第十二章 一緒に帰ろう
月界に戻った一行が、青白い月の下を再び歩いていた。
前回と同じ場所から入ったのに、道や景色は以前と少しずつ姿を変えている。古い街道は途中から崩れた建物の間へ入り込み、前には見なかった水路が横切っていた。
「前もこんな道だったっけ?」
「違ったと思うわ」
術式盤を確かめながらリゼットが答える。
「でも方向は合ってる。前回の記録と比べても大きなずれはないわね」
先頭のヴァンが肩越しに振り返った。
「相変わらず面倒な場所だなあ。迷子の回数なら自信あるけど」
「それ自慢なの?」
「無事に帰ってきた回数でもあるからね」
レイが納得したように頷くと、リゼットの声が飛んだ。
「妙なところで納得しないで」
アデルが小さく笑う。
前回の探索で、エリアがいそうな場所はある程度絞れていた。人影の濃い領域を避けた先の静かな古い町並み。焚き火の跡。枝に結ばれた淡い色の布。確かな証拠とは言えなくても、何もわからないまま歩いた前回とは違う。
「あの布、まだあるかな」
「道しるべなら残してあるんじゃない?」
ヴァンが少し先の崩れた壁を指す。
「あの壁は覚えてる。越えれば焚き火の跡があった場所だ」
レイの足が速くなった。
「走らない」
「まだ走ってないよ」
「走りそうでした」
前を向いたままのアデルの声に、レイが振り返って笑う。
「よくわかったね」
*
焚き火の跡は前と同じ場所に残っていた。しゃがんだヴァンが拾った枝で灰を崩す。
「灰が増えてる。オレたちが帰ったあとに火を使った人がいるね」
「姉さんかな」
淡い布も、前回見たのと同じ枝で風に揺れていた。駆け寄ったレイの指先が布の端にそっと触れる。
「あった」
「色は似てるけど、まだ決めつけないでね」
隣に並んだリゼットにレイは頷いた。
「うん。だから探す」
布の先には石壁の間を抜ける細い道が続いている。屋根の崩れた建物。窓枠だけが残った家。途切れた石段。人の気配はなく、風の音と遠い水音だけが聞こえていた。
「姉さーん!」
声が古い町並みに響く。返事はない。
「エリアー!」
「結構響くね」
笑ったヴァンの視線が、ふと足元で止まった。砂の積もった石畳を指でなぞる。
「足跡だ。新しい」
細い靴の跡が石壁の間へ続いている。縁はまだ崩れていない。
「風が均す前だね。今日か、昨日あたり」
「行こう」
身を乗り出したレイの袖をアデルがそっと引いた。
「待ってください。あちらの壁際を」
崩れた壁の根元に小さな石が積まれている。その上に欠けた器が置かれていた。水が張られ、縁にはまだ乾ききらない滴が光っている。
「誰かが水を汲んで置いたようです。さっきのことだと思います」
「……近いね」
ヴァンが顔を上げた。耳を澄ますように目を細め、石壁の向こうを指す。
「あっちだ。足音がある」
リゼットが術式盤を握り直した。
「レイ、走らないで」
「走ってない!」
言い終わる前にレイは角を曲がっていた。
「レイ、待って!」
リゼットが追いかける。建物の角を曲がった先には小さく開けた場所があった。低い石段と、半分崩れた壁。その向こうで女性が振り向く。
濃い紺の長い髪。白へ溶けるような薄布の裾。腰の後ろで淡い色のリボンが揺れていた。
レイの足が止まる。
「……姉さん」
エリアの目が見開かれた。
「……レイ?」
「やっと見つけた」
「どうして……」
「迎えに来たんだ」
「ここまで? どうして?」
「来るって言ったじゃん」
あまりに当然のような返事に、エリアの目元がくしゃりと歪む。
「……本当に来ちゃったのね」
レイのほうへ一歩踏み出した途端、体がぐらりと傾いた。
「姉さん!」
倒れる前にレイが肩を支える。エリアは石壁に片手をつき、目を閉じて息を整えた。
「ごめんなさい。なんだか……」
「気分悪い?」
「痛いとかじゃないの。もう平気」
追いついたアデルがエリアの手首へ指を添える。
「顔色には問題ありませんが、念のため座りましょうか」
「ええ、ありがとうございます」
リゼットが術式盤を向けてみても、周囲の数値に大きな変化はみられない。小さく頷いて盤を下ろす。
石段に腰を下ろしたレイが3人を順に紹介した。月界に詳しい研究員のリゼット。元夜渡りのヴァン。教会のアデル。
「弟がお世話になってます」
頭を下げるエリアに、ヴァンが軽く手を上げる。
「そんな固くならないでよ。レイともこんな感じだし」
「適当なやつだよ、ヴァンって」
「それ、紹介としてどうなの?」
エリアが声を立てて笑った。
*
「姉さん、ここで暮らしてたの?」
レイが古い町並みを見回す。
「最近はこの辺りが多いかな。ずっと同じ場所ってわけじゃないけど」
エリアは少し考えてから続けた。
「道が変わるでしょう? 昨日まで通れたところが急に通れなくなったり。それで最初のうちは困ってたけど、水があって、休めて、あまり人がいない場所は少しずつわかるようになったの」
ヴァンが首をかしげる。
「人がいない場所を選んでたの?」
「人みたいなものがたくさんいる場所があるでしょう」
「あ、見たよ。いっぱい重なってるとこ」
その言葉を聞いたエリアが心配そうにレイの顔を見つめる。
「行ったの? でも戻ったのよね。よかった」
「姉さんも行った?」
「最初の頃にね。人がいるんだと思って、嬉しくなって話しかけたの。でも誰もこっちを見ないし、同じことを何度も繰り返してる人もいて。顔が別の人に変わったり、声が他の人のものになったり」
ヴァンは冗談を挟まず、静かに頷いた。
「それは怖かっただろうね」
「長くいたら自分までおかしくなりそうで。だから近づかないようにしてたの」
リゼットが顔を上げる。
「人型の残響が濃い領域ですね」
エリアが首をかしげた。
「ざんきょう?」
「ああ、そうですよね。まずエリアさんが暮らしていた元の世界は現界、今いるこの世界が月界と呼ばれています。この月界にいる昔の人や物の情報を残響と呼ぶんです。人の姿をしたものもその1つです」
「あの人たち、そういうものだったのね。ずっと何なのかわからなくて」
アデルが静かに尋ねる。
「8年間、人と話す機会はなかったんですか?」
「声が聞こえても会話はできたことがなくて」
「それは退屈だったろ」
「退屈というより、寂しかったかな」
エリアは周囲の古い建物を見渡した。
「でも、景色がきれいなところもあったの。ここもそんなに嫌いじゃないわ」
*
石段に腰を下ろしたまま、レイがふと思い出したように尋ねた。
「俺と会ったあとも現界に出てみた?」
「うん。何度か試してみたの」
エリアは膝の上で指を組む。
「どうしてなのかはわからないけど、以前よりずいぶん長く向こうにいられるようになったの。前は出てもすぐ戻されてたのに」
リゼットが顔を上げた。
「どれくらいですか?」
「2日くらい」
「2日?」
レイが目を丸くする。
「そんなに?」
「うん。だからレイを探しに港へ向かったのよ。会えるかもしれないと思って」
「あの町? それ、いつ?」
「レイに会ったあとだから最近の話ね。でも、着く前にまたこっちへ戻されちゃった」
「俺たちはずっと旅してたからなあ。会えなくて当然か」
「そうなのね。私、それも知らなかったから」
エリアが苦笑する。ヴァンが腕を組んだ。
「道が変わる場所だし、向こうに出られる場所も限られてるからね。行きたいところへ行けるとは限らない」
「でも、会いたかった」
レイは一瞬だけ黙った。
「……俺も探してたよ」
「うん。前に会ったときに教えてくれたね」
少しして、レイが続ける。
「前より長く現界にいられるようになってるんだよな。だったら今度は帰れるかも」
エリアの笑みが止まった。リゼットはすぐには答えず、一拍置いて口を開く。
「可能性はあります。でも、長くいられるようになった理由も、戻される理由もわかっていません。完全に帰れるかどうかは別の話です」
「そっか」
アデルがエリアへ向き直った。
「エリアさんは現界へ戻りたいんですよね」
「ええ。8年間、ずっと」
「では今、何を心配されているのか聞かせてもらえませんか?」
エリアは少し黙った。視線がレイへ向く。
「……レイのことです。8年前、私が黒い何かを掴んだらレイが向こうへ戻った。そしたら私が戻れなくなった。どうしてなのか今もわからない。もし私が戻ったら、今度はレイがこっちへ引かれるんじゃないかって」
自分の両手を見つめる。
「それが起きないとは誰も言えないでしょう?」
全員すぐには答えなかった。最初に口を開いたのはヴァンだった。
「確かにね。オレも長く月界に入ってたけど、レイとエリアさんの8年前みたいな話は聞いたことがない。大丈夫だとは言えないな」
リゼットも頷く。
「エリアさんが戻れない原因自体、まだわかっていません。危険があると決まったわけでもないですが、ないとも言い切れないんです」
エリアの隣に腰を下ろしたアデルがレイへ視線を向ける。
「レイさんは、それを聞いてどうしたいですか?」
「帰りたいよ」
即答だった。
「絶対大丈夫って言えないのもわかった。でも8年前は何も知らなかっただろ。少なくとも今回は黒いもののことを知ってる」
レイはエリアを見る。
「だから姉さんがどうしたいか聞きたい」
「それは……帰りたいよ」
エリアの声が少し震えた。
「でも怖いの」
「うん」
レイは笑った。
「じゃあ、怖いままでも帰ってみない?」
「そんなに簡単に言うの?」
「簡単じゃないのはわかってるよ。でも、ここで考えてても答えは出ないんだろ?」
リゼットが頷く。
「実際に試さないとわからない部分が残っています」
ヴァンが荷物を肩に掛け直した。
「道を作るのはレイだけど、帰るのは2人だけじゃないしね。オレたちもいるよ」
「何か起きたときに必ず対処できるとは言えません」
アデルが続ける。
「でも、お2人だけに任せるつもりもありません」
エリアは3人を順に見て、最後にレイを見た。それからゆっくり息を吸う。
「……レイ」
「うん」
「一緒に帰ろう」
レイの顔がぱっと明るくなった。
「うん。もちろん」
「でも無茶はしないでね」
「姉さん、さっきからそればっかり」
「8年ぶりなんだから仕方ないでしょう」
「何でも8年ぶりって言えばいいと思ってない?」
「便利でしょう?」
吹き出したレイの横でヴァンが肩をすくめる。
「いやあ、これはレイも敵わないねえ」
*
帰り道は来るときほど時間はかからなかった。エリアがこのあたりの地形を知っていたため、ヴァンと相談しながら道を選べる。
「そっちは途中で道が途切れるの。何度か通ろうとして結局戻ったから」
「へえ。じゃあこっちだね」
「少し遠回りだけど、そっちに行ったほうが抜けられると思う」
先を行く2人の後ろでレイが尋ねた。
「姉さん、現界に戻ったら何したい?」
「そうねえ。ちゃんとしたご飯が食べたいかな。焼きたてのパンとか、温かいスープとか」
「そんなのでいいの?」
「毎日食べられるからそう言うのよ」
アデルが微笑む。
「それなら今夜は温かいものにしましょうか」
「お料理なさるんですか? 私も好きなんです」
「では今度ご一緒に」
振り返ったヴァンの目が輝いている。
「料理できる人が増えた!」
「ヴァンさんは?」
「オレ? 食べる専門」
「じゃあ片づけをお願いしますね」
「早速仕事ができたなあ」
リゼットが呆れた顔で息を吐く。
「何でそんなに素直なのよ」
「頼られると断れなくてね」
エリアはレイの横に並んで、小さく笑った。
「あとは港にも行きたいわ。どれくらい変わったか見たいもの」
「そんなに変わってないよ」
「それでいいの。昔から知ってる場所が今もあるってわかれば」
「じゃあ案内するよ。あと、釣りも結構得意になったんだ」
「そうなの? 教えてもらおうかな」
「オレも行っていい?」
「もちろん」
「釣れなくても肉が食いたいね」
「魚釣りなのに?」
「肉は別腹だから」
「意味わかんない」
*
青白い川と古い石橋が見えてきた。
「ここだ。前に姉さんと会った場所の、月界側」
リゼットが術式盤を取り出す。
「位置は前回とほぼ同じ。境界値も安定してるわ」
レイは橋の先の何もない空間へ手を伸ばした。指先で位置を探り、ふっと止める。そのままゆっくり押し込むと、空間に再び細い切れ目が走った。
向こうには昼の光が見える。乾いた土。低い草。遠くに続く街道。現界だった。
エリアはその景色をじっと見つめている。
「……これが、レイの道なのね」
「向こうまで続いてるよ」
リゼットが術式盤を確かめた。
「道そのものに異常は見られない」
「じゃ、オレたちから先に行こうか」
ヴァンとアデルとリゼットが順に切れ目をくぐり、現界側から術式盤を構える。
「いつでもいいわよ」
「姉さん」
レイが振り返る。エリアは一度だけ、月界の景色を見た。青白い川。古い石橋。遠くの崩れた建物。8年間、何度も歩いた場所だ。
「……レイ」
「なに?」
「手、つないでいい?」
レイは少し驚いた顔をして、それから笑って片手を差し出した。エリアがその手を取る。自分よりひと回り大きい、17歳になった弟の手。
「……大きくなったね」
「またそれ?」
「何回でも言うわよ」
「ここを出てから何回でも聞くよ」
2人は並んで一歩を踏み出した。石橋から乾いた土へ。靴の下の感触が変わり、風が髪を揺らす。
昼の光の中でエリアは自分の手を見下ろした。指を握って、開く。
「……大丈夫」
「戻されそうな感じは?」
「今のところは平気そう」
術式盤を確かめたリゼットが言う。
「周囲の境界値は安定してるし、月界側へ戻されるような変化も見られないわ。ただ、帰れたとまではまだ言えない。これまでも出られたあとで戻されたんでしょう?」
「そうね」
エリアは頷いた。それでも握ったままの手は離さない。レイもその手を握り返していた。
*
町へ向かう街道を5人並んで歩いた。ヴァンが街道の先を指す。
「このまま行けば夕方には町に着けそうだよ。宿があればいいけど」
「ご飯は?」
「着いてから」
「肉?」
「肉だといいねえ」
「だから、まず宿を探しなさいよ!」
リゼットの声が響いて、レイとヴァンが顔を見合わせる。アデルが小さく息を吐いた。
エリアはその様子を眺めながら、歩く速さを上げてレイの隣へ並ぶ。
「今夜の夕食、私も楽しみ。魚がいいわ」
「えー、肉がいい」
「港町の子でしょう?」
「そうだけど」
「じゃあ両方食べればいいじゃない」
「それだ!」
前からヴァンの声が飛んでくる。
「エリア、いいこと言うねえ」
「ほら、すぐ話が大きくなる」
リゼットが振り返り、アデルも楽しそうに笑っていた。
町の屋根が見えてくると、レイが弾かれたように駆け出す。
「宿、先に見てくる!」
「走らない!」
3人分の声が重なった。レイは振り返って手を振り、また前を向いて走っていく。
エリアも笑ってその背中に声を投げた。
「あとで追いつくわ!」




