第六章 追跡の先
アデルが加わった翌朝、4人は町を出た。
教会に残されていた記録によると、青い髪の女性が目撃されたのはここから北へ進んだ地域だった。その進路沿いには小規模な境界異常も確認されている。
目撃情報は2件。1件は北へ続く街道を歩いていたというもの。もう1件は、その先の小さな町での目撃だった。どちらも詳しい記録ではない。若い女性。長い青い髪。1人で行動していた。それだけならよく似た別人という可能性もある。しかし港町から集めてきた情報を地図上でつなぐと、移動の方向に大きな矛盾はなかった。女性は北へ向かっている。
そしてレイたちは、その後を追っていた。
これまでも似たことが続いている。女性の証言を追った先で存在しない道が見え、月界側の建物が透け、境界値が普段より高くなっていた。1つなら偶然かもしれない。けれど続けば無関係とも言い切れない。
「やっぱり、あの人が何かしてるのかな」
歩きながらレイが言うと、すぐ隣からリゼットの声が返った。
「まだ決められないわ。目撃された場所で境界が揺らいでることと、その人が揺らしてることは別でしょ」
「でも関係はありそうなんだろ?」
「それはそう。だから確かめるの」
しばらく歩いたところでアデルが手元の記録に目を落とした。昨日、教会で書き写してきたものだ。
「その方は、どこへ行こうとしているんでしょうね」
「わからない」
「目的地に心当たりは?」
「ないよ。その人が姉さんだって保証もないし。姉さんが昔行きたがってた場所なんかも覚えてないし」
「顔も、でしたね」
「うん」
前を向いたままレイが答える。
「変な感じなんだよなあ。顔は思い出せないのに、港で見たときは姉さんだと思った」
「顔以外を覚えてるんじゃない?」
ヴァンが口を挟んだ。
「顔以外?」
「歩き方とか、立ち方とか。人って顔だけで見分けてるわけじゃないだろ」
レイが少し考え込む。
「そういうもん?」
「たぶん」
「たぶんなの?」
「そこはリゼットに聞いて」
「何でも私に振らないで」
2日目の昼過ぎ、一行は目撃記録にあった町へ着いた。街道沿いに宿や店が並ぶ、穏やかで小さな町だった。旅人の出入りは多いらしく、青い髪の女性について聞いて回っても不審がられることはない。
4人の聞き込みは自然と役割が分かれていた。
レイはとにかく人に話しかける。店先でも、井戸端でも、荷車の脇でも、誰にでも同じ調子で「青い髪の女の人、見ませんでした?」と聞いていった。気さくな口調につられて相手のほうが先に話し始める。
「青い髪? 見たような気もするけどねえ」
「いつ?」
「先週だったかな」
「1人だった?」
「そこまでは覚えてないよ」
別の店では若い女性が泊まったと言われたが、髪は黒だった。市場では青い髪の旅人を見たという話が出たものの、詳しく聞けば男だった。
「惜しい」
「どこが惜しいのよ」
「青までは合ってた」
「性別が違うでしょ!」
リゼットは町の北側で術式盤を広げ、表示を何度か切り替えてから顔を上げた。
「北へ行くほど境界値が少しずつ高くなってる。教会の記録の方角と合うわ。ただ振れ幅は小さいから、今揺らいでる最中というより揺らいだ跡かもしれない」
「どれくらい前の?」
「数日前ってところかしらね」
ヴァンは北へ延びる街道の入口にしゃがみ込み、土を指でなぞってから立ち上がる。
「北へ向かう轍が少ない。最近は荷車も旅人も、あっちの古い街道を避けてるみたいだ」
「避けてる?」
「理由があるんだろうね。水の音がするとか、変なものが見えるとか」
アデルは手帳を片手に、いくつもの話を静かに聞いて回っていた。やがて戻ってきて手帳を開く。
「集めた話を並べてみました」
3人が顔を寄せた。
「宿の女将さんが3日前に北の街道で見たそうです。髪は背中にかかる長さの自然な青だったと。雑貨屋の青年は昨日の夕方に東の市場で見たと。こちらは肩くらいの長さで、青というより染めたような明るい水色だったそうです」
「別人ってこと?」
「おそらく。同じ人が3日前に北へ向かって、昨日東の市場にいるのは考えにくいです」
「青く染める人もいるんだな」
「若い方の間では流行っているそうですよ」
リゼットが眉を上げる。
「じゃあ、北の街道の人が本物ってこと?」
「まだわかりません。ただ女将さんの話は、教会の記録やリゼットさんの数値、ヴァンさんの轍の話のすべてと向きが合います」
アデルは通りの向こうへ目を向けた。
「その女将さんが、もっとよく見ていた方がいると露店の男性を勧めてくれました」
場所を聞いて向かった先で、露店を片づけていた年配の男が顔を上げる。レイがすぐに近づいた。
「青い髪の女の人、どこで見たの?」
「町の北だよ。古い街道のほうへ歩いていった」
「いつ?」
「3日くらい前だったかな」
「どんな人だった?」
「若い女だった。髪が長くて青いから覚えてる。青というより紺かな、あれは」
レイの表情が変わる。リゼットが横から尋ねた。
「その前後で、何か変わったことはありませんでしたか?」
「変わったこと?」
「昔の景色が見えたとか、なくなったものが現れたとか」
男は少し考えてから頷く。
「ああ。それなら橋が見えたって話があったな」
「橋?」
「昔は町の北に川があったらしいんだ。俺が生まれるよりずっと前に流れが変わって、そこに架かってた橋もなくなった。それが最近、ときどき見えるらしい」
アデルが記録に目を落とした。
「教会にも似た相談が1件入っています。乾いた土地から水の音が聞こえた、と」
「場所は同じ?」
リゼットの問いにアデルが頷く。
「おそらく」
「どの辺?」
男は北を指した。
「街道を半日くらい。森を抜けた先だよ」
レイはもう北を向いている。
「行こう」
「明日の朝」
「なんで?」
「ここから半日でしょ? 着く頃には暗くなるわ。境界が揺らいでる場所へ夜に入る気?」
「でも3日前だぞ」
「3日経ってるなら、今から数時間急いでも同じでしょう」
レイが黙り込む。
「……明日の朝?」
「そう」
ヴァンが頷いた。
「そのほうがいいね」
「私もそう思います」
アデルも続いて3対1になった。レイは不満そうに頬を膨らませたが、最後には頷く。
「わかったよ」
その夜、4人は宿の食堂で卓を囲んだ。
運ばれてきたのは川魚の香草焼きと、根菜の入った温かいスープ、焼きたての黒パン。それに、ヴァンが真っ先に頼んだ厚切りの炙り肉が、大皿で1つ。
「肉」
「肉だな」
ヴァンとレイが同時に皿を見る。
「食べすぎないでね。明日、歩けなくなるわよ」
そう言いながら、リゼットは卓の端に手帳を広げていた。視線は紙の上のまま、左手でパンを探す。右手のペンは止まらない。
「リゼット、スープ冷めるぞ」
「あとで食べる」
「あとっていつだよ」
「記録が終わったら」
湯気が少しずつ細くなっていく。アデルがスプーンを置いた。
「リゼットさん」
「なに?」
「食べられるときに食べておくと、あとで楽ですよ」
それだけだった。リゼットは何か言い返そうとして手帳とスープを見比べ、ペンを置く。
「……わかったわよ」
スプーンを取って一口飲むと、リゼットの表情がわずかに緩んだ。
「おいしい」
「でしょう」
ふふん、と鼻を鳴らしたのはヴァンだった。
「なんでヴァンが得意げなのよ」
「宿を選んだのオレだから」
「選んでないでしょ。ここしか空いてなかったのよ」
軽く肩をすくめて、ヴァンは肉に塩をもう一振りしようとする。その手が止まった。いつの間にか卓の上の塩入れがヴァンの手元に寄せられている。
「ありがと、アデル」
「胡椒もありますよ」
アデルが小さな瓶をそっと差し出す。
「気が利くねえ。アデル、そんなにオレのこと好き?」
「はい、とても」
ヴァンの目をまっすぐ見つめてアデルが答えた。
「……え?」
ヴァンの手が止まる。レイとリゼットが同時にアデルを見た。
「冗談です。先ほどから胡椒の瓶を見ていたので」
アデルは平然とスープを口に運んでいる。
「……心臓に悪い」
ヴァンは口元を押さえて顔を逸らした。
「アデル、今のもう一回やって」
「やりません」
「えー」
ほんのわずかな間、珍しいアデルの笑顔がこぼれていた。
食事が一段落した頃、アデルが3人を順に見る。
「旅の間の食事ですが」
「うん?」
「宿のない日は私が作ってもいいでしょうか」
「作れるの?」
レイの目が輝いた。
「一通りは。皆さん、苦手なものはありますか?」
「ない!」
「肉があれば文句ない」
「私も特には。ただ、研究に集中すると食べ忘れることはあるわ」
「それは先ほど拝見しました」
「……言わなくていいわよ」
「では忘れていたら声をかけます。一度だけ」
「一度だけ?」
「二度言うとうるさいでしょう」
リゼットが困ったように小さく笑った。
「リゼットはさ、研究のどこが面白いの?」
パンをちぎりながらレイが聞く。
「いきなりなに」
「だって食べるのも忘れるくらい好きなんだろ?」
リゼットは少し黙った。
「……わからなかったことが、わかる瞬間が好きなの。それだけ」
「それだけ?」
「それだけよ」
返事は早かった。その手が閉じた手帳の端を指でなぞっている。
「ふーん」
レイはそれ以上聞かない。アデルはスプーンを持つ手を止めず、ヴァンはちらりとリゼットを見て、何も言わずに肉へ視線を戻した。リゼットが静かに息を吐く。
「あ」
レイとヴァンが同時に声を上げた。大皿に、最後の1切れになった肉が残っている。
「早い者勝ち」
「ずるいぞ、ヴァン!」
2つの手が同時に皿へ伸びた。アデルがナイフを取って、2人のあいだから1切れを2つに切り分ける。
「半分ずつにしましょう」
「ええー」
「リゼットさんにも。一口どうぞ」
「いいの?」
「はい」
リゼットは差し出された小さな肉を口に入れた。
「……おいしい」
「でしょう」
「だから、なんでヴァンが得意げなのよ」
夜遅く、宿の外の低い石垣にレイが腰かけていた。眠れないらしく、月明かりの下の石垣から垂らした脚をゆらゆらと揺らしている。
「脚、揺れてるぞ」
不意にかかった声にレイの肩が跳ねた。振り返ると、宿の壁に背を預けてヴァンが立っている。いつからそこにいたのか、まったく気づかなかった。
「うわ、びっくりした。いつからいたの?」
「ずっと」
「嘘だろ」
「ほんと。夜は慣れてるからね」
レイの脚が、ぴたりと止まる。
「癖なんだ、これ。小さい頃、姉さんによく注意されたんだよ。行儀が悪いって」
「そういうのは覚えてるんだな」
「顔だけがダメなんだけどさ」
小さく笑って、レイは夜空を見上げた。
「明日、もし会えたらどうする?」
「んー」
少し間を置いてから、レイは言った。
「とりあえず、顔見るかな」
「それから?」
「それから考える」
ヴァンが目を細めて、レイの頭をぽん、と叩く。
「お前らしいな」
「だって、他に思いつかないし」
「いいんじゃない。最初の一言なんて案外どうでもいいもんだよ」
「ヴァンはそういうのあった?」
返事までに少しだけ間があった。
「さあね」
「またそれ」
「ほら、お子ちゃまは早く寝ろよ。明日は歩くぞ」
「ヴァンは?」
「もう少しここにいる」
レイは石垣から飛び降りる。何か言いかけてやめ、片手を軽く上げて宿の中へ入っていった。
扉が閉まる音のあと、ヴァンは壁に背を預けたまま、しばらく暗い街道の先を見ていた。
翌朝、4人は日の出とほぼ同時に出発した。
古い橋が見えるという場所までは大きな異常もなかった。けれど森を抜ける少し前からは、ヴァンが口数を減らしている。
「何かある?」
気づいたレイが聞く。
「まだわからない」
歩きながら顔を少し上げ、一度風を受けてから、ヴァンは鼻からゆっくり息を吸った。
「でも水の匂いがする」
リゼットが周囲を見回す。
「川はもうないんでしょう?」
「今の川はね」
少し進むと道端の草にも違いが現れた。左側の葉だけが濡れている。朝露が残るにはもう遅い時間だった。右側の草は乾いているのに、左だけに細かな水滴が残っている。
しゃがみ込んで葉に触れたアデルが小さく呟く。
「冷たいですね」
術式盤を確かめて、リゼットが言った。
「境界値が上がってる。位相も薄くなる方向へ動いてるわ。この先ね」
さらに進むと水の匂いが少しずつ強くなり、やがて流れる水の音まで聞こえ始めた。
「聞こえる?」
「うん」
答えたヴァンの表情からいつもの軽さが消えている。
「でも風は向こうから来てない」
「どういうこと?」
「音がする方向と風が合ってない」
リゼットが術式盤を見る。
「境界がずれて重なってるのかも」
森が開けた。
その先には乾いた低地が広がっている。川などない。土と石が続いているだけで、草さえまばらだった。それなのに、水の音ははっきり聞こえる。
レイが足を止めると目の前の景色が揺れた。乾いた地面の上へ、青白い色が滲む。水が流れ始める。いや、現れたように見えただけだ。今の乾いた地面を透かして、その上に川が重なっている。青白い水面がゆっくり揺れ、その上には古い石橋が架かっていた。
「これが昔の川?」
「そうみたいね」
術式盤を見ながらリゼットが答える。
「月界側に残ってる景色が透けてる。境界がかなり薄くなってるわ」
「開口部は?」
「まだない」
レイは橋を見つめた。
「じゃあ、あの橋は渡れない?」
「現界側には橋そのものがないもの。足を乗せても地面を踏むだけよ」
試すようにレイが乾いた低地へ一歩下りる。見た目だけなら水の中だった。けれど靴の下にあるのは乾いた土で、水は足首をすり抜けるように流れていく。
「変な感じ」
「月界側の景色が見えてるだけだからね」
ヴァンは何も言わず、川でも橋でもない、その向こうを見ていた。
「ヴァン?」
レイが呼んでも返事がない。やがてヴァンの目が細くなった。
「……人がいる」
レイの顔が上がる。
「どこ?」
ヴァンが低地の向こうを指す。青白い川と古い石橋が薄く揺れている、そのさらに先。乾いた土の上に、1人の人影が立っていた。
遠い。顔どころか、年齢も背丈も判別できない距離。それでも風に揺れる長い髪の色だけは、ここからでもはっきりと見えた。夜に近い、深い青。
レイは動けない。息を吸う音さえ止めたように、ただその色を見つめている。
水の音だけが低地に響く。
「……数値が跳ねてる」
最初に口を開いたのはリゼットだった。術式盤の針が細かく震えている。
「あの辺りだけ、さっきまでと全然違うわ。境界が落ち着かない」
「残響じゃないね」
ヴァンが言った。
「足元に影がある。月界側の景色なら影があんなふうには落ちない。ちゃんとこっちにいる」
人影は白い裾を風にひるがえしながら、こちらへ背を向けて立っている。川の先を見ているのか、ただ立っているのか、ここからはわからない。
アデルは人影ではなく、レイを見ていた。何も言わない。止める気配もない。
「……姉さん」
ようやく出た声は、ほとんど息のようだった。港町の通りで呼んだときと同じ声だ。
「姉さん」
人影は動かない。
「姉さん!」
今度ははっきりと声が出た。低地に響いて、水の音に混じって消える。それでも人影は振り向かなかった。
「レイ、待って」
リゼットの声はもう届いていない。
レイは走り出していた。乾いた土を蹴り、青白い水の幻をいくつも踏み抜いて、石橋の幻を横切るように駆ける。水はすり抜けるだけで足を濡らさない。
追いかけようとしたリゼットの前にヴァンが腕を出した。
「行かせてやろう」
「でも、何があるか――」
「リゼットは数値を見てて。それで何かあったらすぐ教えて。そのときはオレが行く」
リゼットは唇を噛んで頷く。ヴァンとアデルがレイの背を追い始め、リゼットも術式盤を抱えてその後に続いた。
レイは走り続ける。進むごとに人影ははっきりと大きくなっていった。長い髪がゆるやかに波打っているのが見える。濃い紺の裾が、白に溶けるように風に細かく揺れている。
息が上がり、肩が大きく上下する。それでも足は止まらない。
青白い水の幻の縁を越えると、足元の土がはっきりと乾いた色に変わった。人影まで、あと10歩ほど。
レイは走る速さを落とし、ゆっくりと歩く。後ろから3人の足音が追いついてくる。
風が、止まった。
「……姉さん」
声は小さく、風に溶けるほどだった。それでも、人影の肩がほんの少しだけ、動いた。




