第十章 8年前のこと
「最初から」
緋月はしばらく海を見ていた。夕暮れの港にはまだ仕事を終えていない人の声が残り、船を繋ぐ綱が軋んでいる。波が防波堤の下でゆっくり砕けるたび、足元で丸くなった猫の尻尾が小さく動いた。
「8年前、この町で月蝕が起きた」
「うん」
「かなり大きなものよ。境界が広い範囲で崩れて、あちこちで景色が重なってた」
そこまでは教会の記録にもあったとおりだ。緋月は風に流れる髪を耳へかけた。
「わたしがあなたたちを見つけたとき、あなたは月界側へ引かれていたわ」
「俺が?」
「ええ。エリアが何度も引き戻してた」
眉を寄せたレイが少し身を乗り出す。
「俺が自分で向こうに行こうとしてたんじゃなくて?」
「違う。少なくとも、そうは見えなかった」
風が吹いて、緋月の髪が肩を滑る。
「あなたの近くには黒いものがあった」
レイの視線が一瞬だけ宙を迷った。
「それ、今日ちょっと見えた。黒いやつ。人じゃなかったと思う」
「あれが何なのか、わたしもわからない」
「緋月にも?」
「ええ」
即答だった。
「あなたが動けば動いて、月界側へ引かれるときも一緒に動いてた。黒い何か。それだけ」
「姉さんは?」
「彼女にも見えていたわ。何なのかは知らなかったと思う。ただ、あなたと連動しているのは見ればわかったから」
緋月は自分の手に目を落とす。
「彼女がそれを掴んだの。あなたから引き剥がそうとして」
「……姉さんっぽいな。よくわかんないけど弟が危なそうだから、とりあえず掴む」
「そんな感じだったわね」
「雑だなあ」
そう言って笑う声は軽いが、海を見る目は笑っていない。
「それで、どうなったの?」
「エリアが引き剥がした黒いものは見えなくなった」
「消えた?」
「そう見えた。でも本当に消えたのか、どこかへ移ったのかはわからない」
緋月が短く息を吐く。
「その直後にあなたが現界へ押し戻された。エリアは、月界側に残った」
波の音が少し大きくなった。
「じゃあ、姉さんは自分が残るってわかって掴んだわけじゃないんだ」
「わかっていなかったと思う」
「緋月も?」
「わたしも」
静かな答えだった。
「どうしてあなたが戻ってエリアが残ったのか。その理由に黒いそれが関係しているのか。何もわからないままよ」
レイが小さく頷いた。
「そのあと、俺は?」
「すぐにエリアのところへ戻ろうとしたわ」
「だろうな」
答えには迷いがない。
「止めても行こうとした」
その言葉に、レイの右腕がぴくりと動いた。左手がその腕を押さえる。
「……掴まれてた」
「ええ」
「赤いのが見えて。『行けない』って」
「言ったかもしれないわね」
「『今戻れば、あなたまで帰れなくなる』」
緋月が少し目を細めた。
「そこまで出てきたの」
「ちょっとだけ。その先はもう何もないよ」
レイは無理に記憶を追うのをやめて、肩の力を抜く。
「そのあとも俺は戻ろうとした?」
「ええ」
「何回?」
「数えてないわ。止めてもまた行こうとするから」
「9歳の俺、面倒くさいな」
「今もそんなに変わってないと思うけど」
「それは違うだろ」
「そう?」
反論の言葉を探したレイは、結局口を尖らせただけだった。緋月はそれ以上何も言わない。
「姉さんとは、そのとき話した?」
「話したわ」
「何て?」
緋月は少し間を置いた。
「あなたを自分のところへ来させないでほしいって」
レイの顔から笑いが消える。
「俺を?」
「あなたなら追ってくると思ったんでしょうね」
「正解だな」
「そうね」
「それだけ?」
「それだけ。記憶のことは頼まれてないわ」
レイは黙って緋月を見た。それからゆっくり口を開く。
「俺が8年前のこと覚えてないのって、緋月がやったの?」
「ええ」
否定はなかった。
「わたしが封じた」
風が止まり、防波堤の上にしばらく波音だけが残る。
「……姉さんのこと全部じゃないよな」
「あなたはエリアがいたことも、一緒に暮らしていたことも覚えているでしょう。中心にしたのはあの日。何が起きたか、エリアがいなくなった経緯、それに繋がる強い記憶」
「顔は?」
「あの日と強く繋がっていたものが辿れなくなったんだと思う」
レイは眉を寄せ、片手を上げた。
「ちょっと待って。封じたって、どうやって?」
「触れて、その記憶へ辿れないようにしたの」
「そんなことできるの?」
「わたしにはできるわ」
「普通の人も?」
「できないでしょうね」
あまりにも平然とした答えに、レイは開きかけた口を閉じる。それから改めて緋月の顔を見た。
「なんで緋月はできるんだ」
緋月の視線がほんの一瞬だけ海へ逸れる。
「それはエリアのこととは別の話ね」
「またそれ? 今は話さない?」
「今は話さない」
大きなため息をついて、レイが額を押さえる。
「聞いたことには答える。でもその先は絶対自分から言わないとこ、ほんと緋月だよな」
「聞かれてないもの」
「今聞いたじゃん」
「だから、今は話さないって答えたでしょう」
「そういう意味じゃなくてさ」
そう言いながらレイはそれ以上追わなかった。聞きたいことがまだ別にある。
「なんで俺の記憶を封じた?」
「あなたが戻ろうとしたから」
緋月の声は変わらない。
「エリアが月界にいると知っている限り、あなたは何度でも追うと思った」
「でも境界は閉じたんじゃないの?」
「他の子ならそれで終わるわ」
緋月がレイの顔を見る。
「でも、あなたには《空白》があるでしょう」
レイの視線が自分の右手に落ちた。指を一度握って、開く。
「……そっか。俺、閉じてるとこにも道を作れるもんな」
「何度止めても、あなたはエリアを追おうとした。ずっと押さえておくわけにもいかない。だから、追う原因になるあの日を封じたの」
「9歳でも本当に自分で戻るかもしれなかった?」
「9歳だから《空白》がなくなるわけじゃないでしょう」
「まあそうだけど」
少し間があって、レイが聞いた。
「姉さんに言われたから?」
「違うわ」
その答えだけは少し強かった。
「エリアに頼まれたのは、あなたを彼女のところへ行かせないことだけ。記憶を封じると決めたのはわたし。そこはエリアの判断じゃない」
「そっか」
「そのあとあなたは眠って、わたしは近くの救護所へ預けた」
昼に見た資料の記述がそこで繋がった。赤い服の女。9歳の少年を連れてきて、また月蝕区域へ戻った女。
「戻ったのは姉さんに説明するため?」
「頼まれていないことをしたから。あなたを現界に残したことと、何度止めても戻ろうとしたこと。それから、わたしの判断で記憶を封じたことを話したわ」
「姉さん、なんて?」
「少し黙っていた」
「嫌だっただろうな」
「でしょうね」
「怒った?」
「わたしには怒らなかったわ」
「姉さんっぽい」
レイは長く息を吐いた。黒いものの正体も、自分だけが戻れた理由も、エリアが8年間帰れない理由も、緋月が他人の記憶に触れられる理由も、まだ何ひとつわかっていない。それでも、誰が何をしたのかは見えた。
「俺が姉さんでも、たぶん同じことしたと思う」
緋月が顔を向ける。
「目の前で弟が変なのに引っ張られてたら、とりあえず掴む。9歳の俺に『姉さんは向こうにいるけど危ないから待ってろ』って言ったって、どうせ聞かなかっただろうし」
「聞かなかったわね」
「即答だな」
レイの笑いは長くは続かなかった。海のほうへ向けた横顔から、すっと表情が引いていく。
「でもさ」
「なに?」
「俺がどうしたかったかは誰も聞いてないんだな」
緋月の動きが止まった。レイの声に責める調子はない。8年前のことを初めて外側から眺めて、ふと気づいたような声だった。
「姉さんは自分で手を伸ばした。追わせないでって頼んだのも姉さんで、俺の記憶を封じるって決めたのは緋月。俺だけ、何が起きたのかも知らないまま終わってる」
「……」
「9歳だったし、戻るのは危ないって説明されても追ってたと思う」
防波堤の縁をレイの指先がなぞる。
「他のことなら誰かが決めてくれてもいいんだ。でも、あの日のことは違う。俺の姉さんがいなくなった日だよ」
波が石に当たって、白い泡を残して引いた。
「……俺にも決めさせてほしかった」
緋月は何も言わなかった。
同意するなら「そうね」、否定するなら「それは違うわ」。必要な言葉を、いつも間を置かずに返す人だ。その緋月が口を開きかけて、閉じる。海に向けていた視線がふっと落ちた。組んでいた指をほどき、また組み直す。
足元で猫が顔を上げ、緋月の足首に額を寄せる。それにも、いつもなら目をやる緋月が気づいていない。
「緋月?」
「……聞いてるわ」
返ってきた声はいつもより低く、少しかすれていた。
「ならいいけど」
レイがそう言っても、緋月の目は海に向いたままだった。
波がひとつ砕けて、引く。
「……そうね」
何に対する「そうね」なのか、レイは聞き返さなかった。
空はかなり暗くなり、港の灯りが一つずつ点き始めている。レイが立ち上がった。
「そろそろ宿に戻るよ」
「そう」
緋月が歩き出すと猫も当然のようについていく。数歩歩いたところで、レイが「あ」と声を上げた。
「緋月、もう1個」
「まだあるの?」
「ある」
振り返ったレイがまっすぐに言う。
「連絡つかないの、本当に困るんだよ」
緋月が瞬きをした。
「そう?」
「そうだよ。今日だってたまたま港にいたから会えただけじゃん。また聞きたいことが出てきたときに困る」
「探せば?」
「どこを?」
緋月は黙った。
「ほら」
「……確かに難しいわね」
「今気づいたの?」
「わたしからあなたに用事があることはあまりないから」
「こっちにはあるんだよ」
少し考えて、レイが指を1本立てた。
「町に着いたらさ、そこの教会に一言残してよ。今その町にいるって。次どっか行くなら、わかる範囲でそれも」
「教会?」
「毎回」
緋月の眉が寄った。
「毎回?」
「毎回」
「……面倒ね」
「頼むから」
緋月はしばらくレイを見ていた。小さく息を吐く。
「わかったわ」
「絶対だぞ」
「わかったって言ったでしょう」
「緋月、必要ないと思ったらやらなさそうだから」
「失礼ね」
「今日までの実績で言ってる」
否定はなかった。レイが宿の方向へ歩き出す。
「宿に来る? みんなにも話してくれたほうが早いんだけど」
「あなたはもう聞いたんだから、あなたが話せばいいでしょう」
「そういうとこだよなあ」
「じゃあね」
緋月は別の道へあっさり曲がり、猫がそのあとを追った。
「もう行くの?」
「用は済んだでしょう」
「教会!」
「わかってるわ」
振り返らないまま、緋月の片手だけが上がる。レイはその背中が人通りの向こうへ消えるまで見送ってから、宿の扉を開けた。
ちょうど夕食が並べられているところだった。真っ先に気づいたリゼットが顔を上げる。
「遅い!」
「ごめん」
「珍しく素直ね」
「緋月に会った」
リゼットの動きが止まった。ヴァンが椅子から身を起こし、アデルも手を止める。
レイは席に着くと、港で聞いたことを順に話していく。月蝕の中で月界へ引かれていたこと、近くにあった黒い何か、それをエリアが引き剥がしたこと、直後に自分だけが現界へ押し戻されたこと。エリアを追わないよう頼んだこと。
そして、記憶を封じたのは緋月自身の判断だったこと。
「……待って」
リゼットが術式盤に伸ばしかけた手を止める。
「記憶を封じた? 本人がそう言ったの?」
「言った。触って、その記憶に辿れないようにしたって」
「どうやって?」
ヴァンが首を傾げた。
「術式とか道具とか、そういう感じのもの使ったの?」
「そこまで聞いてないけど、使ってる風でもなかった」
アデルが静かに尋ねる。
「月界ではそういうことも起こり得るのでしょうか」
リゼットは首を振った。
「月蝕で記憶が混ざったり抜けたりすることはよくあるわ。でもそれは現象の結果で、誰かが狙った記憶だけ選んで触るのとは違う。そんな干渉、少なくとも私は知らない」
「俺も、なんでできるのか聞いたよ」
「何て?」
「それは別の話だから今は話さないって」
リゼットが黙り込む。
「……緋月さん自身にも、まだ何かあるのね」
指先を組んだアデルがゆっくり口を開いた。
「今わかっているのは、緋月さんが普通ではない方法でレイさんの記憶に干渉した、という事実だけですね」
「うん」
「理由や仕組みは、まだ不明」
椅子の背にもたれたヴァンが、パンを手に取る。
「思ってたよりずいぶん変わった人だね」
「変わってるよ」
「知ってる感じで言うね」
「ヴァンも緋月に会ったらすぐわかるよ」
リゼットはまだ考え込んでいたが、顔を上げた。
「黒いものが何だったかは?」
「緋月にもわからないって。消えたように見えただけで、本当はどこかに行ったのかもしれないって」
「あなたとエリアさんの状態が入れ替わる直前に起きたことなら、その黒いものが無関係とは考えにくい。ただ、推測以上のことは今は言えないわね」
「だよね」
肩を落としかけたレイがすぐに顔を上げる。
「でも、姉さんが出てきた場所はわかる」
リゼットの目が動いた。
「前に会ったところ?」
「うん。姉さん、最近はときどき現界に出られるって言ってた」
「実際にあそこで境界を越えているわね」
リゼットは指でこめかみを叩く。
「通過した痕跡が残っているかもしれない。月界側が同じ状態とは限らないけど、調べる価値はあるわ」
ヴァンがレイの顔を覗き込んだ。
「行くんだ? 月界に入るの初めてだろ?」
「うん。でも行く」
返事は早かった。
「今度は俺から、姉さんのところに行く」
アデルは止めなかった。リゼットも少し考えてから、術式盤を手元へ引き寄せる。
「明日、前にエリアさんと会った場所をもう一度見に行きましょ。痕跡を確認して、月界側へ入れるか試す」
「うん」
「1人では行かせないからね」
「言われなくてもわかってるよ」
「本当に?」
「たぶん」
「そこは言い切りなさいよ」
ヴァンが、ちぎりかけのパンを持ったまま肩を震わせた。
「あ、そうだ」
レイが思い出したように顔を上げる。
「緋月との連絡、今後は教会を使うことにしたよ。町を移ったらそこの教会に居場所を残してもらう。次にどこ行くかわかってたら、それも」
「それなら、こちらから伝言を預けることもできますね」
アデルは少し考えてから「すぐに届くとは限りません」と切り出した。
「すでに町を離れていればその先へ回してもらうことになりますから。でも、最後に立ち寄った場所がわかるだけでも今よりずっと探しやすくなります」
「それで十分だよ。毎回偶然会えるわけないし」
「ずっと旅してる人なんだよね」
「うん。どこに行くかも言わないから」
「じゃあそのくらい決めといたほうがよさそうだな」
話がひと段落して、ようやく4人の夕食が始まった。スープを口に運んだリゼットが、スプーンの先をレイへ向ける。
「明日、寝坊したら置いていくから」
「起きるって」
レイはもう2切れ目のパンに手を伸ばしている。窓の外では、港の灯りが一つずつ増えていった。




