50章 行動開始
「はっ……はぁっ……!!」
抱えた母を落とさないようにしつつ、遺跡内から地上への階段を探す。
それに気付いたのは、食事と着替えを終えた数分後。母は最後の意志を以って、一度は解放を齎したヘアピンを掌に握り締めていたのだ。全ては僕へと託すために。
鍵穴の見えない初のピッキングは、逆手ながらどうにか成功した。脱出のタイムリミットは事情聴取が終わり、三人が帰って来るまでだ。
ズキッ。赤くなっているであろう額が仮初の痛みを訴える。
―――五月蝿え!俺達に近寄るな、このバケモノめ!!
兄の夢を見ていたのか、囚われた蒼髪の少年は魘されていた。その彼を庇い、男性はそう叫んで手元の石を投げ付けた。拷問を受けたのか身体は傷だらけ、無理も無い反応だ。説得の時間が惜しい事もあり、僕は黙ってその場を後にするしかなかった。
ようやく目的の出口を見つけ、駆け上がって天井を押し上げる。そこは長く使われていない物置きだ。
「誰!!?」
急に聞こえた悲鳴に、吃驚して周りを見渡す。声の主は僕のすぐ後ろにいた。
「アス……あなたなの?」
「マリア!?」
表情を硬直させたまま、彼女は後ろ手に古びたノートを棚に戻す……ああ、そうだ。昔父さんから聞いた事がある。この部屋は元々ラベルグ伯父さんの、
「何も言わなくていいわ……『器』にされたのね?」
「ええ」
「だからあれ程注意してって言ったのに……」ボロッ。「親子揃って、本当に馬鹿なんだから!」
「御免」
「謝っても元には戻らないわ!!」
顔を手で隠し、マリアは少しの間咽び泣いた。しかし次に頭を上げた時、その蒼い瞳には呪いの宣言の時以上に強い意志があった。
「こうなったら母なる海の輪廻、その力を使って『蛇』を外すしかないわ……行きましょう、アス。私達の故郷へ。明日ラベルグが蘇ったら、そいつ等を絶対引き離すわ。ヤーシェの誇りに賭けて」
伯父さんが?あれ、でもそれなら、
「この海で海神に出来ない事は無いわ。浄化に大分時間は掛かるでしょうけど」
解呪されていると信じ切っている姉弟はどうなるんだ?
「マリア、一つだけいい?『蛇』に寄生された姉さん達の呪いは―――まだ解けていないのか?」
人魚は溜息を吐き、両掌を天へ向けて盛大に呆れた。
「当たり前でしょう?化物の力を借りたぐらいで、二十年以上熟成された呪いを無力化出来る訳無いわ」
矢張り、そうか……だとすると、二人はシスターに完全に騙されている事になってしまう。
「今更だけど、何とか助けられないか?この世に二人しかいない家族なんだ、頼む」
「何からよ。呪い?『蛇』?それとも、あの美形のムスリムさん達から?―――生憎どれも無理な注文よ。あなたを救うには、ラベルグの復活が絶対必要。なら、復活の条件は?」
生贄の、死。
「……つまり二人の事は諦めて、自分だけ助かれって言いたいのか?」
「それがせめてもの善よ、アス。残酷な事を言うけれど、あいつ等が仮令ヤベルに戻れた所で何も変わらないわ。『蛇』を使う使わないに関わらず、何れ奴等はあなたを害していた。『蛇』の影響で、それが多少早まっただけ」
「そうかもしれない。でも」
「まさかあなた、眼鏡のガールフレンド達の事を忘れたの?今抱えている腕だって―――私はあいつ等を絶対に赦さないわ。このまま苦しみ抜いてくたばればいいの。ラベルグだってそう言うに決まってる。助けてやる気なんて更々無いわ」
眉間に皺を寄せ、実に不愉快げに彼女は吐き捨てた。
「抜け出すなら今の内。さあ、行くわよ」
差し出された手を掴み掛け、慌てて引っ込めた。大事な叔母を、委員長の二の舞にする訳にはいかない。
「?どうしたの?」
「御免。でも、触ったら融けてしまうかもしれない……」
「それが可愛い彼女を殺した『蛇』の力って訳ね。分かった、触らないわ」
腕を引っ込め、そのまま胸の前で軽く組み、入口へ向かう。
「マリア」
長年の心労が溜まった細い背に声を掛ける。
「あの……昨日君の姿を借りた、黒髪のシャーマンシーを知っているかい?中性的で、凄く綺麗で、まるで月のような」
「ええ。あの坊やなら今頃、船でお留守番しているわ」軽く眉を上げ、「あの子がどうかしたの?」
「『蛇達』に狙われているんだ。『彼』の家族も、人質としてこの下に捕まっていて。でも早く街から出さないと、今よりもっと恐ろしい事になってしまうんだ……!」
僕は禁忌の石の件を語った。話が進むにつれ、叔母の蒼い目が見る見る見開かれていく。
「ほ、本当なの、それ?あの坊やがそんな超重要人物だなんて……!?」
「その事なんだけど、聖族達や船の人達は気付いてた?」
「いいえ。シャーマンシーだって事ぐらいは知っているみたいだったけど。何せあの子、記憶喪失なんですもの。それに自分の心臓がそんな大切な物だと分かっていたら、もっと警戒する筈よ……!!?」
先程までの冷徹さは消え、焦り気味に左右をキョロキョロ。
「どうしよう……さっき廊下で『雄蛇』を見たのよ。きっと事情聴取を抜け出して、白昼堂々誘拐しに行くつもりだわ!」
姉の化けた僕の偽者は、未だ屋敷内にいる筈。だとすれば、警官が固めているであろう玄関や裏口から出るのは拙い。
迷っている時間は無い。幸いにも、この部屋には人間が通れそうな窓がある。
(あの人は僕が絶対に、絶対に守るんだ!!)
そう想うだけで、どんな辛い訓練より強くなれた。―――釣り人が言った通りだ。僕は今、全身全霊で恋をしている。
「僕はここから出ます。マリアは怪しまれないよう、副聖王達の所へ戻って下さい」
『蛇達』はマリアも捕まえると言っていた。一人でフラフラしていては奴等の思う壷だ。
「大丈夫。上手くいったら、いつもの海岸で落ち合おう」
「え、ええ……でも高いわよ、ここ?」
「マリアだって、ほぼ同じ高さのバルコニーから降りていたじゃないか。これぐらい余裕だよ」
そう言って開け放つと、澱みの無い爽やかな潮風が吹き込んできた。心地良い。この風が自由に吹く場所こそ、僕の在るべき世界だ。
「バラバラになっても知らないんだから」
窓枠に足を掛け、着水点を覗き込む。白波が互いに打ち寄せ砕けていたが、危険な岩などは特に無さそうだった。
「―――でも意外ね」「え?」
脚に力を籠めた瞬間にそう声を掛けられ、無意識にふっと緩む。
「ううん、何でもない。アス―――ラベルグは、息を引き取る直前まで私を守ってくれたわ。だから、あなたもきっと……」
その先を聞く必要は無かった。答えはとっくに僕の中にある。
頭を下にし、姿勢を整えて一度大きく深呼吸。落とさないよう母を左の小脇へ抱え、爪先で勢い良く窓枠を蹴った。




