Chapter1 広がる霧
霊蝶や彷徨う亡霊の魂は殆ど味がしない。絶望で味付けされた悪霊の魂の方がとても美味しかった。
たった一度しか味わえぬ極上の食材なら、可能な限り美味しく調理したいでしょう?
足りない。足りない。マダ足リナイ。
欲しいものは溜まっていかず、この身は底の抜けたバケツのようだ。
一時的に欲求を満たす為だけに、女は今日も魂を喰らい続ける。
もっと、もっと上を目指さねば。そうしないと、お父様もお母様も認めてくださらない。
──……
『今日は全体的に霧が濃く、午後から大雨が降るでしょう』
今朝のテレビからは今日の天気予報が流れている。広い地域で雨予報となっていて、天気は荒れるらしい。
「……ごちそうさま」
「晴香、残すなんて珍しいね」
「うん。あんまり入らなくて」
まだおかずが中途半端に残っている。声もあまり元気が無く、心配そうに見つめた。
妹は残り物にラップをして足早に片付けていく。
「今日は天気が荒れそうだから、傘は持っていくんだよ?」
「わかってる」
短い返事と共に、晴香は靴下を履いてランドセルを手元に引き寄せる。
響哉も遅れながら食器を片付けて出勤の準備に入った。
「なんか、いやーな感じだな」
不意に窓の向こうを見つめていたジルベルトが呟きを落とす。
つられるように窓へ近付いて外の様子を窺ってみれば、空はどんよりと薄暗く、雨雲が渦巻いていた。
何時降り出しても可笑しくはない。だが、気になるのはそれだけじゃなかった。
「あの黒い靄みたいなのは?」
「ああ、多分悪霊が出没する霧だ。かなり広い。今日は沢山出てくるかもな」
響哉が指差したのは、空気中に溶け込むような黒い靄だ。街全体を覆うようで、遠くの景色があまり見えない。
以前にも同じようなものを見た事がある。前よりも濃くなっている気がした。
それなのに、外を歩く人達は全く気にした様子もない。いや、そもそもあれが見えていないのか。
悪霊は見えなければ襲われる心配はない。波長が重なりあった時、そこでお互いの存在を視認するのだから。
「今日は霊体化してでもキミの側にいようと思うんだが、どうだろう?」
「僕なら大丈夫だよ。それより、この異常な空気を何とかしてほしい。被害が大きくなる方が困る」
「……わかった」
「うん。それじゃあ行ってくる」
「行ってらっしゃい」
鞄を持ち、テレビを消して響哉達は玄関へ向かっていく。
本当なら無理にでもついて行きたいところだが、彼の頼みを無視する訳にもいかない。
名残惜しそうに彼の背を見つめた後、ジルベルトは深めに息を吐いた。
「──さて」
ゆっくりと立ち上がり、一度霊体化したジルベルトは天井をすり抜ける形でアパートの屋根に上った。
再び受肉して顕現すると、強い風が頬を撫でていく中で瞑目し、耳元に意識を集中させた。
波紋が広がるように周囲の雑音が消える。余計な音は避けて、魂の声だけを拾おうと少しずつ範囲を広げていく。
『……が、子供が、線路に……っ!』
『畜生、こっちにも……! なんなんだ、こいつら!?』
『ママ、あれ、……のが、こっち見てるよ?』
範囲を広げた事で複数の人の声が同時に聞こえた。
憑依による事故か、悪霊に追われた浮遊霊か、霊感のある子供か。
悪霊と接触していそうな声が幾つも聞こえてくる。声は増える一方で止まりはしない。一体何件あるんだ。
「ジルベルト」
唐突に横から話しかけられて、声を聞くのは中断した。
「なんだリリスか」
「なんだとはなんですか。それよりおじさまを見かけませんでした? 昨夜解散してからまだ会ってないんですよねぇ」
「? どっかその辺の様子でも見に行ってるんじゃないか?」
「そうだといいんですけど、中々戻ってこないなーと」
基本的に死神は単独行動だ。霊蝶も同じだろうと勝手に思っていたが、言われてみれば確かに遅いかもしれない。
「全く、どこほっつき歩いてるんだか。まだ徘徊する年でもないだろうに」
「今日は今まで以上に酷い空気ですからね。霊蝶の手だって借りたいですし、悪霊退治のついでに探しません?」
「探す方がついでなんだな」
苦笑混じりに告げて、ポケットから砂時計を取り出す。
それをマスケット銃に持ち替えて床を蹴り上げる。屋根から飛躍し、別の民家の屋根へと飛び移った。
リリスも追う形で飛び移り、複数聞こえた声の場所へと二人は赴いた。
※ ※ ※
「ひどい雨だねぇ……」
水滴が付着する窓の奥には、大荒れの天気が広がっていた。強風で窓ががたがた揺れていて、台風でも来たのかと思う程の雨の量に社内の空気は静まり返っている。
午後の休憩時間中、皆外の様子が気になっている様子だった。
天気予報で予め知っていたとはいえ、これ程酷い天気になるとは正直予想外だ。
「こりゃ一日中降ってそうだなぁ」
「傘じゃ折れちゃうかもね」
帰りの時間までに止んでくれればと願いつつも、治まる気配のない外に溜息が零れ落ちていた。
「あれ、もうすぐ休憩終わるのに皆戻ってくるの遅くない?」
「そういえば……」
空いた席がまだちらほらある。何時もならそろそろ全員揃う頃なのだが、今日はやけに遅い。
周囲の会話につられるように空席を見つめた響哉は、妙な焦りを感じていた。
「ちょっと、様子見てきます」
席を立って、一人で廊下に出る。
静寂な空気が冷ややかで、妙に肌寒かった。背筋に悪寒が走るような嫌な感じだ。
エレベーターのある方角を目指すと、前方には黒い靄が充満しており、視界が悪い。
近くに人の気配がない事が、より響哉の心を焦らせる。会社内での異常事態に走り出した。
到着したエレベーターの前で立ち止まる。上の数字が光っていて、ちゃんと作動しているようだ。
その内片方は自分が居る階に下りて来るようで、少し待ってみた。数分後にエレベーターが到着する音が鳴り響く。
開いた扉からは、一人の男性が苦しそうに胸元を押さえて出てきた。
「あ、あの、大丈夫ですか!?」
「ァ、……ア、」
今にも倒れそうな人を支えようと手を伸ばす。
掠れた音を発し、中年の男は肩先を小刻みに震わしている。
何かを必死で伝えようとしているように見えるが、言葉にはなっていなかった。
そして直ぐに異変に気付いた。男の背中から黒い影が溢れてきている。
彼が悪霊に取り憑かれている状態だと察した響哉は、反射的に支えていた手を離してしまう。
「うわっ……!」
みるみる内に男の身体は黒色に染まっていき、影に呑まれていった。短い悲鳴を上げて彼から距離を取る。
他の部屋からも微かな呻き声が聞こえていた。逃げなくては、と本能が警鐘を鳴らす。
直ぐに引き返して階段から下へ降りた。
自分ではどうしようもないと判断したからだ。早く死神を呼ばないと、会社の人達の命が危ない。
急いで会社から外へ出た。外はまだ雨が降っていて、雨粒が当たって前が見づらい。
僅かに上を見上げると、今朝よりも黒い霧が濃く広がっているのがわかる。雨雲と重なりあったお陰で昼間の外とは思えない程に暗く感じた。
そんな時だった。スマートフォンの振動がポケットから伝わってきたのは。画面を見れば保育園からの着信だ。
「……はい?」
『もしもし、担当の松田です』
「ああ、いつもお世話になっております」
『実はですね、園児達が皆どこか具合が悪そうなので、今保護者の方に連絡して早めに迎えに来てもらっていまして。一条さんも祐樹くんのお迎えは来れそうですか?』
「……っ、わかりました。今行きます」
電話越しに聞こえる先生の声も些か不調に感じた。
皆が体調不良を訴えているそうで、天気も午前中より酷くなってきた事もあって、早めに帰らせると決まったらしい。
一応仕事中ではあるが此方も非常事態真っ只中だ。
会社の人達を放っておく訳にもいかないが、今は何時悪霊に襲われても可笑しくない故に、兄弟を家に帰らせる方を先決とする。
手短に済ませて電話を切ると、ポケットに財布が入っているのを確認して、ずぶ濡れになる前に急いで最寄の駅まで駆け出した。




