表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/12

第一話「見えてしまったもの」

パンの匂いがした。


焼きたての、柔らかい白パン。

貧民街には滅多に流れてこない、幸福の象徴みたいな匂いだった。


ゼアは路地の影に身を潜め、店先を睨んでいた。


客と店主の笑い声。

自分と同じくらいの子どもがパンを受け取り、母親に手を引かれていく。


その光景を見た瞬間、胸の奥に溜まったものが、じわりと滲み出した。


(なんで、あいつらが)


指先に力が入る。


(なんで、俺たちじゃない)


視線を逸らす。考えても仕方がない。

必要なのは理由じゃない。手段だ。


ゼアは息を殺し、タイミングを待つ。


店主が奥を向いた一瞬、身体が勝手に動いた。


――掴む。


――走る。


「待てっ!」


怒号が背後で弾けた。


足音。複数。思ったより速い。


(クソ…っ)


路地を曲がる。さらに曲がる。

だが土地勘のあるはずの足が、焦りで鈍る。


行き止まりだった。


振り返る。男たちが追いつく。


「ガキが……盗みとはいい度胸だな」


息が荒い。逃げ場はない。


ゼアはパンを握りしめたまま、奥歯を噛み締めた。


(……ふざけるな)


頭の中で何かが弾ける。


(なんで、俺たちばっかり)


胸の奥から、黒いものが溢れる。


(あいつら全部――)


その時だった。

背後の壁が、わずかに揺らいだ。


影が、滲む。


そこに“何か”が立っていた。


形は定まらない。

人のようでもあり、獣のようでもあり、ただの歪んだ影にも見える。


それは、ゼアを見ていた。


いや――“測っている”ようだった。


「……なんだよ、それ」


喉が乾く。

だが、目を逸らせない。


逃げ場がないからじゃない。

なぜか、それを“見えてしまっている”からだ。


影はゆっくりと形を変えた。

ゼアの内側にある何かをなぞるように、歪に。


「助けろよ……」


思わず、声が漏れる。


「見えてるんだろ。なら――」


影は答えない。

ただ、わずかに動いた。


次の瞬間、追ってきた男の一人がよろめいた。


「……は?」


手にしていた棒が、ぼとりと落ちる。

男はそれを拾おうとして――動きを止めた。


「なんだ……これ……」


握る力が抜ける。

まるで“持つ意思”そのものが消えたかのように。

残りの男たちがざわつく。

隙が生まれた。


「――っ!」


ゼアはその隙を逃さなかった。

横をすり抜け、全力で駆け出す。


振り返らない。振り返れない。


ただ、走った。



息が切れる頃、ようやく足を止めた。


荒れた小屋の中。

シルが、毛布にくるまって座っていた。


「おかえり……お兄ちゃん」


弱々しい笑顔。


ゼアはパンを差し出す。


「ほら、食え」


「……ありがとう」


シルは小さくかじる。

それだけで、嬉しそうに目を細めた。


ゼアはその様子を見て――なぜか、苛立った。


(これでいいのか?)


こんな少しで満足して。

こんな場所で。

こんな風に。


――その時、気配がした。


振り返る。


そこに、また“影”がいた。

今度ははっきりと、そこにいる。


「……なんなんだよ、お前」


影は、静かにゼアを見ていた。


「さっきの……お前がやったのか?」


答えはない。


だが、ゼアは確信した。


こいつは使える。


こいつがいれば――


「なあ」


笑みが浮かぶ。


「他のやつにも、さっきみたいなのやれよ」


シルが顔を上げる。


「お兄ちゃん……?」


「大丈夫だ」


ゼアは振り向かない。


「全部、良くなるから」


影は、わずかに揺れた。



それから数日。


ゼアの周りから“邪魔なもの”が消えていった。


絡んでくる大人。

奪おうとする連中。

逆らう者。


命が消えるわけではない。


だが、何かが欠ける。


意志か、記憶か、力か。


結果として、誰もゼアに逆らえなくなった。


「……すげえな、お前」


ゼアは笑う。


「もっとやれよ。あいつも気に入らねえんだ」


影は何も言わない。


ただ、そこにいる。


観察するように。





「やめてよ」


 ある日、シルが言った。


 震える声だった。


「最近のお兄ちゃん、変だよ」


「……は?」


「怖いよ……」


ゼアの眉が歪む。


「誰のためにやってると思ってる?」


「そんなこと、頼んでない……!」


その言葉が、胸に刺さる。

苛立ちが膨らむ。


「俺がやらなきゃ、お前は死んでたんだぞ」


「でも……こんなの、違う……」


「何が違うんだよ!」


声が荒くなる。

シルは怯えながらも、目を逸らさなかった。


「お兄ちゃんは、そんなことする人じゃない」


沈黙。


その言葉が、妙に引っかかった。


(……なんだそれ)


じゃあ、俺は何なんだ。

ここまでやってきたのは誰だ。

全部――


(全部、お前のためだろ)


視界の端で、影が揺れる。



夜。


シルが眠っている。

小さな寝息。

弱い体。何もできない存在。

ゼアはそれを見下ろしていた。


(こいつがいるから)


ふと、思考が浮かぶ。


(こいつがいるから、俺は――)


もっと上に行けるはずなのに。


もっと楽に。

もっと自由に。


影が、背後に立つ。

ゼアは、ゆっくりと口を開いた。


「……なあ」


声は静かだった。


「これも、消せるのか?」


影は動かない。


「苦しまずにさ」


視線はシルから外れない。


「楽にしてやれるなら……その方がいいだろ」


言い訳のように。

正当化するように。


「こんな世界で、生きてても――」


その瞬間。


影が、わずかに形を変えた。


ゼアの内側をなぞるように。


歪みを、映すように。


そして。


初めて、明確に“判断”した。



次の瞬間、何かが剥がれ落ちた。


ゼアの中から。


黒く、重く、絡みついていたものが。


「……あ?」


膝が崩れる。

頭の中が静かになる。

さっきまで確かにあったはずの感情が、消えている。


代わりに残ったのは――


「……なんで、俺……」


震える声。

目の前には、眠るシル。

そして、自分の手。


何をしようとしていたのか。

分かる。


分かってしまう。


「……っ」


息が詰まる。

吐き気がこみ上げる。

だが、さっきまでの“衝動”はもうない。

ただ、事実だけが残る。


影は、静かにそれを見ていた。




シルが目を覚ます。


「……お兄ちゃん?」


ゼアは顔を上げる。


「ああ……」


声は震えていた。


「ここにいる」


シルは安心したように笑う。


何も知らないまま。



影は、その場を離れた。


足を止めることなく。

ただ一度だけ、振り返る。

理解できない誤差があった。


本来なら、もっと早く処理されるべき歪み。

それを、観察し続けていた。


理由はない。


少なくとも、定義できない。


それでも――


結果として、均衡は保たれた。

それだけが、事実だった。


影は、再び形を曖昧にしながら、夜に溶けた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ