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第十五章 湖畔の出会い

「……は?」


最初に声を上げたのはレイだった。


緋月は何事もなかったように写真を見下ろしている。


リゼットが手元の資料を確かめ直した。


「待ってください。これ、100年以上前の登録記録なんですよ?」


「そうね」


「それなのに緋月さん本人だっていうんですか?」


「ええ」


リゼットは言葉を失った。ヴァンが写真と緋月の顔を見比べる。


「……姉さん、いったい何歳なの?」


「数えてないわ」


「いや、そこは数えようよ」


レイはまだ写真を見つめていた。


「このアルカナって名前は?」


「昔の名前よ」


「名前、変えたの?」


「ええ」


「どういうこと?」


返事はなかった。写真の中の女性は今の緋月と同じ顔で笑っている。


100年以上前。この研究所で、彼女はアルカナと呼ばれていた。


*


湖面が青い空を映していた。


風はほとんどなく、対岸の森までが水の中にくっきりと見えている。鏡湖のほとり。1人の若い男が、奇妙な道具を前に座り込んでいた。


小さな台座から伸びた支柱に金属製の環がいくつも重なっている。環はそれぞれ異なる角度に傾き、中心には透明な球体が収まっていた。地球儀に似ているが表面に地図はなく、環の縁には細かな目盛りが刻まれている。


男は環の1つを慎重に回し、球体を覗き込んでは手元の紙に何かを書きつけていた。


「それ、何をしてるの?」


突然背後から声がして、男の肩が跳ねた。振り返ると見覚えのない若い女性が立っている。長い白銀の髪。旅慣れた服装。肩には小さな荷物。彼女は男の驚きなど気にも留めず、その手元を興味深そうに覗き込んでいた。


「……びっくりした。いつからそこに?」


「今来たところよ。それ、何?」


「ああ、これは計測器だよ」


「何を測るの?」


「境界の状態を調べてるんだ」


「きょうかい?」


「うん。ここの環を動かすと測定する向きを変えられる。同じ場所でも方向によって少しずつ値が違うから、それを比べてるんだ」


「へえ!」


女性が身を乗り出す。


「動かしていいの?」


「えっ、あ、ちょっと待って。今の位置を記録してからね」


「わかった!」


素直に引っ込めた手を後ろで組んだ彼女は、男が目盛りを読み、数字を書き込むのをじっと眺めている。


「……よし。いいよ。この環をゆっくり回してみて」


言われたとおりに外側の環へ指を添えると、金属の環が滑らかに動き、内側の環と重なる角度が変わっていく。


「わあ、面白い!」


「そこ、少し止めて。もう少し右……そう」


男は球体を覗き込み、記録と見比べた。


「……なるほど。予想より変化が小さいな」


「それっていいこと?」


「いい悪いというより、知りたかったことが1つわかった感じかな」


「ふうん。じゃあ、もう1回回したら別のこともわかる?」


「条件を変えればね」


「変えてみようよ!」


「……え?」


男が顔を上げる。女性は楽しそうに笑っていた。


「だって、まだいろいろわかるんでしょう?」


あと数か所の測定を終えたら研究所へ戻る予定だった。けれど目の前の彼女は次の測定を待っている。まるで、一緒に楽しんでいるみたいに。


「こういうもの、好きなの?」


「うん! 初めて見たもの」


男の口元が少し緩んだ。


「じゃあ、今度はこっちの環を動かしてみようか」


*


何度か測定を繰り返したあと、男が切り出した。


「そういえば名前を聞いてなかったね」


「あ、そうね。わたしはアルカナ。あなたは?」


「セイン。セイン・エルディア」


「セインね。よろしく!」


アルカナはすぐに道具へ目を戻した。


「ねえ。これ、セインが作ったの?」


「そうだよ。まだ試作だけどね」


「すごいわね! 真ん中の球は何のためにあるの?」


「測定した状態を読み取るためだよ。環の位置と合わせて使うんだ」


「もっと小さくできたりする?」


「できると思う。でも小さくすると目盛りが読みづらくなるから、そこを工夫しないといけないんだ。まずは精度を上げたくて」


「ふうん。じゃあ、ちゃんと測れてるかどうかはどうやって確かめるの?」


セインが目を丸くして、それから嬉しそうに笑った。


「いい質問だね」


「そう?」


「だから今、場所や向きを変えて何度も測ってるんだ。ほら、こっちが昨日の結果で、これが今日の結果。条件が近ければ、ある程度同じ値になるはずなんだけど」


説明するうちにセインの声が少しずつ弾んでいく。アルカナは紙を覗き込み、ときどき首をかしげながら聞いていた。わからない言葉が出ればその場で尋ね、セインもそのたびに言葉を変える。


「……で、この値が安定してるなら、装置そのものの誤差は小さいと考えられるんだ」


「全部はわからないけど、面白いわね。見えないものを数字で調べられるんでしょう? それって、すごく不思議」


「僕もそう思うよ」


*


気づけば太陽はずいぶん高く昇っていた。記録用紙を整理するセインの足元で、小さな鳴き声がする。


「……ん?」


1匹の猫が座っていた。いつからいたのか、まったく気づかなかった。


「ああ、来たのね」


アルカナがしゃがみ込んで猫の頭を撫でる。


「一緒に旅してるのよ」


猫は目を細めていたが、すぐに立ち上がって湖のほうへ歩いていった。


「自由だね」


「いつもあんな感じよ」


セインは猫の後ろ姿を見送りながら言う。


「僕は、あっちの研究所で研究してるんだ。観測するときはここに来る。見通しがいいから測りやすくて」


「きれいな場所よね。観測しないときは来ないの?」


「あまり来ないかな」


「もったいない!」


思いがけない大きな声に、セインの肩がまた少し跳ねた。


「こんなにきれいなところが近くにあるのに?」


「まあ、見ようと思えばいつでも見られるから」


「いつでも見られるから見ないの? 変なの」


アルカナが楽しそうに笑う。セインもつられて笑った。


「君はよく景色を見に行くの?」


「ええ。旅してるんだもの。この湖もきれいだって聞いたから来たの。そしたら変わった道具を触ってる人がいたのよ」


アルカナは計測器を指さした。


「景色も見られたし、面白いものも見つけたし。本当にここへ来てよかったわ。だけど、あなたには迷惑かけちゃったかしら」


「いや全然。むしろ楽しかったよ」


セインは少し照れたように笑った。


「僕もこんなに質問されるとは思わなかったけどね。研究の話をすると難しいって言われることも多いから。君みたいに面白がってくれる人がいると、つい話しすぎちゃうな」


「難しいところは難しかったわよ? でも、わからないから聞くんでしょう?」


セインが1度瞬きをする。アルカナは不思議そうに首をかしげた。


「わかってることだけ聞いても面白くないじゃない」


少しの沈黙のあと、セインが笑った。


「……確かに」


*


計測器を片づけ始めたところでセインの手が止まった。


「あれ?」


「どうしたの?」


「昼食を忘れてた」


セインが鞄を開く。中から出てきたのは厚い本が2冊と、予備の記録用紙、工具を収めた小さな箱だった。


「……入ってない」


「本は持ってきたのね」


「必要だったからね」


「ご飯は?」


「それも必要だったんだけど」


アルカナは声を殺しながら笑っている。


「セインって面白い人ね。ご飯を忘れて本を2冊も持ってくる人、初めて見たわ」


「一応、仕事だから……」


「はいはい」


自分の荷物を開いて、布に包んだパンを取り出す。


「はい!」


「え?」


「2つあるから1つどうぞ」


「いや、悪いよ。君のお昼だろう?」


「食べないとお腹すくでしょう?」


少し迷ってから、セインは差し出されたパンを受け取る。


「……ありがとう」


2人は湖畔の草の上に腰を下ろした。戻ってきた猫がアルカナの隣で丸くなる。パンを1口食べて、セインは湖へ目を向けた。水面に映る空。朝より少し風が出て、森の輪郭がゆっくり揺れている。


「……本当にきれいだね、ここ。いつも測定ばかりで、ゆっくり見たことがなかった」


「ほら、もったいない」


「そうかもしれないね」


「今度はお仕事じゃないときにも来てみればいいわ」


「それもいいね。ところでアルカナはいつまでこの辺りにいるの?」


「まだ決めてないわ。気に入ったらしばらくいるし、行きたいところができたら移動するの」


「ずいぶん自由なんだね。僕は研究所と町の往復ばかりだから、旅のことはよくわからないな」


「それなら知らない場所もいっぱいあるのね。それっていいことじゃない!」


「いいこと?」


「これから見に行けるところが、まだまだたくさんあるってことでしょう?」


セインは少し驚いて、それから小さく笑った。


「そういう考え方もあるんだね」


「あるわよ」


アルカナは当然のように答えた。


*


それから数日後。


セインは再び鏡湖のほとりで計測器を広げていた。前回の測定で気になった数値をもう1度確かめるためだ。外側の環を動かしながら目盛りを合わせる。球体を覗き込み、紙に数字を書き込む。


「……うん。やっぱり少し違うな」


環の角度を変えようとしたとき、背後から声がした。


「今日は何を測ってるの?」


「わっ!」


セインがびくりと動きを止める。振り返ると、数日前と同じ白銀の髪の女性が立っていた。足元にはあの猫もいる。


「……アルカナ」


「こんにちは、セイン! 湖を見に来たら、またいたから」


アルカナは計測器を覗き込んだ。


「それ、この前と同じ?」


「少し調整したんだ。内側の環の目盛りを細かくしてみた」


「……あ、本当だ! 前より線が増えてる」


「わかる? 細かい変化を読みやすくしたくてね」


「じゃあ、わたしも見てていい?」


「もちろん」


隣にしゃがみ込んで測定を眺めていたアルカナが、ふと顔を上げる。


「そうだ。今日はお昼、持ってきた?」


セインの手が止まった。


「持ってきたよ。……ほら」


鞄から布に包んだパンを出してみせると、アルカナが声を上げて笑った。


「よかった!」


「そこまで心配されることかなあ」


「この前忘れたでしょう?」


「1回だけだよ」


「次も忘れそうだったもの」


「今日は忘れないように、最初に入れてきたんだ」


「えらいじゃない」


「……子ども扱いしてない?」


「してないわよ」


にっこり笑ったアルカナに、セインも笑った。


「さて、じゃあ今日も手伝ってもらおうかな。環を動かしてもらえると助かるよ」


「任せて!」


さっそく外側の環へ伸びた手に、セインが慌てて言う。


「待って。まず今の位置を記録してから」


「あ、そうだったわね」


引っ込めた手の仕草にセインが小さく吹き出した。


「……なによ」


「いや、何でもない」


「笑ったでしょう」


「少しだけ」


「失礼ね!」


そう言いながら、アルカナも笑っていた。


*


午後の測定を終える頃には湖畔の道に長い影が伸びていた。計測器を片づけるセインに、アルカナが湖の向こうを指さす。


「ねえ、セイン。対岸の森の中に小さな道があるの。少し上ると湖が一望できるのよ。すごくきれいだったわ」


「よく見つけたね」


「歩いてたら見つけたの。今度、一緒に行かない?」


「僕も?」


「ほかに誰がいるの?」


アルカナは不思議そうに首をかしげた。


研究所へ戻れば測定結果を整理しなければならない。確かめたい資料もある。けれど、森の向こうから見える湖にも、少し興味があった。


「そうだね。時間があるときなら」


アルカナの顔がぱっと明るくなる。


「じゃあ、今度案内するわ! 約束ね」


「うん。お願いするよ」


荷物を肩へ掛け直して、アルカナが軽く手を振った。先に歩き出した猫のあとを追って、湖畔の道を遠ざかっていく。


「またね。セイン!」


「うん、また。アルカナ」


その後ろ姿を少し見送ってから、セインは研究所へ向かう道へ足を踏み出した。途中でふと足を止める。鞄の中には今日の観測記録がある。確認したい数値も、試したい調整もまだたくさんあった。


でも今日は、いつもの測定結果に加えて、次の楽しみも持って帰れる。


セインは少し笑って、また歩き出した。

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