第十四章 第一境界研究所跡
王立境界院を出て4日目、一行は山あいを抜けて古い街道を歩いていた。
先頭ではヴァンが地図を確かめている。隣でレイが街道の先に見える建物らしい影を指さした。
「あれじゃない?」
「違うね。農家の跡だよ」
「なんでわかるの?」
「畑があるだろ。研究所にしてはのどかすぎる」
「研究所だって畑くらいあるかもしれないじゃん」
後ろからリゼットの声が飛ぶ。
「研究所跡はもう少し先よ。地図くらいちゃんと見なさい」
「見てるよ」
「見てないでしょう」
「ヴァンが見てる」
「そういうことじゃないの!」
少し後ろではミアがエリアと並んで歩いていた。
「エリア、お腹すいた」
「さっきお菓子食べたでしょう?」
「お腹すいてても歩けるよ」
「それは頼もしいわね。お昼はちゃんと用意してあるわよ。着いてからのお楽しみ」
ミアが嬉しそうに頷く。アデルはその隣で水筒の残りを確かめていた。
少し離れたところに緋月が猫と歩いている。レイが振り返った。
「緋月、疲れてない?」
「平気よ。前を見て歩いたら?」
言い終わる前に、レイの靴が道端の石に引っかかる。
「あっ」
「ほら」
「転んでないよ!」
ヴァンが顔を背けて咳払いをした。
*
昼前、街道の左手に大きな湖が現れた。山々に囲まれた静かな湖で、風がほとんどなく、水面には空と対岸の森がくっきり映っている。
「わあ!」
駆け寄りかけたミアにアデルが声をかける。
「道から外れないでくださいね」
「見て! 空が水の中にある!」
エリアが湖を見つめた。
「きれいなところ」
地図に目を落としたリゼットが言う。
「鏡湖ね。景色が鏡みたいに映るから、そう呼ばれてるんだって」
水面を覗き込んだレイにリゼットが付け足した。
「落ちないでよ」
「落ちないって」
ヴァンが湖畔の道を指す。
「このまま進めば研究所跡だよ。ちょうどいいし、このあたりで昼にしようか」
「やった!」
木陰に腰を下ろして、アデルとエリアが昼食を広げた。パンと野菜、香草で味をつけた鶏肉。レイとヴァンの手が同時に肉へ伸びる。
「おい、ヴァン!」
「早い者勝ちだよ、少年」
「まだ食べ始めてないだろ!」
「こら、2人とも」
エリアの呆れた声に、ミアがパンを頬張ったまま笑う。
猫は緋月の足元で湖を見ていた。緋月の目がしばらく水面に向いて、皿へ戻る。
*
湖が木々の向こうに隠れる頃、古い石造りの建物が見え始めた。
「……あれかな」
レイが足を止める。森の奥に建物がいくつも並んでいた。屋根の崩れたもの、壁だけが残ったもの、蔦に覆われて窓がほとんど見えないもの。手前には朽ちかけた鉄の門があり、脇に埋め込まれた石板にかろうじて文字が残っている。
リゼットが近づいて表面の汚れを手で払った。
「第一境界研究所……」
「ここだ」
敷地の中には建物をつなぐ石畳の道が残っていた。奥には大きな円形の建物も見える。リゼットが資料を広げる。
「当時の配置図だと、手前が管理棟。奥に研究棟と観測施設。まず管理棟ね。資料が残ってるならそっちの可能性が高い」
ヴァンが門を押すと、錆びた蝶番が軋み、片側だけがゆっくり動いた。
「開くには開くけど触らないほうがいいね。上の金具がほとんど外れてる。倒れてきたら危ない」
「じゃあ横から通ろう」
レイが門の脇へ回る。そこには人が1人通れるほどの隙間があった。
「……よく見つけたね」
「見ればわかるじゃん」
先にリゼットが管理棟へ向かっている。ヴァンが呟いた。
「着いた途端に元気だなあ」
「楽しみにしていたんでしょうね」
アデルが答えた。
*
管理棟の入口は半分崩れていたが、内部の廊下は残っていた。床には土と落ち葉が積もり、天井からは木の根が垂れている。
「ミア、足元に気をつけてね」
「うん!」
「何か見つけても勝手に触らないでくださいね」
アデルの言葉に、リゼットがレイを振り返る。
「レイにも言ってるのよ」
「俺?」
「あなた以外に誰がいるの」
「ミアもいるじゃん」
「どっちもよ!」
ヴァンが廊下の奥を覗き込んだ。
「右側は避けようか。石の継ぎ目が浮いてる。下が空洞かもしれない」
「左にも通路があるわ」
「見てくるよ」
数歩進んで足元を確かめ、ヴァンが振り返る。
「こっちは大丈夫そう」
扉の脇に部屋の名前を記した札がいくつか残っていた。会議室。管理室。資料保管室。
「ここね」
リゼットの足が止まる。札の下の扉は枠ごと傾いていた。ヴァンが軽く押す。
「動かないな。無理に押すと枠ごと倒れそうだ」
「廊下の先にも部屋があるようです」
アデルが奥を覗き込む。
「つながっているかもしれません」
隣の部屋はかつて事務室だったらしい。長い机がいくつも並び、壁際に書棚が残っている。紙の大半は傷んでいたが、奥には金属製の保管棚が並んでいた。
「……これは」
棚を覗き込んだリゼットが蝶番に触れる。錆びてはいるがまだ動いた。中には古い綴じ紐でまとめられた書類が並んでいる。
「……あった」
声が少し上ずった。
「こっちにもあるよ」
別の棚を開けたヴァンにリゼットが手を上げる。
「待って、順番に見るから!」
机の埃を払い、比較的状態のいい書類を広げた。紙は黄ばんでいるが文字は読める。
「観測記録……境界位相……」
「昔からそういうの測ってたんだ」
レイが横から覗き込む。
「ただ、測定方法が今とは違うの。この数値の取り方なんて途中の計算が全然違う。使われてる記号の意味から調べ直さないといけないところもあるわ」
「持って帰れば調べられる?」
「必要なら境界院へ持ち帰る手続きをする」
アデルは別の棚を確かめていた。
「こちらは状態がよさそうです。管理記録や備品の一覧のようですね」
一枚取り出して、文字を目で追う。
「職員名簿もあります」
「それも見たい!」
リゼットが顔を上げる。ヴァンが苦笑した。
「全部見る気? 今日中に終わるかなあ」
「終わらなかったら明日も来ればいいでしょう」
「それでいいじゃん」
頷くレイとリゼットを見比べて、ヴァンが目を細める。
「……そういうところは気が合うんだね」
*
管理室の奥の小さな資料室には古い図面が何枚も貼られ、棚に研究記録らしい冊子が並んでいた。
「これ、何の絵?」
レイが壁の1枚を指さす。大きな円と、その周囲に幾重にも引かれた線。見慣れない装置の断面図だった。
「古い観測装置かしら。今のものとは構造がずいぶん違うわね。それにこの記号……」
図面の隅に目を留めたリゼットが、はっと息を呑む。
「セイン・エルディア……」
「誰?」
リゼットが勢いよく振り返った。
「は? 知らないの!?」
「知らないよ」
「うそでしょう!? セイン・エルディアよ!? 境界研究を学ぶ人間なら最初に名前を覚える人なのに、なんで知らないの!? 信じられない!」
「リゼット、レイに研究者の名前を聞いても無理だって」
ヴァンの声にもリゼットは首を振るばかりだ。
「ヴァンも知らないの!? ……もう。いい? 境界研究の歴史で最も重要な研究者の1人よ。今の境界観測の基礎になった理論を、100年以上前に作った人。私、論文で何度も名前を見てるの。今使われてる理論にも、この人の研究が元になってるものがたくさんあるのよ」
「へえ」
「へえ、じゃないの!」
身を乗り出して詰め寄るリゼットを「リゼットさん」と静かに止めて、アデルは図面を覗き込んだ。
「では、この研究所にいらした方なんですね」
「こんな場所に名前が残ってるなんて……」
リゼットの指先が紙の端をそっと押さえる。声から勢いが抜けて、顔は上げないままだった。
「リゼットさん、嬉しそう」
エリアに言われても返事はなかった。レイが隣から覗く。
「そのセインって人がこれ作ったの?」
「少なくとも、この図面の研究を進めていた人みたいね。実際に作ったかどうかは他の資料も見ないと」
「じゃあ調べよう」
「言われなくても調べるわよ」
リゼットはもう次の冊子を開いていた。
*
資料を読み進めるうち、当時の観測方法や設備について少しずつ情報が集まってきた。ただ、古い記号や今とは異なる術式が多く、その場で理解できるものばかりではない。
「ミアがいたところの石板と同じものはあった?」
レイが尋ねた。
「まだね。似た構造はあるけど、同じ術式とは言えないわ。ここに残ってる資料を全部確認できたわけでもないし」
「これだけあったら1日じゃ終わらないだろうね」
ヴァンが室内を見回す。
午後になる頃には調査済みの資料が机の上にいくつも積み重なっていた。リゼットは研究記録を読み、ヴァンは安全に通れる通路を調べている。アデルは傷んだ資料を1枚ずつ確かめて、読めるものと保存が難しそうなものに分けていた。エリアはその隣で書類の埃を払っている。
机の端では、レイとミアが古い備品の図を眺めていた。
「これ何だと思う?」
「お鍋!」
「持つところがないよ」
「じゃあ、お皿!」
「お皿にしては深いなあ」
2人が真剣に考え込んでいるところへヴァンが口を挟んだ。
「観測器具じゃない? ほら、ここに目盛りがある」
「あ、本当だ」
ミアが少しがっかりした顔をする。エリアが声をかけた。
「ミアちゃん、お腹すいた?」
「ちょっと」
「じゃあ、そろそろ休憩にしましょうか」
「やった! 俺も!」
リゼットだけがまだ資料から目を離さない。アデルが声をかける。
「リゼットさん、そろそろ休憩しませんか?」
「あと少し」
「先ほどもそうおっしゃっていましたよ」
「今度こそあと少しなの」
「放っておくと日が暮れそうだね」
ヴァンが呟く。エリアがリゼットの隣へ近づいた。
「リゼットさん。続きは休んでからでも読めるでしょう? 先にご飯にしましょう」
リゼットは資料とエリアを見比べて、それから観念したように頷いた。
「……わかりました」
レイが目を丸くする。
「姉さんすごいな。リゼットが1回で言うこと聞いた」
「私は別に言うことを聞かないわけじゃないわよ」
「いつもあと少しって言うじゃん」
「今日はちゃんとやめたでしょ!」
*
休憩を終えてから、アデルが資料室の一番奥の棚を指した。
「こちらはまだ確認していませんね」
壁に固定された金属製の保管棚だった。ほかより扉が厚く、取っ手に古い番号札が下がっている。
「開くかな」
手を伸ばしかけたレイをヴァンが止める。
「ちょっと待って。……鍵はかかってないけど、かなり固いね」
「壊さないでよ」
「わかってるって」
扉の隙間を確かめて、ゆっくり力をかける。錆びた金属が軋み、扉が少しずつ開いた。中には何冊もの古い台帳と、布張りの薄い書類箱が収められていた。
リゼットが1冊取り出して表紙を見る。
「職員登録台帳……さっきのより、こっちが原本かもしれないわ」
丁寧にページをめくる。研究者の名前、所属、担当していた業務、いくつもの署名。数ページめくったところで指が止まった。
「……あった」
セイン・エルディア。境界研究を担当する研究者として、いくつもの記録に名前が残っている。
「本当にここで研究してたんだな」
「ええ。当時の正式な記録に名前が残ってるなんて」
「写真はないの?」
ヴァンに聞かれてリゼットが首を振る。
「この台帳にはないみたい」
隣の書類箱を取り出したアデルが言った。
「こちらは別の登録資料のようです。外部協力者、と書かれています」
「外部協力者?」
「研究所の職員ではないけれど、調査や研究に協力していた人たちの記録だと思います」
アデルが箱を開けると、個人ごとにまとめられた薄い書類が並んでいた。
「こちらは写真もありますね」
古い紙の端に小さな写真が貼られている。白黒に近い色合いで、今のものほど鮮明ではない。
「100年前の人ってこんな服着てたんだ」
「みんな研究者なの?」
ミアが尋ねる。
「外部協力者だから、研究者以外の人もいると思うわ」
リゼットの答えにミアは納得したように頷いた。レイは写真を1枚ずつ眺めている。年配の男性。若い女性。眼鏡の研究者らしい人物。服装も表情もさまざまだ。
書類を順に確かめていたアデルが、ふと手を止めた。
「……あら?」
「どうしたの?」
エリアが顔を上げる。アデルは1枚の写真を見つめたまま動かない。
「この方……少し、見ていただけますか」
差し出された資料へリゼットが目を落とす。その動きが止まった。
「……え?」
「なに?」
レイが聞いても、返事がない。
「リゼット?」
「……ちょっと待って」
リゼットは書類を机に置いた。レイが覗き込む。写真には1人の若い女性が写っていた。長い白銀の髪、すっきりした目元。現代とは違う服を着て明るく笑っている。
その顔には見覚えがあった。
「……え?」
レイが目を丸くする。ヴァンも隣から覗き込んだ。
「……あれ?」
「どうしたの?」
近づいたエリアが写真を見て黙り込む。ミアが下から覗いた。
「なあに?」
「……緋月?」
レイが呟く。似ているというより顔立ちがほとんど同じだった。ただ表情が違う。写真の女性は、今の緋月よりずっと楽しそうに笑っている。
ヴァンが写真と、少し離れたところにいる緋月を見比べた。
「……姉さんじゃない?」
「姉さん?」
エリアが聞き返す。
「あ、ごめんごめん。オレが緋月をそう呼んでるだけ」
リゼットが書類の文字を確かめていた。
「待って。名前がある」
全員の目が資料に落ちる。古い文字で1つの名前が記されていた。
アルカナ・エルディア。
「アルカナ……?」
レイが読み上げる。
「エルディアって……」
リゼットの表情が変わる。
「セイン・エルディアと同じ姓だわ」
「さっきの研究者? 家族だったのかな」
「可能性はあるけど、これだけじゃわからない」
リゼットは別の台帳を開いて、登録年月日と所属を確かめた。
「100年以上前。この写真が撮られたの、100年以上前よ」
レイはもう1度写真を見てから、少し離れたところにいる緋月へ視線を向けた。白銀の長い髪。深紅の花の髪飾り。いつもと変わらない表情。
「……緋月」
顔を上げた緋月に、レイが写真を持ち上げる。
「これ見て。この人、緋月にそっくりなんだけど」
緋月は机へ近づき、差し出された資料へ目を落とした。写真の中の笑顔を少しのあいだ見つめる。
「そうね」
リゼットが顔を上げる。
「緋月さん、この人を知ってるんですか?」
「ええ」
「親戚の方ですか?」
「違うわ」
「でも、これ100年以上前の資料なんです。同じ顔なんて……」
ヴァンも眉を寄せたが、彼には珍しく言葉が出てこないらしい。
緋月はもう1度写真を見た。それから、何でもないことのように答える。
「だってそれ、わたしだもの」




