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第四話 灰色の告発

第四話 灰色の告発


 雨は降っていなかった。


 だが空気は湿っていて、春先特有の重たい曇り空が東京を覆っていた。警視庁の地下駐車場へ降りると、コンクリートに染みついた排気ガスの臭いが鼻につく。


 結衣は缶のカフェラテを両手で包みながら、小走りで車へ向かった。


「遅い」


 助手席のドアを開けた瞬間、千影が言った。


「すみません。売店混んでて」


「朝飯は」


「メロンパン半分」


「高校生か」


 千影は呆れたように煙草を咥えた。


 今日は珍しく黒のジャケットではなく、濃いグレーのスプリングコートを着ていた。疲れた目だけが相変わらず冷たい。


「現場、どこです?」


「葛飾」


 エンジンがかかる。


 カーラジオから古いニュースが流れていた。


『昨夜、葛飾区の河川敷で男性遺体が発見され――』


 被害者の名前を聞いた瞬間、後部座席の槙原が黙った。


「……坂下か」


 その声は妙に低かった。


 結衣は資料を開く。


 坂下隆一、六十三歳。


 二十年前、強盗殺人事件で無期懲役判決を受けた男。


 三日前に仮釈放されたばかりだった。


「室長、知ってるんですか」


 槙原はしばらく答えなかった。


 窓の外を流れる灰色の街を見つめている。


「俺が逮捕した」


 河川敷には冷たい風が吹いていた。


 枯れた草が揺れ、遠くで電車の走行音が響いている。ブルーシートの向こうから、血と泥の混じった生臭い匂いが漂った。


 坂下の遺体は仰向けに倒れていた。


 安物のジャンパー。擦り切れたスニーカー。白髪交じりの髪には泥がこびりついている。


 胸には深い刺し傷。


「抵抗した跡が少ないですね」


 結衣が手袋を嵌めながら言った。


「知り合いか、不意打ちか」


 千影は遺体の顔を見下ろした。


 坂下の目は開いたままだった。


 驚いたような顔。


 まるで最後まで理解できなかったみたいに。


「出所後の足取りは」


「安アパートと職安だけです」


 若い刑事が資料を渡す。


「誰とも接触してない」


 その時だった。


 槙原が遺体の近くで立ち止まったまま動かなくなった。


 風に混じって、川の匂いがする。


「室長?」


 結衣が声をかけると、槙原は小さく呟いた。


「……お前、本当にやってなかったのか」


 その夜。


 特命室の空気は重かった。


 槙原は珍しく酒を飲んでいた。机の上にはコンビニの焼き鳥と缶ビール。タレの甘い匂いが部屋に漂っている。


 結衣は二十年前の事件資料を読み返していた。


 被害者は質屋店主夫婦。


 閉店後、店へ押し入った強盗犯に殺害された。


 逮捕されたのが坂下。


 決め手は自白だった。


「……変ですね」


 結衣が呟いた。


「なにがだ」


 千影が煙草を灰皿に押し付ける。


「自白内容です。凶器を左手で持ったって供述してる。でも坂下は右利きです」


 槙原の動きが止まった。


 部屋が静まり返る。


「当時、それ指摘されなかったんですか」


「された」


 槙原が低く言った。


「でも“些細な誤差”で片付けられた」


 結衣は顔を上げた。


「室長、まさか……」


「俺も若かった」


 槙原はビールを飲み干した。


「上から急げ急げ言われてた。世間も騒いでた。早く犯人を出せってな」


 その声は苦かった。


「坂下は何十時間も取り調べ受けてた。最後にはもう、何聞かれても“はい”しか言わなかった」


 結衣の胸が冷える。


「それでも逮捕したんですか」


「……ああ」


 沈黙。


 蛍光灯の低い唸りだけが聞こえる。


 千影は静かに槙原を見ていた。


「で、本当はどう思ってた」


 槙原は笑った。


 酷く疲れた顔だった。


「ずっと、間違ってた気がしてたよ」


 翌日。


 再捜査を申請した特命室に、捜査一課長は露骨に顔をしかめた。


「二十年前の事件だぞ」


 会議室には煙草と古い書類の匂いがこもっていた。


「今さら蒸し返してどうする」


「冤罪の可能性があります」


 結衣が言うと、課長は鼻で笑った。


「証拠は?」


「当時の供述調書に不自然な点が――」


「十分有罪判決が出てる」


 課長は机を指で叩いた。


「死人が出たのは残念だ。だが終わった事件だ」


 槙原が低く言う。


「終わってねえから、人が死んだんだろ」


「槙原」


 空気が変わった。


 課長の目が鋭くなる。


「お前、自分の過去を掘り返したいのか」


「……」


「警察の信用に関わる問題だ。特命室は手を引け」


 命令だった。


 廊下へ出たあとも、結衣の胸はざわついていた。


「なんなんですか、あれ」


「組織ってのはそういうもんだ」


 槙原は笑った。


 だがその笑いは乾いていた。


「間違いを認めるより、隠した方が楽なんだよ」


 夕方。


 三人は坂下が住んでいたアパートを訪れた。


 六畳一間。


 古い畳。湿気。カップ麺の空き容器。窓際には仮釈放時にもらった生活支援の封筒が置かれている。


 結衣は胸が詰まった。


 二十年刑務所にいて、帰ってきた世界がこれなのか。


 押し入れの奥から、一冊のノートが見つかった。


 坂下の日記だった。


『俺はやっていない』


『誰も信じなかった』


『娘に会いたい』


 ページには震えた文字が並んでいた。


 結衣は唇を噛む。


 千影が最後のページを開いた。


 そこには昨日の日付で、短く書かれていた。


『本当の犯人を見た』


 空気が止まる。


「……生きてたのか」


 千影が呟く。


 その瞬間、槙原が立ち上がった。


「動くぞ」


「でも捜査中止命令が」


「知るか」


 槙原の目は初めて刑事の目をしていた。


「間違ったまま終われるか」


 外へ出ると、夜風が冷たかった。


 遠くでパトカーのサイレンが鳴っている。


 結衣は槙原の背中を見る。


 この人はずっと、二十年間、自分を責め続けていたのかもしれない。


 千影が煙草に火をつけた。


「白石」


「はい」


「ここから先は、たぶん上も敵になる」


「……」


「怖いか」


 結衣は少しだけ考えた。


 それから静かに言う。


「でも、知らないふりはしたくありません」


 千影は小さく笑った。


 本当に微かに。


「刑事らしくなってきたな」


 夜の東京を風が吹き抜ける。


 その風は、どこか冷たかった。



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