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第七章 再会

腰の後ろで、淡い色のリボンが風に小さく揺れている。


人影がゆっくりと振り向いた。


肩から滑り落ちた長い髪が、風にほどけて波打っている。濃い紺の髪だった。重なった薄布の裾が、その動きに遅れてひるがえる。紺から裾へ向かうほど白に溶け、ところどころで金糸の月と星が光った。薄い紫がかった瞳がまっすぐにレイを捉える。20代半ばほどの女性だった。


レイは動かない。


額、目元、口元。顔の上を目が行き来するたびに、眉がわずかに寄っていく。どこにも引っかかるものがないらしい。それでも視線は離れなかった。足元は乾いた現界の土で、彼女の背後に重なる青白い川と古い橋は、薄い硝子の向こうにあるように揺れているだけだ。


風が止んでいる。水の音さえ遠のいていた。


「……姉さん?」


女性の目が見開かれる。唇が動いて、声にならない息が漏れた。片手が胸元へ上がり、紺の布をきゅっと握る。泣き出す寸前のように顔が少し歪んだ。


「……レイ」


名前を呼ばれて、レイの喉が小さく鳴る。


一歩、また一歩。乾いた土を踏む音が、静かな低地にやけに響いた。数歩手前で足が止まる。


女性は何も言わずにレイを見ていた。視線が頭の先から靴の先まで降りて、またゆっくり上がる。確かめるというより、目に焼きつけているようだった。


「大きくなったね」


「……本当に姉さん?」


女性の口元が、ふっと緩む。


「そうよ」


「エリア?」


「うん」


レイの肩から力が抜けた。


「……やっぱり、姉さんだったんだ」


港町の雑踏で見失った青い髪が、手の届きそうな距離にある。その事実をなぞるように何度か頷いてから、あらためてエリアの顔を見つめた。見つめるほどに迷いの色が浮かんでいく。


やがて、レイは表情を引き締めた。


「帰ろう」


エリアの表情が止まる。


「俺たちの町に戻ろう。前の家はもうないけど、俺はずっとあそこにいるし――」


「レイ」


「なに?」


エリアは手首の袖口を、もう片方の手でぎゅっと握った。困ったように微笑む。


「帰りたいよ」


レイは言葉を失って、エリアを見つめた。


「じゃあ帰ろうよ」


「でも、帰れないの」


「……帰れない?」


「うん」


「なんで?」


「わからない」


自分の手に目を落として、エリアは続ける。


「8年前から、私はあの世界にいるの」


「8年?」


「ずっと」


思わず振り返ったレイの視線の先で、青白い川と橋が薄く透けていた。その向こうにあるのが月界だ。それからもう一度、目の前のエリアへ戻る。


「でも今はここにいるんだろ?」


「いるよ。最近になって、少しだけ出られるようになったの」


「最近?」


「少し前から、場所によってはときどきこっちへ出られるようになった。それまでは何をしても無理だったから」


「あの町にいたのも?」


「そう」


「俺、そのとき姉さんを追いかけたんだ。見失ったけど」


「……え?」


エリアの目が見開かれる。


「気づかなかった。あのときは出られたと思ったら、すぐに引き戻されてて」


「じゃあ、急にいなくなったのは向こうに戻ったせい?」


「うん」


声は静かだった。


「自分では残ろうとしてる。でも長くはいられなくて、しばらくするとまた向こうへ引かれるの」


「止められないの?」


「今のところは」


「他の場所も試した?」


エリアがふっと息を漏らして笑う。


「8年あるもの」


レイは黙り込んだ。自分が9歳から17歳になるまでの8年間を、エリアは月界で過ごしてきた。その長さに返す言葉を探すように、靴の先が乾いた土をこつんと蹴る。


「……そっか」


ようやく出たのはそれだけだった。


「レイは?」


「俺?」


「8年間、どうしてたの?」


「普通に暮らしてたよ。いつもの場所で遊んだり、釣りしたり。別に大したことはしてないかな」


「そう」


エリアの肩から力が抜け、表情がほどけた。ふくらんだ薄い袖をふわりと揺らして、その手がそっとレイの襟元へ伸びる。そのままレイの少し曲がった襟を、ひょいと直した。目を丸くしながらもレイはされるがままでいる。しばらくして、ぽつりと言った。


「俺、姉さんの顔を思い出せないんだ」


襟に触れていた指が止まる。


「顔だけじゃなくて、姉さんがいなくなった日のこともほとんど覚えてない」


「……どこまで覚えてるの?」


「姉さんがいたことは覚えてる。名前も。一緒に暮らしてたことも。よく怒られたのも」


「怒ったんじゃなくて、叱ったの」


人差し指を立てて、エリアが言い直した。


「そこ訂正する?」


「大事でしょう」


あまりに自然な返しに、レイが吹き出す。


「そういうところは知ってる気がする」


「なにそれ」


「わかんない。でも姉さんっぽい」


「顔は覚えてないのに?」


「だから変なんだよ」


エリアがくすっと笑った。気づけば2人は、昔からそうしていたような距離で向かい合っている。


「でも、最後の日は本当に何も出てこない」


レイが続ける。


「8年前、何があったの?」


エリアの視線が揺れた。


「俺、月蝕に巻き込まれたってことしか知らない。姉さんがどうしていなくなったのかも、なんで俺だけ戻ったのかも覚えてない」


「レイ……」


「姉さんは覚えてる?」


エリアが唇を開きかけた、そのとき。


「レイ!」


少し離れたところからリゼットの声が飛んできた。3人は数歩後ろで足を止めたまま口を挟まずにいたのだ。リゼットだけが術式盤を抱え、目を忙しく動かしている。


「数値が下がってる! 位相も閉じる方向へ戻り始めてる!」


振り返ると青白い川が薄れ始めていた。古い橋の輪郭も、さっきより現界の景色へ溶けている。止んでいた風が低地を横切り、2人の髪をさらっていった。


「姉さん」


周囲を見回したエリアが呟く。


「……もうみたい」


「もうって」


「こうなると長くないの」


レイはエリアの腕を掴んだ。薄い袖越しに温かさが伝わってくる。目の前に確かにいる。エリアは驚いたような顔でレイを見つめ返した。


「レイ」


「このまま引っ張ったら?」


「駄目」


「なんで?」


「どうなるかわからないから」


「でもここにいるんだろ?」


「今はね」


腕を掴むレイの手を見下ろして、エリアは言う。


「私はずっとあの世界にいた。どうして今こうやってここへ出られるのかも、どうして向こうに戻されるのかもわからない。無理に止めたら何が起きるかわからないの」


レイは少し考え込んだ。空いているほうの手の指先が、何かを探るように宙をなぞる。


「じゃあ俺が道を作ったら?」


エリアの表情が変わった。


「駄目よ」


さっきまでよりずっと強い声だった。レイが目を瞬く。


「まだ作ってないって」


「そうじゃなくて」


エリアは一度、言葉を止めた。


「今ここで、わからないまま試さないで」


レイの指がぴたりと止まる。


「……わかった」


思ったより素直な返事にエリアが少し驚いた顔をした。


「なに?」


「もっと言うこと聞かないと思ってた」


「俺を何歳だと思ってるんだよ」


「9歳のレイしか知らないから」


「ああ」


それなら仕方ない、とでも言うようにレイが笑う。


「9歳の俺、そんなに言うこと聞かなかった?」


「全然」


「ひどいな」


「事実よ」


エリアが目を細めたとき、レイの手の中で感触がずれた。腕を掴んでいるはずなのに、指先だけがわずかに届かない。反射的に握り直した。


「姉さん?」


エリアの周りの空気が陽炎のように揺らぎ始める。現界と月界の位置が少しずつ離れていく。エリアはまだ目の前にいる。それなのに、立っている場所だけが遠ざかっていくようだった。


「この場所、覚えておいて」


「え?」


「ここは比較的、こっちへ出やすいみたいだから」


「また来る?」


「出られたら」


「いつ?」


「わからない」


「じゃあ俺から行く」


エリアの顔から笑みが消えた。


「レイ」


「大丈夫。今すぐ勝手に行くって言ってない」


「……本当に?」


「たぶん」


「そこは言い切りなさい」


思わずレイの口元がほころぶ。


「やっぱり姉さんだな」


エリアも小さく息を漏らして笑った。その間にも、また少し距離がずれていく。


「姉さん」


「なに?」


「今度はちゃんと話して」


エリアが一瞬だけ黙る。


「8年前のこと?」


「それも。姉さんが月界でどうしてたのかも。全部」


レイを見つめたまま長い睫毛が一度だけ伏せられて、また上がった。


「うん」


「約束?」


「次に会えたらね」


「それ約束になってないだろ」


「できない約束はしないの」


「ずるいよ」


青白い川がさらに薄くなる。


「レイ、もうかなり閉じてる!」


リゼットの声に、レイがもう一度エリアを見た。


「姉さん」


「またね、レイ」


今度は、はっきり聞こえた。


エリアの姿が揺れる。消えるというより、現界から少しずつ位置が外れていくようだった。輪郭がほどけるように後ろへ引かれ、淡いリボンの端だけが最後まで風に残る。その背後で青白い川と古い橋が一瞬だけ濃く浮かび上がった。橋の向こうへ小さくなっていく背中。振り向いた横顔が、かすかに微笑んでいる。ほんの一瞬でレイの手から温度が消えた。


そして、すべてが消えた。


乾いた低地だけが残る。水の音もない。何も握っていない自分の手を見つめたまま、レイはしばらく立ち尽くしていた。風が乾いた土の匂いを運んでくる。


やがて3人が近づいてきた。最初に口を開いたのはヴァンだった。


「姉さんだった?」


「うん」


「そっか」


それだけだった。アデルが一歩前に出て小さく頭を下げる。


「お姉さんのお名前を確認させてください。エリアさん、でよろしいですか?」


「うん。エリア・アルヴェイン」


「ありがとうございます」


手帳の端にその名前を書きとめるアデルの横で、リゼットが術式盤を閉じた。


「少なくとも、さっきまでエリアさんが現界側に出てたのは間違いないわ。戻るときの変化も記録できた」


「原因わかる?」


「今のでわかったら苦労しないわよ」


いつもの返事に、レイが少し笑う。


「そうだよな」


アデルが首を傾げた。


「エリアさん自身にも帰れない理由はわからないんですね」


「うん。最近になって少しだけこっちへ出られるようになったって」


「8年間、月界に?」


「そう言ってた」


リゼットの表情が変わる。何か言いかけて、そのまま口を閉じた。何もなくなった低地を見つめていたレイが、ぽつりと呟く。


「8年前を調べたい」


リゼットがすぐに頷いた。


「私も調べたい。エリアさんが月界へ残った原因と、あなたの記憶が欠けてること。同じ出来事から始まってるなら別々に考えないほうがいいわ」


アデルが続く。


「教会には当時の救護記録が残っている可能性があります。誰が保護されたのか、どこへ運ばれたのか、行方不明になった方の記録などです」


「境界院には当時の現象の記録があるわ」


リゼットは閉じた術式盤を胸に抱え直した。


「境界がどこまで広がったか、どんな異常が観測されたか。両方を見れば何かわかるかもしれない」


2人の顔を見比べて、レイが頷く。


「じゃあ、次はそれだな」


「ええ」


低地の向こうへ目をやって、ヴァンが言った。


「探してた人は見つかった。でも、連れて帰れない」


「うん」


レイは一度だけ、エリアが消えた場所を振り返る。


「次は一緒に帰る」


誰に聞かせるでもなく、そう言った。


4人は8年前の真実を調べるため、来た道を再び戻り始めた。

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