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野良犬協奏曲  作者: 無銘影虎
第二部
29/35

28 [過去] ジュン 38歳 フリージャーナリスト

 師匠と暮らし始めて、3か月が過ぎた。

「暮らし始めた」と言っても、ジュンは師匠の家に住んでいたわけではない。

 師匠は古いアパートに住んでいた。

 ジュンはその隣の安いアパートを借りた。

 ただ、朝になると師匠の部屋へ行き、夜になると帰る。

 そんな生活だった。

 なぜそんなことになったのか。

 ジュンにもよく分からない。

「お前、暇だろ」

「はい」

「じゃあ来い」

 それだけだった。


 朝8時。

 師匠の部屋のドアを開ける。

「遅い」

「8時ですよ」

「記者は7時に起きる。」

「師匠は10時まで寝てましたよ」

「私はいいんだ」

「なんで」

「師匠だから」

「便利ですね、それ」

 師匠は新聞を丸めてジュンの頭を叩いた。

「今日の1面」

「はい」

「30秒」

 ジュンは新聞に目を通す。

 30秒。これも体内時計で正確にわかる。

「覚えました」

「じゃあ言え」

 1面を最初から読み上げる。かなり早口に。

 見出し。本文。写真のキャプション。広告の一部まで。

 師匠は煙草をくわえたまま黙っている。

「終わりました」

「……」

「何ですか」

「こーーわっ! というか気持ち悪い」

「それ、昨日も聞きました」

「今日は特に気持ち悪い」

 師匠はジュンを新聞社へ連れて行った。

 正確には、新聞社の前まで。

「入らないんですか」

「入るわけないだろ」

「なんで」

「出入り禁止だから」

 それから社屋に向かって中指を立てて見せた。

「何したんですか」

「記事を書いた」

「それだけ?」

「余計なことを書いた」

「何を?」

 師匠は煙草を消した。

「広告主の悪口」

「それは駄目でしょう」

「事実だ」

「だから駄目なんですよ」

 師匠は笑った。

「お前、もう記者みたいなこと言うな」


 最初の仕事は、駅前の小さな工場だった。

「何を取材するんですか」

「知らん」

「え?」

「だから行くんだ」

「……」

「わからないから聞く」

 師匠はそう言って、工場の前に立った。

 古い建物だった。

 壁には「従業員募集」の紙が貼ってある。

「何を聞くんですか」

「何でもいい」

「困ります」

「お前、何でもできるんじゃなかったのか」

 ジュンは黙った。

 師匠は笑った。

「ほら」

「……」

「初めて困っただろ」

 そう言って、先に工場へ入っていった。

 取材は難しくなかった。

 社長はよく喋る人だった。

 質問すると、何でも答えてくれる。

 ジュンはメモを取った。

 正確に。

 一言一句。

 2時間後。会社を出る。

「どうでした?」

「つまらん」

「え?」

「お前は何も聞いてない」

「聞きましたよ」

「質問はした。でも、人を見てない」

 ジュンは黙った。

 師匠は歩きながら言った。

「この社長な」

「はい」

「従業員の話をするときだけ、目が死んでた」

「……」

「逆に、借金の話をするときは嬉しそうだった」

 ジュンは記憶を辿る。

 確かに。

 そんな瞬間があった。

 でもジュンは、それを記事になる材料だと思わなかった。

「おぼえとけ、人間の言葉はな……」

 師匠は振り返る。

「喋ってることより、喋ってないことの方に価値がある」

 ジュンは初めて、記事を書くのに苦労した。

 文章を書くこと自体は簡単だった。

 記憶している言葉を並べればいい。

 構成を考える。

 情報を整理する。

 それだけなら、ジュンにとって難しいことではない。

 でも。

 師匠は何度も原稿を突き返した。

「違う」

「どこがですか。事実は全部入っています」

「だからなー」

「……」

「お前の記事には、人間がいない」

 師匠は赤ペンで文章を囲む。

「この人は何を恐れてる?」

「……」

「何を欲しがってる?」

「……」

「何を隠してる?」

 答えられなかった。

 師匠は煙草に火をつける。

「そこを書け」

「わかりません」

「じゃあ聞け」

「ただ聞いても答えませんよ」

「それを考えろ」

「無理です」

 師匠は笑った。

「お前が無理って言ったの、初めて聞いたな」

「だいたい、記事には正確な事実、情報だけがあればいいじゃないですか」

「おー、お前らしいセリフだ。感動するわー」

「バカにしてません?」

「してないよ。ガキはみんなそんなもんだ」

ジュンはあきらかにふてくされていた。

「情報を並べたものには意味はないと?」

「意味はあるさ。ただな、記事を書くときに書いた人間の思想、心情、信念、かならず偏ったものが入り込む。完全なフラットな記事なんてありえない」

「だとしたら、俺のは完璧にフラットじゃないですか?」

「そうかもな。だから何が伝えたいのかもわからん」

「それは読者が考えればいいのでは」

「それ、そこだよ。だったら誰が書いてもいい記事なんだ。お前が書く必要なんてない」

「納得いきません。書き手の考えなんてノイズでしかないと思います」

「そうか? なんでだ?」

「読者が知りたいのは事実だけです」

「じゃあ、取材だけしてコンピュータが書いた方がいいかもな。書けるか知らんけど」

「いずれ書けるようになりますよ、きっと。なるほど、そしたら師匠も失業ですかね」

「いや、私はみんなが興味があることを書くから平気だ」

「なんですか?」

「人が興味があるのは、人間だけだ。動物の研究も、科学の研究も、医薬の研究も、ロボットの開発も、すべての興味の対象は人間だ。人間なんだよ、事件だってな」


 それからの日々は、そんなことの繰り返しだった。

 地方の小さな町へ行った。

 不正をしている会社を追った。

 市議会議員の選挙事務所へ行った。

 原発の反対運動を取材した。

 ホームレスの集まる公園にも行った。

 ジュンはどこへ行っても、すぐに事情を理解した。

 資料を読めばわかる。

 数字を見ればわかる。

 誰が嘘をついているかも、かなりの確率で分かった。

 でも。

 師匠はいつも言った。

「違う」

「何が?」

「分かった気になるな」

「でも」

「人間は数字じゃない」

 その頃のジュンには数字のほうがずっとよかった。


 ある冬の日。

 ジュンたちは地方都市の駅前にいた。

 雪が降っていた。

 師匠はコンビニの軒下で缶ビールを飲んでいる。

「寒いですね」

「記者は寒さを感じない」

「師匠だけですよ」

「うそだ。めっちゃ寒い」

 そう言って急に自分の体を抱きしめる師匠。

 ふと、抱きしめたいと思ってしまった。

 雪が降っている。

 駅前を人が歩いていく。

 みんなそれぞれの目的地へ向かっている。


 あまりの寒さに温まりたいと師匠は言って小汚い居酒屋に入った。

 個人経営の、場末の居酒屋が師匠の好みだった。

「ジュン」

 師匠が呼ぶ。

「はい」

「お前は何でもできる」

「……」

「だから、人間を馬鹿にするな」

 ジュンは師匠を見た。

「してません」

「無意識にしてるんだよ。お前、友達いないだろ?」

「はぁ……」

「自分ができるからって、できない奴を理解したつもりになるな」

 その言葉は、痛かった。

「人間はな」

 師匠は焼酎のお湯割を飲む。もう4杯目だ。

「馬鹿だから面白いんじゃ」

「……」

「失敗するじゃろ?」

「……」

「間違えるじゃろ」

「……」

「嘘もつくじゃろ?」

「……」

「生きてるもんはみんなそうじゃ」

 師匠は笑った。今日はご機嫌なのか、語尾が変わっている。

「お前には、それがまだ分からんのじゃ」


 その夜。

 ジュンは初めて、自分から原稿を書いた。

 誰に頼まれたわけでもない。

 雪の降る駅前で見た、一人の老人についてだった。

 毎日同じ時間に駅へ来る。そのことにある日気づいた。

 誰かを待っている。

 でも、誰も来ない。

 その老人のことを、一日中観察していた。

 尋ねてしまえば真相ははっきりとわかるかもしれない。

 だが、それはそれで終わりだ。勉強して解答するという単純な作業。

 それはこれまでのジュンの延長でしかない。

 だが結局、何日経っても大きな変化は起きなかった。

 ニュースバリューは一切ない。世間ではエッセイというのかもしれない。

 しかし、そこには結論めいたものすら何もない。

 それでもジュンは書いた。見たものすべてを。


 翌朝。

 師匠に渡した。彼女は黙って読んだ。

 いつもなら赤ペンを入れる。

 でも、その日は何も言わなかった。

「どうですか」

 しばらくして。

 師匠は原稿を机に置いた。

「下手くそ」

「……」

「文章も下手」

「……」

「でも」

 師匠は笑った。

「初めて、人間が書けてる」

 ジュンは何も言えなかった。

 その日からだった。

 ジュンは師匠を、本当の意味で「師匠」と呼ぶようになった。


 数年後。

 ジュンはフリーライターとして、少しずつ仕事がとれるようになった。

 師匠は相変わらず酒を飲んでいた。

 記事を読んでは、

「つまらん」

 と笑った。

 それでも、ジュンが書いた記事を誰よりも早く読んでいた。

 ある日。

 師匠は突然、ジュンに言った。

「ジュン」

「はい」

「私が死んだらな」

「縁起でもないですね」

 師匠は煙草を消した。

「世の中を疑え」

「……」

「でも」

 少しだけ笑った。

「人間は信じろ」


 その半年後。

 師匠は、ジュンの前から突然いなくなった。

 連絡が取れなくなった。

 部屋も引き払われていた。

 行方は分からなかった。

 ジュンは何度も捜した。


 結局、見つけたのは新聞記事の中だった。

 〈無職〉の女性が死体で発見されたと。

 会社員でも役員でも経営者でもなければ〈無職〉だ。


 バカバカしい。

 ジュンは新聞を破り捨て、机を叩きまくった。


「世の中を疑え。でも、人間は信じろ」

 たぶん。

 それが、ジュンが師匠からもらった唯一の「宿題」だった。

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