45章 忌まれし種
「あなたは、本当に……誰、なんですか?」未だ意識を取り戻さない前髪を、そっと手で梳きながら問う。
聖族は外に待たせた従者に説明してから連れ帰ると言い残し、先程部屋を出て行った。こうして傍にいられるのも、あと精々十数分だろう。
白いシーツに包まれた胸が小さく上下するのを見、自然に安堵の息が漏れた。こんな不思議な気持ちは初めてだ。
何時の間にか僕の視線は、その柔らかそうな唇へ移動していた。
―――キス、したい。「っ!!?」
な、何を考えているんだ僕は!?彼女にとってはファーストキスかもしれないのに、それを寝ている間に奪うなんて……!あぁ、でも……きっとこの唇は、花の蜜よりも甘いに違いない。怪物達とは逆に幸福な、天にも昇る気持ちになって……!
ドキドキドキドキ、心臓が高鳴る。
どうする?きっと、これが最後のチャンスだ。大体この人が悪いんだ。敵の只中で無防備に気絶なんてするから―――!
「し、失礼します……」
そっと顎に手を添え、自身の唇を窄める。が、
コンコン。「!!?は、はい!」「儂だ。少しいいか?」「父さん!?」
何て間の悪い……しまった!父はこのマリアが人違いだと知らない。寝起きに見知らぬ肥満中年からあれこれ言われても、彼女を悪戯に困らせてしまうだけだ。
「待って。僕が出て行くから」
ドアを開けると、邪魔者は何故か満面の笑顔だった。ぽっちゃりした手を僕の肩に置く。
「―――もう大丈夫だからな、アス」
「え?」
「何も心配しなくていい。全部儂に任せておくんだ」
訳が分からない。
「と、父さん??」
父はそれだけ言い残し、さっさと隣にある自室に入っていってしまった。
どう言う事だ?てっきり呪いの件で来たのかと思ったのに、肩透かしを食らった気分だ。
と、その時、不意に耐えがたい眩暈に襲われた。
「うっ……!」
よろめきながら通路の角に崩れ落ちる。
―――あれこそ完全機構。
―――何としても取り込むのだ。
―――永久なる円環に必要不可欠な、
―――全ては我々が存在し続けるために。
これは、『蛇』の声?今までこんな物、一度も聞こえなかったのに……一体、何に反応しているんだ?
―――あの精巧なる黒き結晶。
―――永遠の生命を約束する証。
永遠?そんな物、こいつ等には必要無い。人に散々寄生しておいて、この上何を望むと言うんだ!?
意識の上ではほんの数秒だが、実際はもっと経っていたようだ。彼女の部屋のドアが開き、よろけつつ慌てて確認に向かう。ベッドは凹みを残し、もぬけの殻だった。直後、隣から重い物が落ちる音。
「―――!!?」
駆け付けた父の部屋の目前。信じられない光景に、思わず足が竦んでしまった。
「姿が見えないから、ずっと心配していたのよ。あいつは一緒じゃないの?」
新調したばかりの蒲公英色のドレスを斜めに走る―――鮮血。そして姉の足元には、ついさっきまで元気だった父が苦悶の表情で倒れている。ピクリとも動かず、呼吸も……して、いなかった。
「父さ――――っ!!!?」
繁殖する『蛇達』ごと、心臓が口から飛び出すかと思った。肉親の隣で倒れるあの人は、先程までと違い明らかな緊急事態を迎えていた。
「どうして、姉さん!!?」
ほっそりしたウエストに、柄まで突き刺さる包丁。傷口の周りから、じわじわと赤い物が滲んで布地へと広がっていく。
「彼女は違うんだよ、マリアじゃないんだ!それぐらい見れば分かるだろう!?マリアはこんな大人しい人じゃないし、危険だと分かっている場所にのこのこ現れたりしない!この人は無関係……ではないかもしれないけど、少なくとも僕等に危害を加えるために来たんじゃないよ!!!」
こんな大声で訴え掛けたのは生まれて初めてだ。けれど、不思議と恐怖は無かった。何故なら今、この人を守れるのは僕しかいないのだから!!
弟の突然の豹変に、『雌蛇』は意外そうに瞳孔を細めた。
「驚いたわ。アスがそんなに肩を持つなんて、一体どうしたの?」
そう言いつつ、掌で真っ二つに折れた小型機械を見せる。
「盗聴器よ。これでもまだ敵じゃないと言い切れる?」
「そんなの、誰かにこっそり付けさせられていただけかもしれない」
自分で言ってて何だが、かなり苦しい言い訳だ。
「なら、姉さんはどう考えているんだ?」
「簡単な事。この子は何処かの法機関のスパイなのよ、自覚があるかどうかは別としてね。この不愉快な格好でパーティーに潜入して、『御蛇』の事を探ろうとしていたの。御丁寧に変身の魔術まで使ってね」
「変身?」
「整形だってこんなには上手く化けられないわ。ほら、ここ」
薄い胸の前を開け、ほの白い肌に描かれた紋様を示す。
「術者は相当高い魔力の持ち主だわ。こんな高度な魔術を、安定して作用し続けられる程の」苛立たしげに舌を打つ。「聖族?でも変ね。連中はここに腐る程いるのに」
「考えるのは後だろ!早く病院へ連れていかないと!!」
傍らへ屈み込み、脈を取ろうと細い手首を掴む。冷たい。顔面も蒼白のまま、全く同じ間隔で呼吸をし続けて―――え?
「ね、姉さん。彼女、変だ……これだけの怪我を負っているのに、全然呼吸が乱れていない。脈も」かなり少ないが平常だ。
「単に眠っているから……ではなさそうね」
自らが与えた傷を顧みカッ!蛇眼を見開く。
「嘘……出血が、止まっている……?まさか!!」
叫んだ姉は伸ばした爪を真っ白な手の甲に押し当て、力任せに引っ掻いた。
「姉さん!?」
プシュッ!血が飛び散り、見る見る内に皮膚が赤く染まっていく。だが、『雌蛇』がハンカチで拭き取ると、後には染み一つ無い綺麗な肌に戻った。
「やっぱり!この再生力、本物の不死族だわ……!!」
叫ぶなり鼻息荒く立ち上がる。
「アス、こいつを背負って!誰かに見つかる前に地下へ隠さないと!!」
「姉さん!?」
愛しい人を巻き添えにしたくない一心で、首を横に強く振る。
「もういい加減にしてよ!彼女の正体が何であろうと、誘拐していい筈が無いだろう!?」
「何言ってるの!?こいつを使えば、『蛇達』は永遠に死ななくて済むのよ?そうすればあなたの負担だってずっと減る。―――そのための邪魔者は、仮令聖族政府だろうと滅ぼすわ。私達の理想郷のために」
「シスターにそう吹き込まれたのか?姉さん、あいつは御使いでも何でもない!ただの悪魔だ!あんな奴の甘言に騙されては駄目だ!!」
肩を掴んで蛮行を止めようとすると、逆に異常な力で握られた。指が苦痛の無いまま手首に食い込み、血が滲み出す。
『蛇』の黄色の瞳が、僕をねっとりと睨め付ける。その奥の光の無い、虚ろな闇が。
「ど、う、し、て―――いつもいつも、そうやって私から離れようとするの!!?」「っぁ……」
声が、出ない。蛇眼が身体の自由を奪い、視線を外す事すら不可能だ。
「あなたが好きになるのは、いつもいつも私じゃない物ばかり!どうしたらその悪い癖を止めてくれるの?何時になったら永遠の愛を誓ってくれるの?ウェディングドレスを着て、皆から祝福されて、赤ちゃんだって生まれて、毎朝おはようのキスを―――!こんなにも毎日毎日必死で願っているのに、どうして叶えてくれないの!?」
ブツッ!指の第一関節が埋まり、静脈が切断された。
「だからね―――アスが心奪われる物は、全て私が壊してあげるわ」
恐ろしい宣言をした人もどきは一転、不安そうな演技を始める。
「ごめんなさいね、無理言って。こいつはあいつに運んでもらうわ。あなたは私達が戻って来るまで、ここで見張っておいて」
嫌だ、嫌だ……出ない声で必死に訴え続ける。
バタン。「はぁっ……!」ドアが閉まり、ようやく金縛りが解けて崩れ落ちる。「!そうだ、早く彼女の手当てを!!」
そちらに目を向けて、吃驚仰天。ぼんやりと開かれた目と、不意打ちで視線が合ったせいだ。
「ぁ……」
海に映る満月のように静かな、触れれば消えてしまいそうな意志の光。神聖過ぎて、こうしてただ見ている事すら赦されない程儚き存在。
「あ、あぁ……!どうか僕を、赦して……!!」
殆ど吐息だけでそう哀願し、僕は振り返りもせずその場から逃げ出した。




