第一章 青い髪の女
港は荷下ろしの時間で、通りはいつもより少し騒がしい。魚の籠を運ぶ人、船から降りてきた旅人、荷車をよけて走る子ども。潮と魚と焼きたてのパンの匂いが、海風に混じって流れていく。
「レイ! いいところに来たね。焼きたてだよ」
パン屋の店先で、おかみさんが籠を掲げて手を振っていた。通りの向こうからでも声が通る人だ。
「もう買ったよ。ほら」
袋の口を開けて見せると、おかみさんは大げさに肩を落とす。
「なんだい。うちのじゃないのかい」
「おばさんとこのは昨日も買っただろ。今日は向かいの店の」
「あっちの小さいのよりうちのほうが大きいのに」
「大きいのは1人じゃ食いきれないんだって」
「育ち盛りが何言ってんだい。ほら、持っていきな」
返事も待たずに焼きたてのパンが1つ袋の上へ載った。まだ温かい。代金を出そうとした手は、「いいから」の一言で追い払われた。
「ありがと。今度大きいの買うよ」
「約束だよ」
手を振り返して歩き出したところで、今度は桟橋のほうから太い声が飛んでくる。
「おう、レイ! 今朝はいいのが揚がったぞ。あとで寄ってけ」
「晩飯に間に合ったらね!」
17年もこの町で暮らしていると、通りを1本歩くだけであちこちから声がかかる。レイは買い物袋を抱え直して、行き交う人々の流れに混ざった。あとは帰るだけだ。珍しい船でも来ていないか桟橋をのぞいて、混んでいたら遠回りをする。足が勝手に道を選んでいた。
帰り道の途中、背後でガシャン、と大きな音が鳴った。
反射的に振り向く。
「おい、気をつけろって言っただろ!」
「そっちが急に曲がったんだろうが!」
荷車から木箱が落ちたらしい。積み荷をめぐって、男が2人で怒鳴り合っている。足を止める人が増えて、あっという間に人だかりができた。
その向こうで、青い髪が揺れていた。
みんなが騒ぎに気を取られる中、その人だけが背を向けて歩いていく。
目立つ色だった。自分の明るい空色とは違う、夜に近い深い青。それなのに、似た色というだけでどこか親しみを感じる。長い髪が風に流れて、人をよけた拍子に横顔がちらりと見えた。
いつの間にか足が止まっていた。腕の中で袋がずれても直す気にならない。
顔が一致したわけじゃない。比べようにも、比べる顔をレイは覚えていない。髪の流れ方、横顔の線、背筋の伸びた立ち姿。それを見た途端、胸の奥がどくんと鳴った。
声のほうが先に出た。
「……姉さん?」
女の人は振り返らない。
「ちょっと待って!」
届くわけがない。それでも人だかりに飛び込んで、騒ぎを見ようと集まった人の肩をかき分ける。押し返されてくるりと回っても、目だけは青い髪から離さなかった。
女の人が角を曲がる。
「すみません、通ります!」
人だかりを抜けて、同じ角を曲がる。
短い通りが1本。左右に店が並び、先で道が二手に分かれていた。人はたくさんいる。
青い髪だけが、いない。
「……え?」
人だかりさえなければ、走ればすぐに追いつく距離のはずだった。
それなのに、右の道を広場まで駆け抜けても、引き返して反対側へ回っても、青い髪はどこにもない。店先をのぞき、路地の奥まで踏み込んでも見つからなかった。
息が上がっていると気づいたのは足を止めてからだ。速い鼓動だけが、まだ胸の中で空回りしている。
「どうしたんだい。そんなに走って」
果物屋の店先から顔なじみの店主が声をかけてきた。
「今ここ、青い髪の女の人が通らなかった? 長い髪の、背の高い」
「青い髪?」
店主は首をひねって、通りの先を見る。
「さあなあ。さっきの騒ぎで、みんなそっちを見てたからね」
「そっか……」
隣で林檎を選んでいた客も、「青い髪なんて見てたら覚えてるはずだけど」と首を振った。
それ以上は誰に聞いても同じだった。みんなが騒ぎのほうを見ていて、その間にひとりだけ背を向けて歩いていった人のことなど誰も見ていない。
町の音が戻ってくる。呼び込みの声、車輪の音、遠くの船の鐘。
顔は一瞬しか見ていないし、声も聞いていない。なのに「姉さん」と呼んでいた。
エリア。8年前にいなくなった姉。
覚えていることはある。幼かった自分の手を引いて、あちこち遊びに連れて行ってくれたこと。行儀が悪いと叱られたこと。忘れ物を指摘されたこと。転んで膝をすりむいたとき、呆れ顔で手当てしてくれたこと。優しい姉だったが、ただ優しいだけの人じゃなかった。
なのに、顔だけが思い出せない。
8年前、この町で《月蝕》が起きた。レイもその場にいたらしい。「らしい」というのは、全部あとから聞いた話だからだ。レイは無事に保護されて、エリアだけが帰ってこなかった。自分が知っているのはそれだけ。そのときに何を見て、何をしていたのか。どうやって助かったのか。全部が記憶からすっぽり抜け落ちている。
「……顔も覚えてないのにな」
頭をかく。自分でもおかしいと思う。でも、気になるものはどうしようもない。
その日の夕飯は、味がよくわからなかった。魚屋の親父に「いいのが揚がった」と言われていたのに、寄るのを忘れたと気づいたのは皿を空にしてからだ。
ベッドの上で目を閉じ、久しぶりに昔のことを思い出してみた。家の中は浮かぶ。食卓も、窓も、家具も。エリアがそこにいたこともわかる。それなのに、顔だけがピントの合わない絵みたいにぼやけた。
眉間にしわが寄る。しばらく粘ってから、ふっと力を抜いた。
「やっぱ無理か」
枕に頭を沈めて息を吐く。今ちょっと考えたくらいで出てくるなら、この8年のうちにもう出てきているはずだ。
だから、昼間の女の人のほうを思い出すことにした。青い髪、歩き方、横顔。あのときだけは迷いがなかった。
人違いならそれでいい。追いついて顔を見て、違いましたで終わりだ。
でも、もし本当にエリアだったら。
ゆらゆらと揺らしていた脚が、ベッドの端からずるりと落ちた。かかとが床に当たって、ごつ、と鳴る。
思わず脚を引っこめて苦笑いした。そういえばこれも、昔エリアによく注意されていた癖だ。
こういうことは思い出せるのに、肝心の顔だけはやっぱり浮かばない。
今まではどこから調べればいいのかさえわからなかった。ところが今日初めて、手がかりらしいものができた。
「……放っとく理由ないよな」
少しだけ考えてみる。
「うん、探してみるか」
声に出したら、それで決まった。
棚から大きめの鞄を引っぱり出して、着替えに水筒に地図と、思いつくものを片っ端から詰め込んでいく。足りないものがあれば、そのときに買えばいい。
いつもと同じ朝だった。船が入り、店が開き、みんな昨日と同じように働きだす。
「おや、大荷物だね。どこか行くのかい」
通りを歩いていると、洗濯物を干していた近所のおばさんが声をかけてきた。
「ちょっと人を探しに」
「いつ帰ってくるんだい」
「わかんない。行けば何かわかるかなって」
「あんたは本当に、いつもそうだねえ」
呆れた顔をしながら、おばさんは干し魚の包みを鞄の横へ押し込んでくる。
「持っていきな。ちゃんと食べるんだよ」
「ありがと、おばさん」
パン屋の前を通ると、おかみさんが「どこ行くんだい!」と叫び、桟橋のほうでは、昨日の魚屋の親父が大きく手を挙げている。1人ずつ手を振り返していたら、いつもの道が、いつもより少し長く感じた。
町の外へ続く道の前に立つ。これまで何度も通った道だ。今日は、その先まで行く。
振り返ると港が見えた。8年前に月蝕があった町。何を見たのかも覚えていない町。昨日、姉かもしれない人を見た町。
少しのあいだ、目が離せなかった。
「まあ、行けば何かわかるだろ」
小さく言って、鞄のベルトを握り直す。あの人がエリアだという証拠はないし、行き先も決まっていない。
それでも手がかりは1つある。今度は自分の目で確かめに行く。
レイは前を向いて、17年暮らした港町をあとにした。




