第十八章 そこから見えた景色
第一境界研究所の屋外実験場では、朝から技師や観測員たちが慌ただしく行き交っていた。
広い円形の実験場の中央には、幾重もの金属環に囲まれた巨大な装置が据えられている。中心には透明な球体が浮かび、床には複雑な術式が刻まれていた。南側には装置全体を操作する主制御盤、北側には観測台と、緊急時に使う補助機構が設けられている。
実験場の先には山あいの街道が続き、下ったところに小さな町があった。研究所の敷地と周辺の危険区域はすでに立ち入りを制限され、警備の者たちが配置されている。
「ねえセイン。今晩のごはん、どうする?」
観測台で記録を確認していたアルカナが顔を上げた。
「まだ考えてないな」
「じゃあ、帰りに市場に寄って一緒に決めましょうよ」
「うん。楽しみにしてるよ」
セインが目を細める。アルカナも口元をほころばせ、手元の記録へ目を戻した。
近くの石壁の上には猫が座っている。アルカナが指先を伸ばすと、慣れた様子で頭を擦り寄せてきた。
「今日はおとなしくしててね」
猫は返事の代わりに、ゆっくりと瞬きをした。
「エルディアさん、最終確認をお願いします」
技師に呼ばれてセインが振り返る。
「はい。今行きます」
アルカナも記録を閉じた。
「セイン、わたしも持ち場に戻るわね!」
「うん。よろしく、アルカナ」
*
この装置を完成させるまでには、長い時間がかかった。
境界が存在することは観測で確かめられている。けれど、その向こうに何があるのかはわからなかった。時折生じるわずかな揺らぎ、通常とは異なる数値、ごく短い時間だけ現れる説明のつかない現象。セインはそれらを一つずつ記録し、境界へ働きかける術式を組み立ててきた。アルカナと出会ってからは、2人で各地を歩き、何度も観測を重ねている。
そうして辿り着いたのが、この人工的な接続装置だった。
研究所の承認が下り、予算と設備が用意された。技師たちの協力で装置を組み上げ、小規模な術式試験を繰り返した。接続の維持時間、出力の限界、異常時の停止手順。それでも閉じられなかった場合に備えた緊急閉鎖機構。初回は出力を上限の半分に抑える条件も付いている。
考えられる限りの準備はしてきた。
ただし、実際に境界の向こう側を開くのは、今日が初めてだった。
「第一系統、確認完了」
観測員の声が響く。
「外周の記録器も準備できています」
「ありがとうございます」
セインは操作盤の前に立った。ここからは装置全体の制御を自分が受け持つ。北側ではアルカナが観測器具を確かめ、外周の担当者たちへ合図を送っていた。記録も周辺警備もそれぞれの担当者に任されているが、人工門の操作と緊急閉鎖の手順を把握しているのはセインとアルカナの2人だけだ。
異常が出たときにはセインは主制御盤で接続を抑え、アルカナは外周の補助機構を操作する。両方が正しく働いて、初めて強制的な閉鎖が成立する。
「アルカナ、聞こえる?」
狭い範囲へ声を届ける小さな術式盤に呼びかけると、すぐに返事があった。
「聞こえるわ!」
「補助系統の確認は?」
「問題なし。いつでも始められるわよ!」
「わかった」
顔を上げたセインの視線が金属環の内側で止まる。まだ何もない。見慣れた環と、その向こうの研究所の建物があるだけだ。
「……始めようか」
「ええ!」
*
最初の変化は、透明な球体の中心に現れた。
細い光が走る。周囲の金属環がゆっくり回り始め、床の術式が順番に淡く輝いた。
「第一系統、安定。位相差も許容範囲内」
観測員が読み上げる数値を記録係が書き留めていく。
「第二系統へ移行します」
セインが切り替え操作を行うと、低い振動が広がった。
球体の向こうに一本の線が現れる。最初は空間に細い傷が入ったように見えたそれが、やがてゆっくりと開いていった。
「……あ」
アルカナが声を漏らす。
隙間の向こうに研究所の建物はなかった。広がっているのは青白い空。昼の光とは違う、夜のような静かな明るさだった。その下に見知らぬ石造りの建物が並び、細い道が遠くへ続いている。道の先には橋があるのに、下に川は見えない。窓があっても向こうの部屋は見えず、壁は途中で途切れて、別の建物の階段へつながっていた。
どこか知っている町に似ているのに、見たことのない景色。
「……セイン!」
アルカナは術式盤に呼びかけた。
「見えてる!?」
「うん。見えてるよ」
セインの声も弾んでいる。
「ねえ、あの橋! 川がないのに橋があるわ!」
「そうだね」
「あっちの建物も変よ! あの階段、どこにつながってるのかしら!」
「僕も気になってる」
「行ってみたい!」
「今日は接続の確認だけだよ」
「わかってるわよ!」
弾んだ返事とは裏腹に、アルカナの目は景色から離れない。身を乗り出し、瞬きすら惜しむように見つめていた。
セインも計器から顔を上げ、同じ景色を見る。出力は予定値の内側に収まり、球体の振動も小さい。接続は安定していた。
「……アルカナ」
「なあに?」
「成功だよ」
少しの間があった。
「うん!」
返ってきた声は、これまででいちばん明るかった。
*
「位相差が上昇しています」
外周の観測員の報告にセインが顔を上げる。
「どのくらい?」
読み上げられた数値は許容範囲をわずかに超えていた。
「出力を下げます」
すぐに操作が切り替えられ、金属環の回転が緩やかになる。しかし開いた隙間は縮まらない。
「……おかしいな」
計器を覗き込む。接続出力は確かに落ちているのに、隙間のほうが広がっていた。
「アルカナ、そちらからはどう見える?」
「少し、変ね」
観測台から身を乗り出したアルカナの目に、向こうの石畳がこちらへ近づいてくるのが映る。奥にあったはずの道が、今は金属環のすぐ近くまで伸びていた。
「セイン、あの道がこっちに来てるわ」
「……接続を停止する」
セインが閉鎖系統を起動する。中央の金属環が逆方向へ動き出し、隙間の端がわずかに縮んだ。
「よし」
その直後、装置が大きく震えた。
金属環が軋み、床の術式が一斉に明るくなる。縮みかけた隙間が急激に広がった。
「……っ!」
セインは操作盤へ手を伸ばす。停止させたはずの系統に再び力が流れ込んでいた。
「第二系統、応答しません!」
「第一系統の出力は!?」
「下がっています! ですが接続範囲が……」
報告が途切れた。
実験場の中央に見知らぬ石の柱が現れていた。1本、2本、3本。その奥に巨大な建物の壁が立ち上がり、研究所の屋根が青白い石壁に重なっていく。
凄まじい破砕音が響いた。
「なに!?」
アルカナが振り返る。外周の通路が砕けていた。石造りの壁が、もともとそこにあった建物を内側から押し広げるように現れ、木材が裂けて瓦が落ちる。
「セイン! 建物が壊れてる!」
「わかってる!」
セインは閉鎖系統を操作し続けた。出力は落としている。装置は接続を広げようとしていない。それなのに境界のほうが勝手に崩れ、開いた場所が周囲まで巻き込み始めていた。
「……どうして」
計算用紙を引き寄せる手が途中で止まる。こんな数値は1度も観測したことがなかった。
「全員、装置から離れてください!」
セインが叫ぶ。
「警備担当は外周の避難を! 敷地外にも異常が広がっていないか確認してください!」
担当者たちが走り出し、観測員も記録を抱えて退避を始めた。その間にも青白い景色は広がり続けている。
*
アルカナの目の前で地面が変わった。
いつも歩いていた研究所の石畳に見知らぬ道が重なっている。そこから伸びた階段は途中で消え、その先にはさっきまでなかったはずの青白い川が流れていた。
「……なに、これ」
足を止めて見上げると、巨大な山の斜面が森の向こうに現れていた。本来そこにある山とは形が違う。木々の間に青白い岩肌が重なり、斜面の一部が研究棟へ食い込んでいる。
建物が崩れた。遠くから悲鳴が上がる。
ついさっきまで、アルカナは同じ空と道を指さしてはしゃいでいた。今はその唇が固く引き結ばれ、指先が小さく震えている。
「危ない!」
崩れかけた通路のそばで観測員が転んでいた。アルカナは駆け寄って腕を取り、引き起こす。
「早く離れて!」
観測員が走り出した直後、背後の石柱が倒れた。砕けた石が地面を跳ねる。腕で顔を庇いながら、アルカナは術式盤を取り出した。
「セイン! 聞こえる!?」
「聞こえる! アルカナ、無事!?」
「ええ! でも、どんどん広がってる!」
「こっちでも確認してる。今、抑えようとしてるんだけど」
そこで大きな音がした。
顔を上げたアルカナの目に、中央に現れた巨大な建物が映る。建物というより山のようだった。その向こう側がまったく見えない。セインのいる操作盤も、研究所の南側も、青白い石壁に遮られていた。
「……セイン?」
「アルカナ、北側の補助機構へ行ける?」
術式盤から声が聞こえる。
「緊急閉鎖に切り替える。僕が主制御盤で接続を抑えるから、君は――」
激しい雑音が割り込んだ。
「……っ、聞こえない!」
術式盤を耳に押し当てる。
「セイン!?」
途切れ途切れの音の中に、言葉が混じった。
「……けたら、補助……て……閉鎖し……」
「わかった! 補助機構ね!」
返事はなかった。
「セイン! 聞こえる!?」
もう1度呼びかけても雑音さえ聞こえない。術式盤を握りしめたアルカナは、短く息を吸って顔を上げた。
「手順は覚えてる。……行かなきゃ」
崩れた通路を避け、北側へ走り出した。
*
セインの目の前では、接続の状態を示す数値が異常な変化を続けていた。
「……駄目だ」
出力はすでに最低値まで下げている。それでも接続は広がり続け、中央の開口部から現れた巨大な石造りの建物が、研究所の北側を完全に覆い隠していた。その上には青白い山。斜面から落ちる川の一部が研究所の森と重なり、木々が倒れて地面が抉れていく。遠くの町はもう見えなかった。
アルカナの姿も見えない。
「アルカナ!」
術式盤に呼びかけても返事はない。
「アルカナ、聞こえる!?」
何も聞こえなかった。どこにいるのか、補助機構へ向かえているのか、怪我はないのか。何ひとつわからない。
セインは1度、主制御盤から顔を上げた。青白い建物が視界いっぱいに広がっている。その向こうにアルカナがいるはずだった。
「……っ」
足が動きかけたとき、装置が再び激しく震えた。
セインは操作盤へ向き直る。ここを離れれば、抑えかけた接続がまた広がる。アルカナが補助機構へ辿り着いていても、こちらの制御が失われれば閉鎖は成立しない。
「頼む」
震える手で術式を切り替えると、異常な振動が腕を伝ってきた。金属環の回転を調整し、広がろうとする接続を押し戻す。数値が少し下がり、また上がる。もう1度、抑える。
「戻れ」
数値は激しく上下したままだ。
「……戻ってくれ」
少しでも力を抜けば、接続が再び広がろうとする。出力を上げすぎれば装置が耐えられない。セインは計器から目を離さなかった。接続の拡大を止め、閉鎖できる状態を作り、その状態を維持する。最後の操作はアルカナに任せるしかない。
「……アルカナ」
もう1度名前を呼んでも返事はなかった。セインは歯を食いしばり、主制御盤の操作を続けた。
*
アルカナが補助機構へ辿り着いたとき、北側の景色はすっかり変わっていた。
外周の石壁は崩れ、街道は途中で途切れている。道の一部に青白い石畳が重なり、見知らぬ橋が谷を横切っていた。その先に、研究所へ来る途中で通った町が見える。
「……え?」
アルカナは足を止めた。
町の上に巨大な建物が重なっている。屋根が押し潰され、通りの一部が崩れ、見知らぬ石壁が家々の間に現れていた。広場の中央から青白い道が伸び、さっきまでなかった建物が並んでいる。
人々が走っていた。見慣れた街道を逃げる人。倒れた荷車を避けて脇道へ駆け込む人。崩れた家の前で誰かを呼ぶ人。男が子どもの手を引き、2人は倒れた壁を避けるように青白い道へ入っていく。
「……そんな」
実験場から、こんなところまで。見慣れた道が塞がれ、知らない道が現れている。どちらが安全なのか誰にもわからないのだろう。
アルカナは術式盤を取り出した。
「セイン!」
返事はない。
「セイン、町が……!」
通信はつながらなかった。目を閉じて短く息を吸い、補助機構の前に膝をつく。外周の金属環は激しく震えていた。
「補助系統を接続して、位相を合わせて、最後に閉鎖……」
低く呟きながら操作部の位置を確かめる。何度も練習した手順だった。最初の操作具を動かすと、術式が淡く光り、金属環がゆっくりと反応する。
「……動いた」
けれど、その先へは進めなかった。主制御盤側の準備が整っていない。アルカナは補助環に手を添えたまま、装置を見つめた。
「セイン……」
術式盤は沈黙している。それでも彼女は待った。
やがて、激しく震えていた術式の光が少しずつ揃い始める。ばらばらだった金属環の動きが、1つ、また1つ、同じ周期へ近づいていった。
アルカナの顔が上がる。
「セイン!」
応答はない。けれど主制御盤側で、セインが必死に接続を抑えている。
「……うん」
小さく頷いた。
「わたしも、頑張るわ」
*
セインは主制御盤から手を離せなかった。
装置の振動はさらに激しくなり、金属環が軋んで固定具が音を立てる。出力を調整しても接続はすぐに不安定になる。そのたびにセインは制御を立て直した。観測員たちは退避し、周辺の記録も途中から途絶えていた。残った計器が示すのは装置と接続の状態だけで、その数値さえ刻々と変わっていく。
「……あと少し」
主制御盤の術式が、ようやく一定の周期で光り始めた。外周の補助機構へ制御が伝わっていく。
「これで――」
閉鎖できる状態までは持ち込めた。けれど、ここからが問題だった。1度でも手を離せば状態は崩れる。アルカナが最後の操作をするまで、この状態を維持し続けなければならない。
術式盤に目をやっても応答はない。目の前には青白い巨大な建物が立ちはだかり、その向こうは何も見えなかった。足が1歩、そちらへ向きかける。
けれど、その足は踏み出されないまま止まった。唇を噛み、セインは視線を操作盤へ引き戻す。
「……僕は、ここで」
自分に言い聞かせるような低い声だった。調整環に掛けた指に力がこもる。
術式盤には目をやらないまま、セインはもう1度だけ呟いた。
「頼んだよ、アルカナ」
届くはずのない言葉だった。
*
アルカナは補助機構の前で町を見つめていた。
青白い道がさらに広がっている。その奥の建物の形も変わっていた。あるはずのない階段。どこへ続くのかわからない橋。昼の町と青白い景色が入り混じり、その間を人々が逃げていく。
アルカナは操作具に手を掛けた。
補助環に伝わる主制御盤の術式が、こちらと同じ周期で脈を打っている。地面が揺れ、町が崩れていく中でも、その拍は少しも乱れない。
青白い石壁に遮られた南側へ目を向けた。見えるはずのない主制御盤の方角をじっと見つめる。
「……ちゃんと、やってくれてるのね」
呟く声に短く息が混じる。操作具に掛けた手の震えがおさまり、指先に力が戻った。
閉鎖の準備は整っている。あとは、最後の操作をするだけだ。
けれど、アルカナの手はそこで止まった。
青白い道の向こうにはまだ人がいる。何人も。
「……閉じたら」
唇から声が落ちた。
「あの人たち、どうなるの……?」
1度接続を断てば簡単には開けられない。それはこれまでの研究でわかっていた。人工的に開くことさえ今日ようやく成功したばかりだ。同じ場所へもう1度つなぐ方法なんて、まだない。
「帰れなくなるかもしれない……」
声が震えた。閉じた瞬間に元の場所へ戻れるのかもしれないし、別の道が残るのかもしれない。けれど、何の保証もなかった。
アルカナは術式盤を口元へ寄せた。
「ねえセイン。あの人たち、帰れると思う? 閉じても、本当に大丈夫?」
術式盤は沈黙したままだった。
補助環の光が少しずつ揺れ始めている。長くは保たないのがわかる。アルカナは町へ目を向けた。親子らしい2人が崩れた建物の脇を通り抜け、その後ろには老人を支えて歩く人がいる。荷車が道を塞ぎ、立ち止まった人々が脇に現れた青白い石畳へ次々と進んでいく。今いる場所から逃げるために。ただ、それだけのために。
「……待てないの?」
誰にともなく呟く。もう少し待てば、あの人たちは安全な場所へ辿り着けるかもしれない。
そう口にした直後、町の端の建物が大きな音を立てて崩れた。内側から現れた青白い巨大な石壁が土煙を上げ、人々が散り散りに走り出す。
アルカナは息を呑んだ。
接続はまだ広がろうとしている。セインが必死に抑えていても、やはりまだ完全には止められていない。ここで待てばさらに多くの人が巻き込まれる。町の向こうの別の町まで広がるかもしれない。どこまで続くのか、誰にもわからない。
操作具に掛けた指に力がこもった。
閉じれば、あちらへ進んだ人たちが戻れなくなるかもしれない。閉じなければ、これからもっと多くの人が同じ目に遭う。どちらも望んでいない。どちらも選びたくない。それでも、今ここで操作できるのは自分だけだった。
アルカナは目を閉じる。
「どうしたらいいの……」
答える人は、いない。
セインにも聞けない。向こうへ逃げていった人たちにも聞けない。ゆっくり目を開け、もう1度町を見た。青白い道の上を誰かが走っている。その奥で別の建物が崩れた。
「……ごめんなさい」
小さな声が漏れた。それでも、手は離さなかった。
アルカナは補助環へ向き直る。
「……閉じるわ」
誰にも届かない言葉だった。
「これ以上、広がらないように」
最後の操作具に両手を掛け、腕に力を込めた。
*
セインの目の前で、主制御盤の術式がかすかに揺れた。
外周の補助系統から反応が返ってきている。
「……!」
閉鎖術式の一部が変化し、補助環が動き出した。アルカナが、操作している。
「アルカナ!」
返事はない。けれど装置の反応は確かだった。
「……よし」
こちらの状態を維持しなければならない。閉鎖が成立するまで。
金属環が激しく震え、主制御盤の術式が不規則に明滅する。
「っ!」
出力を調整すると接続が強く引き戻された。1度広がってしまったものを無理やり引き離そうとしている。装置が悲鳴を上げるように軋み、セインは操作盤にしがみついた。
「……頼む」
指先が痺れ、腕が震える。それでも手は離さない。補助系統の反応が強くなっていった。
*
アルカナの周囲では青白い景色が激しく揺れていた。
町の向こうの巨大な建物が、少しずつ遠ざかる。地面に重なっていた石畳が消え、見慣れた土の道が戻ってきた。けれど、その途中にはまだ人がいる。青白い道を走る人。立ち止まって振り返る人。誰かに手を伸ばしている人。
アルカナはその姿から目を離さなかった。
「……あと少し、待てば」
囁きは足元の石畳が軋む音にかき消された。補助環の振動がさらに大きくなり、固定具が押し戻されそうになる。両手で押さえつけた。
「……っ!」
閉鎖の反動が腕から全身へ伝わってくる。それでも手は止めなかった。今離せば、セインが抑えている接続がまた広がってしまう。
歯を食いしばると、最後の操作具が少しずつ動いた。
「お願い」
青白い道の向こうに人影が見えた。こちらへ走っているのか、どこか別の場所を目指しているのか、もう見分けがつかない。
操作具が押し込まれた。金属が深く噛み合う音がして、次の瞬間、周囲の光が一斉に収縮した。
*
セインの目の前で、接続を示す数値が急速に下がった。
金属環の回転が止まり、球体の内部を走っていた光が消える。あれほど激しかった振動が突然なくなった。
「……閉じた?」
接続値は下がり、閉鎖系統も正常に作動を終えている。外周の補助機構からも、最終操作の完了を示す反応が返ってきていた。
それでも、セインはまだ手を離さなかった。1度収まった接続が再び広がろうとしたのを見ている。第一系統、第二系統、出力を伝える術式、閉鎖に使った補助系統。1つずつ確かめ、独立した観測器の記録へ目を移す。位相差、接続範囲、境界の変動。すべての数値が落ち着いていた。
観測値を最初から確かめ直し、しばらくその推移を見守った。1つでも異常が残っていれば今度こそ取り返しがつかない。数値は安定したままだった。
主制御盤からゆっくりと手を離す。変化はない。
「閉じた……」
ようやく声が出た。
「閉じたんだ」
術式盤を引き寄せる。
「アルカナ、聞こえる?」
返事はなかった。
「アルカナ?」
通信がまだ戻っていないだけかもしれない。最後にもう1度、主制御盤と観測器の数値を見る。やはり変化はない。これなら離れられる。
「……アルカナ!」
セインは走り出した。
*
中央の装置を回り込み、北側へ向かう。
さっきまで立ちはだかっていた巨大な建物は消えていた。青白い山も、川も、見知らぬ道も、すべてなくなっている。けれど、残されたものは朝とはまるで違っていた。研究所の建物は崩れ、石畳は砕け、地面には大きな亀裂が走っている。森の一部は押し潰され、折れた木々が積み重なっていた。
瓦礫を乗り越えて補助機構のあった場所へ向かう。金属環の一部が地面に転がり、操作具は根元から折れ、術式の刻まれた石板も割れていた。
「……アルカナ?」
誰もいない。
崩れた壁の向こう、折れた柱の陰、瓦礫の間。どこにも姿はなかった。
「……どこだ」
返事はない。補助機構が操作されたことも、最後の閉鎖処理が完了したことも、確かに確認している。彼女はここにいたはずだった。
「アルカナ!!」
自分でも驚くほど大きな声が建物に反響した。息を詰めて待っても返事はない。術式盤を取り出して呼びかけても反応はなかった。
「どこに……」
避難したのかもしれない。怪我をして、動けなくなっているのかもしれない。
セインは顔を上げ、再び走り出した。
*
研究所の外はさらにひどい有様だった。
街道の一部が崩れ、建物が倒れている。本来の道は途中で途切れ、深い亀裂が走っていた。遠くから人々の声が聞こえる。セインは倒れた木を回り込み、崩れた石壁を乗り越えて、町へ向かって走った。
町が見えたとき、足が止まった。
「……そんな」
屋根の落ちた家。壁の崩れた建物。道に散乱する木材と石。泣きながら誰かを呼ぶ人。怪我人を運ぶ人。何人もが、倒れた家の前で瓦礫を動かそうとしている。
セインはしばらく動けなかった。装置の前で見ていたのは、青白い巨大な景色だけだった。その向こうで何が起きていたのか、今になって初めてわかる。
「誰か! 手を貸してくれ!」
声に振り返ると、崩れた壁の下で男が瓦礫を持ち上げようとしていた。その下から細い腕が見える。
セインは駆け寄った。
「どこを持てばいいですか!」
「こっちだ! この石を!」
2人がかりで動かすと重い石が少しずつずれ、下敷きになっていた少年が引き出された。泣いてはいるが呼吸はしている。何度も礼を言う男に頷き、セインは立ち上がった。
「……白銀の髪の女性を見ませんでしたか」
男が顔を上げる。
「え?」
「このあたりにいたはずなんです。長い白銀の髪で……」
男は首を振った。
「すまない、わからない」
「……そうですか」
セインは周囲を見回し、また走り出した。
*
町の広場には臨時の救護所が設けられていた。
運び込まれた怪我人たちの間を、医師や手伝いの者たちが慌ただしく動いている。セインは1人ずつ顔を確かめた。寝かされている人、壁にもたれている人、包帯を巻かれている人。名前のわからない負傷者についても尋ねたが、アルカナはいなかった。
別の救護所にも向かった。途中で出会った避難者たちに尋ねるうち、研究所の者だと知って事故のことを問い詰められる。
「何が起きたんだ!」
「どうしてこんなことに……!」
答えようとしても言葉が出なかった。自分にも、まだ説明できない。
「……すみません」
頭を下げることしかできず、それからまたアルカナを探した。
研究所へ戻り、片づけられた通路があれば先へ進み、瓦礫の下に空間があれば覗き込んで声をかけた。返事があれば駆け寄った。しかし、声はいつも別の誰かのものだった。また町へ下り、避難場所を回り、街道の脇道や壊れた建物の陰も確かめる。何度も同じ道を歩き、何度も同じ場所へ戻った。見落としたところがあるかもしれない。さっきはいなかった場所に、今はいるかもしれない。そのたびにセインは走った。
アルカナは、どこにもいなかった。
*
日が傾き始めた頃、セインはもう1度、研究所の北側へ戻ってきた。
もう何度目なのか自分でもわからない。朝には整然と並んでいた建物がいくつも崩れ、観測台は倒れ、金属環は折れ、地面の術式は大きく剥がれている。長い時間をかけて作り上げたものが、ほとんど原形を留めていなかった。
足は補助機構のあった場所へ向かった。もう何度も確かめたところで、そこにいないことはわかっている。それでも向かわずにいられなかった。
砕けた石畳、折れた金属環、抉れた地面。その瓦礫の上に、小さな影があった。
「あ……」
今朝もアルカナのそばにいた。いつも彼女と一緒の、あの猫。
「……お前」
セインは駆け寄った。けれど猫は振り向かない。じっと同じ方向を見つめている。ついさっきまで人工門が開いていた場所だった。今は青白い景色も見知らぬ建物もなく、崩れた装置の残骸があるだけだ。
「アルカナ?」
猫がここにいるなら、アルカナもきっと。崩れた壁の向こう、倒れた柱の陰、金属環の破片が積み重なった場所を見回す。
「アルカナ」
返事はなかった。何も変わらない。猫だけが、相変わらず門のあった方を見つめている。セインはその視線を追った。そこにはもう何も見えない。
「どこにいるんだ……」
声が震えた。
何度も呼んだ。町まで行って、救護所も、崩れた建物も、行けるところは全部確かめた。それでも、いなかった。
遠くから人々の声が聞こえてくる。瓦礫を動かす音。怪我人を運ぶ足音。誰かの名前を呼ぶ声。そのすべてが、自分たちの実験のあとに残されたものだった。
セインは壊れた装置に目を向ける。何年もかけて作り、何度も計算した。安全のための仕組みも、異常が起きたときの手順も、考えられることは全部確かめたつもりだった。
「……笑ってたのに」
乾いた声が、ひとりごとのようにこぼれた。
「初めて向こうが見えたとき、あんなに笑ってたのに……」
唇が震える。
「どこで止めればよかったんだ……」
答えは返らない。猫は朝と同じ姿で、アルカナが頭を撫でていたあのときと同じ背中で、そこから動かずにいた。けれど今、その視線の先にアルカナの姿はない。
「……アルカナ」
膝から力が抜けた。砕けた石畳に手をつく。何度も走った足は、もう動かなかった。
「……帰ってきてよ……」
掠れた声は、ほとんど音にならなかった。
猫は振り向かない。もう何もない人工門を見つめ続けていた。




