30 [過去]トモ 44歳 ITベンチャー社長
「私、初めて後輩に教えました」
影山と久しぶりにふたりでチャーハンを食べていた時だった。
「ほんとに?」
トモは驚く。新田が退職してから1年。開発チームは新しいリーダーのひとりに影山を立てて、トモはなるべく関与し、だがやりすぎない距離感で見守っていた。影山ばかりを気にかけているのではないかとほかのリーダーに言われてからは、逆に声をかけづらくなっていた。みんなに等しく声をかけていたつもりだったが。
だが、影山を心配すること徐々になくなっていた。
「ちゃんと伝わったのかな?」
「分かりやすかったっ……て」
その言葉を口にする影山の声は、誇らしそうで恥ずかしそうだった。
その日はもうひとついいニュースがあった。
経産省から共同プロジェクトの打診が来ていた。
机の上に置かれた封筒には、省庁の紋章が印刷されていた。
全国自治体向け次世代認証基盤構築事業。
共同事業者。
モリガン・エインヘリヤル・システムズ株式会社。
海外大手の合弁でつくられた日本業界最大手だった。
後日、この大型案件の受注を発表した。社員たちが拍手をする。
ガッツポーズをする者もいる。
トモはその景色を楽しんでいた。
起業して、これほどのハレの日はなかった。
その日、トモはプロジェクトのロードマップを見ながら、外注先などに連絡し、気づいたら終電間際になっていた。これほど遅くまで残っていたのは久しぶりだ。なにしろ、これまでは仕事が残っていてもオフィスは定時で上がっていた。
開発室を除くと案の定も影山だけが残っていた。新しいプロジェクト資料を、夢中になって読んでいる。
「相変わらずだね。終電なくなっちゃうよ?」
「もう少しだけ」
「明日でもいいじゃない」
影山は資料から目を離さない。
「楽しみなんです」
「そうなんだ。でも責任も重大だよ」
彼女はようやく顔を上げた。
「日本中の人が使うシステムですよね」
「うん」
「そんなものを書けるなんて、プログラマ冥利に尽きます」
この仕事はみんなをハッピーにしてくれている。
開発室では「モリガンのエンジニアってどんな人なんですかね」と話題になっていた。
会社全体が祭りの前のような空気だった。
※ ※ ※
その後、モリガン社とのキックオフミーティングがあり、業務の按分が確認され、実際のワークに入った。
プロジェクトは順調だった。
影山は相変わらず開発室の一番奥に座っていた。
しかし以前とは違う。困ったことがあると、自分から席を立つ。
レビューも積極的に受けるようになった。
若い社員が質問に来ることも増えた。
「影山さん」
「はい」
「この処理、どう考えればいいですか」
「……えっと」
まだ話すのは得意ではない。
それでも、自分の言葉で説明しようとしている。
トモは、その姿を見るのが好きだった。新田がいた頃なら、考えられなかった光景だ。
ある日の夕方だった。
開発室はほとんど人が帰り、窓ガラスには夜景が映り始めていた。
トモは資料を届けようと思い、影山の席へ向かった。
彼女は画面を見たまま固まっていた。
「影山?」
返事がない。
肩越しに画面を見る。見慣れない請求書の一覧だった。
「どうした?」
彼女はようやく私を見た。
「……しゃち、友田さん」
少し迷うように口を開く。
「これ」
画面を指さす。
「数字が」
「数字?」
「合いません」
トモは椅子を引いて隣に座った。
請求データだった。システム保守費。運用費。障害対応費。
数字が並んでいる。
最初は何も違和感がなかった。
しかし、影山は一つ一つのセルを指で追いながら言った。
「同じ作業です」
「ああ」
「同じサーバです」
「ああ」
「なのに」
彼女は画面をスクロールした。
「請求額だけ」
一桁増えていた。
私は思わず画面に顔を近づける。
「……入力ミス……」
影山は静かに首を横へ振った。
「毎月です」
「え?」
「毎月」
彼女は別のファイルを開いた。
さらに前月。
その前。
半年前。
1年分。
同じ項目だけが、不自然に高い。
「これ……」
「モリガン社から来たデータです」
会社を始めてから、数字だけは何度も見てきた。
これは、単なる入力ミスではない。意図がある数字だった。
「影山さん、とりあえず他の人には言わないで。少し調べてみます」
影山はしばらく答えなかった。
「わかりました。けど、けど……嫌な感じがします」
※ ※ ※
共同事業が始まって三か月が過ぎた。
毎週のように霞が関へ通い、モリガンとの定例会議を重ねる。
仕事そのものは充実していた。技術者として、これ以上ない現場だった。
日本中の自治体が使う認証基盤。
子どもから老人まで、いまより快適に生活ができるはずだ。
採用面接も増えた。
銀行も以前より親切になった。
5年前、融資を断られ続けた頃とはまるで違う。
「友田さん」
影山はラップトップを抱えて私の前に立っていた。
「見てください。」
画面には大量の数字が並んでいた。
「また請求?」
「はい」
「まだ変?」
彼女は頷いた。
「変です」
私は椅子を寄せた。
影山は静かに説明を始める。
「保守対象は234台、でも実際に稼働しているのは198台」
「……」
「毎月、保守費用が請求されています。」
私は数字を見つめた。その差36台に1台あたり年間保守費を掛け算する。
「……21億」
トモは口に出した。だが、影山は首を横に振る。
「それ、1年分です」
トモは家へ帰っても眠れなかった。数字が頭から離れない。
仮にこれは不正だったとして。
自分が黙っていれば、このプロジェクトは何事もなくゴールを迎えられるかもしれない。このようなことは大かけ少なかれ世の中にはあることなのかもしれない。世の中を渡り歩くということは「清濁を呑み合わせる」ことだと言う人間もいる。
この事実は自分と影山しか把握していない。
プロジェクトは順調だ。
このままでいれば、会社は発展する。社員も守れる。
銀行も、取引先も。
……影山も。
「デジタルで社会を少しだけ良くする」
そう言って会社をつくった。
「こんな社会でいいのかっっっっ!!!!」
トモは缶ビールを握りつぶして机を叩いた。
※ ※ ※
トモはそれから誰にも言わず正確な証拠を集める。
請求額の改ざん。
存在しない保守契約。
架空サーバ。
さらに調べると、奇妙な送金先が見つかった。
複数の関連会社を経由して、同じ財団へ流れている。
その財団の理事には、ある国会議員の秘書が名を連ねていた。
こうしたことを調べるためだけに日々の業務が潰されていく。
明らかに表情に出ているようで、社員が近寄らないようになる。
プロジェクトは順調なのに、まるで毎月の資金繰りに苦しんでいる中小企業の社長のように見えたのだろう。
そんな時、眼の前に影山がいた。
「友田さん」
「ああ……」
「チャーハンが食べたいですけど」
「…………ああ、行こうか」
※ ※ ※
夏の終わりだった。
窓の外では蝉の声がまだ残っている。
霞が関はよく晴れていた。
担当者は、丁寧に話を聞いてくれた。
資料にも目を通した。事前に趣旨は話してあった。
資料の入った封筒を渡して、再度説明をする。
それでも45分程度だった。実際のデータをその場で参照するわけではない。
この後、どうなるのかはわからない。
トモは正しいことをした……と、思っている。プロジェクトは停滞するか、あるいはご破算になるかもしれない。
その時、結末は想像がつかなかった。
その答え合わせは秋口になってからだった。
「友田さん!」
ある社員が走ってくる。
「テレビ!」
ロビーのモニターにはニュース速報が流れていた。
『TD&KH社、個人情報漏えいか』
一瞬、意味が分からなかった。
「何だ、これ……」
いつもはほとんど使われていない電話が一斉に鳴りはじめる。
鳴り止まない。
営業が受話器を置く。
「契約先です……」
別の社員が立ち上がる。
「こっちは銀行です!」
社内が一気に騒がしくなる。
トモはニュースを呆然と見つめたまま動けなかった。
「友田さん!」
振り返ると青ざめた顔の影山がいた。
「漏えいしたのはうちじゃありません!」
彼女は震える指でノートパソコンを開く。
「ログです」
画面には深夜三時のアクセス履歴が表示されていた。
「社内の人間じゃありません」
私は画面を見る。
海外経由で複数の踏み台サーバを経由。
一つだけ見覚えのあるIPレンジ。
「モリガン・エインヘリヤル・システムズ」
※ ※ ※
銀行は融資を凍結した。
共同事業は即日解除。
取引先は次々と契約を打ち切った。
ニュースでは「管理体制の甘いベンチャー企業」という言葉だけが繰り返され、トモの話を聞いてくれる人はいなかった。
漏えいは私たちの責任ではない。
そう説明しても、誰も耳を貸さない。
証拠を持って監査機関へ向かっても、「調査中です」と言われるだけだった。
その間にも、会社の信用は音を立てて崩れていった。
最初に辞めたのは営業だった。
家庭がある。子どももいる。私は引き止められなかった。
「すみません」
そう言って頭を下げる彼に、「こちらこそ」と返すしかなかった。
その翌週には経理が辞めた。
月末には開発部の若い社員たちも退職届を出した。みんな泣きそうな顔をしていた。誰も会社を嫌いになったわけではない。ただ、生きていかなければならなかった。
トモは「申し訳ない。次のところで頑張って」とやけに笑顔で送り出すしかなかった。
気付けば、事務所は広すぎた。50人のために借りたフロアに、10人しかいない。
椅子だけが並び、誰も座っていない机が増えていく。
そんな事務所で、影山だけは毎日変わらず出社した。朝早く来て、コードを書き、夜遅くまで残る。
まるで何も変わっていないように。
「影山さん」
「はい?」
「もう転職活動したほうがいいです。いくらかある仕事も、納品したら次はないでしょう」
彼女は画面から目を離さない。
「嫌です」
「君なら引く手あまただ」
「嫌です」
最後の融資を断られた日、トモは会社を畳むことを決めた。
社員の給料だけはきちんと払いたかった。それももう限界に来ている。
「チャーハン食べたいんですけど」
いつからか、それが影山がトモを励ます合図になっていた。すっかり逆転している。
「カニあんかけスペシャルで」
「ああ、いいだろう」
それから、正式に会社を清算した。




