第二話「残されたもの」
風が、やけに強かった。
軋む扉を押さえながら、アルフォンスは外を睨んだ。
「……ちっ」
洗濯物が一本、地面に落ちている。
拾い上げ、乱暴に払う。
泥がついた。
しばらく見つめてから、舌打ちを一つ。
どうせ、またやり直しだ。
干し方も、力の加減も、未だに分からない。
何度やっても、同じことの繰り返しだった。
家の中は静まり返っている。
昔は違った。
朝になれば火が入り、湯が沸き、洗濯物が整然と並び、
何もかもが“当たり前”に整っていた。
それが、どれほどの手間だったのか。
考えたこともなかった。
「……くだらん」
誰に向けるでもなく呟く。
分かっている。
今さらだ。
もう、遅い。
訪ねてくる者もいる。
物好きな近隣の者たちだ。
「アルフォンスさん、これ……少しですが」
パンや野菜を差し出してくる。
アルフォンスはそれを一瞥し、吐き捨てる。
「いらん」
「でも……」
「帰れ」
扉を閉める。
外でしばらく立ち尽くす気配。
やがて、足音が遠ざかる。
静寂が戻る。
それでいい。
それでいいはずだった。
夜。
火もつけず、暗闇の中で椅子に座る。
視線の先には、一枚の布。
丁寧に畳まれたそれは、もう使われることはない。
指先がわずかに震える。
「……お前は」
言葉が続かない。
最期の顔が浮かぶ。
穏やかだった。
苦しんでいたはずなのに、そんな素振りは見せなかった。
ただ――
『ありがとう』
その一言だけが、耳に残っている。
「……何がだ」
拳を握る。
「何も、していない」
守れなかった。
気づけなかった。
看病すら、満足にできなかった。
「……騎士だと」
笑えもしない。
「誰も守れん騎士など……」
価値などない。
その時だった。
背後で、何かが揺らいだ。
アルフォンスはゆっくりと振り返る。
そこに、“影”があった。
形は曖昧。
だが、確かに“立っている”。
「……ほう」
目を細める。
驚きは、なかった。
戦場で見てきたものに比べれば、これなどまだ形を持っている。
「幻か。あるいは……」
しばし観察し、鼻で笑う。
「どちらでもいい」
興味はない。
そう言わんばかりに視線を外す。
影は動かない。
ただ、そこにある。
見ている。
測るように。
「……帰れ」
アルフォンスは低く言った。
「ここに用はない」
影は応じない。
沈黙が落ちる。
やがて、アルフォンスは再び口を開いた。
「……助けなど、いらん」
吐き出すように。
「そういう顔をしている」
影の意図を決めつける。
「何もできなかった人間に、今さら何を与えるつもりだ」
答えはない。
それでも言葉は止まらない。
「遅いんだ」
声がわずかに揺れる。
「全部、遅い」
影が、わずかに形を変えた。
アルフォンスの内側をなぞるように。
重く、沈んだ何かを映し出す。
それは、誇りではなかった。
もっと歪んだもの。
縛り付ける鎖のような――自己否定。
翌朝。
アルフォンスは、いつも通り外に出た。
洗濯物を持つ。
風は相変わらず強い。
布を広げ、紐にかける。
手が止まる。
少し考えて、結び方を変える。
ぎこちない。
だが、昨日よりは、ましだった。
「……ふん」
小さく息を吐く。
その時、後ろから声がした。
「アルフォンスさん」
振り返る。
昨日の女だ。手に籠を持っている。
「これ……」
差し出される。
アルフォンスはそれを見て――
一瞬、沈黙した。
いつもなら、拒む。
そう決めていた。
それが、自分への罰だった。
だが。
「……置いていけ」
自分でも、意外な言葉が出た。
女は目を丸くする。
「え……?」
「何度も言わせるな」
そっぽを向く。
しばしの間。
やがて、女は小さく笑った。
「はい」
籠を置き、去っていく。
足音が遠ざかる。
アルフォンスはしばらくその場に立ち尽くし、
やがて籠を手に取った。
軽い。
温もりが、残っている。
家の中。
パンをかじる。
味がする。
当たり前のことに、わずかに眉が動く。
視線が、自然とあの布へ向く。
妻のものだ。
そこにある。
変わらず。
ただ――
胸を締め付ける痛みは、少しだけ、薄れていた。
「……」
しばらく見つめる。
やがて、ぽつりと呟く。
「……すまん」
それ以上の言葉は出ない。
だが、その一言は、これまでとは違っていた。
影は、家の隅に立っていた。
静かに。
ただ観測するように。
アルフォンスはそれに気づいている。
だが、もう追い払おうとはしなかった。
「……お前」
低く呼びかける。
「影、というには……妙だな」
少し考える。
そして、鼻で笑った。
「夜に立つもの、か」
間。
「“夜の番人”とでも呼ぶか」
影は、何も答えない。
だが、その呼称は、確かにそこに残った。
外に出る。
風はまだ強い。
だが、空は少しだけ明るい。
洗濯物が、揺れている。
今度は落ちていない。
アルフォンスはそれを見上げ、わずかに目を細めた。
影は、静かにその場を離れる。
振り返ることはない。
今回の処理は、遅延なく行われた。
歪みは除去され、均衡は保たれた。
それだけのこと。
それ以上でも、それ以下でもない。
――はずだった。
だが。
記録の中に、微細な差異が残る。
呼称。
“夜の番人”。
それは本来、意味を持たないはずの情報。
だが、なぜか削除されずに残っている。
理由は、定義できない。
それでも。
影は、それを保持したまま、闇へと溶けていった。




