Chapter7 早退
「ええっ!? 俺らが寝てる間に泥棒でも入ったのか?」
朝になって目が覚めた同僚が、ところどころの荒れた形跡の話に驚いた声をあげている。
それもそうだ。彼は何も知らないのだから。
今朝、皆が出勤して早々騒ぎとなったのは予想通りだ。泊まり込みで作業していた自分達は当然何かあったのか問われたが、作業を中断して眠っていた旨を伝えて知らぬ振りを通した。
壁や床に傷がある程度で、何か盗まれた訳でもない故に、この件は後回しにされるそうだ。
……眠い。とても眠い。寝た気が全くしない。
ジルベルト達は出勤時間前には家に戻っていった。なので通常通りに仕事を始めればいいのだが、中途半端な眠気と昨日の疲れが残っているのか、全く作業に集中出来ないでいる。
可能なら今直ぐ体調不良で早退したいくらいだ。
あの死神との騒動が嘘のような、普段通りの光景だった。死体すら残らない死神の死というのは、誰にも気付いてもらえないものなんだろう。
彼にも家族や、友人などが居た筈。結局名前すらわからなかった。
いや、同情しても仕方ない。彼を葬ってでも、生きる事を選んだだけに過ぎないのだから。
「ここ最近、変な出来事が続いてるよね。怪奇現象?」
「死んだ社員もいるし、行方不明な奴もいるし、この会社呪われてるんじゃないか?」
小声で話す人声が自然と耳に入る。何だかとても申し訳ない気持ちになった。
「一条君、大丈夫? 顔色悪いよ?」
そんな時、横から桃木先輩に声を掛けられた。
「あ、すみません…。会社に泊まったので、寝不足で……」
「泊まりなんて無茶をするからだよ。私からも上司に言うからさ、今日はお昼で上がりなよ」
「え、でも……」
「ほら、前も体調崩してたじゃない。一日くらい確り休んだ方がいいよ絶対」
前、というのは通勤時に倒れた時の事か。あの時はリリスがいなければ無理矢理にでも出社していただろう。それが余計に迷惑になるとわかっていても。
兎に角出社すればいいという訳じゃないのは充分理解した。駄目な時は駄目だと周りに伝えるのも大事だと。
「それじゃあ…お言葉に甘えて」
「うんうん。お大事にね?」
早めに帰れる。それだけで安心して全身から気が抜けてしまいそうだ。
申し訳なさもあるが、折角の好意を無駄にはしたくない。正直今もとても眠くて作業どころではなかった。
桃木先輩が席を離れて上司の机に向かうのを見送る。自分の机上にあるパソコンに向き直ると、下に社内メッセージが届いていた。
同僚の佐々木からだ。開いてみると、昨日の事で改めて詫びと感謝が綴られていた。それと、今度何か奢るとも。
「奢り……」
そういえば、何時だったか晩御飯時にジルベルトがテレビに食いついていた様子を思い出した。
ジャッポーネ回らない寿司…、と呟いていたのは確かだ。
キーボードに指を添える。思い付いた内容をメッセージの返信に綴っていき、送信ボタンを押した。
『奢りなら、回らない寿司でいいよ』
すると少し離れた席から小さな悲鳴が聞こえた。
ちょっとした意地悪だった。回転寿司じゃない方の寿司は値段が高い。
昨夜は下手したら死んでいたかもしれないのだ。これくらいは許されるだろう。
お昼になり其々が席を立ち始めた頃、此方まで来た上司が体調を気遣ってくれた。
早退の件には許可が下り、深めに頭を下げる。皆が弁当や買出しに向かう中、自分一人だけ帰り支度を始めた。
パソコンの電源を落とし、鞄を持って桃木先輩のところへ向かう。一言帰る旨を伝えれば、お大事にと返された。
「お先に失礼します」
短めに社内に告げて、身を翻した。
廊下で擦れ違う人にお疲れと声をかけられる。お疲れ様ですと、手短に返してその横を通りすぎていく。
廊下の窓からは明るい日差しが差し込んでいて、他のビルや電車の線路などを見下ろせた。
まだこんなに明るい中、帰るというのは不思議な感じだ。帰った後はどうしよう。眠いのだから、眠るのが一番なのは確かだ。然し、時間があるなら何か好きな事をしたい欲が胸の内に生まれていた。
好きな事。そういえばジルベルトにピアノを聴かせる約束があったな。
「……?」
今、窓がこつんと鳴った気がした。
気の所為だろうか、そもそも此処は十五階だ。鳥でもぶつからない限り音はならないだろう。
気にしてもしょうがないと判断してその場を離れようとすれば、またこつんと、小石が窓を叩くような音色が聞こえた。
振り向いても窓の先には誰もいない。それでも何回か、同じような音が響くのだ。小石、というよりはノックの音に近いかもしれない。
辺りに人の気配はなく、これは確実に自分に向けられた音だ。だが、悪霊らしき嫌な気配は感じない。
もしかして──。
「ジル……?」
窓に向かって憶測で呟けば、ぴたりと音が止んだ。
一向に姿を現さない様子に不安を覚えたが、それも直ぐに杞憂だとわかる。
「わっ」
「なんだ、バレバレだったとはなぁ!」
突然後ろから抱き締められた。腹部に回された両腕に引かれる形で、背後の男に背中をくっつける。
「忍者よりも容易く忍び込み、響哉を驚かせるつもりでいたんだが」
「忍者、というよりは透明人間に近いんじゃないかな。あと、ここ関係者以外は入っちゃだめだよ」
「突然のマジレスが俺の心に沁みる……!!」
後ろの彼は大袈裟な程に苦悶の顔を浮かべ、傷付いた素振りを見せた。いや、それよりもだ。
「どうしてここに……。夜明け前には家に戻った筈なのに」
「ああ、確かに一度戻ったが、そういや響哉は普段どういう仕事をしてるのか気になってな」
此処が現代の会社かー、なんて呟きながらジルベルトは廊下を一望し始める。
発言からして彼は単独で此処まで戻ってきたようだ。本当に自由な男だと、つくづく思う。
同時に少し羨ましさもあった。朝から夕方までずっと仕事に縛られる事もなく、生活を考えなくていい死神が。
自分も死神になれたら、なんて思いも多少はある。思いはあるが、行動までは出来ない辺り死に対する恐怖は拭えない侭だ。
「そういや響哉、どこに行くんだ? お昼の買出しか?」
まだ昼間なのに鞄を持っている響哉にジルベルトが問い掛けた。
「ううん。具合が悪いからもう帰るんだ」
「なに!? 風邪でも引いたか?」
「風邪じゃないよ。単に寝不足で調子が出なくてね」
「ああ…」
寝不足と聞いてジルベルトも察したようだ。昨夜の出来事を思い返しているのか、それ以上は何も言ってこなかった。
隣に並んでついて来るジルベルトを横目に、エレベーターのボタンを押した。
「他の社員に見つかったらまずいから、霊体化してて欲しいんだけど……」
「ん? そうか。それならしょうがないな」
今でも充分ひやひやしている。昼休みなのだから出歩く社員なんて沢山いる。部外者を連れている事がバレたらどうなるか。
軽い返事と共にジルベルトは光に包まれて一瞬で姿を消した。なんて便利なんだろう。
エレベーターの到着音が鳴る。開いた先には誰も乗っていなくてほっとした。中に入り、一階のボタンを押して閉めた。
「ジル。いる?」
ちゃんと乗っているのか気になって声を掛けてみた。
「いるよ。ここだここ」
此処、と言われても姿が見えないのだからわからないのは当然だ。声だけが聞こえるというのも変な感じがする。
肉声とは違う、頭に直接響くような声は余計に位置が分かり難い。
「ま、俺は乗らなくても直ぐに一階まで行けたけどな」
「それって、瞬間移動みたいなもの?」
「ああ。霊体化してりゃ移動するのに歩く必要もないのさ」
少しして一階に辿り着いた。ドアが開いたので降りようとするも、ふと横のボタンを見れば開ボタンが光っていた。
ああ、そこに立っていたのか。開ボタンを押してくれているのが瞬時に理解出来た。
「そういえば、一緒に帰るのもこれで二度目だね」
会社の入り口を出て駅に向かう中、こうして二人で家路につくのは出会ったばかりの頃以来な気がした。
あの頃は警戒心ばかりだったが、今はもう彼等の存在にも大分慣れた。自分でもそれなりに情を抱いてしまっているのは自覚している。
だからこそ不安に思う。彼等が何時まで此処にいてくれるのかを。ジルベルト達がいなくなった後でも、悪霊とどう関わっていくべきなのか。
またあの苦痛しかない日常に戻るのだと思うと、彼等を引き止めたい欲が生まれる。
「ジルは、あとどれくらいここにいるんだ?」
「明確な日は決まってないな。少なくとも俺はこの地域の怪死事件解決と、響哉の悪霊化の進行が止まるまでは残るつもりだ」
「そっか……」
「ああ、でも──」
ふと足を止めたジルベルトに振り返る。此方を見つめる金色の眸は真っ直ぐに響哉を射抜いた。
「キミにずっと側にいてほしいと言われたら、俺は残るだろうな」
吹き抜ける風が灰色を帯びた銀髪を揺らす。彼の言葉はとても素直で、優しさに満ちていた。
向けられる優しさが気恥ずかしくなり、響哉は目線を逸らした。
「そういうのは、好きな女の子に言いなよ」
そうだ。彼には綺香さんという大事な人がいるじゃないか。彼女を探す為にも、引き止めるのは良くない。
「俺は響哉にしか言わないぞ」
「? それって、どういう…」
言い切る前に、突如身体が浮遊する感覚に襲われた。上を見上げれば直ぐ其処にジルベルトの顔がある。
横向きに抱えられたのだと理解するまで時間が掛かった。
「後方から悪霊の気配がする。さっさと行こうぜ」
「え、え…っ!?」
そう告げるや否や、ジルベルトは響哉を抱えた侭走り出した。同じ体格の男を軽々と持ち上げる身体能力に驚きを隠せないが、それ以上に恥ずかしい。
通行人の目がとてつもなく恥ずかしい。羞恥で顔を覆いたいが、それも侭ならず必死でジルベルトにしがみ付いた。
「せめて駅で降ろしてくれ!!」
精一杯叫んだ。その様子を彼は笑って了承する。その侭駅の中に入ったところで、漸く降ろされるのであった。




