第八話 覚醒する過去
第八話 覚醒する過去
夜の雨は静かだった。
窓ガラスを細く叩き続ける雨音を聞きながら、結衣は自宅マンションの階段を上がっていた。時刻は午前一時過ぎ。コンビニの袋には、冷えた鮭弁当と味噌汁、それに小さなプリンが入っている。
疲れていた。
ここ数日ほとんど寝ていない。
レイン事件。
X。
東條圭介。
頭の中で全てが絡まり合っていた。
鞄から鍵を取り出し、ドアへ差し込む。
その瞬間、結衣は違和感を覚えた。
……開いている。
胸がざわつく。
ゆっくりドアを押す。
部屋は暗かった。
だが、空気が違う。
冷たい。
誰かがいた匂いがする。
「……っ」
電気をつけた瞬間、結衣は息を呑んだ。
部屋が荒らされていた。
本棚は倒れ、衣類は床へ散乱し、引き出しは全て開けられている。ガラスの割れた音が足元で小さく鳴った。
呼吸が浅くなる。
警察学校の教官の声が脳裏をよぎる。
『現場へ入るな。まず確認しろ』
だが身体が動かなかった。
視線が机へ向く。
十年前のレイン事件資料。
それだけが消えていた。
「……なんで」
その時だった。
壁に貼られた一枚の紙が目に入る。
黒いマジックで書かれた文字。
『次は、千影だ』
全身の血が冷えた。
結衣は震える手で携帯を掴んだ。
「主任……!」
三十分後。
千影は結衣の部屋へ来た。
黒いレインコートは雨で濡れ、髪から水滴が落ちている。だがその目は異様なほど静かだった。
部屋を一瞥する。
「荒らされたのは資料だけか」
「はい……」
結衣は毛布を羽織っていた。指先が震えて止まらない。
「犯人、まだ近くにいるかもしれません」
「もういない」
千影は壁のメッセージを見る。
数秒。
沈黙。
その空気が妙に怖かった。
「主任……?」
千影は答えない。
ただ紙を剥がし、じっと見つめている。
「これ、どういう意味なんですか」
「警告だ」
低い声だった。
「俺に対するな」
「誰がこんなこと……」
「分かってる」
結衣は息を呑む。
千影の目が変わっていた。
静かすぎる。
まるで感情を押し殺しているみたいに。
「主任、まさか単独で――」
「お前は帰れ」
「え?」
「今夜のことは忘れろ」
「そんなわけ――」
「白石」
その声に、結衣は凍った。
怒鳴っていない。
だが恐ろしいほど冷たい。
「これ以上関わるな」
「主任!」
千影はもう聞いていなかった。
そのまま部屋を出ていく。
閉まったドアがやけに重い音を立てた。
翌朝。
特命室の空気は最悪だった。
槙原は煙草を灰皿へ押し付けながら舌打ちする。
「千影は?」
「連絡つきません」
結衣は疲れた顔で答えた。
「スマホも切ってます」
「チッ……嫌な予感しかしねえな」
窓の外は朝から雨だった。
灰色の空。
冷えた風。
結衣は昨夜の千影の目を思い出していた。
あれは刑事の目じゃない。
もっと危ういものだった。
その時。
久遠が特命室へ飛び込んできた。
「千影どこだ!」
「いません」
「まずいぞ」
久遠は息を切らしていた。
「アイツ、一人で動いてる」
「何を知ってるんですか」
「東條が使ってたアジトを見つけたらしい」
槙原の顔色が変わる。
「場所は」
「湾岸倉庫街」
結衣は立ち上がった。
「行きます」
「待て白石」
「待ってたら主任、戻ってきません」
槙原は苦い顔をした。
数秒後、小さく舌打ちする。
「……クソ。行くぞ」
湾岸倉庫街は冷たい海風が吹いていた。
巨大なコンテナ。クレーン。人気のない道路。空には低い雲が垂れ込め、潮と油の臭いが漂う。
雨はさらに強くなっていた。
「いた!」
結衣が叫ぶ。
古い倉庫の前に、千影の車が停まっている。
槙原が顔をしかめた。
「令状もなしに突っ込みやがったな……」
倉庫の中は暗かった。
鉄と埃の匂い。
どこかで水滴が落ちる音。
「主任!」
返事はない。
奥へ進む。
その時。
鈍い音が響いた。
ドゴッ。
「っ!」
結衣たちは走った。
倉庫奥。
そこには男を床へ押さえつける千影の姿があった。
男の顔は血だらけだった。
「喋れ」
千影の声は低い。
「東條はどこだ」
「知らねえって……!」
男が呻く。
千影はさらに胸ぐらを掴み上げた。
「嘘つくな!」
「主任!」
結衣が叫ぶ。
だが千影は止まらない。
目が完全に変わっていた。
怒り。
憎しみ。
十年間積み上がった何か。
「主任、やめてください!」
「どけ白石!」
その声に、結衣は本能的な恐怖を覚えた。
この人は今、本当に壊れかけている。
刑事じゃない。
復讐者だ。
「主任……」
結衣の声が震える。
千影はそこで初めて我に返ったように動きを止めた。
荒い呼吸。
濡れた髪。
拳から滴る血。
倉庫の静寂。
遠くで雷が鳴る。
千影はゆっくり手を離した。
男は床へ崩れ落ち、咳き込む。
「……帰るぞ」
掠れた声だった。
帰りの車内。
誰も喋らなかった。
ワイパーの音だけが響く。
結衣は窓の外を見ていた。
東京の光が雨に滲んでいる。
その時、不意に千影が言った。
「悪かった」
結衣は驚いて顔を上げた。
千影は前を向いたままだ。
「……主任」
「分からなくなる時がある」
低い声。
「正義なのか、怒りなのか」
結衣は何も言えなかった。
ただ怖かった。
この人が。
そして、自分もいつか同じ場所へ行ってしまう気がして。




