02 ヒメ 17歳 女子高生
アユカワヒメは、歓楽街を少し離れたcafe&BAR〈JOKER〉にいる。
※ ※ ※
都内でも屈指の女子校に通っていた。両親はいない。祖父によると幼い頃に亡くなっている。事故だったという。両親の写真を見せてもらったこともあるが、つらい記憶だからだと祖父はほとんどの記録も記憶も与えてくれなかった。そのぶん、なのかどうかはわからないが、私は大事に育てられたのだと思う。引き取られた頃は笑顔すら見せず、無気力そのものだったというが、正直覚えていない。
私は失語症を患っているのだという。6歳頃に突然なったのだという。発声器官、聴覚などには関係なく、精神的なことに起因しており、それは時間とともに回復するのが一般的だとされていた。しかし、私は10年近く経ったいまでもほとんど言葉を喋ることができない。なにかを発生しようとすると喉が閉まり、苦しくなる感覚があり、ひとつの単語も形づくれなかった。生理学的には喋ることは可能だといわれた。だから喋らないというのは君が生きるために決めたことだろうと祖父は言った。
私は言葉だけでなく、記憶も失っている。両親の事故が関連しているそうだ。
祖父は私を全面的に受け入れ、義務教育中も一切の不便がないよう、学校側と話をつけた。裕福な子弟が通う私立ではあったが、それでもその熱心さは学校側の受け入れ態勢を変えた。祖父の要求はただひとつ。周囲に状況は周知することと、しかしてサポートは最低限、特別扱いはしない、ということだった。
私は両親を失ったが、そのあとは恵まれた人生をいただいている。だけれども、声が治ることはなかった。何かがまだ、ずっと拒んでいるかのようだった。
中学生までは京都にある大きな邸宅で祖父と暮らしていた。とはいっても二人暮らしではない。家の管理をする人が多く住み込んでいたし、なにかしらの仕事で出入りする人が何人もいたし、そのうちの一人が「山科さん」だった。お姉さんからおばさんの間くらいに歳が離れた女性。とても厳しい人で、優しい人だった。山科さんは私が高校生になった時、一緒に東京に来た。
養母のアユカワヒロミは小学三年性の時に亡くなった。三年の付き合いだった。一度も「お母さん」と呼ぶことはできなかった。実際には祖父の妹なので「おばあちゃん」の年齢だった。申し訳なく思っているが、嫌な顔ひとつしなかった。優しかった。病気で亡くなった時にはじめて泣いた。
以来、山科さんは自分にとっては母がわりのような存在。実の母のことは知らないが、母親がわりには恵まれていたのかもしれない。
そんな山科さんから「学校を早退して」というメッセージがスマホにあった。
学校に着いた途端である。「急いで京都に戻らなくてはいけなくなった」
今日は終業式だったから、どちらにしろ帰りは早い。それでも急いで学校の許可をとって下校した。
祖父の体調が悪いのは知っていた。もう一年以上前から床に伏せている。
心配で連絡したいが祖父はメールやチャットなどをやっていない。電話ができない私は遠く離れた人とコミュニケーションがとりにくい。山科さんを通じて近況が伝えられるだけだ。それに、「帰ってくるな。学業を優先しろ」と命じられていた。それが、京都に戻るということは……。
だが、帰宅すると山科さんはおらず、テーブルに山科さんのスマホだけがあった。しばらく家の中を探していたら、トイレから知らない男がズボンのジッパーを閉めながら出てきた。
「お、おお。帰ったか。タイミング悪りぃな」
男はなんでもないように言った。
強盗とはこんなにも余裕な態度なのだろうか、というくらい。
こんな時、私は悲鳴も上げられない、山科さんの安否も問い合わせられない。
もちろん、恐怖が先にきた。
すぐに踵を返して家を飛び出した。
バッグを肩にかけたまま、走る。
どこかで落ち着いたらスマホを取り出して、連絡を取りたい。
友達の誰か、学校の先生、いいえ、違う。
唯一、京都の家でメッセージでの連絡先を知っている弁護士の大山さん。
この状況ではそれがいちばんだ。
追ってこられている気配があるかどうかはわからない。
住宅街に人通りはない。
路地に入ろう。隠れたところでスマホを取り出そう。
しかし、道を折れた途端、ひとりの男性に出くわす。
髭がぼうぼうと生え、初夏だというのにニット帽をかぶっている。
少し匂ったので、それが高架下などにいる人たちのひとりと気づいた。
「やあ、お嬢さん。学校はどうしたんだい?」
なにか芝居がかったような言い方だった。
私は慌てて元の道に戻ってさらに先へ向かった。
驚いたからか呼吸が整わない。
目の前にSUVの車が止まっている。どこかの誰でもいい、事情を説明したい。声が出れば、すぐにでも助けを求めたい。なぜ、なんでこんな時でもダメなの。
すると、車から人が降りてきた。ふたり、だ。アロハシャツだろうか、降りた途端、こちらを見ているのがわかった。私の危機を感じ取ってくれたのかと一瞬思ったが、違う。明らかに私を狙っている目だと直感的に思った。後ろを振り返ると先ほどの路地から、ホームレスの男性が出てきていた。
私の呼吸はさらに乱れる。過呼吸になりかけていた。
もう一度振り向くと、二人組はもう目の前にいた。
「がっ」
私の口から出た音はそれだけ。
腕をつかまれ、車のほうに引き摺られていく。必死で反抗するが、もう片方の腕ももう一人に掴まれた。
痛い、ものすごく力が強い。
「うが!」
暴れると、頭を強く叩かれた。
それで、力が抜けてしまった。
だけど、その時、強い衝撃があって、片腕が解放される。
「うおおおおおおおおおーーーーっ!!」
ものすごい雄叫びがあって、もう片方の腕を掴んでいた手も離れた。
見ると、さっきのホームレスのおじさんが、一人をタックルして抑え込み、もう一人の上に重なって押さえつけていた。
「逃げろぉぉぉぉぉぅぅぅう!」
私はバッグを拾い上げ、もう一度駆け出していた。
そして、すぐ先の狭い道に入る。ここは行き止まりじゃない、数分で広い道に出る。
永遠のような時間をかける。
路地を出ると、通行人がいる。繁華街へと続くこの道は一人二人じゃない人がいる。
少し安心して駆け足はとまったが、焦りから早足はやめられない。
この先に交番がある。
見えた。
交番の前には棒のようなものを持って立っている〈おまわりさん〉がいる。
私はゆっくり、呼吸を整えながら、後ろを振り向く。
あの二人組もホームレスのおじさんの姿も見えなかった。
よかった。
「どうされましたか?」
私の表情や視線から、何事かを感じ取ったのだろう、警官が話しかけてきた。
「あう」
私はスマホを取り出して、
《話せませんので、書いてお伝えします》
と、すぐに呼び出せる定型文を出した。
警察官の人は、交番に入るようにうながした。
交番内にはもう一人の警官がいて、何やら電話をしていた。
「さて、どうしましたか? 学校の帰りですか?」
警察官が聞いてくる。
私はスマホに入力を急いだが、何からどう伝えればよいか迷ってしまった。
家に帰ったら怪しい男が侵入していたので、逃げ出したら車で誘拐されそうになった……という話をいきなりしても大丈夫なのだろうか?
こんなことなら、まず宇治さんに連絡をとったほうがいいのではないだろうか。
そんなことを考えていたら、電話をしていた警官が私と話している警官に何やら耳打ちをした。
「お嬢さん、ちょっと荷物を預かってもいいかな」
え。なぜだろう。私が何も説明していないから逆に怪しまれてしまったのか。
中身を見られるのだろうか。万引き少女だと思われたのか。
とくにへんなものは入っていない。
見せて潔白がわかるのであればかまわないだろう。
こくりと頷く。
「それと、スマホもちょっと貸してもらっていいかな」
それは困る。これから宇治さんに連絡を取りたいし、スマホがないとコミュニケーションがとれない。
いや、いちおう、私は手話ができる。だけど、いきなり会った相手が理解できる可能性というのはかなり低い。だから、スマホは渡せない。
首をふる。
「すこし確認するだけですから、アユカワさん」
なぜそんなにいそぐのか。私の要件が済んでからでもいいだろう。
……アユカワさん?
私の表情筋は凍りついた。
警官と目があう。むこうも何かの変化に気付いたようだ。
パシッ!
瞬間、スマホが奪われる。
私は咄嗟に立ち上がり、パイプ椅子を引き倒しながら交番を出た。
そしてまた走り出す。
しばらく走ってからまた、振り返る。
今度は確実に追われている。
距離は離れているが、警官は確実に私を追っている。
姿が確認できなくなるよう、私は出鱈目に道を折れ、どんどんと繁華街の裏手に入っていく。
店舗が出しているゴミバケツ、通り過ぎるネズミ、振り返らず複雑に道を折れる。
息が上がる。少し、スピードを落として、少しだけ振り返る。
誰の姿も見当たらない。
安心して、視線を戻すと、あの二人組のうちのひとりがいた。
慌てて横の道に入る。
この道がどこに続いているのかもわからない。
「おい!」
「なんだてめぇ!」
という声が聞こえて、振り返ると警官がアロハシャツともめているようだった。
やっぱり警官は私を助けようとしたんだろうか。
しかし、私と目が合うと、警官はいかにも悪そうな男は放っておいて、私を追い始める。
「女はこっちのもんだ!」
さらにアロハシャツがそのあとを追う。
私も走り始める。
もう、いやだ。
どこまで走ればいいのだろう。
汗が、鼓動が、いつまでもつかわからない。
もう、いやだ!
------------------------
「そこで、俺と遭遇したって……ことか」
ジュンはほぼひとりごとのようにして思考をまとめている。
「ジュン!! 早く警察呼ばなきゃ!!」
チアキが言うと、ヒメは勢いよく頭を振って懇願するような目で二人に視線を送る。
「ああ、筆談だからところどころわかっていないんだな」
ジュンはPCから顔をあげてチアキの顔を見る。それから、至極簡単にまとめて事情を話す。
「なんや、その警官怪しすぎるな。カバンが目当てだったということ?」
「フツウに考えたらそうなるな」
「何が入っていたの?」
「教科書やら、学校で使うもの。スマホ、それから生活用品の小物類」
「……わけわからないわね」
「……そうだな。いずれにしてもチンピラと警官は事情を知っていて、ヒメちゃんを狙った。あるいはヒメちゃんが持っているであろうものを」
「ドラマみたいね」
「おい」
「ああ、ごめんなさい。信じてないわけじゃないんだけど、信じられないような話だなって。でもどうすれば? 警察官にバッグを奪われましたって、110番したらええの?」
「おい。……コーヒー、ホット」
「あ、はーい。ヒメちゃんは?」
チアキは言ってみたものの、レモンティーは半分も減っていない。ヒメは首を振った。
「さ、て、と……どうするかな」
ジュンは考え込んだ。話が本当なら、なにかの犯罪に巻き込まれている。しかも、ジュンが殴りつけた警官は本物だったということになる。チンピラと一緒に女子高生を追い回すのが本物のオマワリのわけがないと、あの時、ジュンは「偽警官」と決めつけた。その後の反応もとても職務を執行している公務員とは思えなかった。だが、公権力を無条件で信じてしまうのはジャーナリストとしては危うい。〈本物〉が犯罪にかかわる可能性がないなんて、先入観以外の何ものでもない。
あの警官が本物だったとしたら、また話がややこしくなる……。
ジュンは腕を組んで思考をめぐらす。
山科さんはどこに消えたのか。それともまだ自宅にいて監禁などされているのか。
もし、闇バイトの押し込み強盗事件などがあったなら、すぐに情報が出るだろう。だが、ジュンがもっている情報網では誰もつかんでいない。正式に警察に通報するのでもいいが、情報が少なすぎる。まだ、この娘の証言だけだ。しかも、警察と関わるのを恐れている。被害者本人が届け出てくれなければ、警察は動かせない。近所の通報ということで110番してみてもいい。この娘が虚言癖がある、なんてことも考えられるが、実際、チンピラと、(本物だとしたら)警官に同時に追われているのを俺は見ている。
親類やほかに連絡をとるべき人間がいないか聞いてみる。
しかし、彼女は首をふる。祖父や祖父の関係者で知っている人は何人かいるが、ほとんど連絡をとったことがないので、スマホがないと連絡先がわからない。自分は話せないので電話は使ったことがない、と。
だとしたらできるところからやってみようか。
ジュンはしばらくPCでなにかを入力しては、時折、ヒメに質問をする。
「うーん……」
しばらくして、ジュンのスマホが振動する。
〈その住所に怪しい風体の男たちがふたり入ったのは確認できた。それに、3時間経ったが、出ててこない。まあ、フツーじゃないよな〉
「やれやれ。どうやらこの事件、本当みたいだ」
「え? あんたヒメちゃんのこと疑ってたの? 何よそれ」
「うるさい。お前の〈疑う〉なんて感情的な問題だろ。確証が持てなかっただけだ。それで、調べた」
「何がわかったの?」
チアキとともにヒメもジュンに注目している。
「……わかったのは、何かが起きているということだけだ。山科さんのことは、ごめん。わからない。だが、君の家には何者かがまだ居座っているようだ。これはジャーナリスト仲間に頼んで調べてもらった。君を追っかけていたやつの仲間じゃないかと思う。家にはしばらく戻らないほうがいい」
「ヒメちゃん、心当たりは?」
「ないってさ。なんかあったら言ってるだろ」
「いやいや、ジュンに話せないだけかもしれないじゃん。お姉さんになら言えるよね?」
ヒメは手を合わせて謝罪するような仕草を見せた。
「いいから、お前は仕事してろ」
「いま、やってるやん」
「……」
ジュンはまた少し考えてから、ヒメに向き合う。
言うべきかどうか迷っていたが。
「もうひとつ、わかったことがある。君の祖父、真崎征四郎は昨晩亡くなっているかもしれない」
「ヒッ」
なんともいえない音を出してから、ヒメは固まってしまった。
「やはり、知らなかったか。ただ、ここ数年、病床に伏せていたようだね。まあ高齢でもあるし、不自然なことはないが……ただ、俺が持っている情報がアタリなら、山科さんが〈危篤〉と知らせてきた時にはもう亡くなっていたことになる」
ヒメは口をおさえている。その瞳からひっそりと涙の筋が通っていた。
「すまない。でも、これがこの件に大きく関わっている可能性が高い。あとでお爺さんのことも聞かせて欲しい。といっても、一般には知られていないが、君のお爺さんは有名人なんだ」
昭和時代の裏社会の大物だ。ただし、もう何十年も前にヤクザを引退している。大幹部の引退だったから、それは当時の大ニュースだった。NHKでも報道していた。
真崎は極道時代からやり手のビジネスマンで知られている。その後も表裏を使って巨大な資産を築いたと言われている。それから政治経済のフィクサーとして権力を握っていたと言う。言われているが、ウワサだけが飛び交っていた。業界でも都市伝説のような存在だった。
だが、俺の師匠はそこに首をつっこんだわけだ……。
ジュンは水の入ったグラスを一気に乾かす。
こんな偶然があるだろうか。彼女から祖父の名前を聞いた時、衝撃があった。
「天の配剤」というやつかもしれない。
「山科さんの安否はわからないが、家には帰れない、警察にも行きたくない。さて、これから君はどうする?」
「……」
ヒメは少し怯えたような顔になった。俺の態度から何か変化を感じ取ったのかもしれない。
「もちろん、答えられないことはわかってて聞いた。君の状況で考えれば選択肢があるように思えない」
「……」
つい、口調がキツくなってしまったようだ。しかし、ここで信頼を失うわけにはいかない。
「いやいや、いじわるで言っているわけじゃない。この件が結局よくわからないまま、君とお別れしたらモヤモヤが止まらなくなって、俺は死んでしまうかもしれない」
ぱっと笑顔をつくり直し、空気を弛緩させる。
「……」
「だから、提案だ。君はしばらく俺たちと行動をともにしてもらう。俺が情報を集める時間が欲しいし、2、3日もあれば十分だ。その間だけでも君はここにいたほうが安全だと思う。いや、安心してほしい」
「大丈夫?嘘くさくない?胡散臭くない?」
チアキが口を挟んだ。本当におせっかいだ。
「この店の2階は寝泊まりできる部屋がある」
「そうね、私の部屋よ、わりと広いわ……って、は!?」
「しばらくチアキとともに寝泊まりしてくれ。その間に俺は調べ物をする」
「は!? は!?」
「身の回りのことはチアキがする。できるだけ外には出ないで欲しい。もし何か思い出したことや、気掛かりがあれば、それもチアキを通して俺に知らせてくれ」
「は!? は!?」
「どんなささいなことでも」
「は!? は!?」
その時、ヒメがそっと挙手をした。
そして、筆談をする。
――お化粧室はどこですか?
とてもきれいな字だった。たぶん、彼女は書道を習っている。




