaro! Bravo, bravissimo! A te fortuna, a te fortuna, a te fortuna non mancherà! La la la la……」

 燎太郎(りょうたろう)は思わずこぼした。オペラ『セヴィリアの理髪師』より、フィガロのアリアだ。

 旅行中もこのフレーズが何度かポロッとこぼれてしまったが、健吾(けんご)はじっと燎太郎を見るだけだった。

 その視線に見咎めたような色は感じなかったが、燎太郎はその度にしまったと恥ずかしくなっていた。

「燎太郎、次の手、決まった?」

 健吾が、気恥ずかしそうな燎太郎の様子に気づいたのか、自陣にあるルーク、白い砦の形をした駒の頭を人差し指でぐりぐりなぞりながら尋ねた。


 息抜きのはずなのに、全く息が抜けていないのだから、燎太郎は気まずくなり、今度は乾いた笑い声をこぼした。




 燎太郎と健吾は自室のコタツで向かい合い、チェスを指していた。

 これは、燎太郎が所属するゼミで開催された、遅めの新年パーティー兼後期実技試験に向けた決起集会で行われたビンゴ大会の景品だった。


 折り畳みのチェス盤。

 中央で折り畳まれている。広げると、三十センチくらいのチェッカー模様が一面に現れる。自然な風合いの木目と焦茶のツートーン。

 木製の駒にも磁石が仕込まれているようで、駒を置こうとすれば、微かな吸引力で盤面に吸い付くようになっていた。



 試験に向けて、燎太郎はなるべく感情をピリつかせないようには気をつけていたが、やはりこういったところで、焦りや不安がにょっきりと頭を出す。

 頭痛に倒れていたのだから、いくら練習を重ねても取り返した気になれなかった。

 コタツの横では空気清浄機が蒸気を噴き出す。さらに対角にもうひとつ、加湿器がしとしと湯気を上げていた。


「おれ、こんなに軽薄かなあ。何をもってして先生はこの曲を課題曲に指定したんだろう」

 燎太郎は思わず呟くと、黒いポーンをd4に移動させる。カチッと乾いた音が響いた。このポーンの斜め前、c3には健吾の率いるナイトが歩を進めていた。


 ふたりとも、チェスに関してはルールを知っているだけの初心者だった。この盤面は「指す人」から見れば斬新に見えるだろう。……か、どうだろうか、それすら分からない。セオリーや一手二手、何手先までの読み方も分からなかった。


「燎太郎が真面目だからこそだと思う。まあ、真面目はすごく良いこと……燎太郎の言う通りにね。だと、思うけど。もっと多面的な部分を持てということじゃないのかな」

 健吾がナイトをa4に突っ込ませてからこう言った。健吾の一手は素早い……。

「どういうこと?」

 燎太郎は、訝しんで健吾に尋ねた。鼻に皺を寄せてしまう。


「フィガロはポーンだ」

 健吾は燎太郎の次の一手を待ちながら、腕を組んだ。

「エスカミーリョみたいに、最初からクイーン……キラキラな大スターじゃない。でもさ、フィガロはポーンでありながら、ポーンのやり方で泥臭く盤面を支配しているじゃない? それが燎太郎の足りないものだと、先生は言いたいんじゃないかな。たまには泥臭くしたたかに行けって」

 

「そっか、フィガロは……ポーン」

 燎太郎はビショップをd7に出す。自陣のクイーンの前で、女王を守る形になった。

「まあ、ぼくの仮説だ。あまり当てにはしないでね」

 健吾が申し訳なさそうに微笑むので、燎太郎はクスリと笑って健吾の目を見ると「気にしないで」という言葉の代わりにした。


 ――自分はポーン。一マスずつしか進めない駒。

 燎太郎は、自分のことをずっとそんな風に思っていた。





 佐伯(さえき)美雨(みう)はインターン契約を強制終了させられたらしい。

 健吾に対する過剰接触に対して、警告が出ていたにも関わらず、許可なく無理矢理健吾の腕を掴んだから。しかも、公衆の面前で。いや、逆に言うと居合わせてくれた人が、全員証言者になり得るのだから不幸中の幸いと言うべきなのだろうか。燎太郎は唇を噛んだ。


「ぼくが、推理した結果を言ったら、彼女はわんわんと泣いてしまった。ぼくは『大丈夫?』と、声をかけることしかできなかった。渡邊(わたなべ)チーフがすぐに飛んできてくれたから、どこかで見守ってくれていたのかも。チーフは佐伯さんのことをすぐに引き取ってくれた。……ぼくも、少し踏み込み過ぎてしまったかも」

 健吾はたまの出勤日で起きたことを、その夜きちんと燎太郎に報告してくれた。申し訳なさそうに目を伏せる彼を見ると、燎太郎はどうしようもなく胸がざわつく。


 ――おれが、もっとうまく立ち回れたら。健吾にこんな思いをさせずに済んだのだろうか。

 燎太郎は、親指の腹で人差し指の爪を撫で回す。やはり、もどかしい、一マスずつしか進めない自分が……。


「あのね。彼女は真面目に出勤していたんだ。ぼくがリモートになっても、出勤状況は分かったからね。ほとんど休みもせず。いつも、目を輝かせてパソコンに向き合っていた……と思う。彼女はきっと、間違いなくゲームグラフィックスを描いたり、創ったりすることが……本当に大好きだった、んだろうと、思う」

 カラになった食器を眺めながら健吾はまた目を伏せる。ピーマンが余っていたので作った青椒肉絲のタレに、油が白く膜を張っている。


 燎太郎は、健吾の話す言葉の意図を上手く図りかねていた。胸がざわつくから。だから、彼女を……美雨を庇っているようにも聞こえてしまう。――バカだろおれ、こんな時に嫉妬……そうだな、嫉妬するなんて。

 今度は、人差し指の腹で、ぎゅうと親指の爪を押した。



 そんな夜のことを思い出していたら、フンフーンと健吾の鼻歌が耳に飛び込んできた。

 もう、お馴染みの旋律。どこからか響いてくるチェロに合わせて。サン=サーンスの『白鳥』だった。

 燎太郎は、もうひとつクスリと笑うと、

「白鳥、ずっと弾いてるよね、この人。一体いつまで課題が終わらないんだろう」

 少し茶化すようにこう言った。

「まあ、冗談だとは思うけど……」

 それを受け、健吾は前置きをした、至って真顔で。そして、ナイトをc5まで進める。……え、冗談ってわけじゃないんだけど、なに?

 燎太郎は、相変わらず自由に駒を動かす健吾に翻弄される。


「燎太郎が、課題だと思い込んでるだけじゃないの? 課題ならもっと、効率よく部分練習をするだろう。キミがさっきやっていたようにね。でもこの人はいつも通しで弾いているじゃない?」

 健吾の言葉に、燎太郎はハッとする。そうか、別に課題以外を演奏していたって、全然悪いことじゃない……。え、じゃあひょっとして。


「うーん。おれもねえ、パルランド(早口)が苦手なわけじゃないんだよ。でも、課題だからちゃんとやろうと思うと、なんか口が絡まっちゃう。意識しすぎってのは、分かってるんだよ、はあ」

 燎太郎は言い訳のように乾いたため息を吐きながら笑うと、b7からb5へポーンを進める。ポーンは最初の一回だけ、ふたマス進めるからだ。……真っ直ぐにだけだけど。


「シロに教わればいいじゃん。高速フレーズ」

 健吾は騎士をくるりとe4まで退けると、悪戯っぽくこう言った。

「ちょっと、健吾ー」

 燎太郎も、戯け返す。瞼を半分落とすとわざと無表情を作り、健吾に抗議するような声を出した。

「ごめん、冗談」

 チェス盤の前で、両手を上げながら、健吾は軽く笑った。燎太郎もつられて笑うと、g8からf6まで自陣の黒い騎士を出陣させた。

 しかし、燎太郎は少し晴れやかだった。あんなに避けて、まあ有り体に言うと……嫌いだった白詩(しろし)のこと。今では笑って話題に出来ている。


 あの夜、ぶつかって、程よい境界線を獲得できたこと、ドッチボールなんかで遊ぶ時、チョークで分けたお互いの陣地を表す白い歪な線のように。しかし、それはたとえ不器用なガタガタの線であっても、お互いにとっては良かったのだろうと思う。


 高校三年生の時も、文系クラスで燎太郎と白詩は同じクラスになったが(なんと、三年連続)、先生方は、なんだかんだで白詩は燎太郎のフォローをしてくれるだろう、とそう判断したのだろうな、燎太郎はぼんやりとそんなことを考える。加湿器がシュンシュン蒸気を上げていた。


「対してエスカミーリョがフィガロと対照的なキャラクターであること、作中での絶対的スターであること。そのふたりのアリアを同時に課題にしたことも、ぼくは偶然ではないと思うなあ」

 白いナイトがf6に突っ込み、燎太郎のナイトを手中に収めると、健吾は首を傾げながら続けて教授の選曲について考察を口にする。

「あ、でもさ健吾。それはちょっと迂闊すぎ」

 燎太郎はe7から歩兵を差し向ける。あんなに盤面を暴れていた健吾の白いナイトはあっさりとやられてしまった。一介のポーンに。

「ああ、しまった。ナイトに頼り過ぎてた」

 健吾はいま初めて見たような顔で盤面を見る。ナイトを指揮することへ夢中になるあまり、他の駒がほとんど動いていないことにようやく気がついたようだった。はあーと、健吾は恥ずかしそうに細く息を吐くと、

「でもまあ、こういうことだよね。今のぼくのはいささか極端だったけど……。ポーンもナイトも上手く使えってことなんじゃない?」

 両手で手を覆い、こう続けた。よほど恥ずかしかったのか「でも、まだ一対一トレードだし」と、消え入りそうな声で呟く。


 燎太郎は、ふふと笑うと、

「アルマヴィーヴァ伯爵と、エスカミーリョの類似性も面白いよね。圧倒的なヒーローで、熱い恋をしている。この課題曲ってさ、フィガロを挟んでふたつのヒロイズムを交差させる……みたいな感じなのかな」

 g1からまた性懲りもせずに出陣する白いナイトが目に飛び込み、思わずまた笑いそうになってしまうので堪えた。分かっている、健吾はきっとルークやビショップも場に出したいのだろう。

 そのためには、渋滞している王の側近たちを前に出さなければ。


「うん、でもさ。もっと興味深いのは、アルマヴィーヴァ伯爵って続編では浮気野郎に成り下がっちゃうんでしょう。逆プロモーションっていうかさ」

 健吾も自分の打つ手に気まずさを覚えているのか、また右手人差し指の腹でルークの頭をぐりぐりと撫でる。

 燎太郎は、少し嬉しかった。高校生の時は「オペラだとぼくが不利」だと、「今朝の音楽」ゲームの時に、確かにそう言っていたのに。

「そう。よく知ってるね」

 目を細めて、燎太郎はこう言った。あ、やばい「上から」のゲートキーパー的な言い方になっていなかっただろうか。


「うん。こないだちょっと調べたんだ。あのね、圧倒的なヒロイズムを発揮したヒーローだって、『やらかす』んだよ。今度は自分がフィガロに成敗される方になっちゃってさ。これって、実に生々しいと思うよ。だってリアルな人間ってこんなもんだもん。とあるニュースで功績を立てた著名人だって、ほんの数日後にスキャンダルをすっぱ抜かれたりしちゃうんだよ。ぼくは何度もこの流れ、見た気がする」

 健吾が発する言葉のひとつひとつに燎太郎はつい頷いてしまう

「燎太郎はきっと『綺麗すぎる』んだ。あ、もちろん舞台上におけるペルソナの話だよ。舞台の上でくらい、そんな生々しい汚さみたいなの、思い切り表現したらいいんじゃない? ……あ、でも、役作りだからと言って浮気はダメだからね」


「するわけない!」

 燎太郎は思わず反射的に、小さく叫んでしまう。

 カルメンの他には健吾しか好きになったことがないのだから。でも、こんなに必死に否定したら逆に怪しいだろうか。

 しかし、健吾の引き癖を考えてしまうと、ほんの僅かでも誤解を与えたくないと、燎太郎はどうしても思ってしまう。……あ、こんなとこ、なのだろうか。


 燎太郎が、眉を寄せ考え込んでいると、

「燎太郎、手が止まってるよ」

 苦笑いしながら健吾が忠告するので、ひとつ咳払いをすると、次の手を打った。窓の外、誰かのブレーキランプがカーテンの隙間から赤く光る。





 ゲームも終盤に差し掛かるころ、何羽めかの『白鳥』も飛び立って行った。

 誰もが耳にしたことがあるだろうこの曲、燎太郎は実際には聴こえてこないものの、冷たい水面をいくつもの雫が跳ね波紋を重ねるような、あのピアノの旋律が耳の奥で奏でられたようだ。


『動物の謝肉祭』

 これはサン=サーンスが遺した、痛烈な社会風刺を含む組曲だといわれている。

 先輩の曲をパロディにしてみせたり、同時代の音楽関係者を動物に喩えて皮肉っているという解釈もある。クラシック音楽会における鳥獣戯画のようだ。

 燎太郎は、昔から動画サイトでの悪ふざけみたいな、そんなことは連綿と続けられているのか、とある意味では変わらない人間の「核」のようなものに少し呆れてしまう。


 そんな組曲の十三番目に編成されたこの曲『白鳥』は、異彩な美しさを放つと言ってもいいだろう。

 さっきまでが、笑いの絶えない劇場だとしたら、急に静かな湖へと連れ出されたような。


 この曲が元となったバレエ『瀕死の白鳥』では、白鳥は静かに息を引き取ってしまうのだが、その場合も「飛び立つ」と、そう言ってしまっていいだろう。

 しかし、燎太郎はそれをメタモルフォーゼだと思う。白鳥は次に、自分が何者であってして、どう生きるかの選択をしたのだと。そう、プロモーションのように。


「白鳥で思い出したけどさ、『みにくいアヒルの子』あれもプロモーションの話だったのかねえ」

 ほんとうに何気なく、燎太郎はポツリと呟いた。


 燎太郎はいつか、自分もプロモーションしなければならない。いつもそう思っていた。

 カルメンひとつを取ってもそうだ。

 ――自分はそんなにバカじゃない。本当はどこかで分かっていた。いつまでも『ハバネラ』は歌えないことを。

 次の何かを探さなければならない、分かっていながら。見なかった。目の前の熱にうかされていたかった。だから、一マスずつしか、ゆっくり進めなかった。歩いた先で、待っているのものに、急かされるようで息苦しくて。


 その時、燎太郎はキングの逃げ場がないことに気づいた。

 ――あ。しまった。こんなの姑息な手だよね。

 健吾のルークと、自陣のポーンがわちゃっと混戦しているエリアにぽっかり空いた塹壕のようなスペース。そこに進めるしか手が残されていない。リザインしてしまおうかと、ウ……ンと小さく呻いた燎太郎。


 

「うーん。悪いけど……。ぼくはそのお話にはちょっと、懐疑的なんだよね」

 そんな静寂の中、言い出しにくそうに健吾は呟いた。

 

「え、どういうこと?」

 燎太郎は俄然、興味が湧く。健吾が女王の冠に指をかけ、f8まで滑らせるのを下目に見ると、健吾の顔に視線を移す。

 ――ああ、遊び(ゲーム)は終わりか。


「だってさ、あれはまるでアヒルよりハクチョウが優れているかのような、そんな印象を抱かせかねない。人間の勝手な目線で動物に優劣をつけるのは、よくないと思うんだよ」


 あ、そうか。と燎太郎は納得する。

 健吾は学者とも交流があった。SNSでも会話をしているし、登紀子(ときこ)と功一(こういち)の交友関係も家族ぐるみである場合も少なくないようだ。

 生物学的な目線。それは、燎太郎には持ち得ないものだった。何故なら、表現者は比喩表現として動物の性質をよく使うから。『動物の謝肉祭』や鳥獣戯画にしたってそうだろう。燎太郎はそれも、呆れつつ悪いものとも思わない。


 何か大きなものに対して、皮肉や批判をする時、ユーモアに包んでより大衆に広めることは、有効だ、燎太郎はそう思う。それがスマートな仕草か否かではなく、そういったしたかさがないと、枯れた小さな枝のように一人ひとりの声はか細い。それでも時には声を上げざるを得ない、時には道化を演じてまで。批判精神が死ぬ時は、人が死ぬ時だから。


 それでも、また違った視点で、あるいは生物学者が「人間の目線で動物の性質を単純化するな」と、指摘することもまた非常に重要なことだと、一介のバリトン歌手は……創作に携わるものの末席を汚すものとしては、そう思う。

 互いに違う意見を持ち寄らなければ――一方方向から力を加え続ければ、思わぬ溝にはまってしまった時に、抜け出すことは容易くないだろう。チェスがポーンだけでも、クイーンだけでも盤面が成り立たないゲームであるように。

 ポーンは一見すると弱い。しかし、ポーンをうまく導けないものもまた、弱いのだ。


「アヒルはアヒルのままで飛んでいいんだよね」

 自陣のポーンに囲まれ、身動きが取れなくなった燎太郎はキングの背中に、敵である女王の威圧を感じながら敗北を認める。伏兵として白いビショップも潜んでいるので、文字通りもう打つ手がない。

「そう考えた方が合理的だ。寓話的創作法を否定するわけじゃないんだけど、ぼくはどうしてもモヤモヤしてしまうよ。ハクチョウのヒナのことを『みにくい』って言い切っちゃてるし。何をもってしてそう言っているんだってさ。ん? いや、むしろこれはアヒル目線で……一方的な目線だけで物事を断言することに対する風刺なのか」

 やはり気まずそうに、健吾はこう言う。オロオロと盤面と燎太郎の顔を交互に見ていた。……彼は自分がチェックメイトしていることに、ちゃんと気がついているのだろうか。


「言えてるね。でも、ごめん、おれ。白鳥もアヒルもどっちも可愛いって思っちゃう。これも人間のエゴかな」

 燎太郎は小さく笑うと「負けたよ」と、悔しさを少しだけ滲ませた声で呟いた。


「あ、そうか。チェックメイトか……。え、これぼく勝ったの? いやでもさ、中盤グダグダだったな。なんか無駄な手を打ってたような気がする。それは許して、喋りながらだったから」

 ハッと弾けたように盤面を見つめ直すと、健吾は棋譜を振り返っているようだった。「じゃあ、そのグダグダな相手に負けたおれは何?」と、燎太郎は思わなくもないが。それは、お互いに時間を縫って打つ息抜きのチェスだからなのであって、その中に会話も詰め込んでくれるのは、むしろ嬉しかった。健吾はマルチタスクが得意ではないにも関わらず。


「ふふ、今日はポーンがあまり進まなかったな。おれね、大学の空き時間とかでも、たまにチェスを指すんだけど、ブラウザゲームとかでね。その時はさ、時々、ゲームに勝つかどうかより、ポーンが昇格できるかどうか。そっちの方を優先させちゃう時があるんだよね」

 一コマずつ、盤面に残ったコマをプチプチ、マグネットから剥がしながら燎太郎は笑い声を上げた。笑ったのは燎太郎だけだった。健吾はコマにかけた指をピタリと止め、大きく目を見開いている。


 ――あれ、おれまたなんか変なこと言っちゃった?

 笑顔をにわかに引き攣らせながら、燎太郎は笑い声が苦笑いへと変わってゆくのを感じた。


「え、すごいね。さすが表現者と言うべきか。チェスのルールの外に物語をもう一個作っちゃうなんて……。ぼくには到底できないよ。というか、大抵の人は思いつきもしないんじゃないの」

「え、それっておれ、褒められてるの?」

 感嘆のため息まじりに健吾は言うが、燎太郎はついおずおずと尋ね返してしまう。


「もちろん褒めてるよ。ぼくひとりで生きてたら、そんな発想、一生知らなかったと思う」

 少し抗議するように、唇を尖らせながら健吾は答えた。燎太郎はついくすぐったくなってしまい、首元をすくめると、

「たまには無駄も必要ってことじゃない? 知らないけどね」

 と戯けた。健吾は小さく吹き出すと、コマを盤面から回収する作業へと戻った。


 ――自分はいつかプロモーションしなければいけないポーンだと思っていた。

 けれど。


 燎太郎はあし鴨の羽根を啄む。

 この羽根を広げたとて、誰も咎めない世界線があるらしい。

 それを、知った。





     …◇…◆…◇…






「燎太郎くん、にこにこだね。すごく嬉しそうな顔してるよ」

 この軽口は、同期の梅谷(うめや)准(じゅん)だな。燎太郎は顔を上げなくても分かった。おにぎりを握った手から声がした方向へと、視線を上げる。

 続けて燎太郎は、遮音プラグを片耳だけ外すと、なくさないようにトートバッグから取り出した専用ポーチの中にしまった。……会話に備えないと。

「うん。今日は彼がおにぎり作ってくれたから」

 人もまばらな聖ハニエル記念音楽大学の学食で「えー、いいなあ」と声が上がる。二重奏で。

 准の隣には、ハンバーグ定食が乗ったトレーを持った芳野(よしの)洵(じゅん)――「よっちゃん」もいた。ワイドパンツにレイヤードされたシフォン生地がふわりと揺れる。


 准が燎太郎の対面にトレーを置くと(今日の日替わり定食は白身フライか)、その左隣に洵が座る。

 少し遅めのお昼ご飯をとる学食では、空席も目立った。

 ビビッドな色合いのチェアが並ぶこのテーブルが、一気に華やぐ。さっきまでは、ラップに包まれた白いおにぎりと、生姜焼き定食――ご飯少なめ、がポツリと貸し切り状態で寂しげに佇んでいるだけだったから。


「彼ってさ、基本的には朝に弱いんだけど、たまーに早起きした時、なんだかおにぎりを握りたくて仕方がなくなる時があるんだって。分けてもらっちゃった」

 燎太郎はもはや、准に対しては自分から話題を提供するようになってしまった。だって、嬉しいじゃない。燎太郎は、気づいてしまった。何気なく愛おしいこんな話を、ただ聞いてくれるだけ、そんなありがたさに。

「なんだ、どうりで。嬉しそうな顔してると思ったよ」

 思った通り、准はただ笑って聞いてくれる。燎太郎も、少し笑った。

 遮音プラグを外した耳が、さっきより賑やかなざわめきを拾った。



「ねえ、ふたりは課題曲、順調に行ってる? わたし、死にそう……。いや、ほんとうに死んじゃだめでしょ、そこまで役と同化してどうする。でも、コロラトゥーラで死ぬ。肺の空気足りなくなって死ぬ。横隔膜ビリビリになって死ぬ。はあ、ねえ、うっちゃん。ひとりの男ばかりに夢中になるなって先生のメッセージだったらどうする? もっと『花から花へ』吟味してみたらどうかねって」

 お茶碗を抱えたまま、洵は一気に捲し立てた。教授のキャラクターを誇張した老紳士の口調を交えて。だいぶ参っているみたいだ。ハーフアップの髪が少しだけ揺れる。そして、燎太郎は洵に親近感を覚える。……なんとなく、同じような課題を抱えているような気がして。

「ちょっと! よっちゃんは役作りの為に浮気するっていうの?」

 お味噌汁を吹き出しそうになりながら准が抗議した。その後のやり取りまで同じなもので、燎太郎は思わず乾いた笑い声を上げた。

 

「准くんは『衣装をつけろ』だったよね。あ、なんかこれは先生の考えが分かるっていうか……」

 気を取り直したように腕に口をつける准へ目をやり、燎太郎は切り出した。洵がパッと顔を明るくさせて、こちらを見た。

「そうそう。戯けてばかりいるなよってことだよね」

 洵が「ねー」っと同意してほしそうにこう言うので、燎太郎は頷きクスクスと笑った。


「えー、まるでぼくが何も考えていないみたいに。ぼくだって色々と考えてるって。てかさあ、何かこう、ドロドロとしたものを抱えてないと人間として深みがないみたいな、そんな風潮やめようよお」

 か細く抗議の声を上げながら、准はポソポソ反論すると、はあと深いため息を吐いた。そして、

「なんか、音大生のぼくらが言うのもほんとうに今さらなんだけど、なんでオペラってこんなに血生臭いんだろうね」

 しみじみとこう言う。

 今度はみんなで乾いた笑い声を上げる。みんな、この時期はやっぱり疲れているんだな……。

 今は、ご飯を囲んでいるこの時間くらいは、オペラの話はやめておこう。そんな空気が流れた。

 ハンバーグのデミグラスソースと、生姜焼きのタレのにおいがミックスされ、「学食のにおい」を作り上げるようだ。



 燎太郎は手の中で、ラップに包まれた塩にぎりをいま一度じっと見る。

「具を入れると傷みを誘発する可能性もあるから、まあ梅リグナンがうまく働けば抗菌作用が期待できるけど。それって昔ながらの酸っぱーくて、しょっぱーい梅干しの話だろうからさ。燎太郎はそのタイプは苦手そうだから。塩にぎりだけど勘弁してね」

 確かに健吾の言う通りだった。燎太郎は蜂蜜入りの甘い梅干ししか食べられない。「塩きかせてあるから。そうすると浸透圧でご飯の水分が減るからね。それも傷みを防止するための、昔から伝わる知恵だよ」

 燎太郎は健吾の言葉を思い出しながら、口の中でほろほろとほどけるおにぎりを噛み締める。

 

 これも、健吾は「おにぎりを握るって言うけどさ、握っちゃダメなんだよ、形を整えるだけ。そうすると、程よい距離感でご飯粒どうしが寄り添うから」と言っていたな。

 ――おれも、ずいぶんと健吾に支えて、寄り添ってもらっているよな。


 燎太郎は、あの朝せせらぎの中で聞いた突然のプロポーズを思い出す――プロポーズって言っていいよね? え、健吾寝ぼけて言っていたんじゃないよね?

 いささか不安ではあるが、あの時、同じ高さで見つめていた健吾の寝顔から、燎太郎は目が離せなかった。

 

 疲れて泥のように眠った次の朝、まだ身支度もしていないベッドの中で。パリッと洗濯糊の効いた旅館の布団は、悲鳴みたいな衣擦れの音を上げる。

 あんな夢みたいな、シュールレアリズムの世界の中で一番聞きたかった、いや自分も言いたかった言葉は、しかし確かに、間違い探しの中に紛れた本物の言葉のように思えた。

 

 そんなことを考えていた燎太郎は、

「ねえ、ふたりとも学生結婚ってアリだと思う?」

 つい、そんなことを口にしていた。

 


「え、どしたの急に? まあ、ぼくはアリだと思うよ。先輩方の話とか聞くとさ、院とかに進むと本当に結婚のタイミングを失っちゃうって聞くし。出来る時にしちゃうのも手だと、思うけど……あれ、ひょっとして燎太郎くん、プロポーズでもされた……とか」

 白身フライに入れていた箸をピタリと止め准は、だんだんと声をひそめてくる。洵もお茶碗を静かにテーブルへ置くと、目を見開きながら准と燎太郎を交互に見た。


 燎太郎は微笑み、人差し指を人中に沿わせ、まっすぐ立てるだけだった。

「ええ、それもうほぼ答えじゃん」

 洵も声をひそめて驚き混じりの声を上げる。またしても准と洵で「ヒャー」っと感嘆の二重奏を上げた。


「でもさ、ふたりにだからだよ。こんなことを言うのは」

 急に照れ臭くなった燎太郎は、少し前屈みで声のボリュームを落とす。つられて対面のふたりも背中を丸めるので、テーブルの上にファランクスが再び集ったようだ。


「大丈夫。誰にも言わないって、安心してよ」

 至って真面目な顔で、准がうんうんと頷く。洵も隣で何度も首肯するので、燎太郎は笑い、少し息をつく。

 この妖怪恋バナ喰いは、ちゃんと大義があるタイプの妖怪のようで、収集したコレクションを見せびらかすようなことは、絶対になかった。

 燎太郎は、微笑みを浮かべると、背中を再び伸ばす。――おれ、准くんをなんだと思ってるんだ。

『動物の謝肉祭』を思い出す。あまりやりすぎると、失礼だな、これ。燎太郎は気のいい友人に対しての罪悪感を隠すように浮かび上がる苦笑いを、噛み殺す。



「でもさ、うっちゃん。実際にはそう簡単にもいかないんじゃない? 結婚って生活だよ。生活には安定した基盤が必要じゃん。うちらの場合、ふたり合わせて収入ほぼゼロだよ」

 洵は一般論に議論を進めたいらしい。それとも、准に対して何か思うことがあるのだろうか。彼女がハンバーグの上に乗った玉子の目玉を潰すと、半熟の黄身が溢れ出す。燎太郎は少しだけ見守ることにした。


「そ、それはそうだよ。あくまでも、ぼくの意見だけど、生活の基盤が整っているのが大前提の話だよ。学生同士でも何かしらの稼ぎがあって、そして学業や研究に差し障りがないなら、その場合の話だよ……。ん? てか、燎太郎くんの彼氏は就職してるって言ってたよね?」

 准がまた、燎太郎の話へ押し戻す。白身フライの衣がサクサクと軽快な音を立てている。

「うん。だから厳密には学生結婚とは違うのかな、どうだろう。でも、養ってくれるかどうかでいうと、確実に養ってくれそうなんだよ、おれが全力で歌うためにね。だけどさ、正直に言うとそれもやっぱり、嫌なんだよ。ちゃんと自分の足で立ってからが、いい。それって贅沢かな?」

 燎太郎は、ため息をひとつ吐き出すと、おにぎりに一口かじりついた。


「全っ然、贅沢じゃないよ。わかるわかる。パートナーは対等でいたいよね。まあ、これもあくまでわたしの個人的な意見だけどね。てかさ、うっちゃん、わたしこれ。うっちゃん相手を想定して話していいんだよね?」

 力強く頷きながらも、洵はからかうそぶりで准に尋ねた。ああ、わかるよ。冗談めかして言わないと不安で口にできないこと、あるよね。燎太郎は頷き返す。

「当たり前でしょう! 前も言ったけど、ぼくだって真剣に考えてるんだって。ゆくゆくは一緒に生活したいってさ」

 心外だ、と言わんがばかりに准は体を捻って、洵の顔を真っ直ぐにじっと見た。洵は力なく笑うだけだった。安心したのか、もっと複雑な何かがあるのか。

「でもさ。うちらの場合『ジュン被り』だよ。これが解決しないうちは、結婚めんどくさい」

 案の定、というべきか。洵は目を伏せてもう一度、力なく笑う。

「そうだね、本当に」

 准もつられて苦笑いをこぼす。

 燎太郎はその苦労を、推し量るしかできないが、疲れた空笑いを浮かび上がるふたりを密かに労った。



「なんだろうね、結婚って。どうして人は結婚をするんだろう」

 厳密に言うと、おれたちの場合は結婚ではないけれど――。燎太郎はその言葉を飲み込みながらも、哲学を投げかけた。

「あーね。結婚て、なんでするんだろ」

「ホントにね」

 音楽大学の学食で、弱冠二十歳の若者たち――しかし二十年分の月日を確実に積み重ねた――は、うんうんと首を捻る。

 お皿の上の料理を平らげたら、臨時で開催された哲学カフェはお開きとなった。





 午後のレッスン室争奪戦に敗れた燎太郎は、家に帰って自主練習をすることになった。

 講義も受けるには受けれるが、とにかく今は少しでも多く声を出したかった。

 燎太郎は、耳に手をやると、遮音プラグがしっかりはまっているか確認した。


 すっかり葉の枯れたイチョウ並木を抜けると、乾いた空気の中を歩く。

 この時期は、すれ違うみんなが青い顔をしているように思える。物思いに耽った奏者のコントラバスとすれ違う時、燎太郎はいつもより余計に間を取る。

 


 燎太郎のこのトートバッグも、荷物を整理するとだいぶ痩せることができた。

 それでも、まだ何か整理できるものがあれば、もっと軽くできるかもしれない。燎太郎はそんなことを考えながら渋谷駅へと向かう。

 少し恨めしい目でレッスン棟を眺めながら、その裏に続く煉瓦で舗装された細道を燎太郎は歩く。

 痩せ細った植え込みが、冷たい風を受けてカラカラと音を立てた。


 四分音符イコール九十六の拍動に無理矢理詰め込んでいた『闘牛士の歌』。思えばあれもずいぶん重い荷物だった。燎太郎は口の中で軽く口ずさみながらも、家に帰ったらスコアを広げ、正確なテンポを今一度確認しようと思った。


 Toréador, en garde ……Toréador,Toréador……


 今日の晩ご飯は何を食べようかな。冷蔵庫に残ってるのって、何かあったかな……。


 Et songe bien, oui, songe en combattant……

 

 健吾、何か食べたいって言ってたのあるっけ? カレーが食べたいって言ってたけど、おれの試験が終わるまで我慢するって言ってたな。



 子ども用のルウなら、そんなに刺激的なスパイスも入っていないんじゃないか、そんな事を燎太郎が考えていたその時、

「あんた、冷泉(れいぜい)燎太郎やろ」

 名前を呼ばれた。


 燎太郎は、呼ばれたからには振り返る。

 木枯らしに乗って、キャラメルのような甘い香りが漂って来たような気がした。


 振り返った視線の先、ベージュのトッパーコートを羽織ったその人は知らないひとだった。

 タイトな膝丈スカートからでた脚が、寒風に晒され途轍もなく寒そうだった。


「あんた、冷泉燎太郎やね」

 そのひとは、何かを確かめるように、もう一度繰り返す。

 煉瓦の横で一点パースを描く植え込みが、カラカラと笑い声を上げるようだ。

【おまけ:作中対局の全棋譜】

白番(先手):健吾 / 黒番(後手):燎太郎


1. b4 d5 2. Nc3 d4 3. Na4 Bd7 4. Nc5 b5 5. Ne4 Nf6

6. Nxf6+ exf6 7. Nf3 a5 8. bxa5 Bb4 9. Rb1 Rxa5 10. Rxb4 h5

11. Nxd4 O-O 12. f4 Nc6 13. Bb2 Nb8 14. h4 Nc6 15. Nxc6 Ra4

16. Rxa4 a4 17. Bd4 f5 18. Qb1 Qf6 19. Bxf6 g6 20. Rh3 Bc8

21. Rg3+ Re8 22. Rg5 Re6 23. g3 Re4 24. Bg2 Rxe2+ 25. Kxe2 a3

26. Qb8 Kh7 27. Qxc8 Kh6 28. Qh8#

定石を全く知らないふたりの、駒の取り合い、泥試合、となっております。



※本章の執筆にあたり、『動物の謝肉祭』の考察やチェスの棋譜表記など、数々の個人サイト様を参考にさせていただきました。ここに厚く御礼を申し上げます。なお、個人サイトという性質上、具体的なお名前やサイト名の掲載は控えさせていただきますことをご了承ください。

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