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第七話 ゴースト・マネー

第七話 ゴースト・マネー


 東京の夜は、時々、底なし沼みたいな顔をする。


 ネオンは派手なのに、光が届かない場所がある。歌舞伎町の裏路地。雑居ビルの非常階段。誰にも見つからないSNSの募集画面。


 そして、人間の心の奥。


 午前零時。


 新宿区大久保。


 古びた雑居ビルの屋上には、生暖かい風が吹いていた。雨は止んでいたが、空気は湿っていて、遠くのネオンが霞んで見える。


 結衣は規制線をくぐった瞬間、思わず顔をしかめた。


 血の匂いだった。


 鉄みたいな、生暖かい臭気。


 遺体はフェンス際に倒れていた。


 二十代後半の男。ブランド物のパーカーに高価そうなスニーカー。首には太いネックレス。だが顔は原形を留めないほど殴打されていた。


「被害者は三浦翔太。闇バイトグループの幹部です」


 若い刑事が説明する。


「特殊詐欺、強盗、口座売買。かなり悪質でした」


 千影は無言で遺体を見下ろしていた。


 黒いコートの裾が夜風に揺れる。


「財布もスマホも残ってる。怨恨か」


 結衣が呟く。


 その時だった。


 鑑識が声を上げる。


「主任、これ……!」


 ビニール袋に入った一枚のカード。


 白地に青い鳥のロゴ。


【一般社団法人 レイン・ホープ基金】


 結衣は眉をひそめた。


「慈善団体?」


「聞いたことねえな」


 槙原が低く言う。


 カードの裏には小さく文章が印字されていた。


『救われなかった人へ、もう一度居場所を』


 風が吹く。


 その文面が妙に気味悪く感じた。


 翌朝。


 特命室にはカップ麺の匂いが漂っていた。


 槙原が焼きそばを啜りながら資料を読んでいる。結衣はコンビニで買った卵サンドを齧っていたが、半分も食べられなかった。


「この基金、設立五年前ですね」


 パソコン画面を見ながら結衣が言う。


「被害者支援団体として登録されてます」


「資金源は?」


「匿名寄付がほとんどです。でも妙なんです」


 画面をスクロールする。


「十年前のレイン事件遺族に、多額の支援をしてる」


 千影の目が細くなる。


「いくらだ」


「人によって違いますけど、多い人は月五十万以上」


 槙原が顔をしかめた。


「慈善事業にしちゃ金回りが良すぎるな」


「しかも受給者、全員“警察に恨み”を持ってます」


 結衣は資料を読む。


 捜査ミス。


 不起訴。


 証拠不十分。


 守られなかった被害者たち。


 そこへ現れた慈善団体。


 まるで壊れた人間を集めるみたいに。


「……宗教みたいですね」


 結衣が呟く。


 千影は煙草へ火をつけた。


「いや」


 煙を吐く。


「もっと危ない」


 午後。


 三人は基金の事務所へ向かった。


 場所は中野区の古いビルだった。


 外壁は剥がれ、階段には湿気とカビの臭いがこもっている。だが三階の事務所だけは妙に綺麗だった。


 白い壁。


 木製デスク。


 アロマの甘い香り。


 穏やかなピアノ曲。


 まるで“安心”を演出している空間。


 受付にいた女性が微笑む。


「本日はどういったご用件でしょう」


「警視庁です」


 結衣が手帳を見せると、女の笑顔が少しだけ固まった。


「代表にお繋ぎします」


 通された部屋には、一人の男がいた。


 三十代後半。


 細身のスーツ。柔らかい笑顔。眼鏡。


「どうも。代表の真壁です」


 声が穏やかすぎた。


 結衣は逆に警戒する。


「レイン・ホープ基金は何を目的としてるんですか」


「被害者支援ですよ」


 真壁は紅茶を淹れながら答える。


 部屋にはベルガモットの香りが広がった。


「社会から見捨てられた人間を助ける。それだけです」


「かなり高額な支援をしてますね」


「困ってる人が多いので」


 真壁は微笑んだ。


「警察は助けてくれませんから」


 その言葉に空気が冷える。


 千影が静かに口を開く。


「三浦翔太を知ってたか」


「ええ」


「闇バイト幹部だぞ」


「だから?」


 真壁は首を傾げた。


「彼もまた、壊された側の人間です」


 結衣は眉をひそめる。


「詐欺で老人を騙してた男ですよ」


「では聞きます」


 真壁の笑顔が消えた。


「彼をそこまで追い込んだ人間は裁かれましたか?」


 沈黙。


「父親は借金で自殺。母親は失踪。中学から犯罪組織に使われていた。誰が彼を救ったんです?」


「それでも犯罪は犯罪です」


「法はそう言いますね」


 真壁は穏やかに笑った。


「でも法は、壊された人間を元には戻さない」


 結衣は言葉を失った。


 その思想は危険だった。


 だが、完全には否定できない。


 帰り道。


 夕暮れの街は湿った風が吹いていた。


 焼き鳥屋から煙が流れ、タレの甘い匂いが漂う。サラリーマンたちの笑い声。


 普通の東京。


 なのに結衣の胸は重かった。


「主任」


「なんだ」


「あの人の言ってること……少し分かる気がします」


 千影は歩きながら煙草を咥えた。


「分かるのと、呑まれるのは違う」


「……」


「Xも最初は、たぶん同じだった」


 結衣は足を止める。


「え?」


「救えなかった人間を見続けた」


 千影の声は低かった。


「そのうち、“法より自分の方が正しい”と思い始めた」


 風が吹く。


 空は灰色だった。


「それが怪物になる瞬間だ」


 夜。


 特命室。


 結衣は一人で基金の資料を見返していた。


 その時。


 封筒が届く。


 差出人不明。


 中にはUSBメモリ。


 そして一枚の紙。


『あなたは、まだ警察を信じますか?』


 結衣の喉が鳴る。


 恐る恐るUSBを開く。


 映像ファイル。


 再生。


 薄暗い部屋。


 椅子に座る老人。


 涙を流していた。


『警察は……息子を助けてくれなかった……』


 映像が切り替わる。


 別の女。


『犯人は捕まってない』


 また切り替わる。


『誰も責任を取らなかった』


『だから――』


 最後に画面へ映った文字。


『新しい正義が必要だ』


 結衣の背筋が冷えた。


 その瞬間、背後で声がした。


「見るな」


 振り返る。


 千影だった。


 結衣は息を呑む。


「主任……」


 千影は画面を見つめる。


 その目は暗かった。


「Xは、壊れた人間を集めてる」


「救うために?」


「違う」


 千影は静かに言った。


「正義を作るためだ」



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