第十六章 いつもの日々
「セイン、わたしの上着知らない?」
朝の光が差し込む部屋で、アルカナが椅子の背を確かめていた。
「昨日そこに掛けてなかった?」
「ないのよ」
「じゃあ洗濯したんじゃない?」
アルカナの手が止まる。
「あ、そうだった!」
廊下へ向かいかけて、足元の猫をひょいと避けた。
「もう。そんなところで寝てたら踏んじゃうわよ」
猫は片耳をこちらへ向けただけで動かない。机に向かっていたセインが笑う。
「相変わらずだね」
「誰が?」
「猫」
「セインだって、昨日も自分で置いた本を探してたでしょう」
「……そうだったかな」
「一緒に探したじゃない。結局、あなたが座ってた椅子の下にあったのよ」
「ああ、そうだった。君が見つけてくれたんだ」
「昨日のことだもの。覚えてて当然でしょう?」
アルカナは得意げに胸を張って笑った。
テーブルには朝食の皿が2枚並んでいる。片方には食べかけのパンが残り、もう片方には卵料理が載っていた。アルカナは上着を探すのをいったんやめて、セインの皿を覗き込む。
「ねえ、卵が冷めるわよ」
「あと少しで終わるから」
「昨日もそう言ってた」
「今日は本当にあと少しなんだ」
「ふうん」
椅子を引いてセインの隣に座る。机には細かな記号がびっしり書き込まれた紙が広がっていた。
「何を調べてるの?」
「昨日の観測結果だよ。他の場所では変化が小さいのに、この地点だけ少し大きいんだ」
「測り間違いじゃないの?」
「その可能性もあるから今日もう1度確かめるつもりだよ」
「それならまた湖よね? わたしも行く!」
「観測に?」
「それもあるけど、お昼を食べに」
「そっちが目的?」
「両方よ」
アルカナは立ち上がり、セインの前から資料を1枚持ち上げた。
「はい。続きはご飯を食べてから」
「……まだ読んでたんだけど」
「卵が冷めるでしょう?」
セインは皿とアルカナを見比べて、おとなしく椅子を引き直す。
「わかったよ」
「よろしい」
*
鏡湖へ続く道はすっかり歩き慣れたものになっていた。セインが観測器具を持ち、アルカナは昼食の籠を提げる。猫は2人の少し先で、尻尾を立てて歩いていた。
「今日は風があるわね」
湖面にさざ波が立っている。
「測定には少し影響が出るかもしれないな」
「やめるの?」
「いや、風がある日の値も調べておきたいんだ」
「なるほど。いつも静かな日ばかりじゃないものね」
湖のほとりの平らな石に道具を置く。小さな台座に幾重にも重なる金属の環。中心の透明な球体が、陽の光を受けて淡く輝いた。アルカナが隣へしゃがみ込む。
「今日はどこを動かすの?」
「まず外側の環を前回と同じ位置に合わせたいんだ。その目盛りを、もう少し左」
アルカナが慎重に環を回す。
「……このくらい?」
「そう。そこで止めて」
セインが数値を書き留める。
「いいね。じゃあ次は内側を」
「わかった」
出会った頃は触れていいかどうかもわからない道具だった。今は環の動かし方も目盛りの読み方も覚えている。
測定を終えて、セインが結果を眺めながら小さく唸った。
「やっぱり違うな。前回と近い値が出ると思ったんだけど、少しずれてる」
アルカナも紙を覗き込む。
「じゃあ、また調べることが増えたのね」
「うん。面白くなってきたよ」
「嬉しそうねえ」
「だって、まだ知らないことがあるってことだから」
アルカナは少し考えて頷いた。
「そういうの、わたしも好きよ。知りたかったことがわかったら、また次のわからないことを探すんでしょう?」
「たぶんね」
「終わらないじゃない」
「終わらないかもしれないなあ」
そう言って、セインは自分でもおかしそうに目を細めた。
*
測定が一段落するとアルカナが籠を持ち上げた。
「はい、お昼にしましょう!」
「もうそんな時間?」
「とっくに」
観測場所から少し離れた木陰が2人の定位置だった。アルカナは慣れた手つきで布を広げ、パンとチーズ、薄く切った肉と果物を並べていく。籠を覗き込んだセインが目を丸くした。
「ずいぶん買ったね」
「お店の人がどれもおいしいって言うんだもの」
「全部?」
「全部!」
「……食べきれるかな」
「2人なら食べられるわよ」
セインはパンを受け取り、チーズを1切れ載せて齧った。
「ああ、これはおいしいね」
「でしょう? お店の人がすすめてくれたのよ」
「アルカナはおいしいものを見つけるのが上手だね」
「旅してたら、知らない料理を見つけるたびに頼んじゃうの。今度セインにも教えてあげる」
「楽しみにしてるよ」
食べ終えても、アルカナはすぐには立ち上がらなかった。湖面を雲がゆっくり流れていく。観測器具を片づけたセインが隣へ腰を下ろす。猫は2人のそばで、湖面を飛ぶ小さな虫を目で追っていた。
「……こうしてると、時間を忘れるね」
「でしょう? だから、たまには研究を休んで景色を見たほうがいいって言ったのよ」
「そうだったね」
得意げに笑ってから、アルカナが付け足す。
「今度はセインがおいしいものを選んできてね。いつもわたしが選んでるんだもの」
「僕が?」
「そうよ」
「何がいいかなあ」
「それを考えるのが楽しいんじゃない!」
*
別の日、2人は町の市場を歩いていた。食料や日用品の買い足しのはずが、アルカナは店先に並ぶものを見つけるたびに足を止めてしまう。
「ねえ、どっちの生地が似合うと思う?」
アルカナが布を2枚、肩に当てて振り返った。
「君はそっちのほうが好きそうだね。さっきから何度も見てるから」
「あなたもよく見てるわね」
「……見てるよ」
「あ、ねえ、あっちのお店に綺麗なお皿があるわ!」
言うが早いかアルカナは布を店に戻して、もう次の店へ向かっている。セインは苦笑しながらそのあとを追った。
通りの奥には、遠方から持ち込まれたらしい雑貨の店があった。小さな木彫りの動物。色鮮やかな陶器。細かな模様の入った金属細工。
アルカナに追いつこうとしたセインが、ふと足を止めた。
「アルカナ、あそこにガラスの猫がいるよ」
「え?」
アルカナが振り返る。店先の小さな棚に、透明なガラスで作られた猫が座っていた。丸い背中に、ぴんと立った耳。尻尾は前足の横へくるりと巻かれている。
「わあ、かわいい!」
吸い寄せられるように棚の前へ戻って、アルカナはしゃがみ込んだ。
「見て、座り方がうちの猫に似てるわ。前足を揃えてるところ」
「猫は大体そうやって座るんじゃないかな」
「そういうこと言わないの」
指先で触れないぎりぎりのところまで顔を近づけて、小さなガラス細工をいろいろな角度から眺める。
「これを作った人、猫が好きなのかしら。尻尾の形までちゃんと作ってあるもの。ほら、ここ。耳の先がちょっとだけ丸くなってる」
「本当だ。よく観察してるね」
「でしょう? ねえ、光が当たるとこんなにきれいなのよ。セインも見て!」
隣へ回って覗き込んだセインの前で、透明な背中に午後の日差しが差し込んだ。棚の上に淡い光の猫が1匹、ゆらゆらと揺れる。
「光の中にもう1匹いるみたいだ」
「でしょう?」
アルカナは声を弾ませて、棚の上の光へそっと指先を伸ばした。光は指の影に隠れて、また現れる。何度かそれを繰り返すアルカナの横顔へ、いつの間にか視線が吸い寄せられていた。ガラスの猫よりも、長く。
足元では本物の猫が前足を揃えて座っている。ガラスの猫とまったく同じ姿勢だった。
「ほら、やっぱり似てる!」
アルカナが笑って、セインも笑った。
*
夕方、家へ戻ると猫が真っ先に部屋へ入っていった。アルカナは買ってきた食料を台所へ運び、セインは研究用の紙とインクを机に置く。
「セイン、今日の夕飯は?」
「野菜のスープでも作ろうかと思ってるんだ」
「作れるの?」
「そのくらいならね」
「わたしも手伝いたい!」
セインが顔を上げた。
「いいよ。料理したことある?」
「ないわ」
あまりにも迷いのない返事だった。
「……そうなんだ」
「だって、旅のあいだはお店や宿で食べてたもの。自分で作る機会がなかったのよ。でも、やってみたい!」
アルカナはもう袖をまくっている。セインは調理台の端を空けて、アルカナの作業場所を作ってやった。
「一緒にやってみようか」
鍋に水を入れて火にかけ、買ってきた野菜を台に並べる。
「これを切ってくれる? 一口くらいの大きさでいいよ」
「任せて!」
包丁を手に取り野菜をじっと見つめたアルカナが、ふと顔を上げた。
「ねえ、セイン」
「なに?」
「一口って、セインの一口? わたしの一口?」
セインの手が止まった。
「……どっちでもいいと思うけど」
「でも、大きさが違うでしょう?」
「大体このくらいかな」
1つ切って見せる。
「うん、やってみる!」
とん。少し間があって、もう1度。とん。今度は少し速い。
「セイン」
「うん?」
「これ、形が違うわ。こっちはこっちの倍くらいあるわよ?」
「……煮たらそんなに気にならないよ。大きいほうは、もう半分にしようか」
セインが鍋の様子を見ていると、背中から声が飛んできた。
「セイン! 全部切れたわよ!」
「ありがとう。じゃあ、こっちに――」
ぽちゃん。
振り返ると、アルカナが空になった皿を持っていた。
「……入れちゃった」
「……そうだね」
「まだだった?」
「もう少しあとに入れようと思ってたんだけど」
アルカナが鍋を覗き込む。
「どうしよう」
「大丈夫。煮る時間を変えればいいよ」
「本当?」
「うん」
「よかった! じゃあ、次は何する?」
「……まだ手伝う気なんだね」
「もちろん!」
セインは思わず吹き出した。
「じゃあ、そこの塩を取ってくれる? 最初は少しだけでいい」
「少しって?」
「小さじ半分くらいかな」
アルカナは匙で慎重に塩をすくった。
「これで半分?」
「もうちょっと少なくていいよ」
「このくらい?」
「うん。それくらいで大丈夫」
鍋に塩を入れて、満足そうに頷く。それから、ふと思い出したように尋ねた。
「ねえ、これいつ食べられるの?」
「もう少し煮てからかな」
「まだなの?」
「まだだね」
アルカナは鍋を見つめた。
「料理って、なかなか時間がかかるのねえ」
「今日は特にね」
「どうして?」
「……何でもないよ」
「なによそれ!」
笑いながら、アルカナがセインの腕を軽く叩いた。
*
スープができあがった頃には窓の外がすっかり暗くなっていた。テーブルに2人分の皿が並んでいる。アルカナは自分の皿を覗き込んだ。
「……野菜、大きさが全然違うわね。でもおいしそう!」
スプーンで掬い、ふうふうと息を吹きかけてから口へ運ぶ。
「おいしい!」
セインも一口食べてみる。
「うん。ちゃんとできたね」
「もしかしてわたし、料理上手なんじゃない?」
「それはもう少し練習してからかな」
「えー、そう?」
「うん」
アルカナは納得できていない顔のまま、またスープを口へ運んだ。
「でも楽しかったわ。明日も手伝っていい?」
「もちろん。何を作ろうか」
「卵料理がいい! 目玉焼きとか!」
「いいね。簡単だし。……まずは卵を割るところからかな」
「きっとそれくらいできるわよ!」
そう言うアルカナを目を細めて眺めながら、セインは残ったスープを口へ運んだ。椅子の下では猫が前足で顔を洗っている。
「そういえば、明日は研究所?」
「午前中に会議があるんだ。午後は少し実験を進めたいかな。夕方には戻ると思うよ」
「わかった。わたしは町を歩いてこようかな。今日は途中までしか見られなかったもの」
「また新しいお店を探すの?」
「そうよ。今度セインも一緒に行きましょうね」
「今日も一緒だっただろう?」
「今日見てないお店もいっぱいあるもの」
「まあ、そうだね」
セインは苦笑した。
*
それからしばらく経ったある日。
セインは研究所からの帰り道で、小さな菓子店に立ち寄った。店先には焼きたての菓子がいくつも並んでいる。その中に、星の形をした小さなパイがあった。こんがり焼けた星形の生地の中央にもう1つ星形のくぼみがあり、そこへ載せられた赤いいちごジャムがつやつやと輝いている。
それを眺めていると、喜ぶアルカナの顔がふっと浮かんだ。
家へ戻るとアルカナは窓際で本を読んでいた。猫はその隣で、セインをちらりと見てまた目を閉じる。
「ただいま」
「おかえり! セイン、今日は早かったのね」
「思ったより早く終わったんだ。これ、お土産」
「お土産?」
アルカナが包みを開く。中を覗いた途端、顔がぱっと明るくなった。
「わあ! かわいい! 見て、真ん中にも星があるのね」
「うん。君が好きそうだと思って」
「大好き!」
セインの動きが一瞬、止まる。
「このいちごのところが特に好き!」
「……ああ、そうなんだ」
アルカナはさっそくパイを手に取っていた。口へ運ぶと、さくり、と軽い音がする。
「おいしい! セインも食べてみて!」
「僕、甘いものはそこまで……」
「はい! おいしいよ、これ」
アルカナは1つつまむと、そのままセインの口元へ差し出した。
「……え?」
「ほら、食べて!」
セインは目を瞬いてから、差し出された菓子を口にした。甘酸っぱいいちごの味が口の中に広がる。
「……甘いね」
「おいしいでしょう?」
「うん。おいしいよ」
アルカナが満足そうに頷く。
「もう1つ食べる?」
「僕は1つで十分だよ。アルカナへのお土産なんだから」
「そう? じゃあ残りはわたしがいただくわね!」
「全部?」
「だって、おいしいんだもの」
アルカナはもう1つ手に取りかけて、ふと思い出したように顔を上げた。
「あ、そうだ。セイン」
「なに?」
「頼んでた石鹸は?」
セインは首をかしげる。
「石鹸?」
「昨日、なくなりそうだから買ってきてって言ったでしょう?」
「……あ」
アルカナはセインを見つめた。それから手元のお菓子に目を落とす。
「ふふっ。頼んだ石鹸は忘れたのに、頼んでないお菓子は買ってきてくれたの?」
「……君が好きそうだと思って」
「うん! ありがとう、すっごく嬉しい!」
アルカナは幸せそうに笑った。
「石鹸は明日でいいわ。まだ少し残ってるから。あとはパンもお願いね」
「パン?」
「明日の朝の分がないのよ」
「わかった」
セインは少し考えてから机の上の紙を1枚取った。端に小さく文字を書き、鞄の上へ置く。アルカナが覗き込んだ。
「何してるの?」
「忘れないように書いておこうと思って」
「なるほど」
感心したように頷く。
「ほかには?」
「うーん……今のところはそれくらいかな」
「じゃあ、これで大丈夫そうだね」
「たぶんね!」
「たぶんかあ……」
鞄の上の紙の隅に、セインは「忘れない」と小さく書き足した。
アルカナは残った焼き菓子を皿へ移し、セインの隣へ腰を下ろす。
「ねえ、今日の研究はどうだった?」
「少し面白い結果が出たんだ。この前、湖で測った値があっただろう?」
「ああ、あの少し違ってたところ?」
「そう。それを別の条件でも調べてみたんだけど……」
アルカナは菓子を1つつまみながら身を乗り出した。セインも楽しそうに説明を始める。話はなかなか終わらなかった。
やがて窓の外が暗くなり、2人が夕食のことを思い出したのは、それからずいぶん経ってからだった。




