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51章 孤独な戦い




「ぷはっ!」


 『蛇』の唯一の好影響か、ただでさえ得意な潜水が更に常人離れしていたのが幸いだった。息継ぎ無しで無事誰にも見つからず、書類の商船まで泳ぎ切る。


「あの、済みません!?」「ん?」


 丁度船内に入ろうとしていた男性に、海面から声を掛ける。肉体労働が主らしく、上半身は漁師のように筋肉隆々だ。

「何だい、坊ちゃん?」

 僕のいた場所に少し驚きつつ、彼は誠実な笑顔で応えてくれた。

「この船に乗っている―――さん、いますか?少し話があって」

「ああ。あの子ならさっき友達と買い物に出掛けたよ。スナック菓子がどうとか言ってたから、行き先はマーケットかコンビニじゃないかな。でも、あの子はその……少し、変わった体質だからね。きっと上がって着替えている間に戻って来るよ。船内のシャワーで良ければ貸すけど」

 親切な提案だが、生憎事は一刻を争う。それにこのままいては、この商船の人達にまで被害が及ぶ危険性があった。

「いえ、それなら時間を見計らって出直します。教えて頂いてありがとうございます」

「あ、君!?」

 呼び止める声を無視し、僕は急いでその場を離れた。

 向かった先は、隣の海岸に建てられた海の家。シーズンはまだ先だが、数年前から持ち主の老人の了承を得、専用の木箱に着替えとタオルを置かせてもらっていた。

 箱の裏に隠してあった鍵を手に、蓋の南京錠を外す。取り出したタオルで濡れた身体を塩ごとよく拭き、手早く着替える。少し考え、脱いだ服は石をポケットに詰め、海に沈める事にした。用意してくれた弟に悪いと思いつつ処分する。

 そうしてから一旦机に置いた母を持ちかけ、はたと気付く。公道で遺体を持ち歩いては、目的を達する前に確実に逮捕されてしまう。かと言って、一人こんな所へ置き去りにするのも心が痛んだ。だが、


「―――母さん、待ってて。すぐ戻って来るから」


 あの人に危険を知らせ、即マリアと海中に身を潜める。そして身体が元に戻り次第、こっそりこちらなり実家の方に埋葬しよう。大丈夫、海開きまでまだ三ヶ月近くある。壁の隙間を通るこの潮風を浴びていれば、腐敗も最小限で済む筈だ。

 それでも一応誰か来た時のために、母を入れた箱の蓋を閉め、鍵を元の隠し場所に仕舞った。



 通りに出た僕は、久方振りの街を楽しむ間も無く左右を見回す。

(あの船から近い店と言うと、やっぱりスーパーかな?)

 そう思いつつ、小さい頃から馴染みのマーケットへ足を運ぶ。泳いだ後は大抵小腹が空いていたので、小遣いでよくパンを買い食いしながら坂道を登って帰ったものだ。

(そう言えば一度、お爺ちゃんにどうしても食べさせたくて、揚げたてコロッケを買いに走って行ったなあ……)

 まだ全てが平穏だった頃の、酷く懐かしい思い出だ。

 平日の昼前とあってか、店内はやや閑散としていた。無一文だが一応籠を手にし、広いとは言えないフロアで彼を捜し始める。

(あ、いた!)

 今日は上下とも黒で、この辺りでは見ない変わったデザインの服を着ていた。

 パーティーで一緒だった聖族とはどうやら別行動中らしい。水槽の前で魚と説明の札を指差しながら、隣のサバけた格好の青年と楽しそうに話している。その平和な光景は、僕を少しだけ安心させてくれた。

 早速声を掛けようと足を踏み出しかけ、ふと手前に焦点が合う。僕と彼との距離は約十メートル。その間には、商品棚が間隔を空けて二つ置いてある。その角で丁度こちらに背中を向け、つまり僕と同方向を見ている人物を発見した。帽子を被り変装こそしているが、漂う異様な雰囲気で分かった。弟だ!

(しまった、先回りされてたのか!?どうしよう……)

 これでは危険を知らせられないどころか、うっかりすれば僕まで見つかりかねない。

 二人が生魚コーナーを離れると、弟も足音を立てないよう付いて行く。多分店を出て、人気の無い路地に入った所を襲うつもりなのだろう。帰路には絶好の襲撃ポイントが幾つかある。とにかく後を追わなければ!

 スナック菓子とコーラを青年が会計し、暢気に歓談を続けながら船への路地を歩いていく。内容は分からないが、あの人が笑っているのだからきっと楽しい話なのだろう。間近でその表情を見られる彼がとても羨ましかった。

 弟が付かず離れず尾行し、僕がやや遠巻きに追う。と、被尾行者達が急に別れて歩き出した。突然のアクシデントに、しかし弟は当初の目的通りターゲットに向かって駆け出した。

(まさか、気付いた?だとすると……)

 僕は見られないよう注意しつつ、何時でも助けられるよう死角から成り行きを見守る事にした。

 青年は至極冷静に辺りを見回し、落ちていた木の棒を拾って急いで路地を戻る。やり過ごせたのは奇跡に等しかった。そして、


 ドスッ!いっそ潔いぐらい、彼は躊躇い無く弟の後頭部を強襲した。


 うつ伏せに倒れた『雄蛇』を見下ろし、二人はヒソヒソと相談。その後、現場をそのままに早足で船へと帰って行った。

(あれ、通報しないのか?いや……その方がいい)

 頭を殴られたぐらいで、不死身の『蛇』が気絶する筈が無い。多分あれは演技だ。様子を窺おうと覗き込んだ瞬間、毒牙を以って襲い掛かるための。

 ようやくトラップを無視されたと気付いた弟は、ゆっくりと起き上がって患部を手で擦った。

「―――チッ。やれやれ、乱暴な奴だぜ。ま、追うにしても、昨日みたいにいきなり刃物が飛んできたら怖えしな」

 全く怖くなさそうな顔で言い訳する。

「大体、荒事は苦手なんだよ。なのにあのボーダー女め、俺にばっかこんな仕事押し付けやがって」

 堂々と矛盾を口にしてドンッ!近くにあった壁を蹴り、苛立ちを紛らわせた。

「あーあ。かと言って姉貴にやらせたら、兄貴の所へ連れて行く前に滅茶苦茶にされちまうだろうし……しゃーねー。一旦戻って、作戦変更を提案してくるか。シスターもいればどうにかしてくれるだろ」

 そう溜息を吐き、弟はトボトボと屋敷へ引き返していく。よし、邪魔者はいなくなった!早く彼に危機を、


「おや」「っ!!?」




 その妙なる声が耳に届いた瞬間、反射的に全身が硬直した。


「こんな道端でお会いしたのも、神の思し召しでしょうか」


 意志を総動員し、辛うじて振り返ると……事件の元凶は片手で聖書を広げ、微笑みながら佇んでいた。

「ど、どうしてここが……!?」

「主は万能な存在。常に宇宙の万物を見通していらっしゃいます」

「あなたは一体、何が目的なんだ?」

「この宇宙に生きる者へ神の愛を、大いなる慈悲を教える事です。当然、あなたのような裏切り者の異教徒にも」

「説明になってない!!」

 憤慨のままに怒鳴る。

「神への信仰をせず、愛情溢れる御姉弟を裏切ろうとするあなたには、まだ視えていないだけなのです。遍く降り注ぐ主の光を、何も恐れる必要など無い」

「あなたは……悪魔か?」

「あのような異形と一緒にされるとは心外です」

 彼女が流麗な声で讃美歌を口ずさむと、僕の中の『蛇』が一斉に動き始めた。皮膚の下を這い回る余りの気持ち悪さに、思わず両腕を抱えてその場に崩れ落ちる。

「っ―――があっ!!」

「いいですか?所詮あなたなど、『御蛇』にかかれば即座に抹消可能な存在。反発は命を縮めるだけですよ」

 諭すような台詞に、僕は生理的拒絶感から叫んでいた。


「殺したいなら殺せばいい!!僕はあなたの崇める信仰など決してしないし、姉さん達みたいに『蛇達』と未来永劫仲良くやっていくつもりもない!!」


 あらゆる筋肉上を、怪物達が移動するのを感じる。ぞわぞわぞわぞわ……くすぐったいような奇妙な感触に、全身を掻き毟りたい衝動を必死で堪えながら叫ぶ。

「愚かな。何故そうまでして信仰を拒むのです?」

 まるで幼子のような、悪意の無い問い掛け。最初に脳裏に浮かんだのは矢張り、あの人だった。

 絶望に飲まれていた僕に、再び勇気を与えてくれた笑顔。自分の事すら分からないのに、それでも彼は生死の境を越え、周囲の人々を思いやっている。


「―――この命より大事な人がいるからだ。あなたなどには永遠に分からないだろうけれど」


 不快感はまだあるが、死ぬ程ではない。僕は痙攣する右腕を押さえつつ立ち上がった。

 まだ青年の体温が残る木の棒を拾う。大分短いが久し振りに槍術の構えを取り、敵と対峙した。

「邪魔をするなら容赦しません。そこを退いて下さい」

「……痴れ者が」

 罵倒したシスターは無感情な目を向け、何故か微笑。


 次の瞬間、油断した首筋にガブッ!覚えのある感触が湧き起こった。「っ!!?」


 視界がグラッ!大きく傾いた。カラン……武器が落ちる。

「おや、奇遇ですね神の子よ」

「白々しいぞシスター。まあいいか」

 腕一本で支えられ、弛緩した僕の耳朶を『雄蛇』はチロチロ舐め回す。


「姫君救出まで後少しだったのにな、騎士様。残念―――ここでゲームオーバーだ」


 残酷な宣告が耳に届くと同時に、以前より強力な毒に冒された意識が暗闇へと吸い込まれていった。



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