Chapter5 伯父
お経を読み上げる声だけが室内に反響している。忘れもしない父親の葬式の日。
そして忌まわしい人物との出会いの日。数珠を握り締めて、父親の写真を真っ直ぐに見据えた。
頼れる身内がいなくなった恐怖、今後の生活に対する不安。親を失った悲しみ以上に、生きる事への恐怖を抱くようになった。
辛い。怖い。寂しい。寂しい。死にたい。
心に渦巻くのはそんな負の感情ばかりで、ちっとも生きている心地がしなかった。
「子供も小さいし、長男もまだ高校生でしょう? これからどうするのかしら……」
お経が終わった後、後ろの方から両親の知人達の話し声が自然と耳に届いた。
親戚は皆遠くに住んでおり、当日駆けつけた人は其れ程多くはない。
…本当にこれから如何しよう。両親がいない今、住んでいた部屋からは出ていかなくてはならない。先が見えぬ状況に響哉は視線を床に落とした。
「きみが、一条響哉君?」
不意に声をかけられ、顎を持ち上げる。黒いスーツを纏った、父とそう年が変わらなさそうなおじさんが目の前に立っていた。
「私はきみのお父さんの兄でね、きみが小さい時に一度会った事はあるんだが……覚えてないか」
「……伯父、さん?」
「そうだ。もし行くところがないなら、うちに来るといい。一人暮らしで狭いが、それでもよかったら」
行き場のない響哉にとって、それは正に救いの声だった。唯一かけられた温かい言葉に涙が零れ落ちそうになり、シャツの袖で目許を拭い取る。
藁にも縋る想いで肯いてみせた。……思えば是が地獄の始まりだった。過去を変えられるのなら、今直ぐにでもこの時の自分を止めたいくらいに。
車で送られて、辿り着いたのは何処にでもある普通のアパートだ。二階建てとなっており、部屋は上の方らしい。
「あら一条さん」
「ああ、どうも大家さん」
知らないおばさんが階段前で掃き掃除をしていた。このアパートの大家さんのようだ。
「その子達は?」
「うちの甥っ子ですよ。弟夫婦が亡くなったもので、今日からうちで引き取ろうかと」
「あらそうなの。大変ねぇ……」
頬に手を添えながら、心配そうに響哉達を見た。
「こんにちは。お名前聞かせてくれる?」
目の前の大家さんはにこやかに尋ねてくれた。元々の人見知りが表に出てしまい、響哉はつい、視線を外してしまう。
「一条、響哉です……」
「響哉くん。これから宜しくね? 何かあったらすぐに言って頂戴」
「はい…」
大家さんの明るさと、優しくされる事に戸惑いを覚えながらも嬉しさを感じた。
此処ならやっていけそうだと、安心して伯父の後を追うように幼い妹と弟の手を引いて階段を上がっていく。
人生初めての引っ越し。生まれてからずっと育ってきた実家付近の風景とは全く違う、コンクリートの多い街並み。
何もかもが新しく、不安でいっぱいだった。それは妹や弟も同じのようで、繋がった手から微かな震えを感じた。
新しい家に招かれてから数日が経ったある日、早くも問題が起きた。
学校から家に到着し、靴を脱いで持っている鞄を部屋に置こうと廊下を歩いていると、寝室の方から人の気配がした。
「畜生! あいつ、何で貯金がこんなに少ねぇんだッ!」
突如響いた怒声に響哉は寝室前で固まる。襖の向こうからそっと中を覗いてみれば、そこには通帳を手にした叔父の背中があった。
あの優しそうな雰囲気が一変した様子に驚きを隠せない。その場から動く事も出来なかった響哉に追い討ちをかけるような言葉が続いた。
「こんなちっぽけな金の為に餓鬼を引き取った訳じゃねぇってのに!!」
「え……?」
信じられない発言が耳に届いた。僕達に声をかけてきたのは、善意でも何でもなかった。唯の金目当てに過ぎなかったのだ。
今朝、家に来た知らない車で何処に行ったのかと思えば、響哉達が住んでいた家に行って通帳等を漁ってきたのだろう。
頭の中が真っ白になった。裏切られたショックと、今後に対する恐怖心だけが響哉の中に渦巻いた。
響哉の予想通り、あれから自分達は明らかに邪魔者のような扱いへと変わっていった。
幼い祐樹が泣けば、直ぐに黙らせろと言われ、晴香が皿を落とせば怒鳴られた。兄弟からも日に日に笑顔が消えていく。
毎日のように浴びる怒声。仕舞いには手を上げようとするのを見て、それを庇った。
朝、学校へ登校する際に階段を下りた先で大家さんと顔を合わせた。
「まぁ、響哉くん。大丈夫? 頬が少し腫れてるじゃない」
「あ……いえ、大丈夫ですから」
昨夜叩かれた痕がまだ残っていたのに気付いた響哉は、しまったという顔をして痕を隠そうと頬を袖で覆った。
「昨日もね、怒鳴り声が外にまで聞こえてきたわ。何かあったの?」
「……なんでもないんです。すみません。近所迷惑ですよね」
ぎゅ、と鞄を握り締めた後、軽く頭を下げて謝罪を述べると早々に大家さんの横を通り抜けた。合わせる顔がなかったのだ。
学校で授業に出ても内容が全く頭に入って来ず、成績は落ちる一方。担任にまで心配され、響哉は自己嫌悪に悩まされた。
伯父と顔を合わせなくて済む。そう思うだけでも学校はまだマシだと思った。だが、何時の間にかクラスでも孤立するようになり、結局何処にも居場所なんてものはなかった。
その日の夜も、また伯父の機嫌を損ねる事態が起こった。
台所で洗い物をしていた時に、ふと足下に縋りつく気配に視線を落とした。晴香が足を掴んで震えている。すると奥の方から伯父が顔を出した。
「おい晴香ァッ! お前人に物を投げつけてんじゃねぇぞ!」
「おじさんなんかだいっきらいッ! パパと全然違う!!」
「なんだと、この餓鬼…!」
まずい、と反射的に前へ出た。振り上げられた拳が響哉の顔に当たった。鈍い痛みが走る頬を押さえて、響哉は唇を噛み締めた。
「ごめん、なさい」
声を押し殺してすすり泣く妹を一瞥してから、代わりに謝罪する。その謝罪を聞いて沸騰しそうな頭も落ち着いたのか、伯父は忌々しそうに舌打ちして茶の間へ戻っていく。
「きょう兄いぃ…っおうちかえりたい…。ママのところにかえるぅ……!」
ズボンの生地を引っ張って帰りたいと何度も口にする妹を見て、響哉は何も言えなかった。ポケットティッシュで涙を拭ってやり、妹の頭をそっと撫でた。
「もう寝なさい。明日早いから」
「……きょう兄もいっしょがいい」
「うん。これ片付けたらすぐに向かうよ」
そう告げると、妹は小走りで寝室に向かった。それを見送った響哉は再び洗い物の皿を流し始める。
何度、妹と弟を見捨てて此処から逃げようと思った事か。また怒られるかもしれないと思うと、何時までも気が休まらない。
──どうして。何も悪い事をした訳でもないのに、こんな目に遭わないといけないのか。誰かに助けを求めるべきなのか。そう考えて思い浮かんだのは、大家さんだ。
否、これは自分が伯父について行ってしまった結果だ。自分の選択で招いたのだから、他人に頼りづらい。逃げようにも、両親の居ない今、行く当てなど何処にもないのだ。
結局、耐え続けるしかないのか。逃げ場がないと理解すれば、次第に諦めが生まれてくる。
『……響哉。父さんと一緒に、死ぬ気はないか?』
不意に父親の言葉が甦る。こんな事なら断るんじゃなかった。母が亡くなって以降、どん底に落ちていくばかりだ。長男故に、弱音を吐く事も許されない。
ふと、包丁立てに並ぶ刃物を視界に捉えた。良くない思考が一瞬頭を過ぎったが、直ぐにその考えを否定した。




