第三話 歪んだ聖域
第三話 歪んだ聖域
現場へ向かう車内には、微かに缶コーヒーの甘い匂いが残っていた。
朝六時。空はまだ白みきっておらず、東京の街は濡れた鉛のような色をしている。昨夜から降り続いた雨が止み、高級住宅街の並木道には水滴が静かに垂れていた。
助手席の結衣は、コンビニで買ったハムチーズサンドを膝に置いたまま、一口も食べられずにいた。
「食わないのか」
運転席の千影が前を見たまま言った。
「……なんか、嫌な予感がして」
「刑事の勘か」
「主任だって顔怖いです」
「元からだ」
結衣は少しだけ笑った。
だが胃の奥の重さは消えなかった。
無線から雑音混じりの声が流れる。
『世田谷区成城、一家心中事件。被害者三名、未成年一名生存――』
高級住宅街は異様な静けさに包まれていた。
白い二階建ての邸宅。輸入車。丁寧に刈り込まれた庭木。玄関先には高そうな子ども用自転車が倒れている。
その光景だけで、“幸せな家庭”が演出されていた。
だが規制線の向こうから漂ってくるのは、血と消毒液の混じった匂いだった。
リビングに入った瞬間、結衣は息を呑んだ。
母親と幼い娘がソファにもたれかかるように倒れている。ワイン色の絨毯に黒ずんだ血が広がっていた。
室内にはクラシック音楽がまだ流れている。
穏やかなピアノの旋律。
その音が余計に気味悪かった。
「父親は二階です」
若い刑事が顔を青くしながら言った。
「首吊り自殺」
千影は黙って階段を上がった。
書斎には、スーツ姿の男がネクタイで首を吊っていた。高級そうな腕時計。磨かれた革靴。整えられた白髪。
そして。
男は笑っていた。
口元だけが、不自然に。
結衣は背筋が冷えた。
「……なんですか、これ」
「見ろ」
千影が机を指差した。
そこには家族写真が飾られていた。
笑顔の家族。
父、母、娘、そして長男。
まるでCMのように幸福そうだった。
その時、鑑識が声を上げた。
「生存者、話せるそうです」
長男は別室にいた。
高校一年生。名前は相沢蒼汰。
痩せた身体に灰色のスウェットを着て、毛布を握り締めている。顔色は白く、目の下には濃い隈があった。
暖房が効いているのに震えていた。
結衣は紙コップの温かいココアを差し出した。
「飲める?」
蒼汰は小さく頷いた。
両手で紙コップを包む姿が、幼く見える。
「昨夜、何があったの」
結衣が静かに尋ねると、少年は俯いたまま呟いた。
「父さんが……笑ってた」
「笑ってた?」
「ずっと」
蒼汰の声は掠れていた。
「母さん刺した時も……妹の時も……笑ってた」
部屋の空気が凍る。
結衣は言葉を失った。
「お前はどうして助かった」
千影が低く聞いた。
蒼汰は唇を震わせた。
「……押し入れに隠れてたから」
「怖かったか」
「……はい」
「父親は普段から暴力を?」
その瞬間、蒼汰の肩がびくりと震えた。
「違います!」
叫ぶようだった。
「父さんは立派な人です! 会社でも偉くて……母さんにも優しくて……!」
結衣は違和感を覚えた。
言葉が、用意されすぎている。
まるで誰かに教え込まれたみたいに。
千影はしばらく少年を見つめていた。
やがて静かに聞いた。
「……最後に、お前殴られたのはいつだ」
蒼汰の呼吸が止まった。
結衣も息を呑む。
沈黙。
遠くで救急車のサイレンが聞こえる。
やがて少年は小さく言った。
「……昨日」
「どこを」
「背中」
「理由は」
「妹が泣いたから」
結衣の胸が締め付けられた。
千影は何も言わなかった。
ただ静かに視線を落とす。
その夜、特命室。
雨で湿ったコートを脱ぎながら、結衣はソファに座り込んだ。
「信じられません……」
槙原がカップ麺へ湯を注ぎながら唸る。
「近所の評判は完璧。学校でも理想の父親だったそうだ」
「そんな人が、家族を……」
「外面だけ立派な人間は多い」
千影は資料をめくりながら言った。
「家庭は密室だ。中で何が起きてるか、他人には分からない」
結衣は黙った。
頭の中で蒼汰の震える手が離れない。
「でも、どうして誰も気づかなかったんでしょう」
「気づいてた奴はいたかもしれない」
千影は煙草に火をつけた。
「でも“幸せな家族”を壊したくなかった」
「……」
「人は見たいものしか見ない」
煙草の煙が白く揺れる。
その言葉がやけに重かった。
翌日。
結衣と千影は学校へ聞き込みに向かった。
蒼汰の担任教師は困ったように笑った。
「お父様は熱心な方でした。教育にも厳しくて」
「蒼汰くんの痣については?」
教師の表情が止まる。
「……本人が転んだと」
「信じたんですか」
「家庭のことに学校は……」
結衣は奥歯を噛んだ。
校庭では子どもたちが笑っている。
その声が妙に遠く感じた。
帰り道、千影は自販機でブラックコーヒーを買った。結衣は温かいミルクティーを選ぶ。
缶の熱が冷えた指に沁みた。
「主任」
「なんだ」
「もし、自分の家族だったらどうしますか」
千影はしばらく答えなかった。
冬の終わりの風が吹き抜ける。
「逃げる」
「……」
「家族でも、壊れる場所からは逃げていい」
その声は静かだった。
結衣は初めて思った。
この人もきっと、どこか壊れている。
夜。
児童相談所へ移送される前、蒼汰は警察署のロビーで一人座っていた。
薄いパーカー姿の背中が小さい。
千影は缶のコーンスープを渡した。
「……ありがとうございます」
蒼汰は小さく頭を下げた。
「刑事さん」
「なんだ」
「俺、ちょっと安心してるんです」
千影は黙っていた。
「もう、父さん帰ってこないから」
少年の目から涙が零れた。
「俺、最低ですよね」
千影はゆっくりしゃがみ込み、目線を合わせた。
「そんなことない」
低く、穏やかな声だった。
「逃げてもいい」
蒼汰は泣きながら顔を上げる。
「家族だからって、壊されていい理由にはならない」
ロビーの窓の外では、また雨が降り始めていた。
静かな春の雨だった。




