Chapter1 白いローブの霊
キミの最後の笑顔が忘れられない。
魂に深く刻まれた光景は、何度も繰り返し再生される。ああ、これは悪夢か。
──綺香。たった一人の、俺の大事な人。
キミが死ぬ必要なんてなかった。隣で笑っていてくれればそれでよかった。
今度こそ、離してやるものか。■■してでも側に置きたい。
キミの為なら、俺は悪霊にだってなるだろう。
───…
今日は小雨が降っていて、ぐずついた天気になるそうだ。傘を持ってきてよかったと、窓から外を覗き込む。
昼休みの職場は社員の疲労がピークに達しているようで、皆ぐったりしている。自社のデバッグ作業が思った以上に長引いているのだ。
このままだと休日出勤になる可能性も高い。また帰れない日が来そうな予感に、以前の妹の叫びが脳裏に反響する。
額を押さえた後、昼食を買いに行こうとオフィスを出た。
「お、休憩か?」
「うん。お昼を買いに……」
何気なく声をかけられたので反射的に返事をしたが、聞き慣れた声に振り返る。
よっ、と軽い挨拶と共に彼は緩く手を挙げた。いつも通りのモッズコートは社内では浮いて見える。
「ちょっと、ジル! なんで会社に…!?」
ジルベルトの姿を捉えて驚愕した。慌てて周囲を見渡すが、幸いにも通行人は居なかった。
「今まではキミの生活を尊重して家で大人しくしていたが、流石にそうも言ってられなくなってきたんでな」
「だからって、まだ就業中だから外で待ってて!」
会社以外の人が中にいるのがバレたら、大問題だ。せめて霊体化して欲しい。
「一条くーん?」
まずい、桃木先輩の声だ。自分を探す声に焦燥感を募らせた。
人が近付いてくる気配をジルベルトも感知したようで、直ぐ様霊体化してくれた。
「あれ、今誰かと話してなかった?」
「あ、はは…気の所為ですよ」
苦笑混じりに笑い、誤魔化そうとする。桃木先輩は不思議そうにしつつも深追いはしてこなかった。
「それより、何か用ですか? 僕これからお昼買いに行くんですけど…」
「そうなの? 引き止めちゃってごめんね。今日って予定あったりする? 仕事が終わったら、何人かで飲みに行く予定なんだけど。一条君もどうかなって」
「飲み会、ですか……」
あまり気乗りはしないが、誘いを毎回断るのも何だか申し訳ない気持ちになる。
何時も保育園で祐樹の迎えと、晩御飯の支度があるからとずっと断り続けていた。
でも今は、死神の誰かがついている。丁度近くにいるジルベルトに頼めば何とかなりそうだ。
「……わかりました。二次会は無理ですけど、少しなら」
「よーし、決定ね! それじゃあ終わったら声かけて。場所はもう決まってるんだ」
それじゃ、と短く告げて彼女はオフィスに戻っていく。姿が見えなくなったところで霊体化していたジルベルトが姿を現した。
「飲み会か。俺も一緒に」
「ジル、悪いんだけど祐樹の迎えを頼んでもいいかな?」
「あ、ハイ」
言い切る前に遮られたジルベルトは大人しく肯いた。
仕事終わりの桃木先輩主催の飲み会では数人が集まった。同僚の佐々木や新人の部下達、上司と先輩数名という割と何時もの面子だ。
「それじゃあ、皆お疲れ様でした! 乾杯!」
ビールなどの飲み物を皆が掲げる。一人を好む身としては、この空気があまり得意じゃなかった。
居酒屋特有の周囲の雑音が煩い。無礼講と称して騒ぐ場所だから仕方ないのかもしれないが。
「あ、一条君がいる。めずらしー」
「お前いっつも来ないのにな」
「はは……」
向かいの先輩方が早速声を掛けてきた。社内で顔を合わせる事は何度かあったが、こうして話す機会は全然なかった為緊張してしまう。
「最近は顔色も良くなったよね。前はもっとやつれてた気がする」
「そう、ですかね」
「これはあれかな? 好きな子でもできたとか」
「え」
冗談だと気付く前にうっかり反応してしまう。一瞬だけ脳裏にジルベルトの顔が浮かんだのは何故だ。
「ありゃ、マジっぽい?」
「いやいや、こいつに彼女とか。絶対童貞だぞ」
童貞という単語が胸に深く突き刺さる。劣等感を刺激するような発言はやめてもらいたい。
見えない矢印を繊細な心から抜こうと胸を押さえた。
「峻ー。同性でもセクハラは成り立つんだよ?」
「うるせぇ」
二人のやり取りを眺めた後、大人しく酒を煽った。
大分久し振りに飲んだ気がする。酒に酔った父親がちらついて暫くの間飲めなかった。
箸でから揚げを摘んで口に含む。周囲の話し声に耳を傾けて、自分は食べる方に集中する事にした。
少し離れたところでドンっとジョッキの底を机上に打ち付ける桃木先輩の姿が見えた。
「最近、体調不良を訴える人も増えたしぃ? 行方不明になったり、死者が出たりぃ…、SNSではうちの会社が呪われてるって言われるしでもううんざりなのよ!」
「一部はニュースにもなりましたからねぇ……」
既に泥酔しているように見えた。相変わらず飲むのが早い人だ。
「確かに、冷房をつけていない筈なのに、妙に寒かったりする日もあったな」
「え、なに? オカルト的なやつなの?」
刀の死神に襲われた日以降、社内で悪霊と出くわす事はなかったが、偶々運が良かっただけなのかもしれない。
ついに、関係のない人達にまで影響が出始めてしまった。これは僕の所為なのだろうか。
もしそうならば、自分は責任を取って退職すべきなのだろうか。
結局一次会は午後十時過ぎまで続いた。二次会に向かう面子を見送り、自分は傘を差して駅に向かう。
まだ終電でもないのに駅には人の気配が殆どなく、不思議には思ったがあまり気にならなかった。
静寂な空気の中、ふと奇妙な物音が聞こえた。音は丁度響哉が向かっている方角から聞こえる。
何かが潰れるような、得体の知れない音の正体が気になり、慎重な足取りで近付いていく。
其処で響哉は足を止める。階段の側に人が立っている。いや、よく見ると白いローブを纏っていて顔がよく見えない。
その人物を視界に入れた途端、無意識に動悸が激しくなる。全身が鉛のように重く、この感覚は前にもあった気がする。酷く寒気を感じた。
ごとりと物が落下する音に視線を下に向ければ、足下に何かが見える。あれは、人の足だ。
足の下から滲む赤黒い液体に目を見開き、自ずと心拍数が上がっていく。脳が理解するのを拒んだ。視界がぐにゃりと曲がり、立っているのもやっとだ。
細い指先が掴んでいるのは人の片腕で、ローブの正面は真っ赤に染まっていた。悲鳴を上げそうになったが、喉元を押さえ、上手く声が出せない事に気付いた。
徐々に視界に色が失われていく。まずい。逃げなくては。
視線は逸らさずに、警戒心を全面に出して響哉は数歩後ずさる。あれに近付いてはいけない。本能がそう叫んでいた。
些か遠回りになるが、別の出口から出てしまおう。動かぬ身体に鞭を打って反対側へ駆け出した。
途中で電光掲示板に目を向けるが、電車はまだ二つ前の駅で止まっているようだ。こういう時に限ってホームに電車はまだ来ない。
通路の電気が点滅してパリン、と硝子が飛び散る音がした。一部の蛍光灯が割れ、破片が通路の床に落ちる。
破片を躱し、階段を駆け上がっていく。出口はもうすぐだった。
「……ッ!」
もう少し、のところで響哉は硬直する。
白いローブの人物が出口に立っていた。完全に先回りされている。
此処を突き抜けさえすれば、逃げ切れる。引き返したところで、また先回りされるかもしれない。
だが、突破するのは無謀過ぎる。ローブの足下から白い腕が何本も生えるのを目視すると、突破は無理だと判断して階段を駆け下りた。
袋の鼠状態だ。逃げても逃げても外へ出られなくては意味がない。体力だけが奪われて、限界もそう遠くない。
どうするべきか、悩んでいたところに突然後ろから伸びてきた腕に首根っこを掴まれた。声をあげる事も出来ず、抵抗しようにもずるずると引き摺られて角を曲がる。
「あ、アリサ?」
「静かにして」
響哉の身体を引いたのはアリサだった。
如何して此処にと尋ねる暇もなく、彼女は通路の角から奥をじっと見据えた。
奥の方で這いずるような、蠢く音が聞こえる。近付いてくる気配に響哉は身を縮めた。
ゆっくりと、滑るようにローブの人物が通りかかる。一度動きが止まり、響哉達が隠れた通路の方を向いた。
緊張感で身動きが取れない。流石に気付かれるのでは。肩を小刻みに震わし、ぎゅっと膝を抱える。
暫くして、また歩き出す音が聞こえた。足音は少しずつ遠ざかっていく。
軈て音は聞こえなくなり、アリサが一息吐いた。
「……もう大丈夫。今の内に電車に乗るわよ」
手を引いて響哉を立たせたアリサはホームまで導こうと歩き出す。その途中で見かけた生々しい死体へ目を向けた。
「貴方もあれに捕まっていたらこうなっていたわね、きっと」
「……」
言葉が出てこなかった。見るだけでも吐き気を催し、視線を外す。白黒だった視界は、何時の間にか元の色を取り戻していた。
「あの死体の魂はここにはなかったわ。どうやらあれに食われたようね」
淡々と、アリサは続けた。ホームに辿り着けば、丁度アナウンスが流れる。
良かった。何とか乗れそうだ。一度会社に引き返す事も考えたが、無事に家に帰れると思い、強張っていた身体も少しは落ち着いた。
数分も経たずにブレーキの音がホームに響き渡る。到着した電車の窓にも他の人の気配は見られなかった。
目の前のドアが開かれ、アリサに振り返ろうとする。
「! 一条響哉、貴方だけ乗りなさい」
え、と声に出すよりも早く背中を強く押された。
前によろけた身体は車内に乗り上がり、振り向いた先ではアリサがナイフを取り出してローブの霊の進行を食い止めていた。
「アリサ!」
彼女の名前を叫んで手を伸ばす。然し目の前のドアは自動で閉められ、ドアの窓を叩いた。
だが次の瞬間、バンッと強く血の色が滲んだ掌が反対側の窓を叩く。霊の足下から伸びた白き腕が、獲物に飛び掛ろうとしていた。
窓に赤色の手形がこびりつく。電車は走り出し、ドアの前でホームに残された二人を見つめる事しか出来ずにいた。
ずるずると崩れ落ちるように座り込む。完全に甘かった。あんなの、一人で勝てる訳がない。悪霊がまだ可愛く見える程だ。
急いで家に戻って、応援を呼ぼう。この侭じゃアリサが危ない。
鞄を握り締めて、降りる駅まで到着するのを待つ。こんなにも一分一秒が長く感じられた日はあっただろうか。




