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第三章 測れないもの

緋月と歩き始めてから、しばらく経つ。


先を行く猫は、2人の会話など気にする様子もなく街道の端を歩いていた。ときどき草むらへ顔を突っ込んでは何か見つけて立ち止まる。緋月が先へ行けば、また何事もなかったようについていった。


その後ろ姿を眺めながら、レイは気になっていたことを口にする。


「さっき俺が開けたやつ、あれも月蝕?」


「違うわ。あなたが作った道よ」


「俺が?」


「できたでしょう」


「まあ、できたけどさ」


自分の手でやったことなのだから、できないとは言えない。ただ、どうしてできたのかは全くわからなかった。


「他の人もできる?」


「できない」


「なんで俺はできたの?」


答えが返ってくるまでに少し間が空いた。


「《空白》があるから」


「空白?」


「世界に、あなたの記録が足りていないの」


「記録って……教会の出生証明書みたいなもんかな。それとも何歳でどこに住んでます、みたいなこと?」


「成長記録のほうが近いわね。どんなものがそこに存在しているのかという情報が、現界と月界の両方に記録されてる。あなたの記録はどちらも一部が欠けてる」


眉を寄せて黙り込み、自分の手に目を落とす。


「……俺、世界に書き忘れられてるの?」


「そんな感じ」


「合ってるんだ」


手にも腕にも変わったところは見当たらない。握って開いてみても、いつもの自分の手だった。


「なんで欠けてるのかな」


「そこまではわからない」


「書き忘れられてるせいで、あの道が作れるってこと?」


「欠けているから、閉じた境界にも余地ができる。境界を開けているんじゃない。道だけ作ってるの」


しばらく考えてみたが、わかったような、わかっていないような気分のままだった。


「ふーん」


緋月がちらりと振り返る。


「驚かないのね」


「だって、さっき本当に開いたし」


「そうね」


少し歩いたところで、今度はレイのほうから口を開く。


「じゃあさ、普通の人はどうやって月界に入るの?」


「境界に隙間ができるのを待つのよ」


「隙間?」


「見ればわかるわ」


「でも俺は待たなくても開けられた」


「だから変なのよ」


「変って」


「事実でしょう」


「まあ、そうだけど」


笑って流しかけて、ふと思いついた。


「緋月は、俺に《空白》があるって前から知ってた?」


緋月の足がほんの少し遅くなる。


「知ってたわ」


「8年前から?」


「ええ」


「なんで?」


「今は話さない」


レイの顔に、あからさまな不服が浮かんだ。


「またそれ?」


「そう」


会話はそこで途切れる。無理に聞いても話さない人だということは、もうわかってきていた。


2人と1匹は、そのまま北へ向かう。


昼を少し過ぎた頃、街道の先に石造りの建物が見えてきた。大きな町ではない。低い建物がまとまって、その向こうに森と丘が続いている。


町へ入ってしばらく歩くと、道の脇の柵が目に留まった。


柵の向こうには古い石造りの建物が建っている。ただ、現界に普通に建っているようには見えない。壁の一部が薄く透けて、向こうの木々と重なっていた。屋根も、輪郭のはっきりしているところと、空へ溶けるように薄れているところがある。


思いがけない光景に見入って、歩幅も自然と小さくなった。


「これも残響?」


「ええ」


「なんで透けてるの?」


「境界が薄くなっているからよ」


「薄く?」


もう少し近くで見ようと柵へ近づきかけたところで、鋭い声が飛んでくる。


「そこ、動かないで!」


ぴたりと足が止まった。


少し離れたところに女性がしゃがんでいる。オリーブ色を基調とした服に、きっちり整えた髪。眼鏡の奥の目はレイではなく、手元の円盤のような道具と柵の向こうを忙しく行き来していた。


「俺?」


「あなた以外に誰がいるの」


「緋月もいるけど」


「その人も!」


道具を操作しながら立ち上がった女性が、2人を順に睨む。


「今、測定中なんです。勝手に境界へ近づかないでください」


「やっぱりここ、境界なんだ」


女性の手が止まった。


「知ってるんですか?」


「さっき緋月から聞いた」


女性の視線が緋月へ移る。緋月は何も言わない。


「何も知らない人を境界の近くへ連れてこないでください」


「この子が勝手についてきただけよ」


「途中からは一緒に歩いてたじゃん」


「どっちでもいいです!」


声が跳ね上がって、猫が顔を上げた。女性は一度息を吐き、気を取り直したようにレイへ向き直る。


「今ここは境界が揺らいでいます。建物が見えているのもそのせいです。私は、境界の状態を調べています」


「状態って?」


女性が額を押さえて呻いた。


「どこまで知ってて、どこから知らないの……」


「俺もわからない」


レイが緋月に視線を投げると、「でしょうね」と短く返ってくる。


女性は仕方なさそうに説明を始めた。


「境界は普段は閉じていますが、揺らぐこともあります。揺らぐと境界が薄くなって、向こうの月界が透けて見えるんです」


「揺らぐ……」


眉間にしわを寄せて、建物と女性を交互に見る。揺れているものも、薄くなっているものも、目には見えない。


緋月が前を向いたまま口を挟んだ。


「風で揺れるカーテンみたいなものよ」


「ああ、それならなんとなくわかるかも」


「ただ、透けて見えるだけでは月界へは行けません。境界はまだ閉じているので」


「見えてるのに?」


「そうです。でも、さらに強く揺らぐと境界の一部が歪んで、人が出入りできる開口部ができることもあります」


「じゃあ、ずっと穴が開きっぱなし?」


「いいえ。揺らぎが収まれば自然に閉じます」


「ここはまだ見えてるだけってことか」


「そうです。もう、とにかく調査中なので近づかないでください!」


「わかった」


「本当に?」


「さっきよりはわかった」


女性に何とも言えない顔をされた。


言われたとおり柵から離れようとしたそのとき、何もないはずの空間に妙な感覚があった。足が再び止まる。


「あ」


女性が顔を上げた。


「なに?」


建物が透けて見えている。しかし開口部はない。それでも不思議と先へ進めるような気がした。


「ここ、行ける気がする」


「ちょっと、触らないで!」


止められるより先に、指先が空間に触れる。


昼の町の景色に細い切れ目が走って、その向こうに青白い景色が覗いた。


女性の動きが止まる。手元の道具、目の前の切れ目、もう一度道具。


「……待って」


「なに?」


「今、何をしたの?」


「道を作ったけど」


「どうやって?」


「行けそうだったから」


「何を見て?」


「特に何も」


「変化は? 何か感じた?」


「うーん……なんとなく?」


女性の眉がぐっと寄る。


「なんとなくで月界への道を作らないでよ……」


「そう言われてもさ」


「そのまま! 動かないで!」


「え? 閉じちゃ駄目?」


「駄目。今測ってるから」


手を置いたまま固まるレイをよそに、女性は道具の表示を確かめ、何かを書き込み、また道を見る。その繰り返しの中で、目の色が少しずつ変わっていった。


「……変」


「何が?」


「数値がほとんど動いてない」


「でも道はあるよ」


「だから変なのよ」


指を止めないまま、女性は早口で続ける。


「ここは元々、境界が少し薄い。でも自然に開口部ができるほどの揺らぎじゃない。普通は境界が揺らいだ結果として開口部ができるの。でもこれは、境界の状態変化がないのに通れる場所だけができてる」


「さっき聞いたやつだ」


レイのつぶやきに、緋月が小さく頷く。


「そうね」


女性の目が緋月へ向いた。


「知ってたんですか?」


「ええ」


「先に言ってくださいよ」


「聞かれなかったから」


「そういう問題じゃないでしょ!」


緋月は答えない。女性はもう一度、レイの作った道を見つめた。


「……閉じているはずの場所に、道だけ作ってる」


「それって駄目なの?」


「駄目かどうかを今から調べるの」


「はい」


「一度閉じて」


手を離すと、道は細くなって消えた。それでも建物の残響は、薄い境界の向こうに変わらず透けている。


「建物は消えないんだ」


緋月が柵の向こうへ目をやった。


「境界の揺らぎは残ってるから」


女性が道具を構え直す。


「もう一回」


「また?」


「今度は触れる前から記録します」


「何回やるの?」


「わかるまで」


「長くなりそうだな」


緋月は少し離れて猫の隣に腰を下ろした。


「そうね」


「助けて」


「嫌」


女性はもう2人の会話を聞いていない。


レイはそのまま、しばらくその場から動けなくなった。


女性が何度も測定を繰り返す。触れる位置を少しずつ変え、道が生まれるまでの時間を記録し、前後の数値と照合する。表示されている数字の意味はレイには全くわからない。ただ、測れば測るほど女性の顔が真剣になっていくことだけはわかった。


「もういい?」


「まだ」


「今何回目?」


「数えてません」


「俺は数えてる。7回目」


「だったら8回目」


「増えた」


「黙ってやって」


緋月は猫と並んだまま動かない。助ける気は明らかになさそうだ。


しばらくして、女性がようやく顔を上げた。


「おかしい」


「俺?」


「現象が!」


「俺がおかしいって言われたのかと思った」


「あなたも、今のところ十分おかしいです」


「ひどいな」


女性は書き込みを続けたまま、顔も上げずに問う。


「名前」


「レイ」


「レイ……なに?」


「レイ・アルヴェイン」


書き終えた女性の手が止まった。名前を確かめるように繰り返してから顔を上げる。


「私はリゼット・ノア。王立境界院特別研究員です」


「よろしく、リゼット」


「よろしくじゃなくて」


眼鏡の奥から、じとっと見上げられた。


「あなた、自分がどれだけ変なことをしてるかわかってます?」


「閉じてる境界に、道を作ってる?」


「それはさっき私が言ったからでしょ」


「理解はしたよ」


「だったらもう少し驚きなさいよ」


「そう言われても、できるものはできるから」


「そういう問題じゃないの!」


緋月の膝を枕代わりにした猫が、退屈そうに大きな欠伸をしている。


「緋月は最初から知ってたんだろ?」


「ええ」


リゼットが2人を交互に見た。


「そもそも、この人は誰なんですか?」


「緋月」


「そうじゃなくて!」


緋月は何も言わない。リゼットは何か聞きたそうだったが、目の前の測定結果のほうが気になるらしく、また道具に視線を落とす。


測定が一段落したらしい。ようやく解放されたレイは柵から離れて肩を回す。


「リゼット、月界に詳しい?」


「それを研究してるんだから、あなたよりは詳しいです」


「じゃあ、ちょうどいい」


「なに?」


「人を探してるんだ」


リゼットの眉が寄る。


「人?」


「姉さんかもしれない人」


港町で見た青い髪の女性のことを話した。8年前に姉のエリアがいなくなったこと。一緒に暮らしていたことも覚えているのに、最後の日だけ記憶がないこと。顔を思い出そうとしても、そこだけ像を結ばないこと。それなのに青い髪の女性を見た瞬間、理屈より先に姉だと思ったこと。


リゼットは、今度は途中で口を挟まなかった。


「それで、町を出たの?」


「うん」


「それだけで?」


「他に理由いる?」


リゼットの指が道具の縁をなぞる。少し置いてから口を開いた。


「その女性が月界の残響だった可能性はあります」


「緋月にも言われた」


「でも、それだけとは限らない」


顔を上げると、リゼットは道具から目を離していなかった。


「どういうこと?」


「今の段階ではわかりません」


きっぱりと言い切る。


「わからないものを、わかったことにはできないから」


「同じこと言ってる」


緋月は「そうね」と答え、リゼットは2人を見比べた。


「なに?」


「いや、なんでもない」


レイが少し笑うと、リゼットは不満そうな顔のまま道具に視線を戻す。そこには、何度測っても境界の異常を示さなかった数値が並んでいた。


それから、もう一度レイを見る。


「あなた、次はどこへ行くの?」


「北」


「北のどこ?」


「まだわからない」


「……よくそれで旅に出たわね」


「行けば何かわかるかなって」


「わからなかったら?」


「そのとき考える」


リゼットが深く息を吐いた。少し考えてから、これまで使っていた道具類を片付け始める。


「私も北へ行く」


「そうなんだ。仕事?」


「それもあります。でも、あなたの現象をもう少し観測したい」


「俺を?」


「あなた以外に誰がいるの」


さっきも似たようなことを言われた気がする。


「まあ、別にいいよ」


「軽いわね」


「嫌って言ってもどうせ来そうだし」


「それは……」


言葉に詰まるリゼットに、首をかしげてみせた。


「来る?」


「行きます」


「じゃあ、よろしく」


「だから軽いのよ!」


その横で緋月が立ち上がる。猫もすぐに腰を上げた。


「緋月は?」


「行かないわ」


「なんで?」


「行く理由がないもの」


「月界のこと教えてくれるんじゃなかったっけ」


「最低限は教えたわ」


視線を向けられて、リゼットの背筋が一瞬だけ伸びる。


「専門家もいるでしょう」


「え、私?」


「そう」


「いや、確かに専門ですけど……」


もう歩き出していた背中に、レイは声をかけた。


「緋月」


足を止めて、緋月が振り返る。


「ありがとう」


ほんの少し、緋月の目が細くなった。


「何もしてないわ」


それだけ言って前を向くと、猫もその隣を歩き始める。


遠ざかる白い背中をしばらく黙って見送った。


8年前を知っている。エリアを知っている。自分に《空白》があることも知っている。それなのに、肝心なことはほとんど話さない。変わった名前の、よくわからない女だった。


「……また会うかな」


隣でリゼットが首をかしげる。


「知り合いじゃないの?」


「今日会った」


「今日!?」


「8年前にも会ったらしいけど、俺が覚えてないんだ」


リゼットの顔色が変わった。


「待って。それ、どういう――」


「歩きながらでいい?」


「歩くから早く教えて!」


笑って、北へ向かって歩き出す。リゼットが慌てて道具の鞄を担ぎ直し、小走りでついてきた。


歩きながら自分の手を見る。やはり特に変わったところはない。


「空白かあ」


「なに?」


「俺、世界に書き忘れられてるらしいよ」


「……書き忘れ?」


リゼットの足が止まる。


「何ですか、それ」


「緋月が言ってた。《空白》ってやつだって」


「ちょっと待って。そこ、詳しく教えて!」


「歩きながらでいい?」


「さっきも言ったでしょ、それ!」


声が街道に響く。それを背に、レイは少し歩く速さを落とした。リゼットが隣に並ぶまで、あと数歩。

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