第九章 8年前の町
数日後、4人は港町へ戻ってきた。
町を出たときと何も変わっていない。海鳥が鳴き、港には大小の船が並び、市場からは魚を売る声や荷を運ぶ人々の声が聞こえてくる。潮の匂いも、石畳の隙間に入り込んだ砂も、子どものころから馴染んだものばかりだ。
町へ入ってしばらくして、レイが周囲を見回した。
「普通だな」
「8年前なんだから当然でしょう」
リゼットの返事にレイは口を尖らせる。
「もっと何か残ってるかと思った」
「月蝕の跡が8年間ずっと青白く光ってたら、そっちのほうが大問題よ」
「それもそうか。住んでたときも見たことないし」
港のほうへ目をやって、ヴァンが言った。
「でも、ここに月界が重なってたんだよね」
「記録上はかなり深い月蝕だったわ。建物の損壊も出てる」
リゼットの言葉を聞きながら、レイはもう一度町を眺める。境界院で読んだ記録には、現界の町へ月界側の建物や道が重なり、一部では実体を伴った干渉まで起きていたと書かれていた。怪我人も出た。行方のわからなくなった人もいた。その真ん中に自分とエリアがいたのだという。
それなのに、目の前にあるのはいつもの町だった。
「まず、月蝕の中心として記録されていた場所へ行きましょう」
アデルの声に、レイが先に歩き出す。
「こっち」
案内など要らない。市場を抜け、坂を上り、古い倉庫の並ぶ通りを曲がる。何度も通った道だ。しばらくすると広場に出た。
何軒かの露店が並び、中央では子どもたちが走り回っている。端では老人たちが椅子を並べ、陽の当たる場所で話し込んでいた。広場の真ん中でレイが足を止める。
「ここ?」
リゼットが当時の記録と現在の位置を照らし合わせた。
「この辺りね。月蝕の最中は、現界と月界の重なりがかなり強かったみたい」
「よく来てた場所なんだけどな」
「何か覚えてる?」
噴水。石畳。露店。見慣れた家並み。8年前という言葉を意識して見回しても、特別なものは何も浮かんでこない。
「よく来てたってことしか」
しばらく立っていたが変化はなかった。レイが肩をすくめる。
「やっぱり何も――」
その横を子どもが駆け抜けた。弾けるような笑い声。その声に、別の声が重なる。
――レイ!
振り返った瞬間、景色が変わった。
ほんの一瞬だった。空が暗い。青白い光が町を覆い、見慣れた家々の間に知らない建物の壁や屋根が重なっている。石畳の上には水面のようなものが揺れ、今はない道が別の方向へ伸びていた。あちこちに人影がある。誰なのかわからない影が、いくつも重なっていた。
そして、少し先に青い髪が見える。
今より短い髪の、18歳のエリアだった。
「姉さん」
口にした途端、すべてが消えた。
昼の広場が戻ってくる。走っていた子どもたちは、何事もなかったように向こうへ行ってしまった。
「レイさん?」
アデルの声で、レイは瞬きをする。
「……いた」
「何が?」
「姉さん」
3人の表情が変わった。リゼットがすぐに近づく。
「思い出したの?」
「一瞬だけ」
さっきエリアが立っていた場所をレイの目が追う。
「今の町に別の景色が重なってた。空が暗くて、知らない建物があって……姉さんがいた」
「ほかには?」
「人がいた。たくさん。たぶん」
目を閉じて記憶を手繰る。青白い光。知らない道。エリア。それから、黒い何か。輪郭が定まらないまま自分の近くにあった気がする。形になりかけたところで、ほどけて消えた。
「……なんか黒いのもいた」
「どんなもの?」
「わかんない。人じゃなかったと思う」
リゼットはすぐに質問を重ねず、少し待った。
「まだ出てきそう?」
「もうちょっと思い出せそうなんだけどな」
眉を寄せるレイにリゼットが言う。
「無理に追わないで」
「なんで?」
「足りないところを自分で補い始めたら、どこまでが本当の記憶かわからなくなるでしょ」
「そんなことある?」
「あるわよ。特に今のあなたは記録を読んだばかりなんだから。知ったことと、自分が本当に覚えていたことが混ざる可能性もある」
レイは少し不満そうな顔をした。
「じゃあ、出てきたものだけ言えばいい?」
「そうして」
「わかった」
その日は、当時の記録に残る場所を順に歩いて回った。古い倉庫の前。海へ続く坂。港を見下ろす石段。今も残る細い路地。どこもレイには昔から馴染みのある場所だ。それでも、ときどき現在の景色に別のものが重なる。青白い月。見たことのない古い建物。水の音。エリアの声。小さな自分の手。誰かに腕を掴まれる感覚。赤い色。
どれも一瞬で消えて、順番もわからなかった。
「これ、全部同じ日の記憶なのかな」
「可能性は高いけど、断定はできないわ」
「面倒だな」
「記憶なんて元々、出来事を最初から最後まで正確に保存してるものじゃないでしょ」
「リゼットは8年前の1日とか全部覚えてる?」
「覚えてるわけないじゃない」
「じゃあ俺も普通じゃん」
「あなたは肝心な1日だけ不自然に抜けてるから問題なの」
「あ、そうか」
横でヴァンが小さく笑った。
「調子戻ってきたね」
「別にずっと普通だよ」
しばらくして、アデルが小さな教会の前で足を止める。
古い石造りの建物だった。大きくはなく、入口の脇に災害時の救護所として使われることを示す札が掛かっている。
「ここです」
「何が?」
「8年前の救護記録にあった教会です。当時、一時的な救護所になっています」
境界院の施設で見たのは、各地の教会へ送られた記録の写しだった。ここには、実際にその日の救護を行った側の原本が残っている可能性がある。
4人は中へ入って事情を説明した。アデルが教会所属ということもあり話は早い。しばらく待つと、奥の保管庫から古い資料が運ばれてきた。アデルとリゼットが机に並べ、1頁ずつ確かめていく。レイとヴァンは向かいの席でそれを待った。
ヴァンが小声で言う。
「暇?」
「ちょっと」
「散歩でも行く?」
「怒られるだろ」
「成長したねえ」
「俺を何だと思ってるんだよ」
「勝手にどっか行く人」
否定しようとしたレイの口が、一度閉じる。
「……否定しづらいな」
「だろ?」
「静かにしてください」
資料から目を上げないままアデルが言った。
「はい」
2人の返事が重なる。リゼットが顔を上げた。
「そこだけ息ぴったりなの何なの?」
再び、資料をめくる音だけが続く。
やがて、アデルの手が止まった。
「ありました」
レイがすぐに椅子を寄せる。8年前の月蝕。避難者。負傷者。保護された人々。その中に、レイ・アルヴェインの名前があった。内容の大半はすでに見た記録と同じだ。9歳。外傷なし。強い混乱。月蝕区域へ戻ろうとする行動を繰り返す。『姉さんがまだ向こうにいる』『戻らないといけない』と、そう訴えていたという。
その横に、写しにはなかった記述が残っていた。アデルが読み上げる。
「保護時、女性1名が同行」
レイの目が動く。
「その人?」
「続きがあります」
アデルの指が文字を追った。
「女性は救護を辞退。少年を教会側へ引き渡したあと、再び月蝕発生区域へ戻った」
レイの表情が変わる。
「戻った?」
「そう書かれています」
「なんで?」
「理由まではありません」
資料を覗き込んで、リゼットが尋ねた。
「特徴は?」
「若い女性。赤い色を身につけていた」
アデルの指が先の行へ移る。
「名前は……残っていません」
レイは少し黙った。それから、ぽつりと言う。
「緋月だろうな」
リゼットもすぐには否定しない。
「可能性はかなり高そうね」
「8年前から俺のこと知ってたって言ってたし」
ヴァンの視線が2人を行き来した。
「その人、最初に会ったっていう?」
「うん」
「8年前のことも知ってるのに、何も教えてくれなかった?」
「何もじゃないよ」
レイは少し考える。
「聞いたことには答えてた。8年前から俺のこと知ってたかって聞いたら、知ってたって」
「なのに詳しく聞かなかったの?」
「聞いた」
「それで?」
「『今は話さない』って」
ヴァンが一度瞬きをした。
「強いね、その人」
「そうなんだよ」
資料へ視線を戻してリゼットが言う。
「でもこれが本当に緋月さんなら、あなたをここへ連れてきたあとで、もう一度月蝕区域へ戻ってる」
レイも記録を見た。
「姉さんのところに?」
「そこまでは書いてないわ」
「でも、他に戻る理由あるかな」
「推測と記録は分ける」
「はい」
素直に引き下がったレイの指が、資料の端をとんとん、と叩く。
8年前の月蝕。巻き込まれたのはレイとエリア。そこに緋月もいた。レイは現界へ戻り、エリアは月界に残った。緋月はレイを教会へ預けて、もう一度、月蝕区域へ戻っている。
叩く指が、そこでふっと止まった。
「……本人に聞けば早いんだけどな」
リゼットがため息をつく。
「会えればね」
「そこなんだよな」
天井を見上げて、レイが声を張った。
「緋月ー」
「ここで呼んでも来ないでしょ」
「わかんないじゃん」
「来たら怖いわよ」
教会の者がこちらを見る。静かに視線を向けたアデルが、2人の名を呼んだ。
「レイさん。リゼットさん」
「はい」
また返事が重なる。ヴァンが顔を逸らして笑った。
その日の夕方、4人は港近くに宿を取った。夕食まではまだ少し時間がある。荷物を置くなり、レイは1人で外へ出た。考え込むためではない。久しぶりに戻った町を歩いているうちに、なんとなく港まで来ただけだ。
いつもの海。いつもの船。見慣れた防波堤。旅に出る前と何も変わらない景色の中を歩いて、昔からよく座っていた場所に腰を下ろす。
防波堤の石に片手をつき、水面の向こうをぼんやり眺める。
8年前、この町に月界が重なった。そこにレイがいて、エリアがいて、緋月がいた。それなのに、レイだけがその日を覚えていない。
「全然つながらないな」
呟いて、指を1本ずつ立てていく。
「黒いの。姉さん。赤い色。腕を掴まれた感じ。『行けないわ』」
5本目で手が止まった。
「教会に連れてった緋月が、また戻った……で、そこから」
開いたままの手を、膝の上に落とす。数える先は、もうなかった。
「そうでしょうね」
少し離れたところから声がした。
振り返ると、防波堤の上に女が座っている。白銀の長い髪に深紅の花の髪飾り、舞台衣装のような赤を差した服。隣では、猫が前足を揃えて海を見ていた。
しばらくレイは何も言えなかった。
「……緋月」
「久しぶり」
「いや、そんな経ってないだろ」
「そう?」
「適当だな」
緋月の視線が海へ戻る。猫の尻尾が、石の上をゆっくり叩いていた。レイは立ち上がる。
「いつからいた?」
「少し前」
「俺のこと見てた?」
「見えてた」
「声かけてよ」
「何か考えてるのかと思って」
「別にそこまで考えてないよ」
「そう」
疑う様子もない返事だった。レイは緋月をまっすぐ見る。探そうと思っていた本人が、向こうから目の前に現れた。聞くことは決まっている。
「8年前」
緋月の目が、レイへ向いた。
「ここにいた?」
「いたわ」
「俺にも会った?」
「ええ」
「姉さんにも?」
「会った」
返事に迷いはなかった。レイが小さく息を吐く。
「やっぱり」
緋月が首を傾げた。
「何が?」
「教会の記録」
「どんな?」
「赤い服の女の人が、俺を月蝕の中から連れてきたって。そのあと教会に預けて、また月蝕区域に戻った」
緋月は少しも驚かなかった。
「それなら、わたしね」
「戻ったの?」
「ええ」
「姉さんのところに?」
「そう」
また1つ繋がった。あまりに簡単に認められて、レイは拍子抜けした顔になる。
「そこは隠さないんだな」
「聞かれたから」
「じゃあ最初から言ってくれてもよかったじゃん」
「聞かれてなかったもの」
「そういうところだよ」
緋月は悪びれもしない。レイが一歩近づいた。
「じゃあ、今度はちゃんと聞く」
「なに?」
「8年前、何があったの?」
緋月はすぐには答えなかった。海から吹く風が長い髪を揺らす。隣で猫が一度だけ耳を動かした。やがて緋月は防波堤から降りる。
「長くなるわ」
レイが少し笑った。
「初めて聞いた。緋月がそんなこと言うの」
「そうね」
緋月の目が港の向こうへ流れる。8年前と同じ町。何も知らないまま、レイが8年間暮らしてきた場所。
「どこから聞きたい?」
少し考えてから、レイは答えた。
「最初から」
緋月は何も言わず、静かに頷いた。




