第十一章 月界の子ども
港町を出た4人は、王立境界院の本部と教会本部が置かれた大きな都市に滞在先を移した。エリアと再会した低地へ行くにも境界院で調査を進めるにも、こちらに拠点があるほうが都合がいい。荷物を整えた一行はすぐに低地へ向かった。
低地には以前と変わらず乾いた土と石が広がっている。あの日、目の前に重なって見えた青白い川も古い石橋も、今はどこにもない。境界が落ち着いているのだろう。見渡す限り何の変哲もない景色だった。
低地へ下りたレイが周囲を見回す。
「この辺だった」
「待って。前回の記録と合わせるから」
リゼットが術式盤を取り出した。エリアが立っていた位置。青白い川が濃くなった場所。現界から月界へ引き戻されていったときの数値。何度か場所を変えて測り、少し離れた一点で足を止める。
「ここ」
「わかるの?」
「前にエリアさんが消えたとき、この辺りだけ位相の戻り方が少し違ったの。今もほんの少し名残がある」
近づいたレイの目には乾いた空気しか映らない。
「自然に開きそう?」
「全然。境界値も低いし、普通なら今日は通れないわ」
「じゃあ俺か」
「そういうこと」
示された場所へレイが手を伸ばす。指先は何にも触れず、位置を探るようにゆっくり動いて、ふっと止まった。
「ここ、行けそう」
リゼットは術式盤から目を上げない。
「ゆっくりね。前みたいに覗くだけじゃないんだから」
「わかってる」
押し込んだ手の先で、空間に細い切れ目が走った。力をかけるほど切れ目は縦に広がり、向こうの夜が見えてくる。こちらには昼の光が降っているのに、隙間の先には大きな月が浮かび、青白い光が地面を照らしていた。さらに広げると水面が現れ、その上に古い石橋が架かっている。
「これ……前に見えてたやつだ」
「そうみたいね」
人が通れるほどに広がっても周囲の境界値はほとんど動かない。リゼットは数値を書き留めて、道の向こうを見た。
「問題は向こうへ入ってからね」
荷物を確かめていたヴァンが顔を上げる。
「景色が変わっても慌てないこと。勝手に離れないこと。何か見つけてもすぐ近づかないこと」
頷いたレイに、ヴァンは人差し指を向けた。
「レイには特に言ってるんだけど」
「なんで俺だけ」
「今までの実績かな」
「異議なし」
リゼットまで頷くので、レイが口を尖らせる。アデルが小さく笑った。
「では、行きましょうか」
開いた場所に手を置いたまま、レイが3人を振り返る。
「行くよ」
まずレイが、続いて3人が足を踏み入れた。最後の1人が渡ったところでレイが手を離すと、現界へ続く細い道が閉じていく。昼の光が消え、大きな月だけが残った。
川の音が聞こえる。石橋に触れたレイが冷たい石をこつんと叩いた。
「前は触れなかったのにな」
「前は現界から見えていただけだからね。今は月界側にいるんだもの」
「ほんとにあるんだな」
「そう説明したでしょ」
「聞くのと体験するのじゃ違うだろ」
ヴァンは橋の向こうを見たままだ。
「帰り道は覚えておこう。レイなら別の場所にも道を作れるんだろうけど、どこに出るかわからないのは困るからね」
「目印も確認しながら進みましょう」
アデルは石橋の形を確かめている。
橋の先を見つめたまま、レイが小さく呟いた。
「姉さん、この向こうに行ったんだよな」
答える者はいない。レイは一度だけ深く息を吸った。
「行こう」
石橋を渡り、4人は月界の奥へ歩き出す。
*
月界の道は現界の地図どおりには続いていなかった。石橋を渡った先の古い街道をしばらく進むと2つに分かれる。一方には崩れた建物が並び、もう一方には青白い草原が広がっていた。遠くに見えていた建物が急に近くなることもあれば、すぐそこだと思った場所へなかなか辿り着けないこともある。
「これ、地図作れるのかな」
「固定されてる場所ならね」
道端にしゃがみ込んだヴァンが、指で土をなぞる。
「でも今見えてる道がずっと同じ場所にあるとは限らない。夜渡りでも、月界へ入るときは帰り道の確認が最優先だったよ」
「迷ったことある?」
「あるよ」
「ヴァンでも?」
「このオレでもね。だから迷わないようにするんじゃなくて、迷ったときにどう戻るか考えておくほうがいい」
リゼットが頷く。
「境界院でも帰還地点の確保は必須よ。レイがいるから今回は少し条件が違うけど」
「俺、便利だな」
「便利だけど、何でもできるわけじゃないからね」
そのまま進むうち、周囲に人の形をしたものが増え始めた。最初は遠くにかすかな輪郭が見える程度だったのが、進むほどに濃くなっていく。誰かが立っているように見えた場所へ別の人影が重なり、腕や服の裾らしきものが幾重にも折り重なって、どこからどこまでが1人なのかもわからない。いくつもの声が混ざり合い、理解できる言葉にはなっていなかった。
レイの歩みが遅くなる。
「……これ、全部人の残響?」
「そうでしょうね」
先頭のヴァンが片手を上げた。
「ここはやめようか」
「なんで?」
「人の情報が濃すぎる。あまり長居していい場所じゃない」
「夜渡りのとき、こういうところにも入ってたの?」
「入ったよ。人を探す仕事だからね」
軽い口調とは裏腹に、周囲を見るヴァンの目は笑っていない。
「でもレイのお姉さんがここにいると決まったわけじゃない。わざわざ通る必要はないよ」
「私も、別の道があるならそちらを選びたいです」
アデルの言葉に頷いて、リゼットが術式盤を確かめる。
「少し戻れば別の方向へ行けそうね」
人影の薄い場所まで引き返したところでレイが息を吐いた。
「わかんないけど、姉さんならこんな怖いとこにはいないと思う」
「怖かった?」
「うん。人がいっぱいいるみたいなのに、誰がいるのか全然わかんないし」
レイがさっきまでいた方角へ目をやる。
「8年も住んでるなら、もっと静かなとこにいるんじゃないかな」
「そう思う理由は?」
「理由って言われても困るけど、なんとなく姉さんならそうするかなって」
ヴァンは顎に手を当て、少し考えた。
「悪くないと思うよ。8年もいたら少しでも落ち着ける場所を選ぶだろうしね」
リゼットも顔を上げる。
「どういう状況なのかはわからなくても、居心地の悪い場所を避けるくらいはするでしょうね」
「じゃあ、静かなほう?」
「行ってみようか」
ヴァンが進路を変えた。
人影の少ない方向へ進むとやがて声も聞こえなくなり、古い道や建物の残響が増えていく。周囲を眺めながらレイが言った。
「こっちのほうが落ち着くな」
「さっきよりはね」
少し先でリゼットが急に足を止める。
「……なに、これ」
道の脇に妙な装置が立っていた。地面から伸びた金属の柱にいくつもの輪が重なっている。表面には細かな線がびっしり刻まれていた。
「境界院の設備とは違うわね」
しゃがみ込んで装置へ手を伸ばすリゼットの背後から、声がかかる。
「あ、それ触らないほうがいいよ」
4人が振り返った。少し離れたところに背の高い男が立っている。灰色がかった薄い髪色。白い上着の下に濃紺の服を着て、片手に本を持っていた。
リゼットの手が止まる。
「この装置を知ってるんですか?」
男は装置を見て、少し首をかしげた。
「まあ、そうだね」
「どういう用途のものなんですか? それにこの術式――」
「リゼット」
レイが呼んだ。
「なによ」
「今は姉さん探そうよ」
「それはわかってるけど、でもこれ――」
名残惜しそうに装置を見るリゼットをよそに、レイはもう歩き出している。
「ちょっと待って!」
男へ軽く頭を下げ、リゼットは3人のあとを追った。男は引き止めるでもなく、装置の前にしゃがみ込む。
少し進んだところでリゼットがぼそりとこぼした。
「……何に使う装置なのかくらい聞きたかったな」
*
静かな場所を選んで進むうち、古い建物がまとまって残る一角に出た。完全に残っている家は少なく、壁だけになったものや屋根の崩れたものが多い。
ヴァンがふと足を止め、道の端にしゃがんだ。
「……待って」
地面に小さな石が円形に並べられ、中には灰と炭が残っている。
「焚き火?」
「そうみたいだね」
ヴァンは拾った枝で灰を少し崩した。
「昔からここにあるものには見えないな」
「誰かが使ったってこと?」
「たぶんね。最近ここを通った人がいるのかもしれない」
崩れた壁際には何かを置いていたらしい跡がある。近くの石も座りやすいように並べられていた。その少し先でレイの視線が止まる。
低い枝に細い布が結ばれていた。淡い色の布だ。近づいてつまんだ指先が、そのまま動かなくなる。
「……これ」
隣へ来たアデルが覗き込んだ。
「どうしました?」
「姉さん、こんな色のリボンつけてた」
腰の後ろで揺れていた、淡い色のリボン。同じものかどうかはわからない。けれど、色も生地の感じもよく似ていた。
ヴァンは枝を見上げ、結び目を目でたどる。
「道しるべにしたのかな」
「月界じゃ道が変わるから?」
「そうかもしれない。少なくとも風で偶然引っかかった感じじゃないね」
布から目を離さないレイの隣にリゼットが立った。
「まだ決めつけられないわよ」
「わかってる。でも、さっきの焚き火もあるし」
「ええ。誰かがここで生活していた可能性は高そうね」
布の続く先へレイが踏み出そうとしたとき。
「……待ってください」
アデルが顔を上げた。
「何か聞こえませんか?」
4人が足を止める。風の音。遠くの水の音。その合間にかすかな歌声が混じっていた。高い、子どもの声だった。何を歌っているのかまでは聞き取れないが、ずいぶん楽しそうな調子だ。
「子ども?」
「あっちだね」
ヴァンが道から少し外れた建物のほうを指す。歌声はいったん途切れ、すぐにまた聞こえてきた。レイは淡い布の先と歌声のほうを一度ずつ見て、建物の陰へ向かう。
そこにいたのはエリアではなかった。
壊れかけた石段に小さな女の子が座っている。肩までの髪に、白とオレンジ色のワンピース。1人で楽しそうに歌っていたが、4人に気づくと口を閉じて顔を上げた。
近づこうとしたレイの前に、リゼットの腕が伸びて制止する。
「待って。ここは月界よ」
人の姿をしているからといって生きた人間とは限らない。足を止めたレイの横で、ヴァンも少し離れた位置から周囲を確認していた。リゼットが術式盤を少女へ向ける。
「周りの人型残響とは反応が違う」
「生きてる?」
「その可能性は高いけど、もう少し確認したい」
アデルがゆっくり近づいた。
「こんにちは」
少女は少し考えてから答える。
「こんにちは」
「手を見せてもらってもいいですか? 怪我をしていないか確認したいんです」
「いいよ」
差し出された手首にアデルが指を当て、しばらくしてリゼットを振り返った。
「脈があります。身体も温かいですね」
「今のところ、生きた人間として考えてよさそうだわ」
ようやくレイが少女の前へ進み、しゃがんで少女と目の高さを合わせる。
「俺、レイ。こっちはリゼット、ヴァン、アデル」
1人ずつ指していくのを少女はじっと見ていた。
「君は?」
「ミア」
「ミアか。何歳?」
「7歳!」
「そっか。1人?」
「うん」
「誰かと一緒に来た?」
「わかんない」
「いつからここにいるの?」
「わかんない」
リゼットの眉が寄る。アデルがレイの横にしゃがんだ。
「気づいたときには、ここにいたんですか?」
「うん」
「どこから来たのかは?」
首を横に振るミアに、アデルが重ねる。
「ご家族は?」
少し考えてから、ミアはまた首を振った。
「覚えてない」
「お名前は覚えているんですね」
「ミアはミアだよ」
「そうですね」
アデルはそれ以上聞かなかった。鞄を開けたヴァンが焼き菓子を取り出す。
「お腹すいてない?」
ミアの目が鞄に吸い寄せられた。
「ちょっとだけ」
「そこはわかるんだ」
受け取った菓子をすぐ頬張るミアに、レイが笑う。
「おいしい?」
「うん!」
その間、リゼットは少女のいた建物へ目を向けていた。入口の横に石と金属を組み合わせた板が埋め込まれている。細い線が幾重にも刻まれていた。
「……また知らないやつ」
「今日多いな」
「嬉しそうに言わないで」
「リゼットは嬉しいんじゃないの?」
「今は困ってるの!」
文句を言いながらも視線は術式から離れない。建物の中には壊れた器具や傷んだ紙片が残っていた。しばらく確かめてから、リゼットは持ち運べそうな石板を1枚と、まだ文字の読める紙を何枚か選び出す。
「持って帰る」
「何かわかりそう?」
「今は全然」
「持って帰ったら?」
「調べる」
「それでもわからなかったら?」
「もっと調べる」
ヴァンが顔を背けて小さく咳払いをした。
「研究者だねえ」
「当たり前でしょ」
アデルはミアの手足を確かめている。
「痛いところはありませんか? 歩けます?」
「うん」
「寒くは?」
「ちょっと寒い」
自分の荷物から布を出し、ミアの肩にかけてやった。
「これで少し楽になりますか?」
「うん。ありがと」
立ち上がったレイがミアの前に戻る。
「ミア。ここから出よう」
焼き菓子を持ったまま、ミアが首をかしげた。
「どこ行くの?」
「現界。俺たちが来たほう」
「戻るの?」
その言葉に、レイが一瞬だけ返事を詰まらせる。
「……一回、そっちに行こう。ここより安全な場所があるから。俺は姉さんを探しに来てたんだけど、先にミアを安全なところへ連れていったほうがよさそうだ」
ミアが4人を順に見た。
「レイたちも行く?」
「行くよ」
「じゃあ行く」
あっさりした返事だった。
レイの視線がさっきの道へ戻る。淡い布の結ばれた枝。その先。あと少し進めば見つかるのではないか、と思わせる方角だった。
「……ここまで来たのにな」
小さな声にヴァンが顔を向ける。レイは布の先を見たままだ。
「姉さん、近くにいるかもしれない。でもミアを連れ回して探すのは無理だよな」
すぐには誰も答えない。ミアは焼き菓子を握ったまま、大人たちの顔を見上げていた。
「ここで待たせるわけにもいきませんね」
アデルが静かに言い、ヴァンが頷く。
「一回戻るしかないよ」
レイは長く息を吐き、もう一度だけ淡い布を見た。
「……戻ろう。ミアを連れて帰って、できるだけ早く戻ってくる」
リゼットが石板と紙を鞄へ収めながら、レイへ目をやる。
「次はここから探せるわ。最初から全部やり直しじゃない」
レイの口元が少しだけ緩んだ。
「そうだな」
帰り道、ミアはしばらく自分で歩いていた。だんだんとその歩幅が小さくなる。振り返ったレイが聞いた。
「疲れた?」
「ちょっと」
「おんぶする?」
少し考えて、ミアが両手を上げる。
「する」
背を向けたレイの首にミアの腕が回った。
「ちゃんと掴まってて。落ちるなよ」
「レイも転ばないでね」
「転ばないよ」
「どうだか」
ヴァンの声に、ミアが背中で笑う。
石橋まで戻ると、レイは再び道を作った。何もない空間へ手を伸ばして位置を探る。指先が止まり、すっと押し込むと細い光が走った。隙間の向こうに現界の昼が見える。肩越しに覗き込んだミアが言った。
「明るい」
「向こうは昼だからね」
「こっちは夜なのに?」
「そういう場所らしいよ」
「レイもよくわかってないでしょ」
すぐ後ろからリゼットが言い、ミアが楽しそうに笑っている。
5人は現界へ戻った。低地には乾いた土と石だけが広がり、さっきまで歩いていた青白い川も石橋も見えない。
レイが道を閉じると切れ目は細く縮んで、跡形もなく消えた。
向こうの草むらを見たままレイは動かない。ミアがその袖を軽く引いた。
「レイ?」
「……うん。行こう」
一行はミアを連れて、王立境界院本部のある都市へ向かった。
*
境界院に着くと、リゼットはミアを保護した経緯を同僚たちに説明した。月界で7歳の子どもを発見したこと。本人はどこから来たのか覚えておらず、家族のこともわからないこと。その場では生きた人間と判断したが、詳しい確認はまだできていないこと。話を聞いた研究員たちはすぐに検査の準備を始める。
椅子に座ったミアが聞いた。
「痛いことする?」
「しないわよ。そこに座っててくれればいいから」
「じゃあいいよ」
大きな据え置き式の観測器具がミアの周囲で淡く光る。リゼットと同僚が結果を確かめ、また確かめるごとに会話が減っていった。見ていたレイが耐えきれずに聞く。
「何か変?」
「もう1回」
「今もやっただろ」
「確認してるの」
再び測定して、同じ結果が出る。リゼットが腕を組んだ。
「おかしい」
「何が?」
「ミアの過去の《記録》が拾えない」
レイの表情が変わった。
「俺みたいな?」
「違うわね」
即座に返される。
「あなたは足りないだけ。きちんと残ってないところがあっても記録自体はちゃんとある。ミアはその記録ごとないの。ここへ来るまでのものが一切見つからない」
ヴァンが眉を上げた。
「現界にも?」
「確認できない」
「月界にも?」
リゼットが頷くと部屋が静かになる。ミアは何の話かわからないらしく、椅子の上で足を揺らしていた。その足元をレイがしばらく見ている。
「本人が覚えてないからとか?」
「本人の記憶とは別よ。今すぐ結論は出せないわ。装置の問題も確認したいし、もっと細かく調べる必要がある」
アデルが椅子を持ってきてミアの前に座った。
「ミアさん。この検査が終わったら、行きたい場所はありますか?」
「ないよ」
「会いたい方は?」
「わかんない」
「ご家族は?」
今度は少し長く考えてから、ミアが首を振る。
「覚えてない。気がついたらあそこにいたの」
別の机で、リゼットの同僚が石板と紙を観察していた。
「これ、どこにあったの?」
「ミアがいた建物」
「見たことない形式ね」
リゼットも隣に立ち、2人で石板の線を指でなぞる。
「古いのは間違いなさそう」
「どのくらい?」
「そこまではわからない。今の術式と組み方が違いすぎる。用途も今すぐは無理」
「何にもわからないじゃない」
リゼットが唇を尖らせると同僚が呆れた顔をした。
「あなたがそれ言う? 持ってきてすぐ全部わかったら私たちは必要ないでしょう。調べておくわよ。ミアちゃんのほうも」
レイが顔を上げる。
「任せていい?」
「え?」
「俺たち、もう1回月界に行きたい」
リゼットはすぐ意図を察した。
「エリアさんね」
レイが頷く。壁から背を離したヴァンが肩を回した。
「8年平気だったからって、明日も確実に平気とは限らないしね」
アデルはミアのほうへ目をやってから、リゼットの同僚に向き直る。
「こちらで調べていただけるのでしたら、私たち全員が結果を待つ必要はないと思います」
リゼットの視線が机の上の見慣れない術式へ落ちた。指がその端に触れて、離れる。それから眼鏡の位置を直した。
「私も行く」
同僚が笑う。
「そう言うと思った」
「こっちはカティアに任せるわ。記録の測定と古い術式。勝手に何か起動しないでよ」
「それ、リゼットにだけは言われたくないわね」
2人を横目にレイはミアの前へ行った。
「ミア。俺たち、もう1回向こう行ってくる」
「お姉ちゃんを迎えに行くの?」
「うん。今度こそ」
「ミアはここにいる?」
「しばらくだけ。ここの人たちが一緒にいてくれるよ」
カティアが手を上げる。
「ちゃんと見てるから大丈夫」
ミアはカティアを見て、またレイに視線を戻した。
「すぐ戻ってくる?」
レイは一瞬だけ口をつぐむ。
「……できるだけ早く戻るよ」
ミアは頷いて、小さく手を振った。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
手を上げ返したレイの後ろで、リゼットがカティアに検査の内容と持ち帰った資料のことをもう1度説明している。アデルはミアの体調と食事について引き継ぎを済ませ、ヴァンは荷物を整えていた。
支度が済み、4人は境界院を出た。
*
低地へ戻ったレイは迷わず前へ進んだ。
「ここ。前と変わってない」
術式盤を見たリゼットの声に頷いて、手を伸ばす。指先で探り、止まり、押し込む。細い切れ目の向こうに夜が現れた。大きな月。青白い川。古い石橋。1度目と同じ景色だった。
道を広げたレイが一歩踏み込む。足元の石橋が、こつ、と音を立てた。淡い布の結ばれた枝はこの先にある。
レイの後ろに3人の足音が続く。
現界へ続く道が、ゆっくりと静かに閉じた。




