4章 憧れの叔父
また場面が変わり、今度は何もかもが真っ白な部屋にいた。鼻を突く消毒薬の匂い―――病院だ。
個室中央のベッドで上半身を起こしているのは、還暦前後の白髪の老人。口鼻に透明な酸素マスクを付け、入室した僕に目を細める。
「こんにちは、お爺ちゃん」
「ああ、アスか」肺の病なのか、発せられる声には力が無かった。「よく来てくれた、と思ったらまだ昼前じゃないか。学校はどうした?」
「?今日は休日だよ」
「あ……あぁ、済まん。入院していると、どうも感覚が無くてな」
個室には患者に気兼ねなく休養してもらうためか、カレンダーの類は一切貼られていなかった。祖父が勘違いするのも無理は無い。
「でも、宿題が一杯出ているんだ。帰ったら頑張ってやらないと、明日廊下に立たされちゃうよ」
僕がそうボヤくと、老人は慣れない様子で柔和な笑みを浮かべた。
「はは、学業は何時の時代も大変な物だ。しかしアスは賢いんだろう?あいつがこの間ここに来て自慢していたぞ」
「父さんが?そんな……確かにこの前のテストは一番だったけど、あれは本当にまぐれで……」
予想外の賞賛に、幼い僕はもじもじ。と、不意にパッ!顔を上げる。
「ねえ、ラベルグ伯父さんはどうだったの?ちゃんと学校に行ってた?テストの成績は?」
ははは、マスクの下で笑う祖父。
「あいつか、そうだな……成績は良かったが、生憎お前みたいに真面目ではなかったな。よく授業をサボって泳いでいた」
「僕も泳ぐの大好きだよ!そっかぁ、伯父さんって頭も良かったんだぁ……」
両頬に手を当て、心底尊敬の声を漏らした次の瞬間、又もや場面が変わる。
『―――アスは本当にラベルグ兄さんそっくりだな。愛想のある所以外は』
たっぷり脂肪の付いた膝上に乗せられ、僕等は父の子供時代のアルバムを眺めていた。
昔からぽちゃっとした弟と対照的な、筋肉質で背の高い少年。その面差しは、毎朝鏡で見る顔と瓜二つで。
『父さん。二人の時は伯父さんの名前で呼んでもいいんだよ?』
若くして海に還ってしまった彼を、父は今でもずっと愛していた。このアルバムだって寝室の机、秘密の抽斗に大切に仕舞われた宝物だ。
『それは流石に止めておこう。―――アス。兄さんの事、皆には内緒にな』
過去の記憶から戻って来た僕は、父以外と尊敬する伯父の話が出来る唯一の人物に満面の笑みを向けた。
「衛兵さんが中等部に上がったら、アルバイトしに来ないかって誘ってくれているんだ!だからそれまでにもっと泳ぎを上手くなって、伯父さんみたいな立派な衛兵になる!」
しっかり者の僕にしては無邪気な夢に、祖父は片眉を上げた。
「会社の社長は嫌いか?」
「ううん。貿易の仕事も面白そうだと思うよ。どっちもやれたら最高なんだけど」
「……お前なら案外やりこなせるかもしれないな」
「でも社長って、沢山勉強しないとなれないよね?父さんも大学でケイエイガク?を取ったんでしょ?」
「賢いアスなら簡単さ、大丈夫」
ふと彼は顎に手をやり、窓の外に広がる街並みへ目をやった。しばらく後、ぽつりと呟く。
「―――なあ、アス。もし衛兵になったら、儂にこの街を案内してくれるか?今まで仕事で殆ど寄り付かんかったが……お前と歩けば、遅ればせながら好きになれそうな気がする」
「いいよ!じゃあそれまでに病気治してねお爺ちゃん!約束!!」
そう言って、孫は徐に右手を差し出す。
「期限は一年だよ」「ああ、頑張る」
こつん、こつん。大小の拳を突き合わせ、僕等は男の約束を交わした。
拳を離すとガラガラガラ……入口のドアが控えめに開かれた。
「あ、小母さん!」「あら、アス坊ちゃま。私お邪魔だったかしら、大旦那様?」
繋がった指を放し、い、いや……、祖父はまるで悪戯がバレた子供のように、耳まで真っ赤にしてどもる。
五十代の女性は左脚が不自由らしく、松葉杖を突きながら室内へ入って来た。僕が素早く横から支え、先程まで座っていた椅子へ導く。
「ありがとうございます、坊ちゃま。よいしょっと」
彼女は僕の、そして父の乳母だった人だ。昔、とある事故で脚の神経を切ってしまい、現在は資産家の夫と別の星で暮らしている。それでも時々夫婦で街を訪れ、僕達一家の様子を見に来てくれる―――と言った記憶が流れ込んで来る。
杖の反対の手に持っていた花籠を受け取り、僕はベッドのサイドテーブルへ置いた。
「綺麗だね、お爺ちゃん」
「ああ、そうだな。ありがとう」
「最初は果物にしようと思ったのだけど、旦那様に訊いたら食事制限していると仰っていたから。具合は如何です?」
「まあまあだ。来月手術をして、上手く行けば人工呼吸器無しで退院出来るらしい」
「なら良かった!ところで坊ちゃま、さっきは二人で何の約束を?」
特に隠す必要も無い。説明すると、乳母はパッと一層の笑顔を浮かべた。表情豊かな人だ。
「それじゃあ大旦那様、頑張って早く治さないといけませんね」
「そうなるな」
痛むのか脚を擦りつつ、彼女は窓から外の街を見やる。
「見晴らしのいい部屋ですね。ここからなら良く見えそう」
「?何がだ?」
「花火ですよ花火。いつもあの教会の裏から上げているんです、不定期で。次は何時でしたっけ、坊ちゃま?」
「来年の七月だよ」
「おい、儂はそんなに長く居つく気は無いぞ!」顔を背け、「……こんな狭苦しい部屋より、家の庭で観賞した方がいいに決まっておる」
「あら、それもそうですね。ふふ」
子供心に不思議に思ったものだ。屋敷を離れて久しいのに、乳母は何故気軽に『あんな』悲惨な事故の起きた元職場を訪れられるのだろう、と。
(『あんな』事故?それって……どんなだ?)
「わざわざこんな老いぼれの顔を見に来てくれて感謝する」顎をしゃくり、「アス、丁度良い練習相手だ。船着場まで送ってやりなさい」
意外な提案に、先に反応したのは彼女だった。
「大旦那様にしては気が利いていますね、―――ふふ。じゃあお願いしてもいいかしら、小さな衛兵さん?」
「勿論だよ、小母さん」
乳母が立ち上がるのに手を貸す。そして病室の入口まで歩いた僕等は、振り返って病床の祖父へ別れを告げた。
「では失礼します。大旦那様、お元気で」「お爺ちゃん、またね!」「ああ……二人共、気を付けてな」




