Chapter9 冬馬
「突然お邪魔してすみませんでした」
「いいのよ。また遊びに来て頂戴。歓迎するわ。ね? とらもそう思うわよね?」
腕に抱えた猫に視線を落とすと、眠そうな猫は小さな欠伸を漏らした。相変わらずな反応に小さく笑ってしまった。
好きな事に夢中で休む事を忘れてしまうとは。部屋に戻ったら少し仮眠をしよう。
皆に続く形で靴を履いて外へ出ようとする。その時、視界の端に映った茶色の写真立ての存在に気付いて足を止めた。
「大家さん。この写真は?」
靴箱の上に飾られている一枚の写真。大家さんを中心に父親らしき中年の男性と、後ろに若い男二人が並んでいる。
その内の一人に見覚えがあるのだ。特徴的なギザ歯があって、フードをしていて。髪の色は違うが、間違いない。刀を持ったあの死神だ。
「ああ、それは家族の写真よ。私の隣がお父さん。そして後ろが息子二人。冬馬と昴。二人とも響哉くんと同じくらいの年だったのよ?」
大家さんが写真立てを手に取り、其々を指差していく。冬馬と呼ばれた男が響哉の知る男と重なった。
「だった、というのは?」
「二人とも、亡くなったのよ。昴は自殺で、冬馬は事故に巻き込まれてね」
「そう、でしたか……」
やっぱり。亡くなっていると聞いて確信する。大家さんの苗字は中村だ。
そうなるとこの死神の名は中村冬馬という事になる。思わぬ形で漸く彼の名前を知る事が出来た。然し、新たな事実に響哉は言葉を失った。
僕は、大家さんの息子を殺してしまった。悪霊化は事故のようなものだが、それでもきっかけは自分で間違いない。
死にたがっていた筈なのに、他者を犠牲にしてまで生き延びている。いざ死が目の前に訪れたら、怯えて逃げてしまっている。
死ぬ事も出来ず、前に進む事も出来ず、両親を失ったあの日から現状を維持して立ち止まった侭だ。結局は少しでも安全で楽な方向へ逃げたがっているに過ぎない。
死神と出会ってから薄々だが、死が救いになるとは思えなくなってきているのだ。死神である彼等は死後も"生き続けている"。人が作った社会からは外れるが、意識はあり、そして動いている。肉体を失っても魂は消滅などしていない。
死神だけでなく、普通の魂もそうなのだとしたら…。死後も苦しみから逃れられないのでは、との仮説が浮かび上がった。
「おーい、響哉?」
中々外に出てこない響哉を心配したのか、ジルベルトが顔を出す。不意に声を掛けられて驚いた響哉はびくりと身体を震わせて反応する。
「あ、今行くよ。それじゃあ、これで」
「ええ」
我に返った響哉は軽く頭を下げて大家さんの家を後にした。背後から玄関の扉が閉まる音がして、一度だけ振り返る。
息子さんの事は何も言えなかった。否、言ったところで困惑させるだけだろう。死神の存在自体があまり知られていないのだから。
※ ※ ※
ふとした時に、無性に孤独を感じる時がある。
独りの孤独というよりは、本来の自分を見失ったかのような孤独だ。それは何でもない時に、唐突に。
心が後ろ向きになっている所為か、どうしようもなく、寂しいのだ。
──酷く、空腹感を覚えた。
それは以前よりも、酷く飢えを感じている。
満たされない。苦しい。
これは夢なのか。横を向いたら、其処に"美味しそうな果実"があった。視界に入れた途端、内側から欲しいと強い欲求が溢れ出すのを感じた。
必死で手を伸ばし、眼前の果実を掴む。やけに感触がリアルだったので、改めて其れをよく見た。
「……ッ!!」
暗闇の中、掴んでいたのは果実ではなく人の腕だ。僕は今、何をしようとしたのだろう。
意識が明瞭になったと共に、隣で眠る妹の手首を掴んでいた自分の手をそっと下ろした。
一瞬だが、自分の右腕が黒く変色して見えた。最早悪霊の腕と言ってもいい。自分が妹に何をしようとしたのかを薄々理解すれば、吐き気を催した。
なんで。どうして。順調だった筈だ。
ジルベルト達のお陰で気持ちも楽になり、少しは心に余裕が出来ていたつもりだった。
それでも駄目なのか。悪霊化が進む原因が自分でもわからなくなってきている。伯父を殺してしまった罪の意識が、そうさせてしまっているのか。
これは、殺された伯父やあのフードの死神の呪いなのか。
人を殺してまで生き延びた者は精々苦しめと言われているかのようだ。
「どうしろって言うんだ……」
恐らく自分が悪霊になるまであまり時間の猶予は残っていない。自分の身体だからこそ、何と無く察した。
寧ろ今の苦しみが無くなるのであれば、この侭悪霊になってしまうのも悪くはないんじゃないかと。そんな愚考すら頭を過ぎっていた。
「あら、起きていたの」
そんな時だった。部屋の入り口に霊体化していたアリサが姿を現したのは。
「明日も早いんじゃないの?」
「…いや、明日は休みなんだ」
「そう」
短く返事を返して、彼女は口を閉ざした。
「アリサは今までどこに行っていたんだ?」
「私はあの怪死事件の犯人探し、といったところかしら」
怪死事件。ここ最近家の近くで不明の死体が発見されているとニュースでもやっていた、あれか。
「その様子だと、見つかってはいなさそうだね」
「ええ。悪霊なら夜の方が活発だと思っていたのだけれど、外れね」
「どんな姿をしているかもわからないのに、見つけられるのか?」
「こればかりは、犯行の決定的瞬間に巡り合うしかないわ。全員で手分けして探しているけど、他の悪霊に阻まれたりする事も多いわね」
僕が寝ている間に、其々動いていたのか。
「貴方は特に心配しなくていいわ。貴方に危害が加えられる時こそ最悪の事態だもの」
「それでも…気にはなるよ」
死神だって無敵じゃない。武器に付いた罪状の宝石が砕け散れば、彼等だって悪霊化する。命がけの戦いと何ら変わらない。
自分が生き延びようとすればする程、周りの人がいなくなっていくようで不安なのだ。何故自分が代わりに死なないのか。そう思う一方で、残される妹と弟の事を思うと踏み止まってしまう。
妹と弟を残して死んだらそれこそ父親と同じだ。母を失った悲しみに耐えられず、後を追うように自殺した父親と。
「一条響哉。貴方はまだ死にたいと願ってる?」
唐突な問い掛けだった。それは何度も問われた内容だ。
「正直に言うと、わからない。色々な事を全部放り投げて、逃げ出したい気持ちは今でもある」
「それはあの兄弟の事かしら?」
視線を眠っている妹へと移された。無言で小さく首肯すれば、彼女は口許に指先を添えて思案する素振りを見せた後、響哉の座る布団の横に腰掛けた。
「貴方は兄弟の為に自分の人生を捧げるのが嫌だと。私とは正反対ね」
「え?」
「だって、私には姉さんしかいないもの。姉さん以外に信用出来る人なんていなかったわ」
彼女の双子の姉であるシンシアを思い浮かべた。そういえばアリサとシンシアはどうして死神になったのか、詳しい事は何も知らない侭だ。
彼女からすれば僕は全く知らない人の筈なのに、ジルベルトと一緒に戦ってくれている。
「貴方は兄弟から離れて、一人で生きていこうとしている。私からすれば、貴方は前向きに見えて少し羨ましいくらい」
横の彼女は口許に笑みを浮かべていた。自分の逃げたい意思が、前向きだと捉えられるなんて思いもしなかった。
人によってこうも違って見えるものなのか。驚きを滲ませた侭彼女を見つめていると、氷のように冷ややかな眸が伏せられた。
「姉さんから離れられないし、離れようとも思わない。貴方を助けるのだって、ジルとベルや姉さんが決めたからよ」
さらりと、平然と語る口調に響哉は数回瞬いた。固まっている響哉に対し、アリサは続けた。
「そんな私が言っても説得力はないんでしょうけど…。一条響哉。兄弟がどうこう、生活がどうのとかは二の次。先ずは貴方がどうしたいかを考えなさい。貴方の人生は貴方だけのもの。そこに世間や他人は要らないわ」
真っ直ぐに向けられた言葉に動揺するが、ある事に気付いた響哉はおずおずと窺うように口を開いた。
「もしかして…、励ましてくれてる?」
彼女なりに気遣ってくれているのではと予想して尋ねてみた。すると隣のアリサは露骨に視線を逸らし始めた。
「さあ、どうかしら? 貴方が弱っているのを利用しようとする言葉かもしれないわよ」
何故そこは素直じゃないのか。でもお陰でほんの少しだけ、気持ちが落ち着いた。
兄弟や生活は一先ず置いといて、自分がどうしたいのかを見つける必要がある。その答えを得た時に、生きたいと心の底から思えるようになるんだろうか。
「ありがとう。少し落ち着いたよ」
「ならいいわ。さっさと寝なさい」
それだけ告げてゆっくりと立ち上がった。淡い光に包まれて再び霊体化する彼女を見送ると、安堵して肩を落とす。
気が抜けると眠気も戻ってきたようで、口許を押さえて欠伸を零した。




