九章 メッセージを、叫ぶ
佐伯美雨にとって六角健吾は「ちょうどいい」と思った。
パッと見は冴えないけれど、清潔感がある。時々、細い髪質ゆえかぴょこりと寝癖がついたままのこともあるが、許容範囲だった。
いつも似たようなパーカーを着ているのは、ただファッションに無頓着なだけかと思っていたが、美雨がのちに読んだ本からすると「こだわり」の結果なのかもしれない、とそう思うようになった。
健吾の特性についても、本を読んでカバーすればそれでいいと思っていた。
怒鳴ったり、威張ったりはしなさそうだし、オドオドした様子はむしろ小動物的な愛らしさもあった。
前髪がかかった眼鏡の下、目つきの鋭さに隠されたつぶらな黒い瞳は、まさに小動物で、誰にも見つけられていない、まだ売れる前の「推し」をいち早く見つけた時のような、美雨の優越感を程よく刺激した。
空気清浄機が微かに呼吸する音を響かせるオフィスで、パーティションが並ぶデスクの隙間を縫って、美雨は健吾を品定めしている。
美雨は、だからといってそれが悪いことだとはちっとも思わなかった。
キャラメルシロップで甘くしたカフェ・ラッテを一口、飲み込む。
なぜなら、それは大学進学のために東京へ出るその前日まで絶え間なく、地元の男たちから向けられる視線そのものだったから。
恋愛市場に於いて、品定めをするのはお互い様。そっちだってすることだ。
顔は綺麗か、胸のサイズは自分好みか。自分を立てられる女かどうか。従順か。
料理は得意か、それに対していかに手間を掛けるか、それがちゃんと愛情故かどうか。厳しくジャッジするのはそっちだって同じことだ。
美雨はコーヒーの紙コップをデスクに置くと、もう一度健吾の方をちらと見る。細い首が丸まって液晶タブレットを凝視していた。
少し、頼りないように感じるが彼の場合、地元の友達――彼氏の肩書きでポーカーをする女の子たち――を一発で黙らせるカードだった。「東京二十三区内勤務のクリエイター」このカード効果は、「東京コンプレックス」を拗らせた彼女たちには覿面に効くだろう。
それで彼女たちが静かになってくれたら、そうやってマウント合戦からうまく降りられたら。
――雑音から解放されて、ゲームグラフィックスだけに集中できる。
美雨はその瞬間をずっと待っていた。
なのに何故だろう、現実は事実上の「六角健吾に対する接近禁止令」みたいなものが出来てしまった。公的な根拠はないが、インターンシップ契約を破棄されてしまった以上、株式会社オルドスコラを出入り禁止になってしまった今、もう健吾に接近する手立てはないのだから。
美雨は1DKの都内郊外に佇む暗いアパートの部屋で、ノートパソコンだけを光らせていた。ベッドを背に、ローテブルの前にへたり込むようにして。
一人暮らしのこの部屋で、一番大きな荷物は、部屋の角にすっぽり嵌るように配置されたデスクの上に置かれた、大型液晶タブレットではないかと思う。(実際には、冷蔵庫や洗濯機などの家電や家具であろうが)
これは、この液タブは大学のゼミで使う生命線。コンピューターグラフィックスを研究する教授のもと、ポートフォリオを作成するための相棒だ。実際に、このゼミで名前を売ることで、オルドスコラのインターンシップ契約に漕ぎ着ける事が出来たのだから。
しかしながら、美雨はぼんやりと思う。都会だから……なのか、オルスコがホワイト企業だったから、なのかは分からないが、健吾の腕を掴んだだけで自分はクビになった。
そう考えると、自分がやらかしてしまったと落ち込むよりもむしろ「なんてコンプライアンスがしっかりしているんだろう」と、しきりに感心してしまっていた。
自分が高校生の時、アルバイト先で、こちらが「同じシフトの男性が勝手に家までついてくる」と一生懸命に訴えても、気のいい中年夫婦のオーナー夫妻は「あらあ、心配しとるだけやろ。こっそり送ってくれとるんやねえ。あの人真面目やけね」と、ありもしない物語を作り上げて、全く取り合ってもらえなかったから。
断られると思うからこっそりついてくるのであって、その発想が出てくる時点で自分が拒否される自覚があるということではないか。
それは美雨にとって恐怖でしかなかった。
――あ。
美雨はこめかみがちくりと痛む。健吾に、似たようなロジックでやり込められてしまったな……。
ため息をつくと、美雨は健吾のSNSをくまなくチェックするため、ノートパソコンにブルートゥースで繋がったマウスホイールをコロコロ転がしていた。
美雨にとって怖かったことは、地元では恋愛市場と婚活市場の境目は曖昧に溶けていたことだった。
なぜなら、あの街が丸ごと「大きな結婚相談所」だったから。強制入会で、辞めることの出来ない結婚相談所。
大人たちはいつも目を光らせていた、「父親の、男性の庇護を受け、しっかりとした管理の下でしか女性は生きられないよ、幸せになれないよ」と。より怖気立つことは、彼らがそれを完全な善意だと信じきっていたことだし、お母さんたちも――女性も、それが普通だと思っていたことだ。
今、目の前のモニターには、ドットが集まって一枚の絵が描き出されている。
健吾――美雨が彼のSNSをチェックし始めた頃には「ベンゼン環」を名乗っていた――には、CRTつまりブラウン管の画面で写し出される事を前提にしたドットの配置に対するこだわりがあるらしく、ノイズで加工して「それっぽく」仕上げたものも時々アップロードされていた。
ロストテクノロジーである。と、いうよりは現代の市場で、ブラウン管の中にピクセルアートを載せるコンテンツはほぼないのだから、本当に彼の「こだわり」と言うより他にない。
きっと、時代の激流に流されてしまわないように、足掻いているのだろう。巨大な岩に刻む遺産のように。
その姿勢も含め、美雨が彼の作品のファンであることは決して嘘ではなかった。
解像度をあえて落とすことを前提とした芸術、はっきり見せないことで出る滑らかさ。その技術は掛け値なく職人級の領域で、美雨には到底理解できるものではなかった、だから目の前のポリゴンを処理していくしかない。
これも、3DCGも現時点では青天井の可能性を秘めた表現への挑戦でもあるのだが、振り返る必要のないと思われがちな過去の遺産を、敢えて今やろうとする意気込みは純粋な情熱である、と思えたら、羨ましくもあった。
美雨はマグカップの中に濃く煮出された麦茶を啜る。本当は甘い飲み物は得意じゃない。
オルスコの作品傾向としては、ローティーン向けのゲームが多かった。丸っこいキャラクターのフォルムが、パステルカラーで構成された背景に配置され、その両方にビビットカラーでアクセントを入れるような。刺々しいものが何もない世界だった。
それは、子どもたちが安全に遊べるシェルターの役割ももちろんあるのだろうと思うが、美雨にとっては「女・子ども」を閉じ込めるための檻にも思えてしまう。
だからこそ、この会社を選んだ。本当は、歴史シミュレーションのジャンルをやってみたかったが。
美雨がそのジャンルに興味を持ったきっかけは、小学生の頃、ふたつ上の兄が飽きて放り投げた、大航海時代をモチーフにしたテレビゲームに手を伸ばしたことから始まった。
最初は「もったいない」くらいの軽い気持ちだったと思うが、丸く虹色に光るその円盤に記録されたデータには、途方もない労力と時間がかかっていることもなんとなく知っていた。それも、だからこそもったいないと思ったのかもしれないが。
このゲームは美雨にとって、最初は難解に思えた。コマンド――ゲームの中でプレイヤーが出す指示のようなもの、のボタンを押せる場所がいっぱいあったから。どれを押せばどうなるのかを把握するのに手間取ったし、テキストの中にはまだ習っていない漢字もいくつか散見された。
美雨は半ば意地になって(今思えば兄への対抗心……のようなものから来ていた感情かもしれない)このゲームを進めるための攻略本を、近所の本屋で取り寄せてもらった。学校の教科書より遥かに分厚くて、引き出しにしまっておいたお年玉のポチ袋を崩さなければいけないような値段だし、おまけに「女の子なのに珍しいね、本当にこれでいいん?」という、書店員の冷めた笑いと戸惑いまで投げかけられてしまった。そんな思いまでして手に入れた攻略本。
その分厚い本を、ここでも習っていない漢字が使用された難しい文章と格闘しながら、読み込んだ甲斐があったのかゲームは一気に進行するようになった。
自分の領地から船を出し、様々な場所から物を買って持ち帰り、それを売り捌くことで資産を増やすゲームのようだった。
資産が増えると、雇える船員を当然増やすことが出来るのだが、航海中の船が嵐に見舞われたり、船に積んだ食料が尽きたり、はたまた流行り病に感染することもある。そんな生々しい現実を「船員」という、画面に表示された無機質な数字の増減で表現してることも、小学生ながらに美雨は大変シビアに感じた。
しかし、ある時。美雨はそれが逆だと気づく。
数字の増減でシビアな現実を表しているのは、それをゲームとして進行させるためのシステムに落とし込むテクニック。その逆は、歴史の暗黒面をさりげなくグラフィックスに忍び込ませる。メッセージを隠しているのだ。
コーヒー豆を買うゲーム中のイベントがあった。
そのゲームの主人公が航海を終え、陸に降りてプランテーションを訪れたその時、短いCGムービーが差し込まれた。段々畑のような赤土の傾斜に背の低い木々が並び、日本の茶畑にも似ていた。画面の奥には青々とした連峰が檻のようにとぼけた顔で広がっていた。
やがてカメラが寄ると、収穫の様子を映し出す。赤い実を刈り取るそのシーン。美雨はなぜ子どもがこんなに多いんだろうと、疑問に思った。「お手伝い」にしては、やけに多いと思った。
攻略本のコラム、時代背景についてちょっとした解説や筆者所感が書かれたその文章が興味深いものだったことも相まって、美雨はその理由が何かあるんじゃないかという直感のもと、インターネットで検索をしてみることにした。
そこで美雨はショックを受ける。コーヒーを飲むことにちょっとした嫌悪感を覚えてしまうようになった。
母に連れられて行くスーパー銭湯、妹と風呂上がりのコーヒー牛乳を嗜むことがお約束だったのに、美雨はなんとなくフルーツ牛乳に変えてしまった。妹に「好みが変わったんよね」と、聞かれもしないのに答えながら、酸っぱさを我慢して飲み干していた。
まあ、子どもならではの潔癖な正義感、と言われてしまえばそれまでなのだが。
カロカロとマウスホイールが鳴らす音と共に、画面がスクロールされてゆく。
インターンシップ契約を破棄してからは、大学のゼミへも足が遠のいてしまっていた。美術大学のコンピューターデザインを専攻する科へ美雨は通っている。
ゼミには体調不良と連絡は入れてあるが、こうやって一日中ノートパソコンに張り付くことにしか気力が湧かないので、嘘ではないだろう、と美雨は何度も言い聞かせていた。
見慣れた健吾のタイムライン。オルドスコラが発売する作品にクレジットされるようになった頃、彼のSNSでは、アカウント名もKengo_Rokkakuへと改名した。
特に新しい作品が更新されているわけではないが、上から下へリプ欄――投稿に寄せられた返信が集められた掲示板のようなもの、までもう一度つぶさに読み直す。なにか、見落としていることがないだろうか。
しかし美雨は、具体的に何が知りたいのかを、ぼんやりとしか分からない。健吾の〝彼氏〟とのやり取り、そんな痕跡を探しているのだろうか。そして同時に、それを見つけたところでどうするつもりなのか、とも思う。それも分からなかった。
もし、彼氏がいるということが本当に嘘なら……なにかチャンスが残っているわけではないと、分かっているのにホイールを転がす手を、美雨は止めることが出来ない。
健吾のリプ欄では、ほとんどが彼のファンからのコメントで埋め尽くされている。
「これ好きです」「かわいい」といったような好意的なコメントが中心で、ほんの時々、彼はそれらに返信していた。
その他には、同じ業界のクリエイターや関係者、その中には時々大御所と呼ばれる存在がコメントを寄せることもあり、健吾は恐縮しながらも、同業者にはほとんどコメントを返していた。
なぜ、美雨が彼らを同業者だと分かるのかというと、bio――アカウントのホーム画面に書いてある自己紹介のようなものを見て確認しているからだ。もっとも、大御所や中堅ともなると美雨が知っている名前もあった。bioをチェックするまでもなく。
その中で、最近美雨は少し引っかかるやり取りがあった。
「鍵を掛けているアカウント」に返信した時に表示される、制限表示メッセージ――このアカウントは表示できるアカウントを制限している。ということを告げるメッセージ枠が、健吾のリプ欄に散見される。
つまり、健吾は鍵アカウントにたびたび返信をしていた。
その鍵アカに対して健吾は時々、「ありがとう餃子」「そっちも気をつけてね餃子」などと、語尾に『餃子』という言葉を置くことが多かった。
美雨は、それを何かのネットミームの一種かと思っていた。あるいはふざけて「餃子と語尾につけるキャラクター」を演じているのかと、そう思っていた。――インターネットにはそういったおふざけ文化がある。
そもそも……あれ、なんで今まで気が付かなかったのだろう。健吾が、基本的に全ての人に丁寧語で返信する彼が、この鍵アカウントに対しては、やけに親しげに語りかけている。
このリプ欄の鍵アカウントは、いわゆる「リア友」が何人か集まっていて、同じノリを共有している可能性はゼロではないが、美雨は突然閃く。――この鍵アカウントの名前が「餃子」ではないのか?
美雨は、画面右端のスクロールバーを掴むと一気にヘッダーまで戻り、健吾のフォロイー/フォロワー欄まで飛んだ。
健吾が抱えるフォロワーは、そこそこの人数がいて、こちらから探すのは骨が折れると美雨は思った。
なので、フォロイー一覧を表示する。健吾は三桁のアカウントをフォローしていたが、そこにも『餃子』という鍵付きの名前は見当たらなかった。
フォロイーもフォロワーも、その全てを表示するわけではない。
美雨はそのSNSに登録してあるユーザー全体に検索をかけることにした。検索窓に『餃子』と打ち込んで、ユーザータブ――『餃子』という名前の「ユーザー」つまりは、アカウント利用者に的を絞った検索を始める。
何件かヒットするので、美雨は鍵の付いたアカウントを一つひとつチェックしてみる。
鍵の付いたアカウントは、フォロワー以外に投稿を公開していないアカウントなので、アイコンとヘッダー、そしてフォロイー/フォロワーの数しか見ることが出来ない。
しかし、美雨はそこから探す。ヘッダーの画像、アイコンの選択そういったものに何かが隠れていないか。何かのメッセージが、込められていないか。
小学生の美雨は、大航海時代をテーマにしたテレビゲームのエンディングを見ながら、イラストにメッセージを込めるというその手法にすっかり魅了されていた。
言葉を使わずとも、雄弁に物語を詰め込める。暗号を仕込む出題者のようだと美雨はそう考えると、ゾクゾクと胸が騒ぎ、自分もやってみたいと、自然とそう思うようになった。
最初は落書き帳に、学校に持って行く筆記用具を使って見よう見まねで描いていた。コンピューターグラフィックスの知識は全くなかったので、紙の上に写し取るしか術がなかった。
そのうちに、落書き帳ではページ数が足りなくなり、美雨はコピー用紙を百円ショップやホームセンターで調達するようになった。
美雨が実家で住んでいた家は、田んぼの裏に佇んでいた一軒家だった。そのうち、開発が進むとその田んぼも埋め立てられ、新たな住宅地が立ち並ぶようになるのだが。地価の安さが幸いして、それなりの庭と、きょうだいそれぞれの部屋が持てていた。
とはいえ、美雨と妹の美依は八帖の部屋を、ピンクのギンガムチェックが印刷された布製のパーティション――両親が突貫工事で作ったもの。で区切っただけであったが。
兄の太一は、受験があるからと六帖の部屋を独り占めし、エアコンもひとりで自由に使えた。
美雨は妹の体調を窺いながら、いつもエアコンの温度を妹に譲っていた。汗でじっとり湿った紙は、シャープペンシルの滑りを悪くさせる。
美雨は汗を一粒顎から落とすと、中学に上がる日を心待ちにしていた。中学生になるとスマートフォンを持たせてもらえる。スマホには、指で直接画面に絵を描けるアプリというものがあるらしい。
美雨は勉強デスクに貼りついた腕を剥がし、引き出しの中から色鉛筆を取り出す。金属製の容器をパカっと開けると、背丈の違う色鉛筆がパリの街並み、尖った屋根を描いているようだった。
中学生になったらなったで、美雨を悩ませたものは「周囲の友人の変化」だった。
小学生の頃は、お出かけといえば自転車で行ける距離のショッピングモールで遊ぶことがほとんどだった。お腹が空いたらフードコートで、ハンバーガーを食べる。そもそもショッピングモールには「変な人」がいるので、子ども同士ではほんとうに限られた時にしか行かず、誰かの家に集まってテレビゲームを一緒に遊んだりして過ごすことが多かった。
美雨が夢中になったあのゲームような一人用のシミュレーションゲームではなく、それこそオルスコが手掛けような丸いキャラクターが協力したり、対戦したりするゲームで。
しかし、中学生になり体が少し大きくなると、友達はメイクやネイルチップで武装して、街へ繰り出すようになる。三十分ほど電車に揺られて辿り着く、騒がしい戦場。
そうすると、行き先もおのずと変わり、SNSでバズったトレンドを固めた角砂糖のようなお店へ出かけることが多かった。新作のフローズンドリンクをチェックすることは、もはやクラスの女子には義務のようになり、その味を知らないというと、「ふーん」という相槌が、一段階低いところへ置かれる音に聞こえるようだった。
なんとかの一つ覚え、と美雨は毒付きながらもいつもそのカフェでお茶をする時、キャラメルマキアートを頼んでいた。苦味を含んだ香ばしさの中で、赤いランプの下で商品の到着を待ちながら。
限定フローズンドリンクの期間中は、まだ楽だった。それを注文すればいいということが明瞭なので。
しかし、そうでない時は、何を頼めば「浮かない」か美雨が観察した結果、このキャラメルシロップを加えたカフェ・ラッテが丸いと、段々判るようになってきた。
小学生の時のあの潔癖さはどこへ行ったのだろう。美雨の問いはフォームミルクの泡と一緒に弾けた。
入れ替わりのように、美雨の頭の中には違う疑問が湧き上がってくる。彼女たちは自分が好きなものを注文しなくていいのだろうか。なぜ、いったい誰の顔色を窺っているのだろう。
友達は、彼氏と一緒にゲームセンターで、ガンシューティングの筐体を遊ぶ時、わざと撃ち損じてあわあわして、彼氏よりそのゲームが「出来ないアピール」をすると言っていた。
そんなことで喜ぶ相手なら、ほんとうに付き合う価値のある相手なのだろうかと、美雨は思うが、余計なお世話だとも思うのでなにも言えなかった。
自分が独学でコンピューターグラフィックスを学び始めたということも、また。美雨は友達に言えないでいた。
あれほど熱望したスマートフォンだったのに、思うようにモデリング――ポリゴンを使って3D映像を描くことが出来ないと知ると、美雨は引き出しの中にしまっておいたお年玉の牙城を崩すことになる。これでこの空間は更地になってしまった。それと引き換えに、リサイクルショップでノート型パソコンを手に入れた。
ネットの記事を読みながら美雨は手探りで絵を描いた。あのプランテーションの光景のように奥行きのある画面を目指して。
このハーフサイズの自室では、冬を過ごす分にはまだ快適だった。足元にハロゲンヒーターを置けるので。
オレンジ色の熱源に照らされた両足を擦ると、猫の模様が入ったソックスがゴロゴロと喉を鳴らす。
デスクに向かって美雨は自分が作る世界に潜りたいが、意識は半分現実においておかなければ、怖い。深く潜りすぎると、深海からいきなり引っ張り上げられたように意識が急展開してしまうから。
「美雨ー。美依の面倒見てやらんかね」
例えば、こんな風に自分を呼ぶ母の声に、戻される時。
よっつ下の妹は、まだまだ見守る目が必要なことも分かっていたので、美雨は作業の手を止めて、パーティションの境界をすり抜ける。
ハーフサイズの片割れ、妹のエリアを通らなければ行き来できないこの部屋は、姉は妹のことをよく見ていなければならないという不文律を、よく表しているようだった。――これも、メッセージだ。
階段を降りながら、ピンク色のフリースで寒さを凌ぐ。パーカーの腕を擦りながらリビングの扉を開けると、美雨は愕然とした。
リビングのテーブルで宿題をする妹、その斜め前でソファに寝そべり、不機嫌そうに半分目を瞑りポータブルゲームに興じている兄の姿があったから。
「お兄ちゃん、おったん? じゃあお兄ちゃんが美依を見てくれたらいいやん」
美雨は思わず大きな声を上げてしまう。兄は眉ひとつ動かさずに手元の液晶画面を眺め続けている。
すると、すぐにキッチンから母が飛んできてこう言う。
「なんでそんな事言うん? お兄ちゃん、さっきまでずっと勉強しとったんよ。やっと休んどるんに可哀想やろ。美雨、美依のおやつ作ってあげて。ホットケーキミックス買ってきたけん」
兄と同じように不機嫌な夕陽がリビングに落ちていた。白いレースカーテンにくっきりと十字形の影が浮かび上がる。
美雨も、別に遊んでいた訳じゃないのだが、と体が熱くなる。しかし、母はそうは思ってくれないであろうことが歯痒かった。
ピンクのフリースを脱いで投げ捨てる音が響き、それが母の耳にはどう響いたのか、
「美雨!」
と、何倍にも大きな声へと変わって返ってくる。――フリースの袖から火が移ったら危ないやろ! だから脱いだだけ!
美雨は、本当に言いたいことではないことさえも飲み込み、ノロノロとキッチンへ向かう。田の字型の間取りの一角を占める十畳は、一般的には広々としたキッチンだと喜ばれる間取りだろう。家庭にいながら作業場が広くて助かるね、と言っていることと同じだろうに。
「美雨ねえ、手伝うよ」
母と美雨に続いて、宿題のノートを閉じた美依が不器用に笑いながらついて来る。本当はついて来なくていい、と少し強めにでも言った方がいいと、美雨は思うのだが、妹の「これから」を思うと、こちらも不器用に笑い返して招き入れることしか出来なかった。
兄は、きっとガスコンロの点け方すら分からないのではないだろうか。父も母も兄をどうしたいのだろう、と美雨は思う。
これでは生きる術を何も身に付けさせないまま、まるで丸腰で自立という荒波に放り込むも同然ではないか、とそう思う。自分たちはいつまでも兄の面倒を見てあげられるという絶対的な自信でもあるのだろうか。一寸先は闇だというのに。
ゲームグラフィックスの専門学校へ進学したいだなんて言うと、絶対に反対されたであろう美雨は「美大進学」という丸い案をどうにか捻り出した。これが兄と同じような一流大学、名門と呼ばれるような大学を希望しようものなら、きっと両親とも渋い顔をした。「女の子には美大くらいがちょうどいい」そんな、美術大学にも女の子にも失礼な言葉を両親はニコニコ笑顔で口にする。
しかし、今なら美雨はこう思える。
もし、仮に兄が美術大学を希望した場合も、その場合も「許してもらえない」のではないのかと。
まだ恋人すらいない兄の未来、「そんなんで女房と子どもを食わせていけるんか」という、そんな不確定のルートについて激しく詰められながら。
両親は、美大に進学した学生が、どんな職業に就くのか、卒業生の就職先一覧さえ見ないまま、知ろうとしないまま、ひたすら許可しないだろう。そんな事ばかりが想像出来る。
――あれ、そういえばわたし。兄がどう生きたいかなんて、聞いたこともなかったな。
美雨の意識が再びノートパソコンへと引き戻される。
何人めかの『餃子』はフォロイーもフォロワーも「1」だった。
何も設定していない細長くて黒いヘッダー。こちらが受け取る事の出来るメッセージを、極力抑えている事がかえって怪しく思える。
恋愛市場の規格に、気付かないまま嵌まらされている友達も、妹の「美しさこそ全て」と言わんがばかりの美依という名前も、みんな見なかった事にして、手を振り飛び出して来た東京の大学で、自分がやろうと思っていた事を美雨は思い出す。
オルドスコラにインターンが決まった時、密かに希望していた歴史シミュレーションのジャンルではないならばせめて、この棘のない丸い世界に、棘を、毒を仕込んでやろうかと思った。
きっと『わたしたちのような女』しか分からない秘密の暗号を、しかし確実にクスッと笑えるような、そんな毒を。
よく耳にするような「毒も扱いようによっては薬になる」というような、芯から効く薬とまでは言わないが、明日を五分だけでも生き存える、ほんのちょっとだけ元気が出るようなサプリみたいに。
しかし、実際に今まで自分がしていたことといえばなんだろう。
美雨にとって、六角健吾とはユニコーンやドラゴンのような幻獣に思えていた。
実際に会うまでは。
インターン先で出会った彼に「本当にいたんだ」という失礼な第一印象を抱きながらも、ドットを魔法のように操るこの人は、思ったよりもずっと気さくで、生々しかった。
ならば、わたしはどうしてこの人を「自分の思い通りに動かせる駒」だと思い上がっていたのだろうか。
パソコンのモニターよりも、健吾をチラチラ見ていた時間の方が多かったのではないか、そう思えたら美雨は、この暗い部屋で思い切り大きな声を出してしまいそうになる。シャウトではなく、スクリーム。
美雨は、咄嗟にタブを閉じてしまう。
さっきまで、あんなに熱心に追いかけていた健吾のSNSは、プツリと消えた。
息抜きをしなきゃ。
そう思った美雨は、新しいタブを開いて動画サイトへとログインする。
いつも、音楽のプレイリストや、リラックス用のASRMを視聴していた。なんの変哲もない動画サイトの使い方だと、自分では思う。
とはいえ、今日はどのような動画を見たいと思っているのか、いまいち分からなかったので、ホームのおすすめ動画を延々と漁る。
いつも見るようなサムネイルが並ぶ中、何かちょっとした新しい刺激がないかと、再びマウスホイールをカロカロ鳴らしていると、見慣れない雰囲気の動画の「顔」が目に入った。
【伝説の学祭ライブ】天才燎太郎くんと天才六角くんの聡信祭ライブデュオ【天才×天才】
その動画のタイトルは、こうだった。
……天才六角くん。
美雨は見たことがなかったが、健吾を説明するWEBページ、クリエイター版のいわゆるウィキを読んで得た情報で、彼が小学生の時にテレビ出演の経験があることを知った。
その時のコーナー名は『六角くんの匂い当てチャレンジ』。天才少年がサヴァン的な能力を発揮する内容が人気を博したと書かれてあった。
サムネイルに映った、制服を着た少年ふたり。タイトルがいうように、確かにいかにも学園祭といったような軽音楽風ステージの上に立っている。
スタンドマイクの前で大きな口を開ける少年の奥で、赤いギターを抱える眼鏡の少年。画像が荒くてよく分からないが、健吾に見えなくもない。
美雨はテーブルの上に出しっぱなしにしてあったイヤホンを掴むと、ブルートゥースに接続し、タイトルをクリックして動画を再生させる。
その動画は、このふたりのステージを見に来た観客がスマホで撮影したもののようだった。ガヤガヤと雑音も拾っている。
ただ、映像撮影の知識が少しあるようで、引きの映像がステージごとふたりを捉えた後、それぞれのバストショットにズームした。カメラワークがちゃんと見やすい。
その時、ふたりの姿を確認した時、最初に美雨の頭の中で浮かび上がった言葉は「釣り合ってないな」だった。
「何が?」と、自ら問い直すより早く、ギターが音色を上げた。
ドッドド……ドッドド……鼓動のようなリズムをエレキギターがリフレインする。ウィキには健吾の趣味が「エレキギター」だと書いてあったので、この少年はあの健吾でほぼ間違いないだろうと、美雨は頷いた。
そう思うと、少しだけ幼い健吾を、純粋に愛らしいと微笑ましく思った。小動物感が今よりずっと強い。
頬が緩むと、スタンドマイクの少年が歌声を上げた。
フランス語……? しかし、なんフレーズか聴き進めるうちに、この曲が有名な曲だと美雨は気づく。テレビのコマーシャルやらなんやらで、よく使われる曲だったから。
美雨はオペラをよく知らないが、この歌は女性が歌う曲だと思っていた。男性が歌うバージョン……と言っていいのか、その差分もあるのだろうか。
でも、クラシック音楽はよく分からないけど、この子歌が上手いな、と美雨はここでも素直にこう思った。高校生でもこれだけ歌えるのだろうか。
ダダッダダ!
そう、このフレーズ。何かと耳にするこのフレーズをギターが囃し立てた時、美雨はちょっとした違和感を覚えた。
カメラの先で微笑む健吾。あんなにとろけるような優しく丸い表情を、美雨は一度も見た事がなかった。
スタンドマイクの少年――動画のタイトルによると、燎太郎……が、大きく声を伸ばした後に間奏に入る。
燎太郎は、視線だけを健吾に送った。マイクに、向き直った時に正面からカメラが捉えた顔は、多幸感に溢れたように、うっとりと目を細めていた。――いや、あんたそれ多分、マイク入っとらんやろ。美雨は意味不明ないちゃもんをつけてしまった。なぜか動揺して苛ついている。
この曲のテンポより速く、美雨の心臓は波打ちはじめる。
――そうか、そうやったんや。あんたやったんやね。
美雨は全く表情を変えていないはずなのに、右の目から音もなく涙が溢れ落ちた。
また、衝動的にタブを閉じてしまいそうになるが、美雨はコメント欄へとカーソルを滑らせた。
もっと知りたい。なんでこんなに惨めなんやろう。こいつは一体何者なんだろうか。
こんなに熱く視線を絡め合う相手がいるのならば、どうりで美雨には目もくれないはずだ。
ならば、なぜ一度、こちらの告白に応じて話し合いの場を設けたのだろうか。美雨はますます混迷してくる。
そこで、失言したのは確かにわたしが悪い。しかし、「ぼくの特性を理解したらそれでいい」そのような事を、健吾は言っていなかっただろうか?
ならば、やっぱりわたしは悪くない。悪いのはわたしに気を持たせた健吾の方だ。
美雨は、あの日の健吾の言葉をもう一度思い出そうとする、すると肝心なところでモヤがかかったようにうまく思い出せない。――ぼくの特性……どう見て……分かった……付き合……。
ノイズが走ったような記憶の断片が、急に遮断されて息が上がる。一気に息を吐き出すとそのまま呼吸が荒くなる。乾燥した空気が肺を刺して痛い。
あの時、健吾はどんな表情をしていたっけ……。美雨はなぜか思い出せない。
美雨は、肩を振るわせながら息をゆっくり吐くと、改めてコメントを一つひとつ確認した。
『泣き虫燎太郎くんと、匂い当て六角くんの夢のコラボ。地元じゃ語り草だよ~』
軽薄そうな顔文字と共に、残されていたこのコメント。泣き虫燎太郎くん……後で検索したら情報が出てくるだろうか。
『昔から噂あったよね♪』
誰かに返信したコメントのようだが、返信先のコメントは削除されていた。
美雨は思う。こんなのはメッセージでもなんでもなく、ただの暴露だな、と。妙に冷えた頭でそう考えていた。
「明日から部屋、好きに使っていいけんね。ねーねの家具も適当に処分して」
上京する前日、美雨は美依の部屋のベッドに腰掛け学習デスクに座る妹にこう語りかけた。
ベッドとデスクだけで、もうぎゅうぎゅうだったこの半分この空間。
「やったあ~」
美依はヘラヘラ笑うが、まぶたを落としたその瞳の奥に、諦観や羨望、そして寂しさ……そういった何かがドロドロに混じって佇んでいた。
「荷物だけ、もう少し置かせてっちゃ。少しずつやけど帰省して取りにくるけん」
美雨が続けると、美依は「まあ、ちょっとならねー」と戯けた。
母は、父と「夫婦喧嘩」になった時、いつも父が次の日の仕事帰り、駅前のケーキで手を打つという「茶番」を演じさせられていた。
ねえ、美依、お母さん。ウチら本当にケーキが好きなんやろうか。なんか、いつのまにかそう思わされとるだけやったりしてね。
糖分に依存させて、判断力を奪わせて飼い慣らすつもりやろうか、とか。陰謀論じみた事まで考えてしまうんよ。
なんで、なんで今こんな事を考えてしまうのだろうか。美雨はとある言葉を検索バーに打ち込む。
そうだ、私は本当は結婚なんて本当にどうでもよかった。恋人なんて本当は作りたくない。
ゲームグラフィックスに、ただただ集中していたいだけなんだ。
よりにもよって健吾にそれを看破されてしまった時、涙が溢れ出して止まらなかった。
冷泉燎太郎。
やけに端正な顔が、パソコンのモニターに映し出される。
何が違ったんやろう。わたしとこのひと。
ならば、それを確かめに行っても……いいんじゃないだろうか。
ただ確認するだけ、それだけ。
なぜなら、――わたしは悪くない、そしてその権利はあるはずだと、そう美雨は思ったから。
※本作中に出てくるテレビゲームは架空のものです。




