七章 あるブラフ(後編)
⚠️注意⚠️
※性的指向の否認・決めつけ、アウティングにつながり得る言動があります。
※釣りの生き餌の描写があります。詳細には描写していませんが、虫が苦手な方はご注意ください。
「燎太郎、どう?」
「うん、全然くさみがないよ、お味噌とお酒がきいててスープ、美味しい」
くつくつと音を立てる鉄鍋の前でハフハフと湯気を逃しながら燎太郎が牡丹肉に食らいついていた。
健吾も穴あきおたまをそっと取ると、とんすいを握りしめコンロの上で湯気を上げる味噌仕立てのスープに切り込む。
あの太いワイヤーがハープみたいに張り巡らされた橋で散々泣いていたら、わざわざ橋を通過してまで車を停めて「大丈夫ですか?」と、走ってきながら心配してくれた人がいた。
ふたりして「大丈夫です」と、ここでも濁点をつけて答えながら深々と頭を下げた。鼻水が凍ってしまいそうで、恥ずかしい。
車に乗せて行こうか、と申し出があったが、丁重にお断りした。申し訳がない、というのが半分、警戒半分。
こんな親切な人にすら疑いの目を持たなければならないなんて、健吾にとっては少し歯痒いことに思えた。
それから、坂道をヒイヒイ登って宿に戻ったら、健吾はそのまましばらく畳の上でだらけてしまった。ふくらはぎが痛い……。
燎太郎は再び湯を堪能したようで、ほかほかと浴衣に包まれながら、
「健吾もどう? 温まるよ」
と、声をかけてくれた。
健吾は、乱れ盆から羽織を引っ張り出す燎太郎を遠くに眺めながら、そうするか、ぼくもお湯をいただくことにしよう……。と、もそもそ起き上がる。
思い立った時にお風呂に浸かれるなんて、なんて贅沢な。これも旅の醍醐味かも、そう考えながら健吾は浴衣を準備する。
さっきは、旅の興奮で気づかなかったけど、ひとりの浴室は結構肌寒い。露天風呂なんだから外気に触れるのは当然っちゃあ当然なのだが、健吾にとってこの違いは不思議だった。
ヒートショックを起こしてしまわないように、冷えた足先から手桶に汲んだ湯で温め、ゆっくりと健吾は浴槽に沈んでゆく。ひとりで浸かってもやはり「あーっ」と声は漏れてしまう。
細い竹を並べた目隠しがウッドデッキを囲んでいるので、森の中の秘湯、といったような開放感があるわけでもないが、健吾にとってはパーティションというものは安心の象徴だった。
眼鏡を頭に乗せると、夜空を見上げる。
真っ暗な空に、針で突いたように星が広がっていた。眼鏡がなくてもこんなに見えるものなんだ、健吾はもう一つ呻き声を上げた。
お風呂から上がると、客室スタッフが夕餉の準備を始めた。
燎太郎が、座卓に置いてあった荷物を広縁のテーブルへと移す。するとスタッフが「恐縮です」と、声をかけた。健吾も慌てて加勢した。
手際よくお盆から座卓へ、美しい装飾が施されたお皿に乗った料理が次々と運び込まれる。銀や金で縁取られた陶器。……あれ、食器洗い乾燥機に入れられないやつ。健吾はそんな事を考えていた。
茶碗蒸しやお刺身、固形燃料――バイオエタノールを酢酸カルシウムで固めたものかな――のセットされた小さな鍋などが並んだ。
「いま禁猟期なもんで、鮎は冷凍物で勘弁してくださいね」
スタッフが人懐っこい笑顔で、焼き魚の乗ったお皿を置いた。燎太郎は「全然大丈夫です」と答えながらも、テーブルの上に並ぶご馳走に目が釘付けだった。
「それじゃあ、天ぷらやら揚がったらサクサクで持ってきますんで、召し上がっていてくださいね」
軽やかに告げると、スタッフは次の間から出て行った。燎太郎はまたさりげなく心付けのポチ袋を渡していた。――ほんとうに、そういうのってどこで覚えてくるんだろう。
健吾は、心細そうに振り返る空港の燎太郎を思い出す。
健吾は生ものが苦手なので、お刺身は燎太郎に食べてもらった。彼はぺろりと平らげるが、健吾はそんなに生ものを食べてお腹大丈夫かな、とふと心配になる。
ふたりで回転寿司に行った時も、健吾はうどんや玉子握り、シャリに小さなハンバーグが乗ったものなどを食べていたが、燎太郎は申し訳なさそうに「回転寿司でよかった?」と、尋ねた。
健吾は大丈夫だよ、と答えたが。もう少し、この回転寿司というレジャー施設の雰囲気が楽しい、と言い添えればよかっただろうか、と今になって思い至る。レーンから流れてきた茶碗蒸しを取る健吾に、ハラハラした顔を向ける燎太郎。……子どもじゃないんだから、茶碗蒸しくらいひっくり返さずに取れる。健吾はムッとしながらも、嬉しそうにお寿司を頬張る燎太郎の顔を盗み見ていた。
いま、ふたりで泊まる旅館宿の食卓では、お出しの効いた茶碗蒸しに銀杏が埋もれている。
「ホラ、やっぱり銀杏が入ってた」
漆塗りのおさじで、黄土色の木の身を掬いながら、少し得意げに燎太郎がこう言った。すると、彼の口の中にあっという間に収まった。
健吾も、それを掬うと舌の上に乗せる。少しだけ広がる苦味。
ごま油の2-フランメタンチオールと、エビのアルキルピラジン類が熱に絡みついて香ばしい。スタッフが天ぷらを持って来てくれた。
竹で編まれた盛り付け籠に、舞茸、シシトウ、ナス、カボチャ、大葉、エビ、そして名物のサツマイモがきつね色の衣を纏って飾り付けられていた。
カラッと揚がった衣をサクサクと噛み砕き鳴らすと、じゅわっと油と食材が持つ水分、そして旨みが溢れ出し、調和する。
「あち」
その美味さの代償として、また容赦なく歯茎の裏が赤くなるのを感じるが、健吾は箸が止まらなかった。
……ご飯が食べたい。健吾が天ぷらと一緒に届いた小さなお釜の蓋を開けると、中身はキノコの炊き込みご飯だった。茶碗によそうと、天ぷらと交互に食べる。
「もう、固形燃料が燃え尽きてるかも」
燎太郎が丸型コンロを軽く覗き込むと、上に乗っていた小さな土鍋の蓋を開けた。蒸気と共に野菜とお出しの香りが食卓の上いっぱいに広がる。
「おお、汁物。助かる、これで三角食べができるぞ」
健吾も続けて蓋を開ける、鍋蓋には無数の水滴がくっついているので、ひっくり返すと、雫を落とさないように慎重に卓の上に置いた。
グルタミン酸やイノシン酸の相乗効果、これは間違いなく化学の領域だと思うが、燎太郎がいつも引いてくれるお出しもこの相乗効果は完璧だった。いい香り……。
鍋の中には、白菜や梅の形に飾り切りしてあるにんじん、これまた名産品である舞茸が入っていて、鶏肉が後ろでドンと構える。いずれもふっくらよく煮えている。
汁物、おかず、ご飯に三角形で箸を進め舌鼓を打っていると、
「おまたせしました」
朗らかな声と共に客室スタッフがカセットコンロを持って来た。刺身などの空いた皿を下げると、卓上にセットする。
続けて運び込まれるのは、ずしりと重そうな黒い鉄鍋。ゴトリと音を立て、コンロの上に鎮座する。
本来なら、牡丹肉がその名の通り、見た目も楽しく牡丹の花を模った盛り付けになるらしいが、生肉の臭いが苦手だと告げたからか、火が通った状態で持って来てくれたようだ。
くつくつと小さなあぶくをたてながら、スープの染みたお肉、豆腐、その横でくったり横たわる白ネギ、十の字に飾り切りされた椎茸が縦揺れで踊っている。
田舎味噌と、料理酒……今日は分子に分解する癖がなんだか鈍るな。それがきいた芳醇さが高く香ってくる。
「もう、火は通っていますので、お好きなタイミングでお召し上がりくださいね」
とんすいと穴あきおたまを卓上に乗せ、コンロをとろ火に着火すると、スタッフはまた次の間から去って行った。
「わあ、もう美味しそう。こういう昔話に出て来そうなビジュアルが、もうたまらない。先、とってもいいかな」
燎太郎はそう言いながらも、手はすでにとんすいとおたまを握りしめていた。
健吾は「いいよ」と答えながら、燎太郎に味見してもらおうと思った。ジビエを食べるのは初めてだったので、恐る恐るになってしまう。
燎太郎は手早く、とんすいの中にバランスよく具材を盛ると、もわっと白い湯気が上がる。彼はそれをふうふうと自分の息を吹きかけ飛ばすと、箸の先に未知の食材を掴んだ。
「燎太郎、どう?」
健吾はおずおず尋ねてみる。
「うん、全然くさみがないよ、お味噌とお酒がきいててスープ、美味しい」
言うなり燎太郎は、もぐもぐと夢中になって箸を進めている。
健吾も、おたまを握りしめ、とんすいに具材を集めると箸を伸ばした。
「あ、美味しい。味がよく染みてるね。ニンニクのアリシンが風味のバランスを取ってるんだ。きっと処理も丁寧だったんだろうね」
健吾は色々な意味で口が止まらない。
野生のお肉は筋肉質で硬いのかと思っていたが、思ったより柔らかく、脂も程よく乗っていた。山椒や生姜など、薬味のよくきいたスープもよく合っている。
燎太郎はうんうんと頷くと、早速おかわりへと手を運んでいた。
スープをとんすいからズズと啜ると、健吾はその風味が残るうちにご飯を頬張る。
お皿が空になる。あんなにご馳走があったのに、後に残るのは大きなため息だけ。ふう、とふたりは大きくつくと祭りの後の詫びしさ、のようなものが通り過ぎてゆく。
すると、燎太郎はいつの間に忍ばせていたのか、浴衣の襟元からちりめん生地の小さなポーチを取り出し、和紙の束から一枚引き抜いた。
「はい、健吾。懐紙」
当然のように、健吾に差し出そうとする燎太郎。
「カ、カイシってなに?」
健吾は、そろそろと手を伸ばしながらも訊かずにはいられなかった。
「え、懐紙だよ。エビの尻尾とか骨とか、残ったのにフワって……あ、ひょっとして、あまり普通はやらない感じ?」
健吾へと伸ばす手をピタリと止めながら、燎太郎は目を見開いては恥ずかしそうにした。
「いや、そんなシステムがあるなんて知らなかったからびっくりしただけ。どうやるの?」
こんな時ぐらい、ファンタジー全開な旅行の時ぐらい、燎太郎しか知らない「世界観」を覗いてみようと思った。健吾は燎太郎から薄くて品の良い和紙を受け取る。天井灯で透かしてみると、うっすらと紅葉の模様が見えた。
燎太郎はまだ気恥ずかしそうにしながらも、ふふと笑いエビの尻尾を鮎の皿に纏めると、懐紙をフワッと被せた。なるほど、食べ残しを他人の目に触れさせないようにするための作法かな。健吾は納得すると、それに倣った。
綺麗になった卓上に、清涼感のあるガラスの器がコトリと置かれる。ペストリーフォークが添えられて。
ハスの花びらのように少し深さのあるその容器には、赤白のブドウと一口大にカットされた梨が乗せられていた。このあたりの山で採れたものらしい。
燎太郎が立ち上がり、広縁に移した茶櫃から湯呑みを引っ張って来た。健吾も立ち上がり、ポットを運ぶ。
「ハーブティーどれにする? 三種類あるよ」
少し得意げに、燎太郎はジッパー袋を掲げる。健吾はその中で整列されたパッケージを見比べながら、
「アップルミント」
と、答えた。
それからは、満杯のお腹を抱えて広縁のチェアに向かい合って座り、ガラス越しの黒く染まった山々をただ眺めていた。藍色の空に影絵のように映し出される。ピカピカと瞬く星は、スパッタリングのよう。点で表現するにはどうしようか、健吾は考える。広大な分子の集まりをほんの数ビットに濃縮する作業。そう考えると、絵を描くって野暮な作業なのかも。でも、やめられないし、だからこそやりがいがあるとも言える。健吾はクスリと小さく息を漏らす。
猛烈な眠気が健吾を襲う。
「お土産も買いたい、明日」「卓球台とかもあったよね、明日見てみる?」「ウッドデッキにも出てみようか、明日。でも寒そう」
など、すべての語尾に明日がついた会話をだらだら続けたらば、パジャマに着替え、ベッドルームへ滑り込む。
客室の隣、スキップフロアにダブルベッドが二台置かれていた。上り框を跨ぐようにノロノロと登ると、掛け布団と敷布団の間へ一気に潜り、そのまま泥のように眠った。
ほとんど夢も見なかったのではないか、そんなことを考えているとサラサラとせせらぎが耳に入る。
あ、そうか。今、泊まりに来てるんだった。寝ぼけた頭でゆっくり瞼を開くと、目の前には大きく燎太郎の顔が見えた。
健吾は思わず、うわあと声を上げてしまう。燎太郎がベッドの縁近くで横たわったまま、健吾のことを凝視していたから。心臓がドクドク騒ぐ、朝から。
燎太郎はしまった、という顔で恥ずかしそうに慌てて寝返りを打つと、
「ご、ごめん。今日は同じ高さに健吾の寝顔があると思うと、嬉しくてつい……見ちゃってた」
早口で言い訳をする。
……そっか、いつもは燎太郎、床に布団を敷いてるもんな。ベッド、本当はふたつ置いた方がいいんだろうな。
「大丈夫、そういうことなら」
燎太郎は顔を半分布団に埋もれさせながらも、耳まで真っ赤にさせていた。――プライドの高い燎太郎。きっとぼくには思いもしないような恥ずかしさを抱えているんだろうな。無防備な姿なんか、いくら見せてもいいのに。
それにしても、そうだなベッドだ。今の部屋にはとても置けない。どうするか。
ぼくもインターンという名目で長い間出入りさせてもらっていたとはいえ、それでもやっぱり新社会人で、燎太郎も大学のことでいっぱいいっぱいで、住み慣れた部屋の方がいいと思ってた。
でも、それ以上に……。
今の物件は、燎太郎が綺麗に使って、大家さんへの挨拶も欠かさず、力仕事をさりげなく手伝ったり、好感度を稼いでくれたからぼくも一緒に住めているようなものだ。もっとも、燎太郎にとっては「好感度を稼ぐ」なんてシステマチックな見返りを求めてのことでは、そもそもないのだろうけど、けど……新しい部屋、どうやって探そう。
「燎太郎、パートナーシップ制度、考えてみない?」
健吾はそんなことを考えていたら、重いはずの言葉がするりと口から滑り出た。
燎太郎は布団の中の横顔でみるみる目を見開くと、すっかりそのまま固まってしまった。
……あ。
そっか、昨日。ウッドデッキで星空とか眺めながら言うべきことだったかな、これって。
布団の下、パジャマに腹巻だし。歯も磨いてない。失敗しちゃった?
健吾は途端に恥ずかしくなってくる。さらに鼓動を騒がせながらも、脇の下からじんわり熱が伝わって来た。
「うん、『ゆくゆくは人生の』って、言い出したのおれの方だし。考えては……いたよ。でも、ごめん、おれまだ学生だから」
燎太郎は布団から顔を出したものの、言いにくそうにしていた。
「そうだね。ごめん、焦らせるつもりじゃなかった。ゆっくり考えていこうよ。もっといい制度ができたらそっちでも……」
健吾は、諭すように返すが、そもそももっといい制度ってなんだろう。限りなく形だけ近づけて、でも中身は全然違う、なにか……。しまった、やっぱりタイミングを間違えた。燎太郎にも朝からこんなこと、考えさせちゃってるだろうな。考えてるよ、燎太郎なら、しまった。
「うん」
安心したように笑う燎太郎。反対側の目の端を指が擦った、ような気がした。
健吾は少し慌て気味で歯を磨くので、
「大丈夫、まだ朝食まで時間あるよ」
と、燎太郎が客室から声をかけてくれた。……旅行先の時間管理って、苦手だな。両手で水を掬ぶと水道水で口をすすいだ。
今日は、岩畳が有名な渓谷まで、電車に乗って足を運ぼうということになった。
客室では、空気中の塵が淡い光を受けひらひら閃いている。チンダル現象か。
燎太郎はというと、その中でグレーのテーパードパンツに、ネイビーのセーター姿で座椅子に座り、髪のセットまでバッチリきめていた。いつの間に、と健吾は少しのけぞる。……自分の腹巻が恥ずかしいな。健吾も次の間に小走りする。キャリーケースが置いてあるので。
ああ、もう開けて広げてくれてある。高校の時、あんなにいつも遅刻ギリギリで教室に滑り込んでいた時点で、朝に弱いってバレてたんだろうな。
健吾は、キャリーケースの中から荷造り用ネット――着替えが入っている――を引っ張り出す。
どうにか着替え終わって、眼鏡もかけて座卓に座ると、ややあって朝食が運び込まれてきた。
小さな鍋でくつくつ音を立てる湯豆腐、お釜炊きの白ごはんを、小鉢が囲む。一見、健吾には食べきれない量に思えた。しかし、鉢の中身は、一口大のたらこ、ちりめん山椒などの「ご飯のお供」だったので、ご飯と一緒に気がつくといつの間にか箸が進んで、空っぽになった。
すごく手が掛かってるな、と健吾は舌を巻く。もし、うちで毎朝これを作ろうと思ったら、ふたりでやるとどれくらい時間がかかるんだろう。
ふたりはごちそうさまを言うと、食休みを取るために広縁のチェアに腰掛けた。
この板張りの空間。何かと座りたくなる魔力があるように思う。ヴーンと唸り声を上げる冷蔵庫を、対面の燎太郎越しに眺めた。
「あのさ、さっきご飯食べた時、スタッフさんがあの山の伝説を教えてくれたじゃん。女神と男神の恋の話」
燎太郎が、窓の外をじっと見つめながら向かい合う山々を指差した。
「自然物に神話を投影するって、よくあるけど。伝説が生まれた時の姿とどれくらい一緒なんだろう、ってふと思うんだよね。テセウスの船、砂山のパラドックスとまではいかないか……。風で砂つぶが飛んでって、雨が別のところから土砂を運んで、姿形ってどれくらい変わったりするのかな。シルエットが一緒だからストーリーに破綻が出なくて、現代まで語り継がれるんだろうし。あ、でもさ地層とかからある程度は分かるのかなそういうことって」
一気に捲し立てると、燎太郎は湯呑みに注がれたカモミールティーを一口飲んだ。
……頭を休めに療養に来てるんだから、こんな時くらい難しいこと、考えなくていいのに。
健吾は、呆れたため息を飲み込みながら、まあ、これが燎太郎のものの捉え方、彼の新陳代謝、いわば普段通りだからな。と、少し笑った。
「ちょっと、健吾。そんなかわいいことしてるとさあ」
いつの間にか、窓の外から視線を健吾の顔へと移した燎太郎が、悪戯っぽくこう切り出した。いや、ぽくもなにも、こういった言い方をする時、燎太郎は実際に何か悪戯を考えている時だ。
健吾はまた呆れながらも身構える。
「こうだよ」
燎太郎はテーブルの下で、ぴょこぴょこ跳ね上がる健吾の脚を捕らえた。
――あ、無意識に蹴り上げてた。脚気――膝蓋腱反射の検査の時みたいに……。
でも、挟まれたところでどうなのよ。健吾はテーブルの下を覗き見ると、プロレスの足技みたいに絡まった脚と脚がツボに入ってしまい、大きく吹き出してしまった。
「ちょっと、燎太郎。なにやってるの」
健吾はやり返そうと思い、足を持ち上げようとするが、ケラケラ笑うお腹に全ての力が持っていかれてしまい、うまく動かせなかった。
「や、だって。なんか捕まえたくなっちゃったんだもん。待って、危ない。待って足動かない」
腹式呼吸で燎太郎は笑う。発生練習でもしているかのように部屋中に通る声だ。
「もお、燎太郎。声がデカいよ。もう……ちょっと、ぼく燎太郎みたく腹筋がたくましくないんだから、笑わせないで、お腹痛いって、もう、燎太郎!」
健吾はついにお腹を抱えてテーブルに突っ伏してしまった。足技がキマったまま。
なんの時間だろう、これ。と、健吾は冷静に呆れる自分もいるものの、肩を大きく震わせた。
「分かってる、クレームが来たら大変だけどさ、おれもお腹は痛いよ、あー、もうやだ」
燎太郎も前のめりになって、テーブルに両膝をつく。くっくっくと、どうにか笑いを封じ込めるような呻き声と、それを突破した立派な腹式呼吸が交互に繰り返された。
やがてヒーヒーと音を立てて息を吸うと、ふたりはやっと足を下ろす。本当になんだったんだろう、この時間。と、僅かに膝を震わせながら、健吾はボストンバッグの横に置いてあった肩掛けバッグに手を伸ばす。
宿からシャトルバスで駅へ、そこからローカル線に乗って岩畳の渓谷へと目指す。
特急電車の終着駅だった駅から少し歩いて、別の駅からボディに緑のラインが入った電車に乗ると、しばらく揺られる。
ビルが遮ることのない広々とした駅の先、視線を遮るものはどっかと構えた山々だった。この光景はいつもの通勤電車では見られない。関東平野では、住宅地で視界が開けたエリアでも、どこまでも先が続くように感じるからだ。
「なんかさ、こういったところに住んだことがあるわけじゃないけど、なんとなく懐かしいの、なんでだろうね」
窓の外をじっと眺めながら燎太郎が言った。健吾は「そうだね」と、答える。なんとなくその気持ち、分かるから。
渓谷の名を冠した駅で降りると、お土産屋さん街を歩いて行く。歩行者天国の商店街といった風情だった。ただ、違うところがあるとすればところどころでニジマスが、串に刺さって良い香りを漂わせている。木刀が店先に並べられてあるところは、全国のお土産屋さん共通か、といったところだ。
「あとで、お土産も買いたい」
燎太郎が顔を綻ばせながら健吾に話しかけた。健吾は頷くとタイルの上をずんずん進んで行く。
オフシーズンなのか、岩畳に続くセメントの階段も人が少ない、というかほとんどいない。
鉄製の手すりを潜り抜けるかのように、びゅうびゅうと風が吹いている。
「燎太郎、寒くない?」
マウンテンパーカーを着ているとはいえ、健吾はそう思いながらも燎太郎に声をかけた。
「大丈夫、いつもよりいい肌着、着てきたから」
階段を一段ずつ、ゆっくりと降りながら燎太郎は答えた。さっきから顔が綻びっぱなしではあるが、目の前に広がる穏やかなエメラルドグリーンの水面に、目を細めているようだ。
「健吾は寒くない?」
無事に階段を降り切ると、燎太郎が健吾に聞き返す。
「うん、いつもよりいい肌着、着てきたから」
燎太郎の真似っこをしたわけではないが、結果的に一言一句同じになってしまった回答に、ふたりはまた笑った。さっき、あんなに笑ったのに。
風が枝を揺らし、サワサワと音を立てるが葉を落としてしまった木々も目立つ。枯葉で黄色や茶色、そういった感じの色が、その下で大地を支えるような岩畳の隙間からちょっとした差し色のように顔をのぞかせる。
遠くの山に見える雪化粧。降雪が空気中の埃を連れて行ったからか、空は抜けるように青かった。真っ白な雲が悠々と流れて行く。
「地層、地層だ。見て見て健吾」
足元の砂利をザクザク鳴らしながら、燎太郎は川沿いへとゆっくり歩いて行く。はーっと白い息を手袋越しの手に吹きかけながら。燎太郎の顔は「今朝話した、地層だよ」と言いたげに口元が緩やかなカーブを描いている。
「うん、そうそう。ここの地層、『地球の窓』って言われてる。海中の地層を地上にいながら眺められるようなものだから、珍しい場所なんだ。……写真撮っていいかな?」
「もちろん」
燎太郎は、即答して微笑んだ。
健吾は赤壁と呼ばれる部分まで移動したり、ミルフィーユケーキみたいに重なるずっしり重いグレーの岩の層をカメラに収めたりする。燎太郎は健吾が場所を変えるたびについてきてくれるが、健吾が川に落ちてしまわないように見てくれているんだろうな、と思うと心強くも申し訳なくも思った。
「燎太郎、なんかぼくばかり夢中になってる気がするけど、ちゃんと楽しめてる?」
不安になった健吾は、振り返り燎太郎に尋ねた。
「うん、もちろん。おれもさっきからテンション上がりっぱなし。空と、川と岩畳、色のコントラスト、めちゃくちゃ綺麗ー!」
人差し指と、親指を両手で組み合わせると、燎太郎は小さなキャンバスを作る。心のキャンバスにはちゃんと切り取っているということだろう。
対岸の枝が擦れる音がした。どこかでキーキーと鋭い鳥の鳴き声が響く。枝を蹴り、どこかへ飛び立ったのだろうか。
そのまま岩畳の上を歩いて南下して行く。つるつるの石肌が足元に続くので、燎太郎は健吾の手を取る。いつもなら、ムッとしてしまいそうな健吾も、今日ばかりは燎太郎の体幹を信頼して引っ張ってもらうことにした。転んでしまったら大変だから。舞茸のように重なる岩々。足の下にも、サラサラと音を立て、緩やかに流れる川越しにも積み上がる。
「さむーい。やっぱ寒い」
水面を吹き抜ける風はやはり冷たく、燎太郎が戯けた声を上げる。健吾は鼻を啜りながらも、ゴツゴツとした灰色の地面に足を取られないよう、慎重に進んで行く。
岩に囲まれたステージとか、フィールド画面とか、もしそんなグラフィックスを任されたら、今日歩いて感じたこの質感を思い出そうと思った。登山靴の靴底越しに感じるすべすべした岩肌。
過酷な道のりを十五分ほど歩くと、目的地の一つが見えてくる。
「燎太郎、あそこ。あの鉄橋にSL、蒸気機関車が通るんだよ。今は冬季休業中だから通らないけど。昨日遊歩道で見たスカイトレインとか、そんなかわいいのじゃなくて、本物の。石炭を使って、もの凄い質量の蒸気を上げるからさ」
健吾が指差した先に、山々を赤い糸で縫うような鉄橋があった。線路の下を、煉瓦造りの橋脚が何本も支える。
「すごい、レトロな橋梁だ! 煉瓦の雰囲気がいい感じだね。でも……今日、SLは通らないんだ」
少し残念そうな声を出しながら、燎太郎はスマホを構えると、パチリと一枚カメラに収めたようだ。
「そしたら、またこよう。夏は……暑くてぼくがバテそうだけど。紅葉の秋とかさ。きっと緑深い時にきたら、あの橋梁の赤も、コントラストして綺麗だろうから」
健吾の提案に、燎太郎は目をまん丸にさせながら、振り返る。健吾はその視線を受け、どうしたんだろう、と思いながらも続けた。
「なんだったら、汽車の中から、今度はこの景色を見下ろしてもいい。予約が取れるといいな。地球の具合がこんなだから、乗れるうちにね」
「そうだね、これもテセウスの船、ならぬ移動手段か。列車っていう形の乗り物も、いつまで乗れるんだろうね」
燎太郎はしみじみと呟いたあと、気持ちを切り替えるようにニヤリと両の頬を大きく持ち上げると、
「健吾、約束したからね。SL乗れるうちに、またこよう。絶対だよ」
無邪気に笑った。
「うん、もちろん? またこようね」
健吾は、燎太郎が何をそんなに浮かれているのか分からないまま、頷いた。
岩畳の近く、川沿いの古民家風の食事処へ向かう。健吾が予約しておいたお店だ。
今は剪定され、寂しく枯れた枝がしょんぼりと寄り添っているだけだが、藤棚を潜り抜けて、木製の引き戸を引く。
すると、目の前に大きな囲炉裏が現れるので、冷たい風の中を歩いて来たふたりを、遠赤外線がじんわりと温めた。炭がパチリと爆ぜる音が聞こえる。
火棚からぶら下がった鉤に鉄製の黒いやかんがぶら下がっていた。木製の炉縁には火バサミと、つるりと丸い火消し壺が収まり、たっぷりとした灰に埋もれるさまは、まさに昔話の世界だ。
燎太郎も興味深そうにそれを眺めながら、食事処のスタッフに促されるまま襖の奥に入って行く。個室だ。
部屋の中身は掘り炬燵が据えられていた。こちらは電気仕掛けの遠赤外線だが、すっかり冷たくなった足先を暖めてくれた。
畳の先には膝の上から切り取った大きな窓があり、さきほどほとりをちまちま歩いたあの大きな川が見渡せる。
水鳥――マガモの群れが水を切って泳いで行く。
しばらくその光景を眺めていたら、サツマイモの甘露煮や胡麻豆腐などが小鉢に入って運ばれてくる。メインは鮎飯なので、もう少し待ってください、とのことだった。ここでもまた、鮎が冷凍である旨を告げられたので、ここの地域の人たちは、新鮮な川魚でおもてなしすることを誇りに思っているのだな、と健吾は思う。……そう考えると、
「釣りたての鮎も、また食べに来ようね」
燎太郎も同じことを考えていたようで、胡麻豆腐のスプーンを傾けながら笑った。
ほどなくすると、土鍋が運び込まれてくる。これで二人分らしい。サイズは七号だろうか。スタッフが蓋を開けると、焼いた鮎の脂とご飯が混ざり合った香りが立ち上がる。鮎が二尾、土鍋の中で丸々と横たわっている
茶碗としゃもじを卓に乗せながら、スタッフは骨ごと混ぜて召し上がってくださいと説明した。すまし汁も一緒に湯気を上げる。最後にネギや山椒などの薬味が、しんがりを務めるかのように着卓する。
また、燎太郎に味見してもらう形で先についでもらうと、
「美味しいよ、これ」
と、ほとんど瞑ってしまう勢いで目を細めながら燎太郎がしきりに箸を動かした。
健吾も茶碗に香り高いご飯をよそうと、鮎の身と一緒に箸で持ち上げる。
「あ、本当だ。ワタの処理がしっかりしているんだろうな」
口に運んだ瞬間、苦味が強いのではないだろうか、という健吾の懸念はどこかへ飛んでいった。
きちんと職人の手で捌かれた鮎は雑味がなく、炭火で香ばしく焼いた皮の表面、焦げ目の風味が広がった。これならするするいけそうだ、と健吾も箸が進む。
デザートの水菓子を食べて一息ついたら、また岩畳を歩き、来た道を引き返す。
さっきは、食事処に辿り着くことを必死で考えていたので、余裕がなくて触れられなかった虎岩を燎太郎に指差し説明する。茶褐色のスティルプノメレンという鉱物がアルミノケイ酸塩鉱物や二酸化ケイ素の白色に重なり、トラの縞模様のように見えるからその名がついた。
燎太郎は健吾の話を聞き興味深そうに頷くと、またその光景をカメラに収めた。
視界が開けると、さっき降りて来たコンクリートの階段へと辿り着く。足場の悪い中を散々歩いたから、疲れ切っていると思っていたのに、香ばしいニジマスの横を無視して通り過ぎるわけにもいかず、ふたりは買い食いしてしまった。
串のままかぶりつくと、口の中に程よい塩気と脂がほろほろと広がった。
燎太郎は、お土産屋さんに入ると、
「君枝さんが好きそう」
そう言いながら、胡桃のフィリングが入った一口大のパイ菓子を手に取っていた。
……あ、ぼくも。会社にお土産を買って行こう。ちょうど来週、出勤しなきゃいけないし。
新社会人になって早々に有給を取った健吾。有給を取る理由は「所用により」などふわっとさせておけばいい、なんなら理由なんてなくていい、と渡邊チーフは笑ったが、「いつもお世話になってる恋人をゆっくりさせたくて旅行を」と、健吾は少し踏み込んで理由を話してみた。
しかし、からかいもせず『そうなんだ、いいねえ。こっちのことは気にせず、楽しんで来てください』と、答えてくれた。たとえ社交辞令であっても、少し勇気を出した健吾にとって、その吹き出しの中の言葉はありがたかった。
みんな、どんな食べ物が好きだっけ……。健吾はこんなことならば、もっと仕事仲間が普段食べているおやつなんかを観察しておけばよかった、と思いながら、お菓子の詰まった箱を眺めた。
燎太郎が会計を済ませると、お土産屋さんの主人が熱いお茶をご馳走してくれた。
ローカル線に乗って宿へのシャトルバスが出ている駅まで戻ると、少し歩いて道の駅へと出かけた。
今日はもう誰にも会わずにゆっくりしようと、お弁当と明日の朝に食べるパンを買い込む。
昨日、燎太郎が食べていたゲンコツよりも大きなカツが二枚乗ったお弁当、食べ切れるかな、と少々不安だがチャレンジしてみようと思った。
燎太郎は、味噌に漬けた豚肉を焼いてご飯に乗せたもの、唐揚げを挟んだサンドイッチ、昨日健吾が食べた味噌ダレのポテトを買っていた。
ウチで使おう、と田舎味噌も買い込む。この味噌が切れた頃、この地にまた足を運びたい、と思うのだろうか。
宿に戻ると、健吾はまた大の字で畳の上にへばっていた。こんどは岩ではなく、い草の畳。
燎太郎がまた風呂上がりに「健吾もどう?」と、声をかける。昨日と同じ展開だ、と健吾は思うが、いそいそと乱れ盆へと向かう。ふたりが出掛けている間に、新しい浴衣に取り替えてくれたようだ。
湯に浸かったらだいぶ疲れも回復したので、館内ロビーに併設されたお土産屋などを売る売店へ足を運ぶことにした。浴衣を着てぷらぷら歩く、というのも旅の風情だろう、スリッパをペタペタ鳴らしながら、前を歩くピシッと浴衣を着こなす恋人を見た。
……旅館の浴衣をこんなにカッコよく着れるものなの? 人前に出る人はこういったところまで気をつけているんだろうか。
健吾は、惚れ惚れしながら、早くもヨレヨレになった自分の襟を引き寄せる。
「あ、これ……! みんなに配りたい。え、でも買い占めみたいになってもアレだから」
燎太郎は売店で、この地方の名物である蜂蜜を使った飴を手に取った。エキナセアに、蜂蜜。奇しくも我々が住むこの県では、喉に良いものが名産品として作られているため、燎太郎はそれを使った飴を見つけては、大学で配っていた。レアアイテムだといって喜んでくれるのが楽しいらしい。
「あの、これ。大学で配りたくて、何個までなら買って大丈夫ですか?」
レジで控えていたスタッフのところまで、その飴を持って行くと、燎太郎は訪ねた。
スタッフは奥で在庫を確認すると、二、三袋なら大丈夫だと答えた。燎太郎は丁重に頭を下げると、三袋会計してもらっていた。
ニコニコと顔を綻ばせながら、燎太郎はエレベーターホールに向かって歩き始める。その後を追う健吾は、ある焦りを覚えた。浴衣が崩れてきたからだ。
さっき、襟を合わせたばかりなのに、どんどんはだけてくるのは一体どうしてだろう。健吾は昔から、帯をしめたり、紐状のものを結ぶのが苦手だった。
「りょ、燎太郎。ヤバい」
健吾が絞り出すようにSOSの声を上げると、燎太郎はすぐに振り返る。そして健吾の惨状を目の当たりにすると、サッと顔色を変えた。……ごめん、ぼくもこんなに一瞬で崩れるなんて思ってなかった。
燎太郎はあたりを見渡すと、柱の影に隠れるようなスペースを見つけ、健吾を誘導する。
何度もキョロキョロと周囲を確認すると燎太郎は、飴の入った袋を羽織りの袂に入れた。
「ちょっと、失礼。一回、帯ほどいちゃうから」
両手を自由にした燎太郎は膝をつき、テキパキと健吾の浴衣を着付け直す。燎太郎がやると、最初に身体に巻き付ける段階でもうすでにフィット感が違った。
「そっか、こんな強度で巻きつけていいんだ」
健吾は恥ずかしさから、思わず言葉が漏れてしまうが、燎太郎は黙々と健吾の帯を締めている。彼はもう一度あたりをよく見回すと、健吾を隠すように立ち上がった。
「大丈夫?」
燎太郎は、心底心配そうに健吾へ尋ね、襟元から飴を取り出し再び手で提げた。……確かに、さっきは片方だけボコって膨らんで、バランスが悪そうだったから……申し訳ない。
「ああ、ありがとう。助かったよ」
情けなさで顔が熱くなってしまう。下を向きながらも健吾はどうにか答えた。
「浴衣、普段着ないから、難しいよね」
明るいトーンでこう言うと、燎太郎はポンポンと健吾の肩を叩いた。いまだにあたりを警戒しながら燎太郎は歩き出す。
今度は健吾に歩調を合わせ、燎太郎はすぐ横を歩いてくれた。
はあ、恥ずかしかった……と、今度は畳に突っ伏す健吾。今度こそこの畳と同化してしまいたい。そう思いながら身体を沈み込ませる。すると、燎太郎が広縁へと向かう気配を感じたので、寝返りをうつように体の向きを変えた。天井灯がいっそう白く感じる。実際に灯りの色が変わったわけではないが。窓の外、日が落ちたので相対的にそう見える。部屋の四隅にぼんやり黒い影がカーブを描く。
燎太郎は、ボストンバッグから手帳のようなものを取り出すと、健吾と目が合う。
「ああ、ごめん。旅先で、現実を持ち込んじゃってさ」
苦笑いを浮かべながら、燎太郎は座卓に腰をおろした。
……頭痛日記か。燎太郎は毎日、何時ごろ、どれくらい痛むかなどを記録している。
健吾が何も言えないでいると、ボールペンをノックするカチッと乾いた音が響く。
「旅行中はさ、もうびっくりするくらい感じないから。ほとんど旅行の日記になってるよ」
ページをペラペラめくりながら、燎太郎は乾いた笑い声を洩らす。
「いや、何もないなら『何もない』と記録することも大事だからな。燎太郎いつも頑張ってつけてるもんね。帰ったらぼくにも見せてもらっていいかな? ぼくもパソコンにデータを打ち込むから」
健吾はボールペンを細かく動かす燎太郎の指先を見つめながらこう言った。……ほんとうに旅の記録ならいいけれど。
「うん。いつもありがとね、健吾。数値化なんておれできないから、ほんとうに嬉しい。助かってるよ」
顔を上げて燎太郎が柔らかくと微笑むと、またパチリと目が合う。
――あ。
健吾は、部屋の空気が一段階張り詰めてゆくのを感じる。
つい身を捩ると、今度は天井をじっと見上げる。
ゆらゆら空気が揺れると、燎太郎が近づいてくる気配がした。
シーリングライトの白い光を遮ると、目の前に大きく燎太郎の顔。もう一度目が合うと、
「ねえ、健吾。キスしていい?」
燎太郎の囁きが降ってくる。
健吾が頷くと、燎太郎の少し乾いた唇が触れた。それを労わるように健吾は、唇を動かして重ね直す。
健吾は、何か糸が一本張り詰めたような、この空気をもう覚えている。
燎太郎の呼吸ペースが独特の荒さになることも、もうよく知っている。
この雰囲気に入ると、自然と鼓動が高まり、健吾は恋人の『いい?』という言葉も自然と待つようになる。
燎太郎は意外にも、情熱家ゆえというか、身体性からくる衝動というかまあ……つまりは身体を使った愛情表現に躊躇いがない人だった。
――まあ、考えてみれば舞台の上であんなに感情を爆発させる人だもんな。
健吾が感じた雰囲気の通りに燎太郎が「いい?」と訊くので、健吾が「うん」と答えたら、燎太郎は健吾の脚の下へ腕を潜らせ、いとも簡単に健吾を抱え上げる。
最初のうちは「え、何が?」と訊いてしまったけれど、燎太郎はその度に「健吾に触れていい?」とちゃんと口にしてくれていたものだ。
燎太郎の腕の中でゆらゆら揺れながら、普段なら、子どもじゃないと抗議するところだと考えるが、こんな時間に限っては燎太郎に体重を預けたくなってしまう。
燎太郎はベッドへ健吾を座らせると、後ろへ回り大きな腕を伸ばして抱きすくめる。
健吾の眼鏡を外しながら、嘴で突くように、こめかみ。頬。顎。そして首筋へと触れてゆく。
――抱きしめておかないと、飛んでいっちゃいそうだから。
と、燎太郎は言うが、ぼくってそんなにフラフラしてるかな、と健吾はいつも疑問に思っていた。
しかし、あの違う意味で冷たく空気の張り詰めた巨大なワイヤーの下で、斜張橋の上で強く抱き止められた時……健吾は分からざるを得なかった。
……こうやって肌を重ねて確認するのは、愛情だけではなく、燎太郎にとってはぼくの鼓動がちゃんと動いているか、それを確かめるためでもあるのだろうか。
でも、燎太郎となら全然いやじゃないし、むしろ……。
自分の中にこんな欲求が埋もれていたなんて、健吾は今でも驚いている。
燎太郎が、健吾の後頭部に手を添えると、健吾は「あ」とまた心臓がトクリと跳ねる。すぐに「倒すよ?」と声が飛んでくる。
健吾が頷いたならば、健吾の身体はゆっくりとベッドに沈んでいった。
――ほんとうはぼくも怖かった。ほんとうにゆっくり休みたかったのはぼくの方だったんじゃないか。
ふと、健吾の頭の中にそんな言葉が流れたので、身体を震わせ目が覚めた。
眠ってしまった。こんな薄着のまま。
暖房が効いているとはいえ、真冬の山間部は底冷えがする。だから、こんなことを考えてしまったのだろうか。
胸元では燎太郎が健吾の鼓動を聞きながら眠っているかのように、すっぽり収まっていた。
いつもとは、逆だ、と健吾は少し笑う。燎太郎の肩をゆすって、彼を起こそうとした手が微かに震える。
……寒い、から。
ノイズを遮断するためのイヤーマフをつけた燎太郎を見ると、健吾は少しだけ暗い気持ちになる。そんなに燎太郎がひどい頭痛を抱えていたなんて、気づかなかった……いや、気づきたくなかった自分を思い知るから。
贖罪、のつもりだったのかな。これは、自己満足の旅なのだろうか。なんの罪かっていうと、それは、嫌だって思ってしまったから、「元気」ではない燎太郎のことを一瞬でも嫌だって。
今は無防備な、何もつけていない耳で寝息を立てる燎太郎。せせらぎの中で。
いけない、このままだとほんとうに風邪をひいてしまう。
「燎太郎」
健吾が肩を揺すると、燎太郎はハッと目を開ける。――ぼくは最初に燎太郎に触れた時、こうやって肩を揺すった。親から「人の体に触っちゃダメだ」って、強く言い聞かせられていたのに、必死で手を伸ばしていた。
思えば、あの頃から、ぼくは燎太郎へ向かって手を伸ばし続けていたのだろう。ぼくだって、この人を失いたくない。
「このまま寝たら風邪ひくよ。お風呂入ってあったまったら、ご飯たべよ」
ここに来て何回お風呂に入っただろう。笑っちゃう。燎太郎は寝ぼけまなこで頷いた。
…◇…◆…◇…
「ああ、あの部屋ずっと住みたかったね」
燎太郎はマウンテンパーカーのフードを被り、釣り糸を垂らしながらベタな事を言った。
白い息を吐く彼の顔を見る。鼻の頭や目の下、頬が、乾いた風を受け赤くなっていた。
ほんのり、そばかすが分布している部分と一致している事が興味深かった。帰ったらなにか、医学的な根拠があるのか調べてみようか……。健吾はそう思った。
旅の最後は約束していたニジマス釣りで締めることになった。
お世話になった宿から、曲がりくねった山道をタクシーで二十分ほど走った渓谷に釣り場があったので、今朝はここでお世話になる。
冬季営業は時間貸しかやっていなかったので、釣りを終えたら釣果を美味しく頂き、早々に帰ることにした。
「ここも、緑深い時にきたら、景色が壮観だろうね。裸木も嫌いじゃないけれど」
燎太郎に話しかけた健吾の息は、あっという間に白く染まる。
遠くの山肌にはまだ白く雪化粧があるものの、この釣り場に雪は残っていなさそうで、健吾は胸を撫で下ろす。
横一列といったふうに、枯れた枝々が見下ろす渓谷には、ゴツゴツとした岩場が点在しており、数人の本格的な装備を携えた太公望が釣りに興じていた。
ピューッと笛の音のような風が枝の隙間を通り抜ける。
ふたりは、流れの緩やかな場所を目指す。砂利の広がった河川敷のようなエリアにふたりは陣取ると、先程、受け付けで買ったエサ箱に向き合う。
釣り餌はイクラの用意もあるそうだったが、水にすぐ溶けてしまうため難易度が高くなるという。
それを聞いた燎太郎は、迷うことなくブドウ虫の生餌を選んだ。値段が一緒なら難易度の低い方がいいじゃん、と言いながら。
まあ、燎太郎は高校時代にマイマイガ――ぼくはイラガだと思っていたけど――の幼虫にもずっと名前をつけたがっていたしな。
手のひらに収まる少々ザラッとした手触り、桃色の着色は昔ながらの色彩風景ではあるが、「PLA」の刻印と共に甘い香りがほのかに漂う。
昨今はプラスチックもポリ乳酸――バイオマスプラスチックに置き換わりが進んでいるが、釣り場にも波及してきたのかと健吾はしみじみとした。いや、釣り場だからこそか。
「開けるよ」
念のため、燎太郎に声をかけると、パカッと軽快な音がザアザアせせらぎの中に響く。
健吾は、少し生々しいおがくずまみれの芋虫たちに、燎太郎がおののいてはいないかとチラと見るが、彼は繭を持たないその虫たちをじっと見ているだけだった。
「准くんたちさ、枝をパキッて折って中から虫を引っ張り出したって言ってたけど。もっと本格的な釣り場に行ったのかなあ」
少し残念そうな声を出しながら、燎太郎はプラスチック容器のフチを指でなぞる。
あ、いけない。
「燎太郎、言いにくいけどこの子たち……これ、今から針に刺して水に沈めるんだからね? あまり、愛着を湧かせてしまうと、その……」
健吾が恐る恐る口にすると、
「あ、そっか」
燎太郎はハッとした。健吾は思わず引き攣った笑いを浮かべてしまう。
「針に気をつけてね。カエシがついてるから、刺さると厄介だ」
健吾は、お手本にと、先に生餌をつけて見せた。
――そういえば、ウチの両親……。ウチで釣りに行った時も枝を折ってそこから繭を引っ張り出すタイプの釣り餌を使っていたけど、今思うとあれは一体どこから「仕入れ」ていたのだろうか。
そんな天然の枝、量産して流通に乗せたら資源の限られた今の時代じゃなくとも、それこそ環境が死んでしまう。
健吾は、自分を楽しませるために両親が怠らなかった努力と、謎の流通ルートを思う。
凪のような碧の水面を見つめることはや数十分。水底に沈んだ大小の石が見渡せるくらい静かだ。健吾は釣竿を少しだけ地面に置くと、耳がすっぽり隠れるようにニット帽を下げる。
「健吾って、アウトドアなことに結構慣れてるよね」
釣り糸を垂らしたままポツリと燎太郎が呟く。枝の間には相変わらずびゅうびゅうと風が通り抜けてゆく。
「うん。子どもの頃から両親が連れ出してくれてたからね。そうだ、お父さんが燎太郎の串うち上手かったって褒めてたよ、ホラ、高校生の時に行ったバーベキューで」
再び釣り糸を凪に垂らすと、健吾は答えた。
「ああ、あれは……。ネットで予習して行ったんだよ。今考えると我ながら必死で、笑う」
少し恥ずかしそうに肩をすくめながら燎太郎は小さく笑った。
そうだったんだ、とも思うし、燎太郎らしいな、とも健吾は思う。燎太郎は、健吾と遊ぶことに関していえばいつでも全力投球だった。鉄博に行った時も、妙に話が合うな、と思ったけどひょっとして……。
「あのさ、燎太郎。ぼくは時々思うんだよね。もし小学生の頃から出会えていたら、お父さんとお母さんの運転するあの四駆で、もっと色々なところへ行けたんじゃないかって」
釣り糸の先から、ちらりと燎太郎の方に視線を移すと、彼がみるみと目を見開いてゆくのが見えた。
「うん、おれも全く同じこと、考えてたよ。それこそバーベキューの時に功一さんと話したんだけど、健吾はさ、高一の時に火を起こして、みんなに分けたんだよね。おれも、その火を分けてもらいたかったよ。健吾と同じ班だったら〝学校行事〟のキャンプにも行ったのにって」
諦めにも似た笑顔で燎太郎は訥々と話した。……そんな風に、ぼくと同じように思ってくれていたんだ。
「ていうかさ、お父さん。そんなことまで話したの? 恥ずかしいんだけど」
健吾は唐突に恥ずかしくなってしまい、少し吹き出す。燎太郎もつられて笑い声を上げると、健吾は凪だった水面に目線を返した。
「燎太郎! 引いてる!」
燎太郎が垂らした釣り糸、丸いウキが水中に引き込まれていた。さっきまで浮かんでいたオレンジ色の頭が、すっかり浸かってしまっている。
「え? ホント? え、どうしたらいいの?」
彼はその変化に気が付いていなかったらしく、健吾とウキを交互に見ながら俄かに慌て出す。
「まずは、落ち着いて。垂直に力をかけながら、素早く引き上げるんだ」
なんの変化も起きていない自分の釣竿で、健吾は「実演」をして見せた。燎太郎は大きく何度も頷くと、健吾がやって見せた通りにする。
静かだった水面が飛沫をあげるとやがて、ぬるりとした鱗がビチビチと暴れながら水上へと暴き出される。
「つ、釣れた」
燎太郎がおっかなびっくりといった様子で、釣れたばかりのニジマスを手繰り寄せた。銀色の鱗が翻って、冬の太陽を微かに反射した。
メッシュネット状の四角いものを釣り場スタッフが貸してくれたので、健吾は川底に沈めていた魚籠を引っ張り上げた。
「ぼくはボウズだったよ」
地面が平らなバーベキューエリアに移動して、受け付けで借りたバーベキューコンロを組み立てながら、少し拗ねたように健吾がこぼす。
「まあまあ、おれはただのビギナーズラックだったと思うよ」
遠慮がちに笑うと、魚籠に入った三尾のニジマスを抱え、燎太郎は炊事場へと向かう。
正方形のコンロは、シンプルで五十センチほどのコンパクトなものだが、ニジマスを三尾焼くにはちょうどいい。
健吾は着火剤がわりの成形木炭を、セットした目皿の中央に据えると、その周りに白炭を配置した。
着火ライターを成形木炭に近づけるとすぐに火が上がるので、健吾は火吹き棒に持ち替えると、コンロに風を送る。赤い火が這うように白炭の方へくっつくと、その火を定着させるイメージで風を送り続ける。時には長く息を吐いて。やがて白炭の端がポツポツと赤くなるので、今度はその赤が全体に広がるイメージで風を送る。
何か、科学的な原理はもちろんあるのだろうが、こればかりは感覚、としか健吾には言えなかった。
やがて、炭がパチパチ爆ぜる音が聞こえてくるので、健吾は少しずつ炭を足しながら、最初に火がついた白炭を熾火状態に育てる。
炊事場の水は物すごく冷たいだろうから(そもそも水道管が凍ってなければいいが)、燎太郎が手をかざせるように早く、火をつけないと。今までで一番いい火をプレゼントできたら、とそう思う。……何だそれ。健吾は炎の熱が顔に伝わると、頬を赤くした。
炭が爆ぜるたびに、1ピクセルの赤いドッドが四方に飛び散る。
「串打ちできたよ」
案の定、炊事場から帰って来た燎太郎の指先は赤く染まっていた。健吾は串を三本受け取ると、燎太郎に焚き火へ手をかざすよう勧めた。
セットしておいた串差しスタンドに、健吾がニジマスを貫く串を刺すと、手を重ねて擦り合わせながら燎太郎が、
「もう、美味しそう」
と、笑顔を浮かべた。
ニジマスの串打ちも動画で予習して来たと燎太郎は言うが、まあ普通は……動画で見ただけでは出来ない人もいるだろう。燎太郎は感覚が優れているんだ、と健吾は思う。ぼくよりもずっと、と。芸術家ゆえなのか、生まれ持ったものなのか、それは分からないけれど。
綺麗に化粧塩が施されたニジマスの尾や鰭を健吾は見る。
燎太郎は炊事場の片付けを終えると、また炭火に手をかざし、両手を擦り合わせる。
しだいに、コンロから登る煙は香ばしさを帯び、ニジマスの皮目にも焦げ色がついてくる。炭には白い灰がうっすら被っている。そこに脂がポタリと落ちると、ジュウという音が上がる。
「良い香り」
ニットの手袋を装着しながら、燎太郎は待ちきれないように息を大きく吐いた。
「美味しい。昨日食べたニジマスも美味しかったけど、なんか自分で釣ったらひとしお美味しい感じがする」
コンロを囲み、ふたりはミニローチェアに腰掛けながら、すっかり焼けた魚を頬張っていた。
健吾も燎太郎から分けてもらった焼き立てのニジマスにかぶりつく。皮の香ばしさの中で、ふっくらとした脂の乗った身が、口の中でほろほろと崩れる。
「これも愛着だろうね。自分で餌をつけて、自分で釣ったという、成功体験込みで。やっぱり釣れたら嬉しいもん」
ハフハフと湯気を逃しながら健吾が答えた。
「そっか。ブドウ虫の命をひとついただいて、魚を釣る。その釣った魚の命をおれが頂く。何かを食べるという行為は命をひとつづついただくのか、あ。それって食物連鎖じゃない?」
車輪の再発明……。そんな顔で目を丸く口をあんぐりさせながら、燎太郎は串に刺さったニジマスを見ていた。
健吾がふふと笑っていると、
「……正確にはさ、おれ命をふたつ……ニジマス二匹頂いちゃってる。よかった?」
少し恥ずかしそうに、申し訳なさそうに燎太郎はこう言った。
「もちろんだよ、燎太郎が釣ったんだから。ぼくは燎太郎から分けてもらってる立場なんだからさ。美味しく食べて。……でもさ、次はもっと釣りたいな」
健吾は、だんだんと残念そうな声になってしまう。やっぱり、釣りたかった。
「うん、またこようね。おれもビギナーズラックで運が尽きなように頑張るぞっと」
燎太郎は、そう言うと笑い、また焼き魚に食らいつく。
そうだな、またくればいい。健吾はそう考えながら、旅の終わりが「またこよう」という言葉で締まったことを、嬉しく思った。
…◇…◆…◇…
「ねえ、本当に大丈夫?」
「うん、大丈夫。メープルシロップはひょっとしたら好き嫌いがあるかもしれないけど。クッキーはカタい、普遍的に愛されるお菓子だろう」
燎太郎が心配そうに尋ねるので、健吾は手にした菓子折りの箱を確認すると、紙袋に詰め直した。メープルシロップのフレーバーをつけたクッキーが個包装で入っている。パッケージには大きくカエデの葉が描かれていた。
「違うって、お土産の話じゃなくてさあ……」
燎太郎は、いつもの部屋着に身を包み、コタツに足を入れて丸まっていた。
明日は、久しぶりの出勤日だった。グラフィックスチームだけではなく、ミュージック、シナリオなど、さまざまなチームを交えた社内プレゼンで、スライドも使用して意見を交換しなければならないので、リモートでやるには少しばかり効率の悪いミーティングだからだ。
しかし、燎太郎が心配しているのはミーティングそのものではない。
同じオフィスで仕事をする佐伯美雨の接触……だった。
健吾はスウェット姿で、ノート型パソコンと液晶タブレットをバックパックにしまうと、コタツの天板に乗せ、さらにその上に先程のお土産が入った紙袋を置いた。
窓の外にはいつもと同じ夜が広がっている。青い月と街灯が混ざり合った光に照らされたタワーマンション。
「大丈夫だよ。仕事以外で何を話すわけでもないし、ミーティングが終わったらすぐ帰ってくるから」
健吾は、斜め前に座って、天板の縁をジーッと見る燎太郎の肩に手を置いた。
「うん」
燎太郎は答えるものの、声に覇気がなかった。彼女が過激な行動に出ないか、それをひとえに心配していることは健吾にも分かっていた。
しかし、燎太郎もそんなに割り切れた性格の持ち主ではなく、美雨にほんのちょっとでも健吾を取られてしまう可能性があるなら……というよりは「そういった目」で見られることがもうすでに嫌なのだろう。
健吾はどうすればいいのかと、少し思案したあと、
「ちゃんと無事に帰ってくるって。お風呂、行ってくる」
出来るだけ明るい声を上げると、燎太郎の座っているところまで移動して、ぎゅうっと彼を抱きしめた。
「ちょっと、それ逆にフラグみたいだからやめて」
燎太郎は嬉しそうに、くすぐったそうに笑いながらも、戯けた声を出す。健吾もニッと歯を見せて笑うと、新しいスウェットを用意して風呂場に向かった。
燎太郎は、先日の旅行ですっかり温泉にハマってしまい、いわゆる温泉の素を使用するため、バスタブに湯を張る習慣ができた。
ふたりとも、慌ただしさに負けシャワーで済ませることが多かったので、ゆっくりとした入浴が身につくのは良いことだと、健吾は思う。
すりガラスを折り畳むと、淡い乳白色の湯がほのかに湯気を上げている。この酸化チタンと炭酸を組み合わせた入浴剤が燎太郎のお気に入りのようだ。人工的な香料が配合されていないことも決め手のひとつであろう。
健吾は体を洗い流すと、ゆっくり足から湯に浸かる。細かな泡が少しだけまとわりついた。
湯に沈みふーっと一息つくと、以前健吾が考えていた浅倉萌花――高校時代にぼくを困らせていた生徒、と美雨がどちらも女性であることは、偶然ではないだろう。と、いうことをもう一度考える。
しかし、女性が健吾を困らせる存在である。と解をつけてしまうのは、全く正解ではないと健吾は分かっていた。健吾を困らせた人物が女性でありがちなことと、女性は健吾を困らせる。ということは全然イコールではない、一見、似ているようで全くの別問題だ。
母……は、双方向に色々な補正があるだろうから候補から除外するとして、聡信学園の養護教諭だった長谷川先生も、渡邊チーフだって、役職を超え、掛け値なしに親切にしてくれたし、お世話になっていると思う。
やはり「女性だから」では決してない。じゃあ、なんでだろう。
――朝倉さんはぼくに大きな声を出す時、「あなたばかりズルい」と言っているように思えた。気のせいかもしれないけれど。
彼女が燎太郎のことをおそらく好きだったから、とかではなく、もっと根本的ななにかを訴えているようだった。
そういえば彼女は毎日のように大きな声を出していた。
毎日ということは、彼女が大声を出さなければいけないような問題は日々解決していない、どころか増えていっているということだ。
なのに、燎太郎がたった一回、あの時大きな声を出しただけで、教室はしんと静まりかえった。
健吾の胸に、その違いが些細な違和感と化けてもやもやと疼きだす。
健吾は腕を組んで、思わずうーんと唸ると、
「健吾、大丈夫? のぼせてないよね?」
その燎太郎が、すりガラス越しに心配そうな声を上げた。
「大丈夫だから、もお、燎太郎。えっち」
びっくりした……。びっくりして健吾は思わずまた憎まれ口を叩いてしまう。
「えっちとかじゃないでしょー。のぼせないでねー」
ムッとしたような燎太郎の声がだんだん遠ざかってゆく。
……あの調子では、ぼくが上がった時に燎太郎はちょっと拗ねてるだろうな。
健吾は、きちんとフォローしとかないと、そう考えながら組んだ腕をほどいた。
社内プレゼンは拍子抜けするほど、すんなりと終わった。
燎太郎にはまだまだ言えないけれど、お正月の家電量販店で見たポスター、あの作品へも、正式に参加することが決まった。
健吾が子どもの頃からすでに人気だった作品、外注される立場とはいえ、やはり胸が躍る。
というか、燎太郎はウチ――株式会社オルドスコラが、そのご長寿IPの外注先だということをさらりと知っていたということじゃないか。今更気づくと、健吾は燎太郎の「ガチめ」なオタク体質に少し笑う。多分、燎太郎のそんな面を知っているのは自分だけだろうと考える。
フルリモート勤務である健吾のデスクはもう片付けられていたので、健吾が出勤する時はフリーアドレスのデスクを使っていた。
今日はミーティングが終わったら帰っていいという約束だったので、健吾は荷物をまとめる。いつもならこのまま真っ直ぐ帰るだろう。
しかし、旅行で買ったお土産を渡邊チーフに預かってもらうために、グラフィックスチームフロアに寄ることにした。エレベーターフロアに移動すると、二基分のベルの音が互い違いのように響いた。
健吾がIDカードをリーダーにかざすと、ガラス扉が開く。
見慣れた懐かしいフロアを見渡すと、渡邊チーフが下を向いて作業している姿を見つけた。
健吾が安心して彼女に近づこうとすると、不意に腕を掴まれる。
「ああっ」
肺が一気に縮んで、健吾は思わず大きな声を出してしまう。八割がた埋まったフロアのデスクに座っていた社員が一斉にこちらを見た。
反して健吾は咄嗟に後ろを振り返る。センサーの真下に、IDカードを片手に持った佐伯美雨がいるので、ガラスのドアは開いたままだ。美雨の手も健吾の腕を掴んだまま。
「話をしてくださいって、ずっと言ってるのに、なんで無視するんですか」
美雨はどうにか、大きな声にならないように、そんな感じの、怒気まじりの声を健吾に投げつける。
「変な嘘ついて、諦めさせようとしないでください」
……みんなが見ているようなところでは、何もしてこないと。そう思ってたけど、違ったか。
でも、佐伯さん。それ以上はアウティングに繋がりかねない。
健吾は構わなかったが、みんながみんな、平気なわけではない。むしろ、絶対に触れられたくない人だっている。健吾はそう考えると「後から来る人」のために、彼女をどこかへ連れて行こうと思った。これ以上余計なことを言わないように。
健吾は、ため息を噛み殺し、フロアへと向き直す。
チーフが背もたれを掴み、腰を上げようとしていたので、健吾は床へ手で押すように「座ってて」のジェスチャーを送った。……まさか、自分がジェスチャーを使ってコミュニケーションを取るようになるとは。変なところで健吾は自分の成長を知る。本当にこんなことで知りたくなかった……。
「ごめんね、佐伯さん。ちょっとお土産だけ渡させて」
健吾は美雨を刺激しないように、穏やかな声で言い聞かせるようにこう言うと、チーフの席へと向かう。健吾を掴んだ腕から手は離してもらえた。
「チーフ、上からすみません。これお土産なんで、みんなで食べてください」
健吾は、椅子に座ったままのチーフに向かって、紙袋からお菓子の箱を取り出すと、真っ直ぐ差し出した。
美雨は健吾の少し斜め後ろからその様子を窺っている。
チーフがお礼を言って受け取りながら小さく「同席しようか?」と、言ってくれたけれど、健吾は首を振る。
健吾がチラチラと振り返りながら歩きだすと、美雨は当然のようについてくる。
もう一度、ため息を噛み殺すと、健吾は同じフロアの、奥まったベンダーコーナーへと向かった。
煌々と商品を照らす、二台の飲料自動販売機。柱を挟むとお菓子やパンも機械の箱に収まっている。
その横に置かれたベンチに美雨を座らせると、健吾はIDカードをかざして温かいココアを買った。自分の分と、美雨に渡す分の二本。
温かい飲み物を啜ることで、健吾から少しだけ気を逸らす目的もあった。
「どうぞ」
健吾が美雨に缶を差し出すと、彼女は何か言いたげな顔をしたが、黙って受け取った。
プルタブを起こし、ココアの缶を傾ける美雨を確認したら、健吾は向かいのベンチに座った。
「あのね。いきなり本題からで申し訳ないんだけど。嘘じゃないんだよ。ぼくに彼氏がいることは嘘じゃない。それをそのまま飲み込んでもらえないことには、話が先に進まないんだよ」
健吾はまだ熱い缶を、伸ばしたパーカーの袖越しに両手で握ると、顔を上げて美雨を見た。
相変わらず、焦点が定まらぬように遠くを見ている。――そう、彼女は最初から目の前のぼくを見ていない。どこか遠く、明後日の方向しか見ていないんだよ。
「だって、断り辛いから、そんな変な理由をつけてるいんじゃないですか」
鼻を赤くして、俯いてしまった美雨。泣かせるつもりじゃない。ただ、こちらの話もちゃんと聞いてほしい、それだけ。
「あのね、冷静に考えてほしい。キミが本当に、ぼくが『断り辛い』と仮定しているなら、キミの中でとっくに答えは出ている。じゃあ、ぼくに執着する理由はなに?」
極めて冷静を務めるよう、健吾は平坦に言った。
……ここからは、ぼくの仮定だし、推理の結局に過ぎない。
もし、違っていたら失礼だし、傷つけてしまうかも。でも――失礼はお互い様だろ。
「キミは本当は、男性と付き合いたくなんかない、違うかな?」
だとしたら自分も、ずいぶん舐められたものだと、健吾はここに来て沸々と怒りが湧いてくる。
美雨を真っ直ぐ見据える。彼女はハッと顔を上げ、目をみるみる見開くと、口元を歪に震わせた。
参考サイト:
ジオパーク秩父
※作中に登場する店舗・施設・商品等は架空のものであり、実在のものではありません。




