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第六話 残響の正体(後編)

第六話 残響の正体(後編)


 午前三時。


 新宿の雨は止んでいたが、街にはまだ濡れた夜の匂いが残っていた。


 特命捜査対策室の窓ガラスには水滴が筋を作り、蛍光灯の白い光がぼんやり滲んでいる。古い換気扇が低く唸り、部屋にはインスタントコーヒーと煙草の臭いが混ざっていた。


 結衣は机に積まれた資料をめくりながら目を擦った。


 十年前の新宿レイン連続殺人事件。


 削除された証拠。


 黒塗りの供述書。


 不自然に消えた関係者。


 読み返せば返すほど、事件そのものが“隠されている”ように感じた。


「寝てないだろ」


 千影が缶コーヒーを置いた。


 ブラックだった。


「主任もです」


「慣れてる」


 千影は椅子へ腰を下ろした。黒いシャツの袖をまくった腕には薄い傷跡がいくつも残っている。


 結衣は前から気になっていた。


「その傷……」


「昔のだ」


 それ以上は答えない。


 沈黙。


 遠くでサイレンが聞こえる。


 その時、特命室のドアが乱暴に開いた。


「起きてるか」


 入ってきたのは久遠だった。


 黒いパーカーにレザージャケット。雨に濡れた髪から水滴が落ちている。コンビニ袋を片手にぶら下げていた。


「勝手に入らないでください」


 結衣が睨む。


「警察は夜でも元気だな」


 久遠は飄々と笑い、机へUSBメモリを放った。


「土産だ」


 千影の目が細くなる。


「なんだこれは」


「十年前の内部資料」


 部屋の空気が止まった。


 槙原がソファから起き上がる。


「どこで手に入れた」


「聞かない方がいい」


 久遠はコンビニ袋から肉まんを取り出した。湯気と甘い生地の匂いが広がる。


「食うか?」


「いらん」


「警戒しすぎだろ、刑事さん」


 千影は無言でUSBをパソコンへ差し込んだ。


 画面に表示された瞬間、結衣は息を呑む。


 そこには、


【新宿レイン事件 特別捜査資料】


の文字。


 さらに開く。


 捜査報告。


 監察記録。


 削除指示書。


 そして。


『証拠品一部差替済』


 結衣の顔色が変わる。


「……差し替え?」


「証拠改ざんだよ」


 久遠が低く言った。


「警察は犯人を隠した」


 槙原の拳が震える。


「誰をだ」


 久遠は千影を見た。


「お前、本当に気づいてなかったのか」


 千影は黙っている。


 だが目だけが鋭くなっていた。


「十年前、捜査本部は途中から妙に静かになった。マスコミ対応も急に変わった。現場資料も次々消えた」


 久遠は続ける。


「理由は簡単だ。犯人候補の中に“警察関係者”がいたから」


 結衣の喉が鳴る。


「そんな……」


「警察は身内を守ったんだよ」


 久遠の声は冷たかった。


「その結果、事件は未解決になった」


 千影がゆっくり立ち上がった。


「誰だ」


「まだ名前はない」


「ふざけるな」


 低い怒声だった。


 結衣は初めて見る。


 千影が感情を露わにするところを。


「お前、何を知ってる」


「全部じゃない」


 久遠は真顔になった。


「でも一つだけ確かなのは、レイン事件は外部犯じゃ終わらないってことだ」


 その時だった。


 パソコン画面に新しいファイルが表示される。


 タイトルは、


【特秘・S案件】


 千影がクリックする。


 そこには十年前の写真が並んでいた。


 雨の現場。


 遺体。


 祈るように組まれた手。


 そして最後のページ。


 監察官による報告書。


『東條圭介刑事、独断捜査傾向あり。内部情報漏洩の可能性』


 結衣の呼吸が止まる。


「東條……」


 千影の元相棒。


 十年前に死亡した刑事。


「主任……これ」


 千影は画面を見つめたまま動かない。


 目だけが揺れている。


 久遠が静かに言った。


「東條は犯人を追い詰めた」


「……」


「だから消された」


「違う」


 千影が低く言った。


「東條はそんな人間じゃない」


「じゃあなんで資料が消えた?」


 久遠の声が鋭くなる。


「なんで警察は十年間黙ってた?」


 千影は答えられない。


 沈黙。


 重たい空気。


 結衣は見ていた。


 千影の手が小さく震えている。


 その夜。


 三人は十年前の旧捜査資料保管庫へ向かった。


 地下倉庫は湿気臭かった。古い紙とカビの匂い。裸電球の薄暗い光。


 棚には大量の段ボールが積まれている。


「レイン事件資料はこの辺りのはずだ」


 槙原が呟く。


 結衣は埃を払いながら箱を開けた。


 その瞬間。


「……主任」


 一冊のノート。


 古びた黒い手帳だった。


 千影がそれを見た途端、顔色が変わる。


「東條の……」


 震える声。


 手帳を開く。


 中には走り書きの文字。


『犯人は一人じゃない』


『警察内部に協力者』


『監察が動いてる』


 ページをめくる千影の指先が止まる。


 最後のページ。


 そこには血が滲んだような文字で書かれていた。


『千影を巻き込むな』


 その瞬間、倉庫の電気が消えた。


 真っ暗闇。


「っ!」


 結衣が息を呑む。


 どこかで足音がした。


 ギシ、と古い床が軋む。


「誰だ!」


 千影が叫ぶ。


 返事はない。


 次の瞬間、棚の奥から何かが投げ込まれた。


 ガシャン!


 結衣が悲鳴を上げる。


 床へ転がったのは古い携帯電話だった。


 画面だけが青白く光っている。


 着信。


 非通知。


 千影がゆっくり拾い上げる。


「……もしもし」


 ノイズ。


 雨音。


 そして低い男の声。


『まだ追うのか』


 千影の呼吸が止まる。


「……東條?」


 数秒の沈黙。


 やがて声が笑った。


『気づくのが遅すぎたな、千影』


 通話が切れる。


 倉庫には静寂だけが残った。


 結衣は凍りついたまま立ち尽くす。


 千影は携帯を握り締めていた。


 その目に宿っていたのは、恐怖だった。


「主任……今の」


 千影はゆっくり呟く。


「Xは外部の敵じゃない」


 裸電球が揺れる。


 暗闇の中で、千影の声だけが低く響いた。


「警察そのものだ」



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