第五章 両方あっていい
ヴァンが加わって2日後、3人は街道沿いの小さな村へ入った。
目的は水と食料を補給して、青い髪の女性を見た者がいないか尋ねること。それが済めば、そのまま北へ向かうつもりだった。
ところが村へ入ってすぐ、レイが足を止める。
「静かだな」
畑には作物が育ち、家々の軒先には洗濯物が揺れている。人が暮らしているのは間違いない。しかし、昼間だというのに外を歩いている者がほとんどいなかった。
周囲を見回していたヴァンが言う。
「いないわけじゃないね。家の中にはいる」
リゼットは術式盤を取り出した。
「境界値が少し高めね。位相も不安定で、薄くなったり元に戻ったりを繰り返してる。でも開口部ができるほどじゃない」
「どういうこと?」
「それを調べるのよ」
3人が村の中心へ向かうと、ようやく何人かの村人らしい姿が見えてきた。その中に1人、教会の印を身につけた女性がいる。
まっすぐ切り揃えた赤い短髪に、金糸の十字が刺繍された青緑の長い服。椅子に座った老人の腕から、巻かれた布を手際よくほどいていた。
「痛みは?」
「さっきよりは随分ましです」
「指を動かせますか?」
老人が手を開いたり閉じたりするのを確認してから、女性は新しい布を巻き直す。
「骨には問題なさそうです。ただ、今日はあまり使わないでください」
「畑があるから、そういうわけにもいかんよ」
「では左手だけでできることにしてください」
「難しいなあ」
「悪化させて両手が使えなくなる生活よりは簡単だと思います」
穏やかな声だった。それでいて、言っていることには逃げ道がない。
処置が終わると女性は立ち上がった。苦笑しながら去っていく老人を見送って、そこで初めて3人へ顔を向ける。
「旅の方ですか?」
「うん」
レイが答えた。
「何かあったの?」
女性はすぐには答えず、3人を順番に見た。その視線がレイの足元で止まる。
「その前に、あなたは右足を怪我していませんか?」
「え?」
自分の足を見下ろして、レイは首をかしげた。
「してないけど」
「歩幅が左右で違います」
言われて初めて気づいたように、レイが右足首を回してみる。眉がわずかに寄った。
「……昨日、森でちょっと滑って捻っただけ」
「見せてください」
「平気だよ」
「そうですか。では確認してから問題がないか判断します」
レイがリゼットを見る。
「私を見ないで」
ヴァンは横で面白そうに様子をうかがっていた。
結局、レイは先ほどの老人が腰かけていた椅子に座らされる。女性は足首の腫れを確かめ、ゆっくり動かしていった。
「軽い捻挫ですね」
「ほら、平気じゃん」
「軽い捻挫と無傷は同じではありません」
「はい」
「今日は無理に走らないでください」
「走らなきゃいけなくなったら?」
「そのときは走ってください。そのあと痛くなっても驚かないでくださいね」
ヴァンが堪えきれずに笑い声を漏らす。
「強いな」
気にした様子もなく処置を終えて、女性が名乗った。
「アデル・ヴェルです。この村の様子を確認するため、教会から派遣されて来ています」
「俺はレイ。こっちはリゼットとヴァン」
「レイさん、リゼットさん、ヴァンさんですね」
ヴァンの眉が上がる。
「全員さん付け?」
「何か問題がありますか?」
「いや。丁寧だなと思って」
「そうですか」
それだけだった。ヴァンが少し物足りなさそうな顔をする。
リゼットが本題へ戻した。
「村で何が起きてるの?」
「3日前から住民の体調不良が増えています。発熱や咳ではありません。食欲が落ちる、集中できない、昼間でも強い眠気がある。それから、似た夢を見るという方が多いです」
「似た夢?」
「昔の村です」
アデルは村の奥へ目を向けた。
「今はもうない家や、亡くなった人が出てくるそうです。夢の中では、それが失われたものだとは思わない。昔と同じように生活しているそうです」
リゼットの表情が変わる。
「月界の影響かもしれない」
「私もその可能性を考えました。ただ境界自体については教会は専門外なので、私たちには詳しいことはわかりません。今は王立境界院へ確認を依頼しているところです」
「境界院と教会って何が違うの?」
「私たちは境界や月界そのものを調べるところ」
リゼットが先に答え、アデルが言葉を継ぐ。
「教会は、それで困っている人たちに対応する側です」
レイが首をひねって、少し考えてから言った。
「調べる人と、助ける人ってこと?」
「大雑把には、そんなところね」
「で、夢を見てるだけ?」
レイが話を戻す。
「そうです。ですが、眠っている時間が少しずつ長くなっています」
ヴァンがアデルを見た。
「起きたくなくなってる人もいる?」
「います」
「夢の世界にいるほうがいいのかな」
「そう話した方もいました」
そのとき、少し離れた家の中から子どもの泣き声が聞こえた。
アデルはすぐにその家へ向かい、扉を叩く。
「アデルです」
しばらくして疲れた顔の女性が出てきた。
「すみません、また……」
「何かありましたか?」
「主人が起きなくて」
アデルの声が一段低くなった。
「いつからですか?」
「昨夜からです。何度呼んでも起きないんです。息はしてるんですけど……」
アデルは女性に許可を取って家の中へ入り、3人も後を追う。
ベッドに男が横たわっていた。呼吸は穏やかで、苦しんでいる様子はない。むしろ、わずかに笑っているようにさえ見えた。
アデルは脈を確かめながら、眠ったままの男に何度か呼びかける。反応はない。
「昨日、何か普段と違うことはありましたか?」
「ずっと昔の話をしていました。亡くなったお母さんのこととか、子どものころ住んでいた家のこととか……」
「食事は?」
「ほとんど食べてません」
「水は?」
「少しだけ」
男の手を取ったアデルの目が指先で止まった。乾いた土がついている。
「昨日、外へ出ましたか?」
女性は思い出すように考えてから答えた。
「夜に一度。気づいたらいなくなっていて……探したら村の外れにいました」
「どこですか?」
「古い井戸の近くです」
アデルが少しだけ黙ってから続ける。
「そこへ行ったのは昨日が初めてですか?」
「いえ……最近、夜になると何度か」
「わかりました」
家を出ると、リゼットがすぐに聞いた。
「古い井戸って?」
「村の北側です。今は使われていません」
「夢を見てる他の人もそこへ行ってない?」
アデルが立ち止まる。視線を落として、住民から聞いた話を順に辿っているようだった。
「……います」
「何人?」
「少なくとも4人」
「なんで先に言わなかったの?」
「今つながったからです」
アデルは淡々と答えた。
「最初に聞いたときには、眠れなくて散歩した、夜に外へ出た、という程度でした。行き先が同じだとは思っていませんでした」
ヴァンが口の端を上げる。
「よく覚えてるな」
「話してくれたことですから」
古い井戸は村の北端にあった。周囲には草が伸び、一見すると特に変わった場所には見えない。
リゼットが術式盤を向ける。
「ここね」
「何がある?」
「境界値が上がってる。しかも、同じ場所で薄くなって戻るを繰り返してるわ」
「てことは、ときどき見える?」
「可能性は高いわね」
ヴァンは井戸から少し離れたところで周囲を見ていた。風の流れを確かめるように顔を上げる。
「ここだけ空気が少し違う」
「境界?」
「それもあるかもしれないけど」
ヴァンは足元の草を見た。
「虫が少ない。それに、この辺だけ土の匂いが妙に湿ってる。井戸は枯れてるのに」
アデルは井戸ではなく、その周囲の植物を見ている。しゃがみ込んで葉に触れた。
「ここだけ育ち方が違います」
「植物?」
「村の中のものより柔らかいです。季節も少しずれているように見えます」
リゼットも葉を確かめる。
「今の植生じゃないものが重なってる……?」
「そこまでは私にはわかりません。ただ、今の村とは違います」
そのとき、レイが顔を上げて小さく声を漏らした。
「……あ」
景色が揺れた。
ほんの一瞬だった。草に覆われていた場所に小さな家が建ち、古びた井戸は新しくなって、誰かが水を汲んでいる。子どもたちが走り抜け、少し離れた場所では女性が洗濯物を干していた。
次の瞬間には全部消えている。古い井戸と伸びた草だけが残った。
「今の」
「見えたわ」
リゼットが術式盤を見る。
「数値が一瞬上がった。月界側に残ってる昔の村が透けたのね」
アデルは景色が消えた場所を見つめていた。
「夢で見ている場所も、あれでしょうか」
「たぶん」
「なぜ眠っている人に影響するんですか?」
「まだわからない。でも、この場所の重なりと関係してる可能性は高い」
数値を確かめながらリゼットは続ける。
「このまま揺らぎが強くなれば、眠ってる間だけじゃ済まなくなるかもしれない。今でも起きられなくなってる人がいるんでしょ?」
「はい」
「なら、この重なりは閉じたほうがいい」
アデルがリゼットを見た。
「閉じると、どうなりますか?」
「月界側の昔の村そのものを消すわけじゃないわ」
リゼットは井戸の向こうを見る。
「ここで現界と重なってる状態を切る。うまくいけば現界からは見えなくなるし、夢への影響も止まると思う」
「夢でも会えなくなる?」
レイが聞いた。
「おそらく」
アデルは少し考えてから言う。
「村へ戻りましょう」
「先に閉じないの?」
「先に皆さんへ説明します」
リゼットが顔を上げた。
「放っておけば起きられない人が増えるかもしれないのよ」
「はい」
「危険なら閉じるしかないでしょ?」
「そうなると思います」
「だったら――」
「危険だから必要な処置をすることと、何も伝えずに処置をすることは別です」
アデルの声は変わらない。
「夢の中で亡くなった家族に会っている方もいます。あれが危険な現象だとしても、その人にとって何でもないものとは限りません」
リゼットが黙った。アデルは続ける。
「閉じる必要があるなら、そう説明します。それでも、何がなくなるのかは先に知っていていいと思います」
ヴァンが先に、村のほうへ向き直った。
「じゃあ戻ろうか」
村人たちの反応は割れていた。
「そんなもの、すぐ閉じてくれ」と言う者がいる。「もう一度だけ夢を見たい」と言う者もいた。
亡くなった妻と夢の中で暮らしていた老人は、長いあいだ何も言わなかった。やがて小さく口を開く。
「夢だってことは、わかってるんです」
アデルは向かいに座って聞いていた。
「起きればもう妻がいないこともわかってる。でも、あそこではいるんです。昔みたいに朝になったら飯を食べて、どうでもいいことで怒られて」
老人が笑った。少しだけ。
「もう一度会いたいですか?」
アデルが聞く。
「会いたい」
「そのためなら起きられなくなっても?」
老人は黙った。アデルは急かさない。
「……それは困るな」
しばらくして、老人が言った。
「孫がいるから」
「はい」
「でも、会いたいんです」
「はい」
アデルはどちらも否定しなかった。
「会いたいことと、ここで生きたいことは、両方あっていいと思います」
老人が顔を上げる。
「どちらかが嘘になるわけではありません」
長い沈黙のあと、老人は小さく頷いた。
村人たちは話し合った。全員が同じ気持ちだったわけではない。それでも最後には今の生活を守るために、井戸の周囲で起きている重なりを閉じることを選んだ。
再び井戸へ戻った頃には日が少し傾いていた。
リゼットは術式盤を地面に置いて、何度か位置を変えながら測定する。
「中心は井戸じゃない」
「違うの?」
レイが聞いた。
「少しずれてる。井戸の向こう側……あの辺り」
ヴァンもそちらを見る。
「右はやめたほうがいい」
「どうして?」
「風が戻ってきてる。さっき見えた昔の道もそっちだ」
リゼットが術式盤を向けた。
「……本当。位相もそっちだけずれてる」
「左?」
「そう」
指された位置へ近づいて、レイが手を伸ばす。何もないはずの空間で、指先がふいに止まった。
「ここ、道作れそう」
「開けすぎないで。月界へ入る必要はないから」
「じゃあ何するの?」
「重なってる境目に届けばいい」
レイがゆっくり手を押し込むと、空間に細い光が走った。リゼットがすぐ術式盤を見る。
「そこ。止めて」
「これで?」
「ええ」
数値を確かめながら、リゼットは携帯していた小さな固定具を地面に置いた。1つ。少し離して、もう1つ。最後の1つを置くと、3つの器具が淡く光る。
「レイ、そのまま」
「結構きついんだけど」
「あと少し」
景色が揺れて、再び昔の村が現れた。
新しい井戸。家々。走る子どもたち。洗濯物を干している女性。
村から一緒に来ていた老人が息を呑む。
女性はこちらを見ない。ただ、昔の景色の中でいつもの一日を続けていた。老人は何も言わない。
リゼットが固定具を操作した。
「閉じるわ」
光が弱くなり、景色が少しずつ薄れていく。家が消える。井戸が消える。子どもたちが消える。最後に女性の姿も透けて、現界の景色の向こうへ溶けていった。
月界側には今もあの場所が残っているのかもしれない。ただ、現界との重なりは閉じた。
レイが手を離す。
「終わった?」
しばらく術式盤を確認してから、リゼットは頷いた。
「数値は下がってる。位相も安定する方向へ戻ってるわ」
老人は誰もいなくなった場所をしばらく見つめて、小さく息を吐く。
「帰りましょう」
老人の隣で、最後まで一緒に見届けたアデルが言った。
村へ戻る頃には、眠り続けていた男が目を覚ましていた。完全に元気というわけではないが、水を飲み、自分で身体を起こせる。その夜は大きな変化もなく過ぎた。
翌朝アデルは1軒ずつ村人の様子を確かめて回り、最後にあの老人の家へ行った。老人は家の前に座っている。
「眠れましたか?」
「ええ」
「夢は?」
「見ませんでした」
少し寂しそうに笑って、老人は続けた。
「起きたとき、やっぱりいないんだなと思いました」
アデルは何も言わず聞いている。
「でも孫が朝からうるさくてね。飯はまだかって」
「それは大変ですね」
「本当に」
今度の笑顔は、昨日より自然なものに見えた。
「ありがとうございました」
「私は何もしていません」
「話を聞いてくれたでしょう」
少し考えてから、アデルは言う。
「決めたのは皆さんです」
「それでもですよ」
老人はそう言って、家の中へ戻っていった。
村の入口でレイたちが待っていた。
「終わった?」
「はい。今のところ、皆さん問題なさそうです」
「じゃあ行こうか」
「どちらへ?」
「北」
アデルが一度、瞬きをした。
「ずいぶん大まかですね」
「人を探してる途中だから」
「青い髪の女性でしたね」
リゼットが荷物を持ち直す。
「アデルは教会へ戻るの?」
「はい。この先の町に所属先があります。今回の件も報告しなければなりません」
レイが顔を上げた。
「俺たちもそっち行くよ」
「そうなんですか?」
「北だし」
ヴァンが笑う。
「途中までは同じだね」
アデルは3人を見た。
「では、町までご一緒します」
「決まり」
「町までです」
「わかってるって」
4人で村を出た。
町へ着いたのはその日の夕方だった。アデルは教会へ戻って村での出来事を報告し、レイたちは宿を探す。翌朝にはまた北へ向かうつもりでいた。
けれど翌日、出発の準備をしているところにアデルがやってくる。
「レイさん」
「アデル?」
「教会の記録に、青い髪の女性についての報告がありました」
レイの手が止まった。
「どこ?」
「ここから北へ2日ほど進んだ地域です。数日前に女性を見たという証言があります」
リゼットがすぐに近づく。
「それだけ?」
「その前後に小規模な境界異常も報告されています」
「また……」
「同じ人物かはわかりません。境界異常との関係も断定できません」
アデルは一度、言葉を切った。
「ただ、少し離れた地域にも似た報告があります」
リゼットの表情が変わる。
「その資料、私たちも見られる?」
「教会内の記録なので持ち出せません。ですが閲覧の申請はできます」
「お願い」
「わかりました」
レイはもう荷物を背負っている。
「じゃあそこ行こう」
「待ちなさい。まだ資料を――」
リゼットの声が途中で止まる。レイはすでに戸口に立っていた。
アデルは3人を見てから言う。
「私も行きます」
今度は3人がアデルを見た。
「教会は?」
「今回の件を報告したところ、周辺で起きている同様の事例についても確認するよう指示を受けました」
「じゃあ仕事?」
「はい」
アデルは頷いた。
「境界そのものを調べるのは王立境界院の役目です。でもそれによって人の生活に影響が出ているなら、教会側にも確認することがあります。皆さんが向かう地域と、私が確認する地域が同じです」
リゼットが少し考える。
「それなら一緒に動いたほうがいいわね。境界については私が見るし」
「私もそのほうが助かります」
「じゃあ決まり」
レイが言った。
アデルは3人の顔を順に見て、頭を下げる。
「よろしくお願いします」
「よろしく、アデル」
「では早速ですが」
アデルの視線が、レイの足元へ落ちた。
「右足、見せてください」
「え、今?」
「出発前ですから」
ヴァンが顔を背けて、咳払いのふりをする。リゼットは荷物を持ち直して、何も見ていない顔をした。
助けは期待できないと判断したらしいレイは観念して、宿の入口の段に腰を下ろした。




