第二十章 緋月
アルカナが目を覚ましてから数か月が過ぎた。
研究所では事故で損傷した施設の修復と、境界に残された異常の調査が続いている。セインとアルカナも、以前のように一緒に研究へ出かけるようになった。見つけたものについて話し合い、帰りに市場へ寄って夕飯の材料を選ぶ。家に帰れば猫がいて、セインが研究に夢中になればアルカナが食事の時間だと声をかける。
事故より前と変わらない日々が、少しずつ戻っていた。
ある朝、鏡の前に立ったアルカナは、自分の髪に触れて眉を寄せた。
「あら?」
毛先を指でつまむ。最後に髪を切ったのはいつだっただろう。目を覚ましてからもう何か月も経っている。それなのに、長さが変わっていない気がした。
そういえば、爪も。
自分の手を見る。思い返しても、この数か月で爪を切った覚えがない。伸びて困ることもなかった。
「……変ね」
最初は気のせいだと思った。けれど1度気になると、どうにも放っておけなかった。
*
「ねえ、セイン」
机に向かっていたセインが顔を上げる。
「なに?」
「ちょっと聞きたいことがあるの」
「うん?」
アルカナは隣の椅子を引いて腰を下ろした。
「わたし、髪も爪も伸びてないみたいなの」
セインの手が止まった。ほんの一瞬だった。
「……伸びてない?」
「ええ。目を覚ましてから1度も切ってないのよ」
「……そうなんだ」
「変でしょう?」
アルカナは髪を一房つまんで見せる。
「こんなことってあるのかしら?」
セインは少し考える間を置いた。
「……長く意識を失っていた影響かもしれないね」
「そうなの?」
「身体が元の状態に戻るまで、時間がかかるのかもしれない」
「でも、髪も爪も伸びないなんて聞いたことないわ」
「……そうだね」
「何か考えられる原因はある?」
セインは答えなかった。
「……セイン?」
「もう少し、様子を見てみようか」
アルカナは黙った。
「……様子?」
「うん。今すぐ何か問題が起きているわけじゃないし」
その顔を見つめる。いつものセインなら、まず詳しく話を聞く。自分の知らない現象ならなおさらで、わからないことはわからないと言い、一緒に調べようとする人だった。
それなのに、今は。
「……本当に、そう思う?」
「何が?」
「長く眠っていた影響だって」
「……可能性はあると思うよ」
「根拠は?」
セインが黙り込む。その横顔から、アルカナはしばらく目を離さなかった。
「……そう」
何かがおかしい。そう思った、そのときだった。
「……え?」
部屋の中が、ふっと明るくなった。
青白い光だった。背後に、細かな光が集まり始めている。
「……アルカナ?」
セインが立ち上がる。振り返ろうとした瞬間、光が大きく広がった。
「……っ!」
背中に、光の翼が広がっていた。
淡い青白い光が幾重にも重なり、透き通るような大きな翼を形作っている。肩よりも高く伸び、左右へ広がった縁がゆっくりと揺れていた。
息を呑んだ。セインも動かず、2人ともただ目の前のものを見つめている。
「……なに、これ……」
セインは答えない。
「……セイン?」
返事はなかった。目を見開いたセインの顔に、隠しようのない驚きがある。
彼も知らないのだ。
しばらくすると光は少しずつ薄れていった。翼の輪郭がほどけ、細かな粒となって消えていく。あとには何も残らない。
背中へ手を伸ばしても、触れるものはなかった。痛みもない。
「……消えた?」
「……うん」
セインがようやく答えた。
「今の、見たわよね?」
「見たよ」
「どういうことだと思う?」
セインはしばらく黙っていた。
「……身体は、大丈夫?」
「ええ。痛くも何ともないわ」
「……そう」
それきりだった。
アルカナはセインを見つめる。本当に驚いていた。それは間違いない。でも、いつものセインなら。何が起きたのか、どんな感覚だったのか、もう1度現れる可能性があるのか。きっといくつも質問して、何より自分の身体を心配して、一緒に調べようと言ったはずだった。
なのに。
「セイン」
「……うん」
少しの間、彼を見ていた。
「……少し、出てくるわ」
セインが顔を上げる。
「どこへ?」
「調べたいことがあるの」
「……アルカナ」
扉の前で足を止め、返事を待った。けれど、セインはそれ以上何も言わない。
「行ってくるわね」
扉が閉まった。
*
アルカナは研究所で、事故後に残された資料を調べた。境界の異常、事故当時の状況、自分が最後に操作した補助機構の記録。さらに負傷者や行方不明者の情報を確かめるため、教会へ向かう。
教会には人々の被災状況が記録されていた。負傷者、行方不明者、死亡者。1枚ずつ資料を確かめていた手が、あるところで止まった。
そこに、自分の名前があった。
アルカナ・エルディア。死亡。
「…………え?」
何度読んでも同じことが書かれている。日付は、あの実験の日だった。
自分はここにいる。呼吸をして、考えている。昨日もセインと話した。猫に餌をやって、夕飯を食べて、いつものベッドで眠った。それなのに、記録には自分は死んだと書かれている。
もう1度その文字を見てから、アルカナは静かに書類を閉じた。
*
セインが顔を上げたのは、アルカナが研究室へ入ってきたときだった。
「アルカナ?」
アルカナは1枚の書類を机に置く。
「説明して」
セインの視線が紙へ落ち、そのまま動かなくなった。
アルカナは黙って待つ。
しばらく書類を見つめていたセインが、やがて目を閉じる。
「……見つけたんだね」
「ええ」
声は静かだった。
「説明してくれる?」
セインがゆっくりと頷く。
「……君は、あの日死んだ」
アルカナは何も言わなかった。
「境界を閉じたとき、補助機構には想定を超える負荷がかかっていた。おそらく、その影響だったんだと思う」
セインが言葉を切る。
「事故のあと、君を探した。……あれから境界が不安定な状態が続いて、あの青白い世界へつながる道が何度も開いたんだ。他の行方不明者もいた。何日も探して、向こうの世界でようやく君を見つけたときには、君はもう息をしていなかった」
「……そう」
自分の手を見る。指を動かして、握って、開く。いつもと変わらない手だった。
「じゃあ、わたしは何?」
答えるまでに、少し時間がかかった。
「……僕が戻した」
アルカナの目がセインを捉える。
「事故後の調査で、向こう側にも記録が残ることがわかったんだ」
「……記録?」
「うん。この世界にあるものとよく似た、人間の存在に関わる記録だよ。向こうに残っていた君の記録を、こちらのものとつなぎ直せないかと思った」
アルカナは静かに耳を傾ける。
「ずっと探してたんだ。君を戻せる方法を」
セインが天井を仰ぎ、ゆっくりと続ける。
「何度も調べた。何度もやり直した。……何度も祈った」
言葉が1度途切れた。
「君を、もう1度戻せると思ったんだ」
「……それで、わたしを作った?」
「作ったんじゃない」
声が少しだけ強くなる。
「君を戻したんだ」
アルカナは言葉を返さず、セインを見ている。
「記憶もあるでしょう。僕のことも、旅のことも覚えている。君が考えることも、話し方も――」
「わたしが誰かを決めるのは、あなたなの?」
セインが言葉を止めた。
アルカナは自分の手を見つめる。
偽物なのだろうか。そう考えてみた。けれど、すぐに違うと思った。鏡湖でセインに声をかけたことを覚えている。2人と1匹で歩いた道も、一緒に研究した日々も、失敗した実験も、境界を閉じたときのことも。そして今、自分が感じていることも。
それらは、確かに自分のものだった。
「わたしは、わたしよ」
「それは……僕もそう思ってる」
セインはすぐに答えた。アルカナは首を振る。
「でも、そういう話じゃないの」
セインが黙った。
「わたしが目を覚ましたとき、あなたは全部知っていたのよね?」
「……うん」
「それなのに、何も言わなかった」
返事はない。
「ずっと意識を失っていたって言ったわね」
「……うん」
「5か月も眠っていたんだって」
セインは目を伏せた。
「……ごめん」
しばらく彼を見つめた。
「……どうして言ってくれなかったの?」
長い沈黙があった。やがて、セインが口を開く。
「怖かったから」
アルカナの表情が少し変わる。
「君が、自分はアルカナじゃないと言うかもしれないと思った」
研究者としての言葉ではない。ただ、1人の人間としてのセインの答えだった。
「君が戻ってきたと思った。僕は……そう思いたかった」
目を覚ましたとき、セインは何度も質問した。自分のことを覚えているか。一緒に暮らしていたことを覚えているか。そして、「じゃあ、君は?」と。
あのときは、なぜそんなことを聞くのだろうと思った。アルカナだと答えると、セインが長く息を吐いたのを思い出す。
今ならその理由がわかる。事故から5か月。自分が目を覚ますまでの間、セインが何をしていたのか。すべてを聞かなくても想像はついた。
「……セイン」
「うん」
「わたしを戻すとき、わたしに聞いた?」
セインは答えなかった。
聞けるはずがない。アルカナは死んでいたのだから。
「戻りたいかって聞けなかったのはわかる」
アルカナは続ける。
「死んでたんだから」
セインの視線がアルカナへ向く。
「でも、戻ったあとも言わなかった」
何も返せないセインを前に、広場で聞いた声が胸に蘇る。
――自分で選びたかったんです。
戻るのか、逃げるのか。どちらを選んだかは、今でもわからない。選ぶ前に、境界が閉じたから。
状況は違う。同じことではない。
けれど。
「……わたし、これからどうなるの?」
セインが唇を結ぶ。
「髪も爪も伸びない。あんな翼まで出てきた。……わたしの身体は、もう普通じゃないのよね?」
「……きっと、そうなんだろうね」
「歳は取るの?」
「……わからない」
「じゃあ、いつか死ぬの?」
セインは答えられなかった。
アルカナは目を伏せる。この先、何年生きるのだろう。歳を取らないまま何十年も過ぎるのだろうか。知っている人たちが歳を取り、いなくなっても、自分だけが変わらない姿で残るのだろうか。
「……怖いわ」
小さな声だった。
セインは何も言わない。
「あなたが怖かったのは、わかる」
アルカナは続けた。
「でも、わたしだって怖いのよ」
セインが俯く。
「……うん」
「今まで何でも一緒に考えてきたでしょう?」
「……うん」
「なのに、わたし自身のことだけは話してくれなかった」
セインは何も返さなかった。
その顔を見つめる。セインが悪意で隠したわけではないことはわかっていた。自分を傷つけたかったわけでもない。むしろ逆だ。失いたくなかったから。大切だったから。
だからこそ、簡単には怒れなかった。
けれど。
「……わたしのことも、信じてほしかった」
セインが目を閉じる。
「……ごめん」
アルカナは首を振り、それ以上は何も言わなかった。
*
しばらくして、アルカナが口を開いた。
「もう1つ聞くわ」
「うん」
「わたしを戻したことを、後悔してる?」
「してない」
今度は間を置かずに答えが返った。
アルカナは少し目を伏せる。
「そう」
「君が今ここにいることを、間違いだとは思えない」
その言葉にも嘘はなかった。アルカナにはそれがわかる。
「……そうね」
沈黙が落ちた。
「これからも、研究は続けるの?」
「……うん」
「また、失った誰かを戻すつもりなの?」
セインはすぐには答えなかった。
「……できることがあるなら、調べたいと思う」
アルカナは頷く。
その気持ちまで間違っているとは思わない。失った人にもう1度会いたい。取り戻せるなら取り戻したい。自分だって大切な誰かを失えば、そう思うのかもしれない。
けれど、その人が戻ることを望んだかどうかは誰にもわからない。そして、戻された人がその後どんな人生を生きるのかも。
「わたしは手伝わない」
セインが彼女を見る。
「そう」
それだけだった。
アルカナはしばらく黙っていた。
「……わたし、ここを出るわ」
セインの表情がわずかに変わる。それでも、口は開かなかった。
「止めないの?」
「君が決めたことだろう?」
少し驚いてから、アルカナは口元をゆるめた。
「そうね」
セインがこちらを見ている。アルカナも、その顔を見つめ返した。
以前なら何でも話せた。どんな疑問でも、どんな小さな発見でも。それが楽しかった。今もセインのことを大切に思っている。その気持ちは変わらない。
でも。
「……もう一緒にいられないわ」
セインの手が、机の上でわずかに握られる。
「……うん」
引き止める言葉はない。アルカナも口を閉じ、2人はしばらく向かい合っていた。
やがて、アルカナが静かに告げる。
「……さようなら、セイン」
セインは彼女を見つめ、少しの沈黙のあとで答えた。
「……さようなら、アルカナ」
*
家を出る頃には日が暮れていた。
荷物を肩に掛け、戸口で1度だけ振り返る。いつもと変わらない家だった。窓辺の椅子、並んだ食器。2人で選んだものがあちこちに残っている。
足元に猫が体を擦り付けてきた。
「……行きましょうか」
猫は当たり前のような顔でついてくる。
家をあとにしてしばらく歩いたところで、ふと空を見上げる。
赤い月が出ていた。
足が止まる。アルカナはしばらくその月を見つめていた。
「……緋月」
小さく呟き、もう1度、確かめるように唇を動かす。足元の猫が見上げてきた。
「どう?」
猫は何も答えない。
「まあ、あなたはどっちでもいいわよね」
少し笑って、もう1度赤い月を見上げる。
「今日から、緋月」
猫と一緒に再び歩き始めた。




