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第十九章 あの日のあと

「……セイン?」


声が出た。自分の声だった。


アルカナはゆっくりと目を開ける。


見慣れた天井。窓から差し込む光、壁際の本棚、小さな机。自分たちの家だった。


「……あれ?」


身体を起こそうとしたとき、椅子が大きな音を立てた。


「アルカナ……?」


振り向くと、セインが立ち上がっている。


「……起きたの?」


「ええ。……どうしたの?」


セインはすぐにベッドのそばへ来た。けれど、手を伸ばしかけたところで動きを止める。


「……僕のこと、わかる?」


「え?」


「僕が誰か、わかる?」


アルカナは瞬きをした。


「何言ってるの。セインでしょう?」


「うん……」


頷きながらも、セインは何かを確かめるようにこちらを見ている。


「……最初に会った場所は覚えてる?」


「鏡湖よ。あなたが変な装置を覗き込んでたから、何してるのって聞いたの」


「そうだったね」


「ねえ、どうしたの? 何かの試験?」


不思議そうに笑うアルカナに、セインは少し考えてからもう1度口を開いた。


「……じゃあ、君は?」


「わたし?」


「うん」


「アルカナよ?」


セインが頷く。


「…………そう、だよね」


「もう、何なのよ。変なセイン!」


アルカナが笑っても、セインは笑わない。ただ、その顔をじっと見つめていた。


「……一緒に暮らしていたことも、覚えてる?」


「もちろん!」


少し考えてから、アルカナは指を折った。


「市場に行ったり、一緒に料理をしたり……あ、あなたが石鹸を買い忘れたことも覚えてるわよ!」


セインが目を丸くする。次の瞬間、息が抜けるように口元がほころんだ。


「……そこまで覚えてなくてもいいんだけど」


「忘れるわけないじゃない! 結局、次の日に買いに行ったでしょう?」


「うん。君に頼まれてね」


「そうよ!」


得意げに胸を張るアルカナを、セインはしばらく見つめていた。それから、ゆっくりと息を吐く。


「……よかった」


「だから、何が?」


「……ごめん。長く眠っていたから、心配で」


「そんなことまで忘れるわけないでしょう?」


「……そうだね」


ようやくセインが椅子へ腰を下ろした。その顔を改めて見る。目の下には濃い影が落ち、頬も以前より痩せていた。


「……セイン、ちゃんと寝てる?」


「え?」


「顔色が悪いわよ」


「……今は君の心配をしているんだけど」


「わたしは元気よ!」


両腕を広げてみせると、セインの目がその動きを追った。


「どこか痛くない?」


「え?」


「腕とか、足とか。動かしにくいところは?」


手を握って開き、足も動かしてみる。


「別に?」


「息苦しくない?」


「ないわよ」


「気分が悪くなったりは?」


「セイン!」


アルカナが声を上げた。


「一体どうしたの? さっきから変なことばっかり聞いて!」


一瞬、言葉に詰まる。それからセインは困ったように眉を下げた。


「……ごめん。本当に心配だったんだ」


その力ない声に、アルカナも肩の力を抜く。


「……何があったの?」


セインが椅子を引き寄せた。


「最後に覚えていることを、聞いてもいい?」


「ええと……」


視線が宙をさまよう。


「研究所で人工門を開いて……青白い空と、知らない建物が見えて……それから」


指先が毛布を握った。


「……実験!」


勢いよく顔が上がる。


「セイン! あれ、どうなったの!?」


「落ち着いて」


「だって、あのあと……! 町が崩れて、人が逃げてた。わたし、補助機構の前で操作具を握って……」


声が震える。


「……わたし、閉じたわよね?」


「うん」


セインが頷いた。


「君が閉じてくれた。接続は止まったよ」


「そう……」


息を吐いたアルカナは、すぐにまた顔を上げる。


「町は!?」


セインの表情が変わった。


「……被害が出てる」


「どのくらい?」


「建物が壊れて、怪我をした人も大勢いる。まだ行方のわからない人もいるんだ」


「……そんな」


毛布を握る手に力がこもる。


「あのとき、見たの。青白い道へ走っていく人たちを」


セインは何も言わない。


「……帰ってきた人は?」


「いるよ」


セインは答えた。


「事故のあと救助された人もいる。でも、まだ見つかっていない人もいる」


「……そう」


アルカナはしばらく黙り込み、やがて周囲を見回した。


「……ところで、わたし、どうして家にいるの?」


セインが顔を上げる。


「覚えてない?」


「閉じたところまでは覚えてるわ。そのあとは……」


首をかしげた。


「わからない」


セインは少しの間、黙っていた。


「……君は、閉鎖の反動で大きな怪我をしたんだ」


「わたしが?」


「うん。ずっと意識が戻らなくて」


アルカナは驚いて自分の身体を見下ろす。


「でも、どこも痛くないわよ?」


「今は落ち着いているから」


「そうなの?」


「……うん」


もう1度、自分の手を見る。特に変わったところはなかった。


「どれくらい寝てたの?」


「5か月ほどになるかな」


「5か月!?」


アルカナは目を丸くした。


「そんなに!? わたし、5か月も寝てたの!?」


「……うん」


言葉を失ったように、アルカナはセインの顔を見つめる。目の下の影、痩せた頬。


「わたしには、あの日からほんの少ししか経ってないのに」


呟きが落ちた。


「あなたはその間、ずっと待っててくれたのね」


セインは何も言わなかった。


「セイン?」


「……そうだね」


小さな返事だった。


「でも、目を覚ましてくれてよかった」


アルカナはシーツの端を握り、そっと頭を下げた。


「ごめんね」


セインが顔を上げる。


「何が?」


「心配かけて」


驚いたように目を見開いたセインが、ゆっくり首を振った。


「……謝らないでよ」


アルカナも顔を上げ、にっと口の端を上げる。


「じゃあ、あなたもちゃんと休んでね!」


「僕?」


「そうよ! そんな顔で研究したって、ろくな計算ができないわ」


セインはしばらく瞬きをして、それからようやく表情がほどけた。


「そうかもしれないね」


足元で柔らかな音がした。


「あ!」


猫がベッドへ飛び乗ってくる。


「あなた!」


嬉しそうに伸ばした手へ、猫は毛布の上を歩いて近づき、膝に身体を押しつけた。


「元気だった?」


頭を撫でると、喉を鳴らす音が返ってくる。


「ずっとセインと一緒にいたの?」


返事はない。


「そう。いい子にしてた?」


「……いつもどおりだったよ」


「ふふ。そうでしょうね」


膝の上に落ち着いた猫を、セインは黙って見ていた。


アルカナが顔を上げる。


「ねえ、セイン」


「なに?」


「また一緒に調べましょうね」


セインの動きが止まった。


「……何を?」


「決まってるじゃない。あの青白い世界のことよ」


猫を撫でながら続ける。


「何だったのかも、どうしてあんなことになったのかも、まだ何もわからないでしょう?」


「……そうだね」


「ちゃんと調べなくちゃ」


セインはゆっくり頷いた。


「……うん」


アルカナが笑うと、セインも口元をゆるめる。けれど少しすると、また心配そうに彼女の顔を覗き込んだ。


「……本当に、どこも痛くない?」


「もう! 何回聞くのよ!」


*


アルカナが外へ出られるようになるまではしばらくかかった。


身体は思ったよりも元気で、食事もできるし、歩くこともできる。けれどセインは、すぐに研究所へ行くことには賛成しなかった。


「もう少し休んでいた方がいいよ」


「もう十分休んだわ!」


「長い間、意識がなかったんだから」


「だから、もう起きてるでしょう?」


「……そういう問題じゃないと思うんだけど」


アルカナが頬を膨らませる。


それでも、セインが本気で心配しているのは見ればわかった。何かを取りに立てばすぐ手を貸そうとし、少し咳をしただけで顔を上げる。夜中に目が覚めれば、わざわざ隣の部屋から様子を確かめに来た。


「セイン」


「なに?」


「わたし、そんなにひどかったの?」


セインは少し黙った。


「……うん」


いつもより短い返事だった。


アルカナはそれ以上聞かず、窓の外へ視線を移した。


*


久しぶりに研究所へ向かった日、アルカナは門の前で足を止めた。


「……ここが?」


隣でセインが頷く。


以前の研究所とはまるで違っていた。外壁の一部は修復されているものの、崩れたままの建物も多い。実験場へ続く道には立ち入りを制限する柵が設けられ、倒れた金属環の残骸が遠くに見えた。


「あの装置、まだあそこにあるのね」


「調査が終わっていない部分もあるから」


「……そう」


研究所の中では、事故後の記録整理や復旧作業が続いている。廊下にいる人数は以前より少なく、見慣れた顔も知らない顔もあった。アルカナが通ると何人かが驚いたように顔を上げる。


「アルカナさん?」


「ええ。久しぶり!」


相手は戸惑ったあと、ほっとしたように表情を崩した。


「もう大丈夫なんですか?」


「元気よ!」


「それは……よかったです」


声には心からの安堵が混じっていた。アルカナはくすぐったそうに肩を縮め、廊下を進む。


「……わたしが寝てる間に、いろいろあったのね」


セインは何も言わず、小さく頷いた。


研究室へ入ると、机の上には見慣れない記録が何冊も積まれていた。


「すごい量ね」


「事故後の調査記録だよ」


アルカナは1冊を手に取る。境界の変動、事故後に発生した異常、行方不明者の捜索記録。読み進めようとしたところでセインが声をかけた。


「アルカナ」


「なあに?」


「今日は、まず施設の様子を見に来ただけだから」


「……わかってるわよ」


名残惜しそうに冊子を閉じ、窓の外を見る。壊れた実験場の向こうにはいつもの山々が広がっていた。あの日見た青白い建物も道も、もうどこにもない。


「……町にも行ってみたいわ」


セインは黙っている。


「どのくらい壊れたのか、自分の目で見たいの」


「……うん」


「それに、何か手伝えることがあるかもしれないでしょう?」


セインは少し考えた。


「……そうだね。町の方でも、確かめたい数値があるんだ」


*


町には、まだ事故の跡が残っていた。


通りのあちこちで修復作業が続いている。屋根のない家、壁だけが残った建物、瓦礫を積み上げた空き地。店が並んでいた通りも閉ざされたままの扉が多かった。


アルカナはゆっくり歩く。研究所へ向かう途中、何度か買い物をした通りだった。角には焼き菓子を売る店があったはずで、そこには今、崩れた壁だけが残っている。


「……ここ」


「うん」


セインが短く答えた。


アルカナはそのまま歩き続ける。


広場には臨時の支援所が設けられ、食料や衣服が集められていた。住む場所を失った人たちへ配られていく。その脇を通り、セインは持ってきた計測器を取り出した。


「ここでも測るの?」


「うん。事故の前から調べていた数値を、いくつかの場所で確かめておきたいんだ」


アルカナは覗き込んだ。


「前に見せてくれた、あの少しずつ変わる数値?」


「そう」


計測器の表示を確かめ、記録を書き留める。それから事故後に集めた記録を取り出して見比べた。


「……下がらない」


「何が?」


「この数値。前は少しずつ増えたり減ったりして、一定の範囲に収まっていたんだ。でも事故のあとは減った記録がない」


「……それって、変なの?」


「まだわからない。測り方や場所の問題かもしれないしね」


セインは記録を閉じ、広場の向こうへ目を向けた。


「もう少し調べてみるよ」


「わたしも行くわ」


「君は今日はここまでにしておこう。歩き通しだったでしょう」


「……また心配してる」


「うん。してるよ」


アルカナは不満そうに口を尖らせたが、やがて肩をすくめた。


「じゃあ、ここで待ってるわ」


「無理はしないでね」


「もう! 何回言うのよ」


セインは困ったように眉を下げた。


「……ごめん」


手を振って見送り、アルカナは支援所のそばの椅子に腰を下ろした。


*


午後になると広場へ来る人が増えた。食料を受け取る人、修復に使う道具を借りに来る人、行方のわからない家族の新しい知らせを尋ねる人。支援所の一角には、まだ見つかっていない人々の名前が掲示されていた。


アルカナはその前で足を止める。名前、年齢、最後に確認された場所。何枚もの紙が並び、事故のあった日のまま情報の止まっている人もいた。1枚ずつ目を通していく。


「……まだ、こんなに」


小さな呟きに、隣から声が重なった。


「今日も変わってないんですね」


振り向くと、1人の女性が立っている。年はアルカナより少し上だろうか。手には古い布袋を提げ、視線は掲示された名前に向いていた。


「……ご家族が?」


女性は頷いた。


「ええ」


それから、口の端をかすかに持ち上げる。


「毎日見に来ても、変わらないんですけどね」


アルカナは何も言えなかった。


女性は掲示をしばらく見つめ、近くの椅子へ腰を下ろす。


「……あの日、一緒に逃げていたんです」


アルカナも隣に座った。


「家族みんなで?」


「ええ。最初は何が起きたのかわからなくて」


膝の上で指を組む。


「家の壁が急に壊れて、知らない建物が現れたんです。外へ出たらいつもの道も途中でなくなっていて」


アルカナの視線が舗装の剥がれた通りへ向いた。あの日、見慣れた道と青白い道が混ざっていた場所だった。


「とにかく逃げなきゃと思って走りました。どこへ行けばいいのかわからなかったけど、通れるところを探して」


女性は少し黙る。


「途中で知らない石畳の道に出たんです」


アルカナの指先が止まった。


「……青白い道?」


女性が顔を上げる。


「ええ。見たことのない道でした」


「……そう」


「でも、ほかに通れるところがなかったんです。後ろでは建物が崩れていて……」


手元に目を落とした。


「だから、そこを走りました」


沈黙が落ちる。


「……それで?」


「わたしだけ、先に抜けたんです」


女性はゆっくり答えた。


「いつもの町の道が見えて、そこへ出られて。もう大丈夫だと思って……振り返りました」


アルカナは息を止める。


「家族は、まだ後ろにいました」


膝の上の手が握りしめられた。


「すぐそこだったんです。本当に、少し戻れば届きそうなところに」


「……」


「でも、その近くに何かがいて」


「何か?」


「わかりません。人みたいにも見えたけど、形がはっきりしなくて……輪郭がぼやけているような」


女性は首を振る。


「何だったのか、今でもわからないんです」


アルカナは黙って聞いていた。


「家族がこっちに来ようとしていたのは見えました。わたしも戻ろうとして……」


声が止まる。


「戻ろうとしたの?」


女性はすぐには答えず、しばらく考えてから首を横に振った。


「……わからないんです」


「……え?」


「戻ろうとしたのか、それとも怖くて動けなかったのか。今になって考えても、わからなくて」


自分の手を見下ろす。


「助けに行かなきゃと思った気はするんです。でも、あの何かわからないものが怖かったのも覚えてる」


「……」


「もし時間があったら戻ったかもしれません。でも、戻れなかったかもしれない。あのまま逃げたかもしれないんです」


アルカナの喉が小さく鳴った。


「そう考えている間に、景色が消えたんです。青白い道も、建物も、全部。一瞬でなくなって……」


女性は顔を伏せた。


「家族も、いなくなりました」


広場の向こうから人々の話し声が聞こえてくる。荷車の車輪が石畳を転がる音。子どもの泣き声。誰かが支援所の人を呼んでいた。


アルカナは膝の上で手を握る。


「……戻りたかったの?」


ようやく出た声だった。


女性はしばらく黙っていた。


「……わからないんです」


同じ答えだった。


「戻れば助けられたのかもしれない。でも、戻っても何もできなかったかもしれない。怖くて、結局動けなかったかもしれない」


アルカナを見る。


「ただ……」


その目から涙が一筋こぼれた。


「自分で選びたかったんです」


アルカナは動けなかった。


「戻るのか、逃げるのか。どうするのか、ちゃんと自分で選びたかった」


女性が涙を拭う。


「どちらを選んだとしても、きっと後悔したと思います。でも……」


言葉が途切れた。


「……選ぶ前に、終わってしまったから」


アルカナは何も答えられない。膝の上の指に、爪が食い込むほど力がこもっていた。


「あの道を閉じた研究所の人を恨むつもりはないんです。きっと、そうするしかなかったんでしょう。ただ……それで失ってしまった」


「……ごめんなさい」


気づけば声が出ていた。


女性が顔を上げる。


「どうして謝るんですか?」


アルカナは唇を開いた。けれど、言葉が出てこない。


女性は少し首をかしげ、それから目元をやわらげた。


「あなたが謝ることじゃありませんよ」


アルカナは顔を上げられなかった。


女性が立ち上がる。


「話を聞いてくださって、ありがとうございました」


「……いえ」


「また明日も、ここへ来ると思います」


掲示された名前をもう1度だけ振り返り、女性がゆっくりと広場を歩いていく。アルカナはその背中が見えなくなるまで見送った。


*


しばらくして広場に夕方の光が差し始めた。支援所ではまだ人々が作業を続けている。


椅子に座ったまま、アルカナは膝に置いた手を見つめていた。指先がかすかに震えている。


視線を上げると掲示された名前が目に入った。事故のあった日から変わらず並んでいる、帰ってこない人たちの名前。


その文字を長いあいだ見つめていた。


それからもう1度、自分の手を見る。


あの日、青白い世界への道を閉じた手だった。

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