第二章 境界の向こう
雑草に埋もれかけた石畳をたどってきた道が、途中で消えている。
崖じゃない。倒木もない。数歩先にも森は続いているのに、石畳だけがぷつりと途切れている。
レイは足を止めた。
「道、間違えた?」
振り返ってみても分かれ道があったようには見えない。
街道を外れたのは、古い案内板に小さな集落があると書いてあったからだ。
港町を出て3日、レイはずっと同じことを聞いて回っていた。宿の主人に、行商人に、街道沿いの茶屋の婆さんに。
「青い髪の女の人、見ませんでした?」
「見た気がするねえ」と言う人もいれば、「そんな髪なら忘れないよ」と首を振る人もいる。あやふやな話ばかりだったが、重ねていくと、どうやら北へ向かったらしい。
それなら北へ行けばいい。間違っていたら、そのときにまた考えればいい。
集落があるならそこでも聞ける。ついでに昼食もとれるかもしれない。そのくらいの軽い寄り道のつもりだった。
前に向き直っても、道の先にはただ森が続いている。
木々があって、下草があって、木漏れ日が落ちている。何の変哲もない景色だ。
それなのに、石畳が途切れたあたりがなんとなく気になる。理由はない。気づけばそこまで歩いていって、手を伸ばしていた。
指先は何にも触れない。空気をかくだけだ。けれど少し押し込むと、何もないはずのそこが、すっと開く手応えがあった。
「あ」
もう少し。細い隙間が開いて、レイは息を呑んだ。
向こうは夜だった。こちらは昼の陽が降っているのに、腕1本ぶんの隙間の先には大きな月が浮かび、青白い草原が広がっている。遠くに崩れかけた建物。そのさらに奥には森とも町ともつかない影が連なっていた。
静かな景色なのに目が落ち着かない。近くに見えた建物が、見ているうちにずっと遠のいた気がして、無意識に目をこすった。
「……なんだこれ」
しばらく眺めてしまう。ふと、港で見た青い髪が頭をよぎった。あの人がここを通った証拠なんてない。それでも、知らなかった場所への入口が目の前にある。
「入れるのかな」
片足を出しかけたとき、後ろから声がした。
「やめなさい」
振り返ると、少し離れたところに女が1人立っていた。
白銀の長い髪に深紅の花の髪飾りと、舞台衣装のような、普段は見かけない変わった服。足元には猫が1匹いて、こちらをじっと見ている。
女の視線はレイではなく、隙間に向いていた。
「閉じて」
「これ?」
「そうよ」
「閉じ方なんて知らないよ」
そこで初めて、女の目がレイに向く。一瞬、妙な間があった。レイが首をかしげるより先に、女の視線は隙間へ戻る。
「開けたでしょう」
「手を伸ばしたら開いたんだ」
「……そう」
女は少し考えてから言った。
「手を離して」
言われた通りにすると、隙間はゆっくりと細くなって、青白い夜が消えていく。昼の森だけが残った。自分の手を見て、ひらひら振ってみる。これといった変化もない。
「今のなに?」
「知らずに入ろうとしてたの?」
「知らないから聞いてる」
小さく息を吐いて、女は答えた。
「月界よ」
聞いたことのない言葉だった。
「月界?」
「ええ」
「それって月蝕と関係ある?」
意外そうな顔をされた。
「月蝕は知ってるのね」
「名前だけ。8年前に俺の町であったんだって。俺も巻き込まれたって聞いた」
「聞いた?」
「覚えてないから」
女の目が止まった。ほんの一瞬だった。レイはそれに気づかず続ける。
「大きな騒ぎがあって、俺もその場にいたことは聞いた。でも、それがどんなものだったかは全然覚えてないんだ」
じっと見つめられて、視線がやけに長いと気づく。
「なに?」
「別に」
「じゃあ聞いていい?」
「もう聞いてるでしょう」
「よくわからないんだ。結局、月蝕ってなに?」
女は少し黙ってから口を開いた。
「現界と月界の境が大きく崩れる現象よ」
「現界?」
「今いるこっち」
「ああ」
隙間があった場所へ、レイは一度目をやる。
「じゃあ、その月界ってなんなの?」
「失われたものの《残響》がある場所」
「残響?」
「失われた人や物、場所。現実にはならなかった可能性。そんな、現界にあったものや、ありえたものの痕跡が月界に残る。それが《残響》」
「それって幽霊?」
「そうとも限らないわ。死んだ人の姿や声は残る。その人の記憶も。でも、本当に死んだ本人なのかはわからない」
「本人じゃないかもしれない?」
「ええ」
「でも本人かもしれない?」
「ええ」
腕を組んで、レイはうなった。
「ややこしいな」
「そうね」
「もっとはっきりしてないの?」
「してないわ」
あっさり返されて、思わず笑ってしまう。たった今まで存在も知らなかった場所なのだから、すぐに全部を理解しようとするのが無理な話なのかもしれない。
ただ、1つ気になることがあった。
「じゃあ、俺が港で見た人も?」
女の目がわずかに動く。
「誰?」
「青い髪の女の人。姉さんかもしれない」
返事がない。レイは女の顔を見た。
「姉さんが8年前にいなくなったんだ。顔も最後の日も思い出せない。でも、その人を見たとき姉さんだと思った」
女は何も言わない。
「その人が、月界の残響って可能性もある?」
「あるわ」
「本物の姉さんって可能性は?」
少し間があった。
「それもある」
「どっち?」
「わからないものを、わかったことにはできないでしょう」
しばらく考えて、レイはうなずいた。
「じゃあ、見つけて確かめるしかないな」
女は止めなかった。それより、さっきからずっと気になっていることがある。月蝕の話をしたとき。姉の話をしたとき。ほんの少しずつ、何かを知っているような間があった。
まっすぐに女を見つめて、レイは言った。
「俺のこと、知ってる?」
女が黙る。すぐに間が持たなくなって、レイは足元の猫に視線を落とした。猫は尻尾をゆっくり揺らしながらレイを見上げ、興味なさそうに一瞥してから顔を逸らした。
「知ってるわ」
「どこで?」
「昔」
「昔って?」
「8年前」
レイの表情が変わった。
「8年前?」
「ええ」
「じゃあ、姉さんのことも知ってる?」
すぐには答えが戻らない。それだけで十分だった。
「知ってるんだ」
「知ってる」
気づけば、一歩詰めていた。
「どこにいる?」
「言えない」
「なんで?」
「話せないから」
「8年前に何があったかも?」
「ええ」
レイの口角が下がる。町を出て3日。ようやく8年前を知る人に会えたと思ったら、本人から話せないと言われている。
「理由くらい言ってくれてもよくない?」
「話さない理由を説明するために、話せないと言うことになるわ」
「……なるほど」
「納得した?」
「半分くらい」
「そう」
このまま無理に聞いても、この人は話さないだろう。それくらいはわかった。がしがしと頭をかいて、レイは息を吐く。
「名前は?」
また少し意外そうな顔をされてから、答えが返ってきた。
「緋月」
「緋月?」
口の中で一度繰り返す。
「変わった名前だね。聞いたことない響きだ」
「でしょうね。大昔の言葉だから」
「へえ」
それ以上は気にせず、レイは足元の猫に目を落とした。
「そっちは?」
「猫」
「それは見ればわかる」
「なら聞かなくていいでしょう」
「名前」
「教えない」
「なんで?」
「必要ないから」
猫を見ると、猫もまたレイを見返してくる。
「本人は?」
「猫に聞けば」
「緋月って結構めんどくさいな」
「あなたに言われたくないわ」
そのまま歩き出した緋月の後ろを、猫が当然のようについていく。
「どこ行くの?」
「あなたと逆」
「じゃあ待って」
振り返った緋月が尋ねた。
「なに?」
「さっきの月界ってさ、危ないの?」
「今さら?」
「知らなかったから」
「知ってたら入らなかった?」
少し考えて、レイは答えた。
「姉さんがいるかもしれないなら、たぶん入る」
「でしょうね」
責める口調ではなかった。
「月界では、見えているものを簡単に信用しないこと。道も時間も現界と同じじゃない。長くいれば、自分の記憶と残響の区別まで曖昧になることがある」
「記憶が?」
「ええ」
「それは困るな。姉さんの顔も思い出せないのに、これ以上わからなくなったらさすがにどうしようもなくなる」
「それでも行く?」
「行かないと確かめられないこともあるんだろ?」
「あるわ」
目を丸くして、レイは言った。
「止めないんだ」
「危険だとは言ったわ」
「行くなとは?」
「言っても行くでしょう」
「たぶん」
「なら、知ってから行きなさい」
言い終わらないうちから再び歩き始めた緋月の背中に、レイも同じ歩調で続く。
「どこまでついてくるつもり?」
「とりあえず、月界のこと教えてもらうまで」
「勝手に決めないで」
「俺、このまま1人でまた入口見つけたら、入ると思う」
緋月の足が止まった。振り返った顔に、今度ははっきりと面倒そうな色が出ている。
「それはやめなさい」
「だから教えて」
しばらく沈黙が続いた。やがて緋月は、小さく息を吐く。
「……最低限だけね」
「十分」
「それはわたしが決める」
「はいはい」
黙った緋月に、レイは慌てて付け足した。
「ちゃんと聞くって」
緋月はもう何も言わず、また歩き出す。猫が2人の間をすり抜け、何かを追いかけて先へ行った。
月蝕とは何なのか。月界とはどんな場所なのか。8年前、自分に何が起きたのか。そして、なぜこの人は自分とエリアを知っているのか。
わからないことは町を出たときより増えている。
それでも昨日までとは違った。昨日までは、どこを探せばいいのかさえわからなかった。今は、姉が消えた8年前につながっているらしい場所と、その日を知る人が目の前にいる。
緋月の少し後ろを歩きながら、レイは次に何を聞こうか考えた。
旅に出て3日目。レイは初めて《月界》という世界の存在を知った。




