第二話 デジタル・リンチ
第二話 デジタル・リンチ
朝から雨だった。
灰色の空が低く垂れ込め、警視庁の窓ガラスを細かな雨粒が叩いている。特命捜査対策室の古いエアコンは唸るばかりで暖まらず、結衣は薄いベージュのトレンチコートの襟を寄せた。
机の上にはコンビニの鮭おにぎりと紙パックの味噌汁。朝食を取る暇もなく出勤したせいで、胃が空っぽだった。
「白石、それ昼か朝かどっちだ」
槙原がスポーツ新聞をめくりながら笑った。
「朝です」
「若いのに食わねえなあ。刑事は体力だぞ」
「室長は食べすぎです」
「ほっとけ」
槙原の机にはカレーパンが二つ並んでいた。油の匂いが部屋に漂う。
その時、千影がドアを開けて入ってきた。黒いチェスターコートが雨に濡れている。煙草と湿った空気の匂いが一緒に流れ込んだ。
「失踪だ」
短く言って、資料を机へ放る。
「三人目」
結衣は急いでファイルを開いた。
失踪したのは二十代の男。動画配信者。派手な金髪。耳にピアス。フォロワー数は二十万を超えている。
ページをめくった結衣の指が止まった。
「この人……」
「知ってるか」
「三年前の女子高生自殺事件です」
千影は無言で煙草を咥えた。
三年前、都立高校に通う女子生徒・柏木紗奈がマンションから飛び降り自殺した。
原因はSNS上での大規模な誹謗中傷。
万引きをしたという虚偽動画が拡散され、彼女は学校でも街でも追い詰められた。
結果、死亡。
だが投稿者たちは不起訴となった。
証拠不十分。
匿名アカウント。
誰も責任を取らなかった。
「失踪した三人は全員、その件の加害者側だ」
千影が低く言った。
「犯人による私刑か……」
結衣は唇を噛んだ。
画面に映る女子高生の遺影が若すぎた。制服姿で笑っている。
その笑顔が胸に刺さる。
「現場行くぞ」
失踪者の最後の目撃現場は池袋の雑居ビルだった。
昼間だというのに空は暗く、ネオンが濡れた路面に滲んでいる。ラーメン屋から漂う豚骨スープの匂い。呼び込みの声。イヤホンをした若者たち。
誰も他人を見ていない。
雑居ビルの三階には動画配信スタジオがあった。室内にはLEDライトと高価そうな配信機材が並び、エナジードリンクの空き缶が散乱している。
「失踪前まで配信してたらしいです」
若い刑事が説明した。
「内容は?」
「いつもの雑談です。ただ……」
刑事は顔を曇らせた。
「配信中、コメント欄が急に荒れたそうです」
結衣はモニターを覗き込んだ。
アーカイブ映像。
男は笑いながら酒を飲んでいる。
『昔の炎上とか今さら蒸し返すなよ』
『死んだやつ弱すぎ』
『自己責任だろ』
コメントが高速で流れていく。
その中に、一つだけ異様な文章があった。
『お前たちは、まだ罪を払っていない』
次の瞬間、配信が切れていた。
結衣は寒気を覚えた。
「防犯カメラは?」
「死角が多くて映ってません。ただ被害者は怯えてたらしいです」
「誰かに追われてた?」
「たぶん」
千影は灰皿代わりの空き缶に煙草を押し付けた。
「ネットの人間は、自分が安全圏にいると思ってる」
「……」
「だから言葉が凶器になる」
結衣は黙った。
その言葉が痛かった。
夕方。
特命室へ戻る途中、結衣は自販機の前で立ち止まった。缶のコーンスープを買い、両手で包む。温かさが指先へ滲む。
千影が隣に来た。
「顔色悪いぞ」
「寝不足です」
「嘘つけ」
結衣は苦笑いした。
千影の目は鋭い。誤魔化せない。
「……主任って、ネット使います?」
「仕事で見る程度だ」
「人って、なんであんな簡単に他人を壊せるんでしょう」
千影はしばらく黙っていた。
「顔が見えないからだ」
「それだけですか」
「いや」
千影は雨空を見上げた。
「自分が正義だと思ってるからだ」
その瞬間、結衣の胸がざわついた。
忘れたはずの記憶が蘇る。
大学時代。
教育実習中の教師が女子生徒に暴言を吐いたという投稿。
結衣は正義感から拡散した。
匿名アカウントで。
投稿は炎上した。
教師は学校を辞めた。
数ヶ月後、自殺した。
後から分かった。
暴言は切り抜き動画だった。
真実ではなかった。
結衣は今でも、そのアカウントを消せずにいた。
夜。
特命室。
蛍光灯の白い光がやけに冷たい。
結衣は一人でパソコン画面を見つめていた。
失踪者たちのSNS。
悪意。
嘲笑。
罵倒。
人間はこんなにも簡単に残酷になれるのか。
その時。
通知音が鳴った。
新規メッセージ。
差出人不明。
結衣の呼吸が止まる。
画面には一文だけ表示されていた。
『お前も、同じ側だ』
全身の血が冷えた。
「……っ」
椅子が軋む。
誰にも話していない過去だった。
なのに。
どうして。
「白石」
振り返ると、千影が立っていた。
「主任……」
「何があった」
結衣は咄嗟に画面を閉じた。
「なんでもありません」
千影はしばらく彼女を見ていた。
やがて静かに言う。
「刑事やってると、自分が正しいか分からなくなる時が来る」
「……」
「それでも、人を死なせないために動くしかない」
その声は不思議と優しかった。
結衣は俯いた。
涙が出そうになる。
だが泣けなかった。
自分には資格がない気がした。
翌朝。
四人目の失踪者が発見された。
廃ビルの一室。
椅子に縛られ、怯えきった表情で震えていた。
「助けてくれ……!」
男は泣きながら叫んだ。
「俺だけじゃない! みんなやってたんだ! ちょっと悪ふざけしただけで……!」
千影は冷たく見下ろした。
「その“ちょっと”で、人は死ぬ」
男は崩れ落ちた。
結衣は窓の外を見る。
雨が降っていた。
東京の街を静かに濡らしながら。
誰かの罪も、後悔も、洗い流せないまま。




