第十三章 その子には聞いたの?
翌朝、レイが食堂へ下りたときにはもう窓際の席にエリアがいた。テーブルには温かいお茶と焼きたてのパンが並んでいる。窓の外を眺めていたエリアがレイに気づいて顔を上げる。
「おはよう、レイ」
「おはよう、姉さん。早いね」
「目が覚めちゃったの。久しぶりにちゃんとしたベッドで眠れたからかな」
「逆じゃない?」
「そうかもしれないわね」
くすっと笑ってエリアはカップを両手で包む。向かいに腰を下ろしたレイを見て、少し間を置いてから切り出した。
「昨日は聞けなかったんだけど、緋月のこと。レイの記憶を封じたって話」
「うん、聞いたよ」
「前に会ったとき、私の顔まで思い出せないって言ってたでしょう? あのとき私が緋月から聞いたのは、あの日のことを封じたって話だけだったの」
「緋月は、あの日と強くつながってることも辿れなくなったんじゃないかって言ってた。姉さんと暮らしてたことは覚えてるんだ。遊んだことも、叱られたことも。顔だけがどうしても出てこない」
エリアはレイの顔をじっと見た。
「ほかの記憶に影響は出てない?」
「自分じゃわかんないな。忘れてても忘れたって気づけないだろうし」
パンへ伸ばしかけた手を止めて、レイは続ける。
「でも今まで普通に暮らしてたよ。困ったこともなかったし」
「そう。……もう1度、緋月に会えるかな」
「会いたいの?」
「ちゃんと聞いてみたいの。どうしてあんなことができるのかも」
「連絡する方法はあるよ」
レイは港町で緋月と交わした約束を話した。町に着いたらその土地の教会へ居場所を残すこと。次に向かう先がわかれば、それも伝えること。
「毎回ってしつこく言ったから、緋月もたぶん守ってくれてる。と思う」
「そんな方法を考えたのね」
「だって会いたくても探しようがなかったからさ」
エリアは小さく微笑んだ。
「じゃあお願いしてもいい?」
「もちろん」
2人が話していると、食堂の入口から声が聞こえてきた。
「お、もう食べてる」
ヴァンが入ってくる。後ろにはリゼットとアデルもいた。
「ヴァンが遅いのよ」
「まだ朝食の時間だよ?」
言い返しかけたリゼットが途中で口を閉じる。レイは3人へ顔を向けた。
「今日、教会に寄ってもいい? 姉さんが緋月に会いたいんだって」
アデルがエリアへ目を向ける。
「それなら教会で所在を確認してみましょうか。最後に確認された場所しかわからないかもしれませんが、伝言は預けられると思います」
「ありがとうございます、アデルさん。それで十分です」
席に着いたヴァンが空の皿を指で叩く。
「その前にオレの朝飯も頼むよ」
「自分で頼みなさいよ」
「リゼット冷たいなあ」
アデルが口元を緩めて空いた席に座った。
*
教会でアデルが事情を説明すると、係の人が各地から届いた連絡記録を確かめてくれた。
「緋月さんですね。数日前に別の町の教会へ立ち寄られた記録があります」
「今もそこにいる?」
「そこまでは。すでに移動されているかもしれません。ですが伝言なら回せますよ」
エリアが少し考えてから口を開く。
「エリア・アルヴェインが帰ってきたことと、レイの記憶についてお話ししたいことがある、と伝えていただけますか。お返事は境界院本部がある町の教会へお願いします」
「承知しました」
「会えるといいな」
「うん。会えたらちゃんと聞いてみるわ」
*
拠点にしている都市へ戻った一行は、まずミアの様子を見に境界院本部へ向かった。顔なじみの研究員が入口で手を上げる。
「おっ、リゼット。戻ってたのか」
「カティアは?」
「奥の研究室。昨日も遅くまで調べてたみたいだよ」
ヴァンが廊下を歩きながら笑った。
「リゼットに任された仕事だからねえ。やらないと口うるさく叱られるだろうし」
「私を何だと思ってるのよ」
ミアを預けた部屋へ近づくと、扉の向こうから楽しそうな歌声が聞こえる。少し開いた隙間から小さな顔が覗いた。
「……レイ?」
「ミア!」
レイが手を上げた途端、ミアが駆け寄って勢いよく抱きついた。
「帰ってきた!」
「ただいま」
「お姉ちゃんは?」
「見つかったよ。ほら」
レイが横へずれる。エリアがミアの前にしゃがんだ。
「こんにちは。エリアです」
「レイのお姉ちゃん? 見つかったんだ!」
「ええ、レイが迎えに来てくれたの。あなたがミアちゃんね」
「うん!」
ミアはエリアの長い髪をじっと見つめた。
「レイと色が似てるね。でもレイは明るい青で、エリアは夜みたい。きれい!」
「ありがとう」
「俺のは?」
隣からレイが口を挟む。
「空!」
「そっか。空か」
妙に嬉しそうなレイを見て、ヴァンがにやにやと笑っている。
そのとき奥の部屋から資料を抱えた女性が顔を出した。
「ミアちゃーん、どこに……あ、リゼット! 戻ってたのね」
「今着いたところ。ミアのことありがとう、カティア」
「あの子は元気よ。見ればわかるでしょうけど。ちゃんと食べるし、よく寝るし。あとはずっと何か描いてるわ」
ミアが机の上の紙を広げて見せた。色とりどりの花、大きな家、並んだ人の顔。
「これ、カティア!」
指さされた絵を見てカティアが眉を上げる。
「……私、こんなに丸い?」
「かわいいでしょ?」
「そうね。かわいいわね」
苦笑するカティアの隣からエリアが覗き込む。
「あら、ミアちゃん上手ね。時間ができたら一緒に描こうか」
「描く!」
楽しそうに絵の話で盛り上がるミアから少し離れて、リゼットがカティアに尋ねた。
「それで検査のほうは?」
「ミアちゃんは別の装置でも測ったけど、それもやっぱり前と同じ結果だったわ。機器の不具合ではなさそうね。持ち帰った術式のほうは少し時間がかかってるの。まとまったら説明する」
「わかった。私の借りにしておいて」
「高いものにするからね」
「限度はあるわよ!」
*
翌日、教会から連絡が届いた。緋月がこちらへ向かうという。
待ち合わせ場所として伝えていた教会の中庭に、一行よりも先に緋月が来ていた。白銀の長い髪に深紅の花の髪飾り。足元には猫が座っている。
「緋月!」
振り返った緋月にレイが手を振った。
「ちゃんと伝言届いたんだな。ありがとう、来てくれて」
「用があるんでしょう?」
レイが横へ退くと、エリアが一歩前へ出た。
「緋月」
「……現界へ戻れたのね」
「一旦はね。いつ引き戻されるかわからないけど」
「そう」
「少し話せる?」
「ええ」
2人が中庭の端のベンチに座る。レイたちは少し離れた場所でエリアが話し始めるのを待った。
「8年前のあの日、あなたがレイの記憶を封じた理由は聞いたわ。それを責めたいわけじゃないの。お願いを聞いてもらって感謝もしてるのよ。ただ、レイが私の顔まで思い出せないと知ってね。封じたのはあの日のことだけじゃなかったの?」
「中心にしたのはあの日の記憶よ。何が起きたか、あなたが残った経緯、それに繋がる強い記憶」
緋月はレイを見る。
「顔そのものを選んで封じたわけじゃない。あの日と強く結びついていたものが辿れなくなったんだと思う」
「ほかにも影響が出ている可能性は?」
「あるわ」
即答だった。エリアの表情が強張る。
「ただ、それ以外の記憶には触れていない。どこまで影響したかは断定できない」
「その封印、元に戻せる?」
緋月は首を横に振った。
「わたしには戻せない。思い出せることがあるかもしれないけど、それがいつなのか、本当に戻るのかもわからないわ」
エリアは膝の上で両手を重ねた。そこへ離れた場所からレイの声が飛ぶ。
「でも、今の姉さんの顔はわかるよ」
「……レイ」
「思い出せたらいいのにとは思うけど、今すぐ困ってるわけじゃないからさ」
エリアは小さく頷いて、緋月へ向き直る。
「それともう1つ。ねえ緋月。どうして私がこっちへ戻れる時間が長くなったのか、何かわかる?」
「わたしにはわからないわ」
静かな答えだった。エリアが小さく息を吐くより先に緋月が続ける。
「……でも、わかる人はいるかもしれないわね」
「いるの? 誰?」
身を乗り出したレイに、緋月は首を振った。
「今は話さない」
「またそれ」
レイが額を押さえる。エリアはその横顔を見て、困ったように笑った。
「じゃあもう1つだけ。どうしてあなたには記憶を封じるなんてことができるの?」
緋月は伸びをしている猫の背へ目を向ける。
「それはわたし自身の話よ。今は話さない」
「俺も聞いたけど同じこと言われた」
レイの声に、エリアはもう1度笑った。
「そう言われたら今は聞けないわね。聞きたかったことは聞けたから。ありがとう、緋月」
「そう」
退屈になったのか、緋月のそばにいた猫がヴァンの足元へ歩いていった。しゃがんだヴァンの膝に猫が頭をこすりつける。
「お、こっち来た」
「珍しいわね」
緋月が小さく首をかしげる。
「おまえ見る目があるなあ。いい男だもんな、オレ」
「そこまで言ってないわ」
即座に返されて、レイが吹き出した。
*
境界院へ戻るときも緋月は一行と歩いていた。月界に1人でいた子どもというのが気になるのかもしれない。研究室ではカティアが資料を広げて待っていた。
「リゼット、ちょうどよかった。持ち帰った術式については一応まとまったわよ」
「何かわかった?」
「古い形式なのは間違いなさそう。ただ、今の術式とは考え方自体が違うの。年代も用途も特定できないし、既存の資料と照合しても一致するものは出なかった」
「……何にもわからないじゃない」
リゼットが石板を手に取り、細い線をじっと見つめる。
「古い研究資料がもっと残っていればね」
「だから別の手がかりを探したほうがいいと思うの」
カティアが机の端の地図を開いた。
「今の境界院ができるより前から境界を調べていた施設があるのよ。昔の資料が全部ここに移されたわけじゃないから」
ヴァンが地図を覗き込む。
「昔のものなら昔の場所を調べるってことか」
「今回の術式がそこで使われていた証拠はないわよ。ここで調べられない資料が残っているかもしれない、というだけ」
「それでも行ってみる価値はあるわね」
リゼットの返事にカティアは頷いた。
*
隣の部屋ではミアが床で絵を描いていた。レイが覗き込む。
「何描いてるの?」
「猫! さっき窓の外にいた」
指さす先には緋月の猫がいた。ミアは立ち上がって緋月の前へ駆け寄る。
「こんにちは! 猫、触っていい?」
「嫌がらなければ」
そっと伸ばした手に猫が鼻先を寄せる。しばらく撫でられてから、猫は窓際へ歩いていった。
「あ、行っちゃった」
「猫だもの」
ミアは少し考えて頷き、また絵のところへ戻っていく。その後ろ姿を眺めながらレイが呟いた。
「ミア、元気そうだな。……でもずっとここに置いてもらうわけにもいかないよなあ」
リゼットが顔を上げる。
「そうね。境界院は子どもが暮らす施設じゃないもの」
「教会で一時的に保護することもできます」
アデルが続けた。
「身元のわからない子どもへの対応は教会でも行っていますから」
「そうするとオレたちとは別になるね」
ヴァンがミアの背中を見る。
「せっかく懐いてくれたのに」
「かといって連れ歩くのがいいとも限らないわ。これから行く場所が安全とは限らないもの」
腕を組んだリゼットにエリアが口を挟んだ。
「でもずっと別々にもいられないでしょう?」
カティアが資料を抱えて入ってくる。
「ここでしばらく預かることはできるわよ。長くなるなら生活する場所も考えないとね」
「そうだよなあ」
レイが頭をかく。
そのとき、静かな声がした。
「その子には聞いたの?」
全員が緋月を見る。緋月の目はミアではなく、レイに向いている。じっと、逸らさずに。
「……え?」
「ミア本人には、聞いたの?」
誰もすぐには答えなかった。レイは緋月の視線を受け止めたまま、はっとして、それからミアの小さな背中へ目を移す。
――俺にも決めさせてほしかった。
港で自分が口にした言葉が胸に落ちる。レイは思わず額を押さえた。
「どうした?」
ヴァンが首をかしげる。
「いや。聞いてなかったなって」
リゼットが口を閉じ、アデルが静かに頷いた。
「そうですね。私たちだけで話していました」
緋月はそれ以上何も言わず、ただレイを見ていた。レイは椅子から立ち上がる。
「ミアに聞いてくる」
*
ミアはまだ絵を描いていた。猫の横に小さな人間を描き足している。
「ミア。ちょっと聞きたいことがあるんだ」
「なあに?」
レイは目の高さを合わせてしゃがんだ。
「これからのこと。ミアはどうしたい? ここでもう少し暮らすことも、教会っていうところでお世話してもらうこともできる。俺たちは調べたいことがあるから旅に出るんだ」
隣にしゃがんだアデルが補う。
「教会には子どもたちが安心して暮らせる場所があります」
ミアは筆を持ったまま少し黙った。
「レイたちみんなで行くの? エリアも、ヴァンも、リゼットも?」
「うん」
ミアがまっすぐレイを見る。
「ミアも行く」
「どうして?」
「みんなといたいから。ここも楽しいよ。カティアも優しいし、ご飯もおいしいし。でも、レイたちと一緒がいい」
アデルが穏やかに尋ねる。
「旅の途中には危ない場所もあるかもしれません。それでも一緒に行きたいですか?」
「じゃあ、怖いところは行かない」
レイが思わず笑った。
「それができたらいいんだけどな。行ってみないとわかんないこともあるんだ」
「じゃあ、みんなで考えたらいいよ」
レイは一瞬だけ黙って、それから笑った。
「……そうだな。危ない場所に行くときは安全なところで待っててもらうよ。ちゃんと戻ってくるから」
「じゃあいいよ!」
あっさりした返事に、レイはアデルと顔を見合わせた。
「話、早いな」
「そうですね」
アデルの目元が、ふっと和らいだ。
*
みんなのところへ戻ると、ヴァンが真っ先に尋ねた。
「どうだった?」
「一緒に行きたいって」
「ミアも行く!」
リゼットが困ったように笑う。
「そう言うと思ったわ」
「じゃあ、最初から聞けばよかったね」
「そうね」
素直に頷くリゼットの隣で、アデルが続けた。
「本人の希望はわかりました。ただ、危険な場所へ行くときの判断は、私たちできちんとする必要がありますね」
「うん」
レイが頷く。
カティアがミアを見た。
「本当に行っちゃうの? 寂しくなるわねえ」
「また来るよ! 絵も持ってくる!」
「楽しみにしてるわ」
エリアがミアの隣にしゃがむ。
「これからよろしくね、ミアちゃん。一緒にご飯も作ろうか」
「作る! お菓子も?」
「もちろん」
ミアの顔がぱっと明るくなる。
「俺も食べる!」
「レイは作らないの?」
エリアに聞かれてレイが固まった。
「え?」
「食べるだけ?」
ヴァンが肩をすくめて笑う。
「少年、仲間ができたと思ったのに」
「ヴァンだって食べる専門だろ!」
「オレは片づけ担当だから」
「ずるい!」
リゼットが額に手を当てた。
「今からそんな調子で大丈夫なのかしら」
アデルは茶器を手に、聞こえないふりをしている。少し離れたところで緋月がその様子を眺めていた。レイが気づいて顔を向ける。
「なに?」
「いや。ありがとう」
「何もしてないわ」
「それがよかったんだよ」
緋月は何も答えなかった。足元で猫が小さく欠伸をする。
*
話が一段落したところで、カティアが机の上へ地図を広げた。
「それじゃ、次の調査先の話ね」
彼女の指が地図の一角を示す。
「第一境界研究所跡」
リゼットが身を乗り出した。
「かなり古い施設よね」
「境界研究が今ほど体系化される前から使われていた場所よ。ここには昔の研究成果も保管されているけど、当時の設備や未整理の資料まで全部移したわけじゃないの」
ヴァンが地図の周囲を目でたどる。
「建物はまだ残ってるの?」
「一部はね。立ち入り禁止にはなっていないけど、古い建物だから気をつけて」
「近くまでなら行ったことあるよ。昔の街道が今も使えるかは確認しておきたいけどね」
アデルが地図を見ながら続ける。
「ミアさんも一緒ですから、途中で休める町を確認しておきたいですね」
「どれくらいかかるの?」
そう聞くエリアにヴァンが答える。
「歩けば数日かな。途中に町はあるはず」
リゼットは資料をまとめ始めた。
「カティア、研究所跡の資料は写しを借りてもいい? 持ち帰った石板も現地で比べたいの」
「もちろん。用意しておくわ」
レイが地図を覗き込む。
「じゃあ、次はここだな」
「何が見つかるかはわからないけどね」
「行ってみないとわかんないだろ?」
「オレはいいよ」
「私も異存ありません」
ヴァンとアデルが答え、エリアも頷く。
「私も一緒に行くわ」
「ミアも!」
勢いよく手を上げるミアに、レイが笑った。
「じゃあ決まりだな」
意見がまとまったそのとき、静かな声がした。
「わたしも行くわ」
全員が振り返る。緋月が地図を見ていた。
「……緋月も? 研究所跡に?」
「ええ」
レイが首をかしげる。
「珍しいね。緋月から一緒に行くって言うの」
緋月は答えなかった。地図の上の1点を見つめたまま、もう1度だけ口を開く。
「わたしも行くわ」




