第五話 複製された悪意(前編)
第五話 複製された悪意(前編)
雨だった。
東京を叩く夜の雨は、まるで古い記憶を掘り返すみたいに冷たかった。
深夜一時。新宿区歌舞伎町。
赤と青のパトランプが濡れたアスファルトに滲み、雑居ビルの谷間をサイレンが反響している。雨水に混じって流れる血の匂い。煙草。酒。排水溝の生臭さ。
結衣はトレンチコートの襟を握りながら、規制線をくぐった。
「主任」
先を歩く千影は返事をしなかった。
黒いコートが雨に濡れている。
だが傘を差そうともしない。
その背中には妙な緊張があった。
現場は古びた雑居ビルの地下だった。
薄暗いバー。
営業前だったのか、店内にはジャズが小さく流れている。アルコールと古い木材の匂いが混ざり、空気が重い。
そして。
カウンターの前に男の死体があった。
五十代半ば。
白シャツは胸元まで赤黒く染まり、両手は胸の前で組まれている。
祈るように。
結衣の喉が凍った。
「……これ」
千影が立ち止まる。
その瞬間、空気が変わった。
鑑識が低い声で言った。
「十年前の新宿レイン連続殺人事件と完全一致です」
店内の時計の音だけが響く。
千影はゆっくり死体へ近づいた。
しゃがみ込み、震える指先で被害者の右手を見る。
薬指に古い傷痕。
その瞬間、千影の目が揺れた。
「主任?」
「……杉本」
掠れた声だった。
「知り合いですか」
「昔の捜査対象だ」
千影は立ち上がる。
顔色が明らかに悪かった。
槙原が近づいてくる。
「まさか……」
「間違いない」
千影の声は低かった。
「レイン事件だ」
結衣の背筋に冷たいものが走る。
十年前。
東京を震撼させた未解決事件。
雨の日だけ現れる連続殺人犯。
被害者は全員、“社会的弱者を食い物にした人間”。
そして全員、死後に祈る形へ整えられていた。
結衣は遺体を見た。
閉じかけた瞼。
苦悶よりも、どこか諦めたような顔。
まるで裁かれることを受け入れていたみたいに。
「被害者の身辺は?」
「元不動産会社役員です」
若い刑事が資料をめくる。
「十年前、地上げ絡みで違法融資や暴力団との関係を疑われてました。ただ証拠不十分で不起訴」
千影は黙っていた。
だがその目は遠くを見ていた。
まるで別の雨を見ているように。
特命室へ戻った頃には明け方になっていた。
湿ったコートを脱いだ結衣は、冷蔵庫から紙パックの牛乳を取り出した。胃が気持ち悪い。
槙原はカップ焼きそばへ湯を注ぎながら唸る。
「最悪のタイミングだな……」
「どういう意味です?」
「上が揉み消したがってた事件だ」
槙原はソースを混ぜながら言った。
「未解決のまま終わったせいで、当時の警察はボロクソ叩かれた」
ソースの濃い匂いが部屋へ広がる。
だが誰も食欲がなさそうだった。
千影だけは窓際で煙草を吸っている。
煙が白く漂う。
「主任」
結衣が声をかける。
「レイン事件って、本当はどんな事件だったんですか」
千影はしばらく黙っていた。
やがて低く言う。
「……地獄だった」
その声に、結衣は息を呑んだ。
「毎回雨の日だった。現場には必ずクラシック音楽が流れてた」
「クラシック?」
「ショパンの“雨だれ”」
千影の目が暗く沈む。
「被害者は皆、金や権力で人を潰してきた連中だった。でも証拠がなくて裁けなかった」
「じゃあ犯人は……」
「正義のつもりだったんだろうな」
その時。
千影の携帯が鳴った。
画面を見た瞬間、彼の顔が変わる。
「……なんだと」
電話を切る。
「第二の現場だ」
雨はさらに強くなっていた。
次の現場は新宿中央公園近くの高架下だった。
赤色灯。
ブルーシート。
ざわめく刑事たち。
結衣は走りながら息を切らす。
「またですか……!」
だが千影は急に立ち止まった。
その視線の先。
血の海。
祈るように組まれた手。
そして。
壁に血文字が残されていた。
『警察は、また見殺しにするのか』
結衣の呼吸が止まる。
千影の顔色が一気に失われた。
「主任……?」
その瞬間だった。
千影の脳裏に、十年前の光景が蘇る。
豪雨。
サイレン。
血。
若い刑事の怒鳴り声。
『千影! 伏せろ!』
銃声。
相棒だった東條圭介が崩れ落ちる。
白シャツが赤く染まる。
雨水が血を流していく。
東條は震える手で千影の腕を掴んだ。
『この事件は……警察が殺した……』
そこで記憶は途切れる。
「主任!」
結衣の声で現実へ戻った。
千影は息を荒くしていた。
額に汗が滲んでいる。
「大丈夫ですか」
「……問題ない」
だが声が震えていた。
槙原が静かに近づく。
「東條のこと、思い出したか」
千影は答えない。
ただ血文字を見つめている。
雨がコンクリートを叩く音だけが響いていた。
深夜。
特命室。
結衣は一人、資料を読み返していた。
十年前の捜査記録。
削除されたページ。
黒塗りされた名前。
不自然な空白。
「なんで……」
その時だった。
背後で声がした。
「その事件、深入りしない方がいいよ」
振り返る。
知らない男が立っていた。
三十代前半。
黒いパーカーに革ジャン。無精髭。鋭い目。
「誰ですか」
「久遠駿。記者」
男は笑った。
「警察の腐った腹の中を覗いて飯食ってる」
結衣は警戒した。
「勝手に入らないでください」
「忠告しに来たんだ」
久遠は机の資料へ視線を落とす。
「レイン事件はな、“犯人探し”じゃない」
「……」
「誰が怪物を作ったかの話だ」
その言葉を残し、久遠は去っていった。
窓の外では、雨が降り続いていた。
十年前と同じように。




