第十七章 小さな揺らぎ
「……やっぱり、同じところだ」
セインは記録用紙を机に並べ、何度目かの見比べをしていた。鏡湖で採った観測値が、日付ごとに細い線になって連なっている。どれもほとんど変化のない数値ばかりで、ただ1か所だけ、ごくわずかな揺らぎがあった。
「ねえ、セイン」
隣から覗き込んだアルカナが、紙の上を指でなぞる。
「そこ、前にも見てなかった?」
「うん。でも今回は別の器具でも測ってみたんだ」
並んだ紙の上にもう1枚の記録が重ねられた。
「ほら。測り方を変えても同じ変化が出てる」
「器具が壊れてたわけじゃないのね」
「気温や風も調べたけど、それじゃ説明がつかない」
アルカナは2枚を見比べて首をかしげた。
「でも、ほんのちょっとしか動いてないわよ?」
「そう。だから面白いんだ」
セインの声が弾む。
「普段はわずかな変化しかないのに、ときどき大きく揺れる。何も起きてないように見える場所で、何かが変わってる」
「何が起きてるの?」
「まだわからない」
「わからない?」
「でも境界そのものが何かに反応してるんだとしたら、向こう側に何かあるのかもしれない」
「向こう側……」
アルカナが顔を上げた。
「この数値が、僕たちには見えない別の領域にある、何かの量と関係しているとしたらどうだろう。数値は毎日少しずつ変わるけど、ずっと一定の範囲に収まってる」
「……本当にあるの?」
「あるかもしれないし、ないかもしれない。今はまだ仮説だよ」
少し考え込んだあと、アルカナの顔がぱっと明るくなる。
「それ、確かめたいわね! 海があるかもしれないし、知らない動物がいるかもしれないわよ」
「そもそも景色があるのかどうかもわからないけどね」
「何もなかったら?」
「それはそれで、何もないってことがわかる」
「ふふっ。セインは何があっても楽しそうね」
「知らなかったことがわかるんだから」
新しい紙が広げられ、ペンが走り出す。
「まず、この揺らぎが何で起きるのかを確かめたい。待つだけじゃ観測が足りないから、こっちから同じ変化を起こせないかと思ってる」
「自分たちで揺らすってこと?」
「最初はごく小さくていい。条件を変えながら繰り返して、どう反応するかを調べる」
図が増えていく。変化の大きさ、繰り返しの周期、接続を閉じたあとに元へ戻るのかどうか。アルカナが質問を挟むたび、セインは新しい紙を引き寄せた。
やがてペンの音が止まる。
「……あ、ごめん。つい夢中になっちゃって」
顔を上げたセインの視線の先で、アルカナが頬杖をついてこちらを見ていた。
「どうしたの?」
「ううん」
首を振る口元が緩んでいる。
「それで? 次はどうするの?」
「……ああ、うん。それでね」
セインは資料へ目を戻す。アルカナも椅子を寄せ、肩が触れそうな近さで図を覗き込んだ。
*
アルカナが研究所へ出入りするようになってしばらく経った。
最初はセインに会いに来るだけだった。
けれど、観測器具を運んだり、目盛りを読んだり、記録を整理する手伝いをしているうちに、研究所の職員たちにもすっかり顔を覚えられている。
「アルカナさん、今日もいらしてたんですね」
廊下で声をかけられ、アルカナが振り返る。
「ええ。今日は午後から測定するんですって」
「それならちょうどよかった。少し確認したいことがありまして」
職員は手元の書類を開いた。
「今後も継続して研究に協力していただくのであれば、外部協力者として登録しておいた方がいいと思うんです」
「登録?」
「はい。そうすれば、研究区域への出入りや資料の閲覧も正式な手続きでできるようになります」
アルカナは隣のセインを見た。
「だって。どうする?」
「君がよければ、その方が便利だと思うよ」
「そうね。じゃあ、お願いします!」
職員が微笑んだ。
「ありがとうございます。では、こちらへ」
2人は事務室へ案内された。机の上には登録用紙が置かれている。
「まず、お名前をお願いします」
「アルカナよ」
「アルカナさんですね。姓は?」
「姓?」
アルカナは瞬きをした。
「わたし、姓はないのよ」
「そうでしたか。外部協力者の登録には姓も必要なのですが……」
「そうなのね」
用紙の空欄を見下ろしたまま、アルカナは黙り込んだ。ペンを持つ職員の手が待っている。視線がふと隣に流れ、また用紙に戻る。
小さく息を吸う音がした。
「……ねえ、セイン」
「なに?」
「エルディア、借りてもいい?」
「僕の姓?」
「ええ。ほかに思いつかないんだもの」
早口で付け足して、セインの顔を見ないまま返事を待つ。
セインは少し驚いた顔をしたものの、すぐに頷いた。
「僕は構わないよ」
アルカナの顔が上がる。
「本当?」
「うん」
「……よかった!」
ぱっと咲いた笑顔のまま、勢いよく職員へ向き直る。
「じゃあ、アルカナ・エルディアでお願いします!」
弾んだ声が事務室に響いた。
職員が用紙に名前を書き込んでいく。アルカナはその手元を、一画ごとに目で追っていた。
「それから、記録用のお写真も必要になります」
「写真?」
「はい。こちらで撮影できますので少しお待ちください」
アルカナは椅子に腰を下ろし、背筋を伸ばして言われた方へ顔を向けた。
撮影が終わると登録の手続きもほどなく済んだ。
事務室を出たところで、アルカナがセインへ振り返る。
「これでわたしも研究所の人なのかしら?」
「正式には外部協力者だけどね」
「そうなの?」
「研究所の職員になったわけじゃないから」
「ふうん」
アルカナは少し考えてから笑った。
「まあ、どっちでもいいわ。今までどおり手伝えるなら」
「うん。助かるよ」
「じゃあ、早速行きましょう!」
足取りも軽く先へ歩き出したアルカナを、セインが追う。
少し先でアルカナが足を止めた。
「あ、セイン」
「なに?」
「今日のお昼どうする?」
セインは少し考えた。
「まだ決めてなかったなあ」
「じゃあ、帰りに何か買って湖へ行きましょうよ」
「今日も?」
「いいお天気だもの!」
セインは窓の外へ目をやった。雲の少ない、よく晴れた日だった。
「そうだね。午後の測定が早く終わったら行こうか」
「約束よ!」
アルカナは満足そうに笑った。
*
研究は少しずつ形になっていった。
セインは境界の揺らぎを再現する小さな装置を作り、条件を変えながら試験を重ねた。最初は何を変えても値が動かない。それでも記録だけは取り続け、ある日、針がわずかに振れる。
「……動いた」
セインが目盛りを凝視した。
「アルカナ、今の値を読んでくれる?」
読み上げられる数字をペンが追いかける。
「装置の条件を変えた直後に境界の値も変わってる」
「じゃあ、セインが揺らしたってこと?」
「可能性はある。でも1回だけじゃわからない。同じ条件でもう1度やろう」
何度かの失敗を挟んで、同じ振れがもう1度現れた。
「……出た! アルカナ、見た?」
「見たわ!」
こちらから影響を与えられる。息を弾ませたまま次の記録に取りかかるセインの手元へ、湯気の立つカップが差し出された。
「お茶。さっきから飲んでないでしょう」
「ああ、ありがとう」
受け取って一口含むと、ちょうど飲みやすい温度になっていた。
「……砂糖は?」
「入れてないわよ」
「よく覚えてたね」
「セインはいつも入れないじゃない」
当たり前のように返して、アルカナは空いた椅子を引き寄せる。鞄から本を取り出した。
「今日は遅くなりそう?」
「少しだけ」
「じゃあ、わたしはこれを読んでるわね」
「退屈じゃない?」
「どうして?」
セインは言葉を探すように視線を泳がせた。
「……いや、何でもないよ」
そう答えるセインを不思議そうに眺めたアルカナが、ふと問いかける。
「セインってどうして研究者になったの?」
「どうして?」
「ええ。なんでもそこまで熱心に調べたがるの、不思議だなって」
「そうだなあ……知らないことがあると、知りたくなるからかな」
「ふふ。それは知ってるわ」
セインはペンを置き、机の上の紙の角を指先で揃えた。
「昔からそうだったんだ。でも……知らなかったせいで、取り返しのつかないこともあったよ」
「……どういうこと?」
「僕には妹がいたんだ」
「妹さん?」
「うん。僕がまだ小さかった頃、見つけた木の実を妹にあげたんだ。喜ぶと思って」
セインは少し間を置いた。
「でも、その実には毒があった。僕は知らなかったんだ」
「……妹さんは?」
「亡くなったよ」
手元の資料へ目を落として、続ける。
「知っていれば渡さなかった」
「……そうね」
「だから、知らないことはできるだけ知っておきたいんだと思う」
アルカナはしばらくセインを見ていた。
「でも、知らないことを知るのも楽しいんでしょう?」
セインが顔を上げた。
「うん。それは変わらないよ」
「そうでしょうね」
アルカナは目元をやわらげる。
紙をめくる音と、筆記具が机を擦る音。部屋にはそれだけが残った。
*
アルカナは旅をやめたわけではなかった。ときどき近くの町へ出かけては、珍しいものを見つけて戻ってくる。
2日ほど家を空けた帰りは夕暮れの少し前だった。
「ただいま!」
扉の開く音に、先に戻っていたセインが顔を向ける。
「おかえり。どうだった?」
「楽しかったわ! 古い建物がたくさんあってね、川の向こうに大きな市場もあったのよ!」
足元をすり抜けた猫が、部屋をひと回りしていつもの椅子に収まった。
「それでね、面白い工房を見つけたの。セイン、これ見て!」
鞄から出てきたのは手のひらほどの木箱だった。表面には細かな模様が彫られ、側面に金属の輪がはまっている。
「箱?」
「そう。でも普通には開かないのよ」
受け取ったセインが箱を傾ける。蓋に取っ手も鍵穴もない。輪だけがわずかに動くようだった。
「この輪は回るの?」
「回るけど、ただ回しても開かないの」
「へえ」
底を確かめ、模様をなぞり、また傾ける。その様子を見ていたアルカナが口元を押さえた。
「……なに?」
「ううん。やっぱり気に入ったみたいね」
「これは面白いよ。どこで見つけたの?」
「旅先の工房。見た瞬間、セインが面白がりそうだと思ったの!」
「これを僕に?」
「そうよ。工房の人が開けて見せてくれたんだけど、どうして開くのか全然わからなくて。セインなら絶対に調べたくなるでしょう?」
セインは箱に目を落とし、金属の輪をゆっくり回した。
「ここの模様、少しずれてる」
指先にわずかな抵抗が伝わる。輪を戻してもう1度回すと、箱の内側で小さな音がした。
「なるほど」
「開きそう?」
「うん。あと少しだ」
木箱を両手で包み、壊れものでも扱うように胸元へ引き寄せる。
「……好きだなあ」
「え?」
アルカナが顔を上げた。
「こういう仕掛け。簡単そうに見えて、よく考えられてるね」
「……ああ、そうね!」
一拍遅れた頷きのあと、すぐに身を乗り出す。
「それで? 開けられそう?」
「ちょっと待って。この輪を……」
かちり。
蓋がほんの少し持ち上がった。
「あっ!」
「開いた」
中には小さな空洞があるだけだった。それでもセインは蓋の裏まで覗き込んで、目を輝かせている。
「こうなってたのか。外から見えない部分まですごく丁寧に作ってある」
「気に入った?」
「もちろん。ありがとう、アルカナ」
「どういたしまして!」
セインは蓋を閉じ、輪を元の位置へ戻した。
「……もう1回、開けてもいい?」
吹き出しそうになるのをこらえて、アルカナが椅子に深く座り直す。
「今度はわたしもやる!」
「じゃあ一緒に考えようか」
小さな箱を挟んで、2人の頭が寄った。
*
研究所では境界への干渉試験が続いていた。条件を整えるほど反応は大きくなっていく。それでも、向こう側に何があるのかは見えないままだった。観測できるのは境界が変化したという事実だけ。
確かめるにはもっと大きな装置がいる。セインは実験計画をまとめ、研究所へ審査を申し込んだ。
*
会議室には責任者と数名の審査担当者が集まっていた。
セインは図面を机いっぱいに広げる。アルカナは少し離れた席で、記録用紙を手に座っていた。
「希望するのは境界への人工的な接続実験です。小規模な試験では人為的に変化を起こせることは確認できました。ただ、その先に何があるのかまだわかっていません」
審査担当者の1人が図面を覗き込む。
「そこまで確かめるつもりですか」
「はい。境界に一定の変化を与え、短時間だけ接続を維持します。成立すれば内部を観測し、速やかに閉鎖する計画です」
「人が入ることは?」
「今回は予定していません。まずは接続が可能か、安全に閉じられるかを確かめます」
別の担当者が図面の数値を指した。
「出力を上げたとき、周囲への影響は?」
「段階的に上げます。観測器具を複数置いて変化の範囲を測り、上限を超えたら出力を下げるか、直ちに停止します」
セインは図面の一角を示す。
「こちらが制御系統です。通常の停止操作が効かなくなった場合に備えて、独立した補助系統も設けます」
「その補助系統の操作は?」
「外部協力者のアルカナが担当します。これまでの試験にも参加していて、観測器具と補助操作は誰よりも習熟しています」
呼ばれたアルカナが顔を向ける。
「はい!」
「手順は理解していますか」
「異常が出たら、まず制御側へ知らせます。指示に従って補助系統を操作し、必要なら閉鎖手順へ移ります」
用意していた記録を開き、試験で確かめた手順を示す。書類を受け取った担当者が目を通し、小さく頷いた。
その隣で、白髪混じりの審査担当者が腕を組んだまま口を開く。
「1つ、よろしいか」
「はい」
「うちの研究者でない方に、最後の手段を任せる計画だ」
「彼女は――」
「腕を疑っているのではない」
穏やかな、けれど遮る声だった。
「補助系統が要る事態というのは、そもそも想定の外側で起きるものだ。そのとき手順書どおりに動ける保証がどこにある」
会議室が静まる。アルカナが口を開きかけたとき、セインが先に答えた。
「保証はできません」
担当者の眉が動く。
「ですが、そうなる前に止められるよう、接続時間を細かく区切ります。補助系統を使わずに済ませるための備えです」
「閉じたあと、元に戻る保証は」
「小規模な試験では戻りました。ただ、今回は規模が違います」
「未知の側から、こちらへ何かが入ってきた場合は」
セインの視線が一瞬だけ図面に落ちた。
「検知した時点で遮断します。ですが検知できる範囲には限りがあります。なので観測地点を増やして、記録を取る協力者も多めに置きます」
責任者はしばらく資料を見直していた。
「正直な答えですね」
「はい」
「……いいでしょう。計画を認可します。ただし条件をつけます」
「条件、ですか」
「初回の出力は上限の半分まで。接続時間も計画の半分。そして異常の兆候が出たら、理由を問わず中止すること」
「承知しました」
「それから」
責任者の目が、セインから隣の席へ移った。
「あなたは、考え始めると止まらない人だと聞いています」
「……否定は、できません」
アルカナが横を向いて咳払いをする。
「中止の判断は、補助系統の担当にも申し出る権限を与えます。止めるべきだと思えば彼女が言う。あなたはそれに従う。いいですね」
セインはアルカナを見て、それから責任者へ向き直った。
「……はい」
答えるまでに、ほんの少し間があった。
「予算と施設の利用を認めます。装置の製作には技術職員を手配しましょう。未知の領域へ触れる以上、想定の外は起こり得る。そのことだけは忘れないように」
セインは深く頭を下げた。
会議室を出ると、アルカナが小走りで追いついてくる。
「やったわね、セイン!」
「うん、安心したよ」
ようやくセインの表情が緩んだ。
「止める権限もらっちゃったわ」
「……使う場面は来ないほうがいいけどね」
「そうよ。使わずに済ませましょう」
「そのための手順だから」
並んで廊下を歩き出す。
「じゃあ、早速始めましょう!」
「その前に設計を詰めないと」
「そこはセインが得意でしょう?」
「……そうだね」
*
装置の製作が始まった。技術職員たちの手を借りて、部品の加工や大型設備の組み立てを進めていく。セインは設計図を手に現場を歩き、アルカナは資材の確認や器具の準備に走り回った。
実験区域の奥に金属の支柱と大きな環状の構造物が組み上がる頃には、鏡湖で使っていた小さな器具がおもちゃのように見えた。
装置を見上げたアルカナが呟く。
「最初に会った頃は、こんなに大きなものを作るなんて思わなかったわ」
「僕もだよ」
「でも、すごいわね」
「協力してくれた人たちのおかげだよ」
「セインも頑張ってたもの」
「アルカナもね」
「わたしはお手伝いしただけ」
「そのお手伝いに助けられてるんだよ」
アルカナは両手を後ろで組み、装置の高い縁をもう1度見上げた。
金属の環の内側には、まだ何も見えない。
*
技術職員たちが持ち場へ戻ると、実験当日の体制が固まっていった。周辺の警備は専門の団体が受け持ち、各測定地点には記録を専門とする外部協力者が配置される。装置の制御と中止の判断はセイン。現場側の観測と補助操作はアルカナ。
2人は実際の配置に合わせて、停止手順の確認を繰り返していた。
「出力を下げる。反応を見て、遮断系統へ切り替える」
セインが操作盤を示す。
「下げても反応が続いたら?」
「補助系統を使う」
「こっちね」
アルカナは側面の操作部に手を置き、順序を指でなぞった。
「もし両方とも動かなかったら?」
「供給源を切り離す手順に移る。それでも抑えられないときは、操作を続けずに人員を退避させる」
「切り離しは練習したことある?」
セインの手が記録用紙の上で止まる。
「……模擬だけなんだ。実際に切り離すと装置を組み直すことになるから、通しでは試せない」
「そう」
操作部から手を離さないまま、アルカナはしばらく黙っていた。
「じゃあ、模擬のほうを念入りにやらなくちゃね」
「うん。手順は全部覚えておく」
「わたしも」
袖をまくり上げる。
「どこから始める?」
「通常の停止手順から」
2人は並んで盤に向かった。
*
日程が決まってからも手順の見直しは続いた。
模擬操作の合間、アルカナが装置を眺めたまま口を開く。
「うまくいったら何が見えるのかしら」
「それを確かめるための実験だからね」
「海だったらいいわね。見たことない色の海とか」
「水があるかどうかもわからないよ」
「じゃあ、森!」
「森もあるかなあ」
「もう! 1つくらいありそうって言ってくれてもいいじゃない」
セインの口元が緩んだ。
「ごめん。……そうだね、何か見えたら面白いな」
「もし何もなかったら、それもわかるんでしょう?」
「うん」
「楽しみね」
「うん。本当に」
*
その日の夕方、家へ戻ると猫がいつもの椅子で眠っていた。
上着を窓際に掛けたアルカナが、伸びをしてから振り返る。
「夕飯にしましょう!」
「そうだね。今日は何がいい?」
「うーん、何でもいいわ」
「それが一番難しいんだけどなあ」
「それじゃあスープ」
「また?」
「この前のがおいしかったんだもの」
「わかった。スープにしよう」
「わたしも手伝うわ!」
「……今日は早く食べたいんだけど」
「ちょっと、ひどいわよ」
抗議しながらアルカナは先に台所へ向かう。目を覚ました猫が椅子から降りて、そのあとをついていった。
「野菜を洗ってくれる?」
「任せて!」
水の音が響く。洗い終えた野菜を持ち上げて、アルカナが振り返った。
「次は?」
「切るんだよ」
「わたしがやる!」
「……今日は何時に食べられるかな」
「もう! またそういうこと言う」
「一緒にやろうか」
「うん!」
包丁を手にしたアルカナが、まな板の上の野菜を覗き込む。
「どのくらいの大きさ? セインの一口? わたしの一口?」
セインは少し考えた。
「……僕の一口でお願いしようかな」
「それならちょっと大きめね」
「そういうことになるのかな」
「なるわよ」
降参するようにセインが息を吐く。まな板の上の野菜が、スープ用にしてはかなり大きめに刻まれていった。台所の入口で猫が2人を見上げている。
*
夕食のあと、食器を片づけたアルカナが戻ると、机にはまた書類が広がっていた。
「やっぱり」
「確認だけね」
セインの指先は手順書の1行の上で止まっている。
『供給源の切り離し(模擬のみ)』
アルカナは何も言わずに台所へ戻り、湯気の立つカップを持って戻ってきた。図面にかからない机の端へ、そっと置く。
「お茶どうぞ」
「ああ、ありがとう」
返事をしながら、セインの視線は紙から動かない。
アルカナは隣に腰を下ろし、同じ1行を横から眺めた。それから鞄の本を開いたが、ページはめくられない。
灯りの下でカップの湯気が細くなっていく。
手順書のその1行には、鉛筆で何度も線が引かれていた。




