第八章 8年前の記録
翌朝、4人は8年前の月蝕記録を保管している王立境界院の地方施設へ向かった。
道すがら、レイは何度か黙って遠くを見る。エリアがいたことも、名前も、一緒に暮らしていた日常の細かなことも、ちゃんと残っていた。けれどいなくなった日へ近づこうとすると、記憶は途中から先へ続かない。月蝕に巻き込まれたことは知っている。ただそれも、あとから聞かされた話だった。
「8年前の記録って、どれくらい残ってるの?」
レイが聞くと、リゼットは少し考えた。
「正式な月蝕災害として記録されているなら、発生場所、規模、境界値や位相の変化、確認された現象。そのあたりは残ってるはずよ」
「俺と姉さんのことは?」
「境界院は基本的に現象を見るところだから、被災者一人一人についてどこまで残してるかは記録した人次第ね」
アデルが横から続ける。
「人については教会側の記録も確認できます。救護や保護を受けた方、行方がわからなくなった方などは、そちらに残っている可能性があります」
「じゃあ、両方見ればいいんだな」
「そういうこと」
レイは頷いた。ヴァンが隣を歩きながら、ちらりとレイを見る。
「思ったより普通だね」
「何が?」
「もっと8年前のことばっかり考えて、上の空になるかと思ってた」
レイは少し考えた。
「考えて思い出せるなら考えるけど、出てこないんだから考えても仕方ないし」
「それはそうだけど」
「今は調べられるんだから、調べればいいじゃん」
ヴァンが小さく笑う。
「そういうところ好きだよ」
「なんだよ急に、気持ち悪い」
「ひどいなあ。お兄さん傷つくなあ」
ヴァンが肩を寄せるようにして、レイの顔をのぞき込んだ。
「ちょっ、近いって。離れてよおっさん」
「お兄さんね」
前を歩いていたリゼットが振り返る。
「話してないで歩く。今日中に着きたいんだから」
「はいはいごめんなさーい」
「ヴァン」
「歩いてるって」
アデルが少し笑った。
王立境界院の地方施設へ着いたのは、翌日の昼過ぎ。大規模な研究所ではなく、周辺地域の境界を観測して、各地から送られてくる記録を整理するための施設だった。
リゼットが所属証を提示し、8年前にレイの故郷で発生した月蝕について調べたいと伝える。場所も時期もわかっている。職員は保管記録を確認して、ほどなく数冊の資料を運んできた。
その一番上にある表紙を見て、レイが声を漏らす。
「これ、俺の町だ」
見慣れた港町の名前。その下に8年前の日付が記されている。
リゼットが椅子に座り、資料を開いた。
最初に記録されていたのは、月蝕の発生から収束までの観測だった。異常が確認されたのは夕方。港周辺の境界値が急激に上昇し、ほぼ同時に位相が大きく乱れている。現界には存在しない建物や街路が各所で見え始め、海上にも、現在の港にはない船や桟橋の残響が重なった。時間が経つにつれて干渉範囲は広がり、一部では、どこまでが現界の景色なのか目視では判断しづらい状態になっていた。
記録の後半には被害の報告が並んでいる。魚市場の裏手では月界側の石壁が倉庫の壁を貫いて立ち上がり、積み荷ごと大きく崩れていた。海沿いの通りに突然現れた古い水路の水が、石畳を越えて家々の1階へ流れ込んでいる。桟橋の一部は、月界側の地形に押し上げられて斜めに折れていた。
レイは資料を覗き込む。
「……市場の裏って、うちの近くだ」
ヴァンが別の資料を手に取った。
「建物の損壊あり。負傷者も何人か出てるね」
レイが顔を上げる。
「怪我するの?」
リゼットがレイを見た。
「するわよ」
「月界が見えたり、向こうに入っちゃったりするのはわかるけど。見えるだけなら怪我しないんじゃないの?」
「ああ、そこからなのね」
リゼットは資料を脇へ置く。
「月界にある残響は、ただの幻じゃないの。向こう側では建物も地面も木も水も、ちゃんと物質として存在してる」
「向こうで物に触れるのは確かだよ」
ヴァンが資料から目を上げずに言った。
「足場にも使えるしね。夜渡りは、月界の石や木を頼りにすることもある」
「そうなんだ」
アデルが静かに口を開く。
「では、境界が薄くなって景色が透けて見えている間はどうなるんでしょう。見えているものに触れたりはしないんですね」
「ええ。その段階なら、まだ物理的には別の場所にある。世界が分かれてるから、同じ位置に別々の建物があっても、ぶつかったりしない」
リゼットは開かれた記録を指で叩いた。
「でも月蝕になると、その分離が保てなくなるの」
「どうなるの?」
レイが聞く。
「月界側にあるものが、現界側へ実体を伴って重なってくる」
レイが少し考えた。
「……家があるところに、別の家が出てくる?」
「そう。今は道になっている場所へ、月界側では昔の建物が残っているかもしれない。家が建っているところに、大木や石壁が重なることもある」
アデルが尋ねる。
「それで建物が壊れるんですね」
「ええ。構造物同士が干渉すれば倒壊するし、地形が重なれば足場そのものが変わる。月界側の川や水域が現界へ重なれば、浸水することもある」
ヴァンが資料の記述を追う。
「壁の崩落、転落、瓦礫。なるほど。怪我する理由は特別なことでもないのか」
「月蝕そのものは普通じゃないけどね」
「そこはそう」
レイはもう一度、8年前の記録を見た。見覚えのある町の名前の横に、建物損壊の文字が並んでいる。今では何事もなかったように人が暮らしている町で、8年前には別の場所の建物や地形が実体を持って現れていた。
「俺、よく無傷だったな」
「それは本当にそうね」
リゼットが次の頁へ進む。
避難は比較的早い段階で始まっていた。大きな人的被害には至らなかったものの、一部の住民には月蝕収束後も混乱が見られたと記録されている。
「記憶障害ですか」
アデルが記述を読み上げる。その横で、ヴァンが別の頁を指でたどった。
「何人かいるね」
「月蝕では珍しくないわ」
リゼットの返事に、ヴァンが目を上げる。
「短い時間でも?」
「月界へ少し入ることと、月蝕の深い融合域に巻き込まれることは同じじゃないの」
リゼットは椅子へ座り直した。
「月界には残響だけじゃなく、それに結びついた記憶や情報も大量にある。私たちが行ける月界の浅い層なら、短時間触れただけで自分が誰かわからなくなるようなことはない。でも月蝕で重なりが深くなると、一度に受ける月界側の情報量が増える」
「それで記憶が混ざるんですね」
アデルが小さく頷く。
「そう。自分が実際に経験したことと、残響に含まれている情報の区別が曖昧になる。月蝕中の出来事が抜けることもあれば、自分のものじゃない記憶を自分の経験だと思うこともある」
レイはしばらく黙って聞いていた。それから、ふと思い出したように口を開く。
「じゃあ姉さんは?」
「エリアさん?」
「8年いたんだろ」
リゼットの表情が変わった。
レイは続ける。
「短い月蝕でもそうなる人がいるなら、8年も月界にいる人はどうなる?」
少しの沈黙があった。
「普通なら、かなり危険よ」
リゼットの声が少し低くなる。
「月界へ長くいると、最初は記憶の混線が起きる。自分の記憶と周囲の残響の区別が曖昧になって、現界での生活まで遠く感じるようになる」
「記憶だけの問題では済まない、ということですね」
アデルの指が、記録の端で止まる。
「それだけじゃない」
リゼットは言葉を選ぶように、一度間を置いた。
「まだ生きている人でも、その人に対応する記録が月界側にもある。月界へ長く滞在すると、本人自身の情報も向こう側へ強く蓄積されていくの」
「増えることが問題になるのでしょうか」
「増えること自体より、偏りが大きくなりすぎるのが問題ね。現界で生きている人間としての記録と、月界側に蓄積された本人の記録。その2つが大きくずれていく」
レイが眉を寄せる。
「それで?」
「最初は本人の自己認識が不安定になる。自分が何を経験したのか、どこまでが自分なのか、それが曖昧になっていく」
アデルも静かに口を開いた。
「さらに進むと、本人の状態そのものが現界側の生者として成立しにくくなる、と考えられています」
「成立しない?」
「簡単に言えば、世界の側から『現界で生きている人間』として扱われなくなっていく」
資料をめくっていたヴァンの手が止まっていた。
「で、その先は」
声は平らだった。リゼットがヴァンを見る。
「……最終的には、月界側の存在として固定される」
眉を寄せたまま、レイが身を乗り出した。
「残響になるってこと?」
「そう」
部屋が静かになった。リゼットは続ける。
「寿命や病気、身体が傷ついて亡くなった人とは違う。本人そのものが、月界側の存在として書き換わっていく。そうなれば、現界で生きている人間として戻ることはできない」
レイはしばらく何も言わなかった。
「……じゃあ姉さん、8年もいたのに」
「普通じゃないわ」
リゼットははっきり答えた。
「記憶も人格も保ったまま、今もエリアさん自身でいる。それだけでも一般的な長期滞在者とは条件が違うはず」
「帰れないのと関係ある?」
「可能性はある。でも今ある情報だけじゃわからない」
「そっか」
レイは資料へ視線を戻す。指がページの端を、ゆっくり折り曲げては戻した。
ヴァンは何も言わず、また手元の資料をめくっている。
しばらくして、レイの指が止まった。
「……俺がいる」
リゼットが隣へ寄る。
9歳の男児、レイ・アルヴェイン。月蝕収束後に保護。意識あり。目立った外傷なし。自分の名前、年齢、居住地については正しく答えており、通常の会話にも大きな問題は認められない。
その先を読んだレイの表情が変わった。
「月蝕発生後の行動について……説明できず」
しばらく、その文字を見つめる。
「俺、このときから覚えてなかったんだ」
「そうなるわね」
リゼットも記録を確認した。
「8年経って忘れたわけじゃない。少なくとも保護された時点ですでに、月蝕の最中の記憶が欠けてる」
「じゃあ、さっき言ってた月蝕の記憶障害?」
「可能性ならある。でも、それだけで決めるのは早いわ」
「なんで?」
「欠け方が変なのよ」
資料には、レイが姉について話していたことも残されていた。
エリア・アルヴェイン、18歳。弟とともに月蝕へ巻き込まれた可能性あり。収束後、現界側で所在を確認できず。捜索するも発見には至らず。
レイがゆっくり読む。
「姉さんのことは覚えてたんだ」
「そうね」
「でも顔は思い出せなかった。8年前の最後の日も」
レイは頷いた。リゼットは頁を見ながら言う。
「月蝕による記憶混線なら、もっと無秩序に記憶がおかしくなることが多い。なのにレイの場合、エリアさんの存在そのものは残っていて、その人に関する特定の部分だけが抜けてる」
「普通じゃない?」
「少なくとも、よくある月蝕後遺症だけで説明するには不自然」
リゼットはそこで話を止めた。理由まではわからない。記録から読み取れるのは、保護された時点ですでに何かが起きていたという事実だけだった。
午後からは教会側の記録を確認した。この地域の教会では、周辺で発生した大規模災害について、各地から送られた救護記録の写しを保管している。アデルが事情を説明すると、8年前の港町で行われた救護の記録が見つかった。
4人は小さな閲覧室を借りる。アデルが資料を開き、頁を追った。
「ありました」
レイが椅子を寄せる。境界院の記録と同じ名前が並んでいた。避難した者、負傷した者、保護された者。その中に、レイ・アルヴェインの名前がある。
「保護された直後の記録があります」
アデルが読み上げた。
「意識あり。外傷なし。ただし混乱が強く、月蝕の発生区域へ戻ろうとする行動を繰り返す」
レイが顔を上げる。
「戻ろうとしてた?」
「はい」
アデルは続きを確認した。
「『姉さんがまだ向こうにいる』『戻らないといけない』と繰り返していた、と」
レイは黙った。覚えてはいない。それでも、驚いた様子はなかった。
「まあ……そうするよな」
ヴァンがレイを見る。
「覚えてないのに納得はするんだ」
「だって、姉さんが向こうにいるってわかってたら戻ると思う」
「9歳でも?」
「9歳でも」
ヴァンは少しだけ笑った。
「そういう子だったんだろうね」
「たぶん」
アデルが、次の記述で手を止める。
「もう1人います」
「誰?」
「名前はありません」
レイが身を乗り出した。アデルは慎重に文字を追う。
「救護担当者がレイさんを確認した時点で、若い女性が1名、そばにいたそうです」
「姉さん?」
「いいえ。エリアさんは、その時点ですでに所在不明として記録されています」
「じゃあ誰だ?」
「その女性が、月蝕区域へ戻ろうとするレイさんを止めていた、とあります」
レイの眉が寄る。
「どんな人?」
「詳しい記録はありません。若い女性。赤い色を身につけていた、と」
赤。
その一言でレイの動きが止まった。息が止まり、視線が資料のどこにも合わなくなる。右手がゆっくりと上がって自分の左腕を掴んだ。
「レイ?」
リゼットの声に、レイの肩が小さく跳ねる。指が離れた。
「……今、なんか思い出した」
3人の視線が集まる。
「何を?」
「赤い色。それと……腕を掴まれてた」
レイは目を閉じた。何かを探すように眉が寄って、唇が小さく動く。しばらくして、首を小さく横に振った。
「顔は見えないし場所もわからない。さっきまであったのに、すぐ遠くなる。女の人の声がした」
「なんて?」
「『行けないわ』って」
リゼットの表情が変わった。レイはゆっくり目を開ける。
「……緋月に似てた」
「緋月?」
ヴァンが聞き返した。アデルも首を傾げる。リゼットだけがすぐに反応した。
「あの人?」
「うん。たぶん」
ヴァンが2人を交互に見る。
「誰?」
「俺が旅に出てすぐ会った人」
リゼットが続けた。
「月界や境界について、かなり詳しい女性よ。私もレイと出会ったときに会ってる」
「赤い服?」
「赤が目につく人だった」
レイは資料の「赤」の一文字を指先でなぞる。旅に出て間もなく、何も知らなかった自分へ月界のことを教えた人。エリアの名前を出したときも、知らない人間の反応ではなかった。そして8年前、月蝕区域へ戻ろうとする自分を止めていたらしい、赤を身につけた女性。
「緋月、俺のこと昔から知ってた」
リゼットが頷く。
「エリアさんのことも知ってたわね」
「でも聞いても、ちゃんと教えてくれなかった」
アデルが資料へ目を落とした。
「同一人物だと断定はできません。でも、可能性は高そうですね」
「本人に聞けば早いんだけどな」
レイが言う。ヴァンが尋ねた。
「連絡できる?」
「できない」
「どこにいるかは?」
「知らない」
「住んでる場所は?」
「知らない」
ヴァンが少し黙る。
「それ、知り合い?」
「知り合いだよ」
リゼットが呆れたように息を吐いた。
「あの人、本当に必要なこと以外は話さないのよ」
「旅してるってことしか知らないな」
「どこを?」
アデルに聞かれて、レイは考える。
「……色々?」
「かなり曖昧ですね」
「俺に言われてもわかんないって」
ヴァンが笑った。
その後も記録を調べたが、8年前の月界側で何が起きたのかを示すものは見つからなかった。レイとエリアが、なぜ月界側へ巻き込まれたのか。なぜレイだけが現界へ戻ったのか。なぜレイの記憶が、保護された時点ですでに欠けていたのか。そして、赤を身につけた女性は本当に緋月だったのか。境界院にも教会にも、月界側で起きた出来事までは残されていない。
夕方になり、リゼットが最後の資料を閉じた。
「これ以上は出なさそうね」
レイが椅子の背にもたれる。
「結構わかった気はするけど、一番知りたいところは何もないな」
「月界側で起きたことを、現界の記録だけで調べてるんだから限界はあるわ」
「だよね」
アデルが資料を揃えた。
「ただ、8年前の時点でレイさんの記憶がすでに欠けていたことは確認できました。それから、エリアさんが行方不明になった時期も一致しています」
「赤い女の人もいた」
ヴァンが付け加える。
「そこはまだ緋月とは決まってないけど」
レイはそう言いながら、もう一度自分の腕を見た。左の袖の上、さっき掴んだあたりを指が何度かなぞっている。
「町に戻ってみようかな」
リゼットが顔を上げる。
「故郷?」
「うん」
「どうして?」
「今のでちょっと思い出しただろ」
レイは自分の腕を軽く叩いた。
「だったら、実際に月蝕が起きた場所に行けば、もう少し出てくるかもしれない」
リゼットは少し考えてから頷く。
「可能性はあると思う。ただし、無理に思い出そうとはしないこと」
「わかってる」
アデルも言った。
「その町の教会なら、当時の救護記録の原本が残っている可能性もあります。写しにはない情報が見つかるかもしれません」
ヴァンが椅子から立ち上がる。
「じゃあ次は里帰りだ」
「俺、つい最近まで住んでたんだけど」
「オレたちには初めてだから」
「観光じゃないぞ」
「港町なんでしょ。魚くらいは期待していい?」
「うん、魚はおすすめできるよ」
「案内してくれる?」
「姉さんの調査が終わったらね」
レイも立ち上がった。机の上の記録には、9歳の自分の名前が残っている。その行を、指先が一度だけなぞった。
「帰ろう。俺の町に」




