Chapter8 小さな演奏会
家に着いてから保育園まで弟を迎えに行き、小学校から帰ってきた妹の晴香は兄が自分より先に家に居る事に驚いていた。
三時のお八つ用にプリンが冷蔵庫に入っている事を伝えれば、妹は嬉しそうに台所へ駆けていく。
その様子を眺めながら、響哉はスーツの上着を脱いでネクタイに指を掛けた。その時だった。
がりがりと玄関先で何かを削るような音が微かに聞こえる。それと小さな鳴き声だ。
「あ、とらだ!」
祐樹が物音に気付いて玄関へ走っていく。
「家の前に、虎…っ!?」
「ああ、いや、本物の虎じゃなくて……」
驚愕の表情で声を震わすジルベルトの反応からして、リアルな虎を思い描いていそうな気配を感じ取り、一応と訂正を述べる。
興味本位でジルベルトがそっと茶の間から廊下を覗き込む。弟が玄関のノブを引いて扉を開けると、開いた隙間から滑り込むようにしなやかな身体が部屋の中へ入ってきた。
キジトラ模様の茶色い猫が尻尾を立ててごろごろと喉を鳴らしながら廊下を渡っていく。足は真っ直ぐに茶の間の方へ向かっており、ジルベルトの横を堂々と通り抜けた。
茶の間に入った猫は一鳴きすれば迷わずに響哉の背中に擦り寄り、頭から身を擦り付ける。所謂マーキング行為をする猫の頭を上からぽんと撫でた。
「とらって名前の猫なんだよ。ほら、虎模様だろ?」
「ほーん…、近所の野良猫か何かか?」
「ちがうよー! おおやさん家の猫!」
「大家さんって、あの大家さんか」
首を横に振って飼い主の名を告げる晴香の声にジルベルトは以前に会ったおばさんを思い出す。
「随分と響哉に懐いてるみたいだな」
「そう、だね。多分、これが目当てなんじゃないかな?」
そう言って立ち上がった響哉は食器棚の引き出しから鰹節の袋を手にする。
封を切り、新聞紙を広げて鰹節の小さな山を作ると、猫は一直線に新聞紙の許へ向かった。
「なるほど、あざといわね。何処かの誰かさんみたいに」
「えぇー? 一体誰なんでしょうね?」
アリサとリリスが顔を見合わせて笑っている。形だけの笑顔は空気を凍りつかせていた。
横で困ったように苦笑するシンシアには密かに同情しておく。
そうしている間にもあっという間に鰹節を平らげた猫は、上機嫌で戻ってくる。ジルベルトが猫の前に片膝を立てて座り、腕を広げてみせた。
「よーし、お近付きの印にモフらせて……」
スッと、猫はジルベルトを避けて通り抜けてしまう。まるで眼中にないかのようだ。
一直線に響哉の許まで行き、喉を鳴らしながら彼の膝の上に座り込む。その光景にショックを受けたジルベルトは口を開けて瞠目した。
「なん、だと…?」
「ふふ、嫌われたのかしら?」
「あれ、おかしいな。結構誰にでも人懐こいのに」
人懐こい性格と知れば、それが追い討ちとなったようでジルベルトは苦しそうに胸を押さえた。
「猫は気紛れだから、その、今回は偶々かもしれないし…!」
「霊体化してても犬に吠えられた事もあるし、動物にはあまり好かれないのかもな……」
その場で膝を抱えて落ち込む様子に気付いた響哉は慌ててフォローしようとするが、哀愁漂う背中を向けたジルベルトはほんの僅かに顔を上げて呟きを零す。
次の瞬間、家のインターホンの音が室内に鳴り響いた。膝の上に乗った猫を退かせずに動けない響哉の代わりに妹の晴香が玄関へ駆けて行った。
「あ、おおやさんだ」
「あら、晴香ちゃん。こんにちは。うちのとら、ここに来てる?」
「うん。来てるー!」
どうやら迎えが来たらしい。中へ上がる大家さんと顔を合わせれば、大家さんは口許に手を当てて驚いていた。
「あらまぁ、とらったらまた響哉くんの膝に座っちゃって、もう!」
「いえ、お気になさらずに」
すっかり寛いでいる猫に苦笑混じりで笑いつつ、名残惜しいが猫を腕に抱えると大家さんに手渡した。
「そうだ。大家さん」
ふと、思い出したように響哉が呼び止めた。
「大家さんの家に、僕のピアノはまだありますか?」
「ええ、もちろん。今も置いているわ」
「でしたら、これから弾きに行ってもいいですか?」
思わぬ申し出に大家さんは目を丸くさせた。だが、直ぐに快く肯いてくれた。
一階の大家さんの家に揃ってお邪魔すると、茶の間を通り過ぎて奥の部屋に其れはあった。
黒のアップライトピアノ。埃も被っておらず、丁寧に扱われているのが窺える。
「懐かしいな」
あの頃と何も変わらない姿に安心した。小さい時に母親がよくこのピアノで曲を弾いてくれていたっけか。
手前の椅子に腰掛けて、蓋を開ける。白と黒の鍵盤に指を添えて軽く押してみれば、綺麗な高音を奏でた。
「ずっと置いていたけれど、実際に弾くところを見るのは初めてねぇ」
「きょう兄、何ひくの? 晴香、きらきら星がいい!音楽の授業でやってた!」
そういえば何を弾くかは決めていなかった。何と無くジルベルト達の方を見遣ると、視線に気付いたジルベルトが顔を上げる。
「響哉の得意なやつでいいぜ」
「右に同じくよ。私達はただの観客だもの」
好きにして構わないようだ。それなら、と目の前の晴香に目線を落とす。
「それじゃあ…有名なのでいこう。きらきら星は後で一緒に弾こうか」
「うん!」
妹も納得してくれたようで、ピアノの前から少し離れてくれた。
後ろの方から視線を感じる。ゆっくりと深呼吸をした後、意識を指先に集中させた。
繊細に、軽いタッチで鍵盤を叩き始めると、静寂な室内にピアノの音色が鳴り響いていく。クラシックの名曲、ドビュッシーの『月の光』だ。
ブランクがある分弾ける自信はなかったが、指先はきちんと楽譜を覚えていたようだ。
嗚呼、そうだ。この感覚だ。何年も触れていなかったから、危うく弾く楽しさを忘れてしまうところだった。
自分の指が一つの曲を奏でる。そしてそれを聴いてくれる観客がいる。諦めていたピアニストの夢がまたちらついた。
最後の鍵盤を叩き、数分間の演奏を終えた。すると後方から疎らな拍手が聞こえる。
安心して一息吐けば、大家さんはうっとりと目を細めた。
「本当上手ねぇ。生の演奏を聴けるなんて貴重だわ」
「そんな、僕はまだまだです。母さんの方が凄かった」
母のピアノはもっと繊細な音色だった。プロにだってなれただろうに。
「そうか? 響哉にも才能はあると思うぞ」
「え?」
「そうよぉ、響哉くんはもっと自信を持った方がいいわ! コンクールがあったら見に行きたいくらいよ」
二人の励ましに些か照れ臭くなった。自惚れてもいいんだろうか。
「あ、ありがとうございます…」
「きょう兄! はるかも弾きたい!」
「ああ、そうだったね。それじゃあここに座って」
先程まで響哉が座っていた椅子に晴香を座らせた。妹は好きに鍵盤を叩いていたが、きらきら星を弾く為に小さな手を最初の音へ導く。
兄弟の仲睦まじい姿をジルベルトはじっと見据えていた。すると横からリリスが肘で突いてくる。
「才能がある。なんてはっきり言っちゃうんですねぇ」
「事実だろ?」
「まあ、才能は確かにあるんでしょうけど」
「やっぱり一番好きな事をしてる時が、人の魂は輝くってもんだ」
微笑ましそうに眺めるジルベルトに対し、リリスだけは浮かない表情をしていた。




