第一話「見えてしまったもの」
パンの匂いがした。
焼きたての、柔らかい白パン。
貧民街には滅多に流れてこない、幸福の象徴みたいな匂いだった。
ゼアは路地の影に身を潜め、店先を睨んでいた。
客と店主の笑い声。
自分と同じくらいの子どもがパンを受け取り、母親に手を引かれていく。
その光景を見た瞬間、胸の奥に溜まったものが、じわりと滲み出した。
(なんで、あいつらが)
指先に力が入る。
(なんで、俺たちじゃない)
視線を逸らす。考えても仕方がない。
必要なのは理由じゃない。手段だ。
ゼアは息を殺し、タイミングを待つ。
店主が奥を向いた一瞬、身体が勝手に動いた。
――掴む。
――走る。
「待てっ!」
怒号が背後で弾けた。
足音。複数。思ったより速い。
(クソ…っ)
路地を曲がる。さらに曲がる。
だが土地勘のあるはずの足が、焦りで鈍る。
行き止まりだった。
振り返る。男たちが追いつく。
「ガキが……盗みとはいい度胸だな」
息が荒い。逃げ場はない。
ゼアはパンを握りしめたまま、奥歯を噛み締めた。
(……ふざけるな)
頭の中で何かが弾ける。
(なんで、俺たちばっかり)
胸の奥から、黒いものが溢れる。
(あいつら全部――)
その時だった。
背後の壁が、わずかに揺らいだ。
影が、滲む。
そこに“何か”が立っていた。
形は定まらない。
人のようでもあり、獣のようでもあり、ただの歪んだ影にも見える。
それは、ゼアを見ていた。
いや――“測っている”ようだった。
「……なんだよ、それ」
喉が乾く。
だが、目を逸らせない。
逃げ場がないからじゃない。
なぜか、それを“見えてしまっている”からだ。
影はゆっくりと形を変えた。
ゼアの内側にある何かをなぞるように、歪に。
「助けろよ……」
思わず、声が漏れる。
「見えてるんだろ。なら――」
影は答えない。
ただ、わずかに動いた。
次の瞬間、追ってきた男の一人がよろめいた。
「……は?」
手にしていた棒が、ぼとりと落ちる。
男はそれを拾おうとして――動きを止めた。
「なんだ……これ……」
握る力が抜ける。
まるで“持つ意思”そのものが消えたかのように。
残りの男たちがざわつく。
隙が生まれた。
「――っ!」
ゼアはその隙を逃さなかった。
横をすり抜け、全力で駆け出す。
振り返らない。振り返れない。
ただ、走った。
息が切れる頃、ようやく足を止めた。
荒れた小屋の中。
シルが、毛布にくるまって座っていた。
「おかえり……お兄ちゃん」
弱々しい笑顔。
ゼアはパンを差し出す。
「ほら、食え」
「……ありがとう」
シルは小さくかじる。
それだけで、嬉しそうに目を細めた。
ゼアはその様子を見て――なぜか、苛立った。
(これでいいのか?)
こんな少しで満足して。
こんな場所で。
こんな風に。
――その時、気配がした。
振り返る。
そこに、また“影”がいた。
今度ははっきりと、そこにいる。
「……なんなんだよ、お前」
影は、静かにゼアを見ていた。
「さっきの……お前がやったのか?」
答えはない。
だが、ゼアは確信した。
こいつは使える。
こいつがいれば――
「なあ」
笑みが浮かぶ。
「他のやつにも、さっきみたいなのやれよ」
シルが顔を上げる。
「お兄ちゃん……?」
「大丈夫だ」
ゼアは振り向かない。
「全部、良くなるから」
影は、わずかに揺れた。
それから数日。
ゼアの周りから“邪魔なもの”が消えていった。
絡んでくる大人。
奪おうとする連中。
逆らう者。
命が消えるわけではない。
だが、何かが欠ける。
意志か、記憶か、力か。
結果として、誰もゼアに逆らえなくなった。
「……すげえな、お前」
ゼアは笑う。
「もっとやれよ。あいつも気に入らねえんだ」
影は何も言わない。
ただ、そこにいる。
観察するように。
「やめてよ」
ある日、シルが言った。
震える声だった。
「最近のお兄ちゃん、変だよ」
「……は?」
「怖いよ……」
ゼアの眉が歪む。
「誰のためにやってると思ってる?」
「そんなこと、頼んでない……!」
その言葉が、胸に刺さる。
苛立ちが膨らむ。
「俺がやらなきゃ、お前は死んでたんだぞ」
「でも……こんなの、違う……」
「何が違うんだよ!」
声が荒くなる。
シルは怯えながらも、目を逸らさなかった。
「お兄ちゃんは、そんなことする人じゃない」
沈黙。
その言葉が、妙に引っかかった。
(……なんだそれ)
じゃあ、俺は何なんだ。
ここまでやってきたのは誰だ。
全部――
(全部、お前のためだろ)
視界の端で、影が揺れる。
夜。
シルが眠っている。
小さな寝息。
弱い体。何もできない存在。
ゼアはそれを見下ろしていた。
(こいつがいるから)
ふと、思考が浮かぶ。
(こいつがいるから、俺は――)
もっと上に行けるはずなのに。
もっと楽に。
もっと自由に。
影が、背後に立つ。
ゼアは、ゆっくりと口を開いた。
「……なあ」
声は静かだった。
「これも、消せるのか?」
影は動かない。
「苦しまずにさ」
視線はシルから外れない。
「楽にしてやれるなら……その方がいいだろ」
言い訳のように。
正当化するように。
「こんな世界で、生きてても――」
その瞬間。
影が、わずかに形を変えた。
ゼアの内側をなぞるように。
歪みを、映すように。
そして。
初めて、明確に“判断”した。
次の瞬間、何かが剥がれ落ちた。
ゼアの中から。
黒く、重く、絡みついていたものが。
「……あ?」
膝が崩れる。
頭の中が静かになる。
さっきまで確かにあったはずの感情が、消えている。
代わりに残ったのは――
「……なんで、俺……」
震える声。
目の前には、眠るシル。
そして、自分の手。
何をしようとしていたのか。
分かる。
分かってしまう。
「……っ」
息が詰まる。
吐き気がこみ上げる。
だが、さっきまでの“衝動”はもうない。
ただ、事実だけが残る。
影は、静かにそれを見ていた。
シルが目を覚ます。
「……お兄ちゃん?」
ゼアは顔を上げる。
「ああ……」
声は震えていた。
「ここにいる」
シルは安心したように笑う。
何も知らないまま。
影は、その場を離れた。
足を止めることなく。
ただ一度だけ、振り返る。
理解できない誤差があった。
本来なら、もっと早く処理されるべき歪み。
それを、観察し続けていた。
理由はない。
少なくとも、定義できない。
それでも――
結果として、均衡は保たれた。
それだけが、事実だった。
影は、再び形を曖昧にしながら、夜に溶けた。




