Chapter3 暴食の女
───…。
時計の針の音が聞こえる。揺り篭のように不安定だった意識は少しずつ、浮上し始めた。
今は何時だったか。何をしていたんだったか。必死に思い出そうと考え始めた束の間、明らかな異常を認識する。
噎せ返るような匂いに恐る恐る目蓋を持ち上げる。壁に背を預ける形で、自分が座っていた場所は玄関の廊下のようだ。
そうだ。具合の悪い妹と弟を迎えに行って、布団を敷いて看病を……。シンシアは何処に行った?
次々と湧き上がる疑問に困惑していたものの、とりあえず立ち上がろうと床に手を突いた。その時だった。
ぬるりと、指先が床を滑った。何だろうと片手を目の前に持っていく。
──血だ。誰の? 否、自分のじゃない。何処も怪我をしていない。
じゃあ誰の? 足下を見れば点々と血痕が残っており、傍らには血が付着した包丁が落ちている。
それを視界に入れた途端、一気に血の気が失せていく。
「……晴香? 祐樹……?」
震えた足で立ち上がり、兄弟を探して部屋の中をうろついた。
茶の間、居ない。台所、居ない。お風呂場、居ない。そして、一番向かうのを躊躇った寝室に辿り着く。
恐る恐る中に足を運んだ。其処で漸く、妹と弟を見つける事が出来た。
「あ、…ぁ、……」
敷かれていた布団は赤く染まっていた。横たわっている二人は損傷が酷く、全身が血塗れだった。
胸だけでなく、腕や喉といったあらゆる箇所をめった刺しにした痕跡はとても痛々しく、掠れた声が零れ落ち、ずるずるとへたり込む。
直視出来なくて口許を押さえ、堪え切れずに溢れ出す涙が止まらなかった。蹲って、声を殺して泣いた。
どうして。なんで。本当に何が起きた?
違う。兄弟の具合が少しでもよくなるようにと、縋っただけだ。殺してほしいなんて頼んでいない!
涙で滲んだ視界の先で、白い足が見えた。布団の前に立ち、白い少女は響哉を見下ろしていた。
「どうです? 楽にしてさしあげましたよ?」
一人だけ汚れてすらいない少女は喜色を浮かべながら首を傾げた。
喉を震わし、顔を上げる。手を合わせて嗤う少女は悪魔そのものだった。
「あぁ、あぁあアァッ──!!」
その瞬間、胸の内に湧きあがった悲しみと怒りに満ちた絶叫が室内に轟く。
ふざけるな。ふざけるなッ! 抑えていた感情が爆発し、立ち上がって少女へ手を伸ばす。
身体の内側から黒い粒子が溢れ出す。見開かれた眸は真紅に染まり、全身を影が覆う。
それは紛れも無く、悪霊化の瞬間だった。
好機を逃さずに、少女の足下から無数の白き腕が伸び出し、眼前の悪霊を捕らえた。
「……凄いわね。溜め込んだ分だけ、悪霊としての力が伸び続けていく。嗚呼、極上の食材と言っていいくらい」
掌を頬に添えながら恍惚な表情を浮かべて、シンシアは悦に浸った。
一条響哉に手を出そうとすれば、毎回彼の母親に邪魔をされてきた。けれど、力をつけたお陰で漸く押さえ込めるようになった。
今度こそ誰にも邪魔はさせない。
「殺すのも惜しい。やっぱり生きた侭取り込むべきね」
舌先で唇を舐めて、頂きますと口にする。
白い腕に囚われた悪霊はその侭少女の影の中へ引き摺り込まれ、彼女は自らの腹に取り込んだ。
「ああ、ああ! これで準備は整った! 実は熟し、収穫の時期。全て私が、美味しくいただきましょう!」
家の天井を擦り抜けて、少女は天高く舞い上がる。銀髪は長く伸ばされ、羽化をするように背には結晶の羽根が生えた。
臍を出し、白いニーハイが覗くドレスを靡かせて、生まれ変わるような快感に嬌声をあげる。
少女が指先を天へ掲げる。身体の内側から、体内の悪霊を四方へ放つ。飛び散った悪霊は外を歩く者、家の中にいる者、全てに襲い掛かっていった。
偶々近くにいた人々がパニックを起こして逃げ惑う。追い詰められた人はその場で殺され、摘出された魂は真っ黒に濁り出す。
「シンシアッ!!」
下の方から叫ぶ声がした。下を見下ろせば民家の上にジルベルトが立っていた。
「あら、ジル。遅かったじゃない」
「……響哉は?」
「一条響哉なら、ここにいるわ」
愉悦な笑みを浮かべたシンシアが自身の腹部を摩った。
既に手遅れな状況にギリ、と歯を食い縛る。
「ああ、でも安心して頂戴。殺してはいないの。私が傷ついたら、中の彼が無傷という保証は出来ないけれど」
「テメェ……!」
苛立つ彼に対し、シンシアは楽しそうだ。
「これは、……ひどい」
遅れて到着したリリスが現場を見て言い放つ。雨は止み、悪霊で溢れ返った地上と空に浮かぶ一人の死神。
追いかけてきたアリサが姉の姿に驚いた。
「姉さん、その姿は」
「一条響哉はとても美味だった。お陰で今、お腹が満たされているの。貴方のお陰よ」
「! それじゃあ……」
「ええ、貴方の役目も終わったわ。さようなら、アリサ。私の片割れ」
「……え」
言葉を返す事が出来ずにアリサは口から血を吐いた。
突然伸びた白い腕が形状を変えて鋭利な刃となり、アリサの腹部を貫いていた。
側に居たジルベルトとリリスが驚愕する。
「お、姉……ちゃ」
絞り出した声は弱々しく、虚ろな眸は姉だけを見つめていた。そんな妹を見下ろす姉の視線はとても冷酷なもので。
姉は妹の身体を投げ捨てた。悪霊が埋め尽くす地面に向けて。
「アリサ!」
落下していく身体を捉えたジルベルトが反射的に飛び出す。
手を伸ばして彼女の身体を抱えると、地面にいる悪霊に向けて何発か撃ち込む。
空いた隙間に降り立ち、直ぐに上へと飛んだ。
アリサの霊蝶が傷を癒そうと集う。少しでも安全な建物の上に寝かせ、後は霊蝶に任せる事にした。
「お前……自分の妹まで」
「もう私には必要ないものだから」
容赦なく不要と告げる言葉に銃を握り締めた。
「キミ達双子は、俺にとっていい相棒だったんだけどな!」
銃を構え直し、叫んだ。
どうしてこんな事に。最初からこの姉妹はこんな惨い事を考えていたのか。
裏切られた気持ちを抱きながら、ジルベルトはシンシアに向けて弾丸を撃つ。
誤った道を突き進むというのなら、止めてやるのが筋だ。
響哉と約束した。これ以上被害を増やしてなるものか。
───…
──暗い。狭い。寒い。
気が付けば、肉壁に囲まれたその中心で膝を抱えていた。押し寄せるのはとてつもない無気力感。
心の支えだったものが全て失われた。家族の中でたった一人、取り残されてしまった。思考が停止した響哉は唯、シンシアの腹の内に居た。
もう如何だっていい。何もしたくない。そんな感情ばかりが心の内を支配し、酷く倦怠感を覚えた。
此処には自分以外にも蠢く黒い影が無数に存在した。
彼等は呻き声や、泣き言などを繰り返し、肉壁に群がっている。此処から出たがっているように見えた。
その中で、見覚えのある背中を見つける。レオナルドだ。彼も取り込まれていたのか。
ゆっくりと立ち上がり、近付いてみる。一人の悪霊に語りかけているが、深く拒絶されている様子だった。
「レオナルドさん。その方は、もしや」
「ああ、私の妻さ。可哀想に、彼女に取り込まれて完全に悪霊化してしまったようだ。自我はもう、残ってはおるまい」
声に反応して彼は振り向いた。響哉を視界に入れて「君も取り込まれてしまったか」と、小さく呟きを落とす。
「悪霊化した時間が長かったのだろう。私を見ても夫だと気付かない。冥府に連れていき、魂を浄化しない限りは」
「そう、ですか」
「その様子だと君も悪霊となっているネ」
彼の言う通り、自分はもう人間と呼べる存在じゃないのだろう。
然し肉壁に集う悪霊とは明らかな差異があった。自我が普通にある事、真っ黒な影になっていない事。
自身の足下にある影から生える黒い腕。自分の手足のように動かせて何の違和感もない。
自由に出し入れが可能で、第三の腕として使えそうだ。
「妻の事は一先ず置いといて、だ。ここから出られる方法でも一緒に考えるとしようか」
「……結構です」
「おや、どうして?」
「僕にはもう、帰る場所がありませんから……」
妹も弟も失ったあの家に、戻ったところで虚しいだけだ。
心が完全に折れた。今更どう足掻いたところで、家族は戻ってこない。
安易に頼ってしまったばかりに、招いた結果だ。伯父の事といい、あれから何も変わっていなかった。
「いいや、君には帰る場所がある。そうだろう?」
「えっ……」
「今頃君をここから出そうと必死な人物がいる筈だよ」
その人物に思い当たるのが一人だけ居た。
──ジルベルト。
彼の顔が朧気に浮かんだ。彼はまだ、諦めていないのか。
「僕が榊原綺香の生まれ変わりだから、必死なんじゃないかな」
「それもあるだろうが…、それだけじゃないさ」
レオナルドは静かに笑う。
「今の君と過ごした時間がある。それは決して綺香ちゃんのものじゃない。君自身とジルベルトの思い出だよ。綺香ちゃんに比べれば、短い時間かもしれない。それでも、大事な一時であろう?」
「……ええ。僕にとっては、とても」
彼に出会わなければ、きっと自分は直ぐに悪霊化し、悲惨な結末で終わっていただろう。
家族を奪われて、死神に対して憎いという気持ちもある。だが、新たに得たものがあるのは確かだった。
「恐らくだが、地上は今頃悪霊で溢れ返っているところだろう。この侭だと息子はもちろん、生きている全ての魂も我々と同じく、彼女の餌となってしまうだろう」
「……っ」
「今も尚、力を増している彼女に対して死神二人じゃ厳しいのは明白だ。一刻も早くここから抜け出さなくてはならない」
「でも、僕は……」
もう、立ち上がれない。外は危機的状況だと言うのに、一向に立ち向かう気力が湧いてこない。
響哉の心が既に絶望で塗り潰されているのを、眼前のレオナルドは察していた。
「酷な事を言ってすまない。君がここで大人しくしていても私は責めたりしないヨ。巻き込んでしまったのはこちらだからネ」
哀れむ眼差しに耐えられなくて視線を外す。レオナルドは妻を解放し、身を翻して悪霊が群がる肉壁の方へと向かった。
その背中を見据え、唇を噛み締める。
思えば一度も反撃した事がなかった。
伯父の暴力にも耐え、会社の理不尽な出来事にも我慢して、親の死の悲しみにも耐えた。
今度は悪霊から逃げて、死神に騙されて、利用される。
只管我慢し、耐える方を選択し続けてきた。そして行きついた先が、これだ。
此処で終わるのか。こんな惨めな終わり方でいいのか。
──生きろ。そう願う死神の顔が浮かぶ。
茶色の眸が少しずつ赤く染まり始める。伏せていた顔を上げて悪霊達の背を見つめた。
許せない。人の人生を滅茶苦茶にしたあの女が。今ものうのうと笑っているのかと思うと腸が煮えくり返る。
込み上げる憎悪に反応したのか、湧き上がる霧が身体を包む。右手を前に差し出すと、掌から黒い渦を作り出した。
集まった影は形を作り、鋭いマチェットへ変わる。西洋式の鉈を強く握り締めたなら、響哉は肉壁に向かって歩み出した。
壁に群がっていた悪霊達が一斉に此方を向いた。響哉の進行を妨げないように、ぞろぞろと道をあけていく。
傍らのレオナルドが驚く。彼が武器を手にした事。懇願するように群がっていた悪霊達が、自然と彼の為に道をあけた事に。
肉壁に手を添えると、脈動を感じた。本当に生きているかのようだ。
何とも無防備で、容易く斬れそうだ。刃の先端を壁に向ける。
双眸を細め、覚悟を決めた。これは最初の一撃だ。




