28 ビバノンノン
「ふわぁ…」
翌朝、エミリアは部屋に日が差し込む前の時分に目覚めた。
エミリア以外に誰もいない部屋の中で、誰かに遠慮する必要もないため大きな欠伸をする。
まだ若干、眠たい目をこすってベッドから起き出すと、前日から用意していた衣服へと着替え始める。
「…よし」
着替えで身体を動かした影響か、多少の眠気がとれた。
櫛を手に取り、手早く髪の毛を梳いていくと、大方の準備は完了する。この後は、裏庭にある井戸で顔を洗うだけだ。
春の草花亭の受付カウンターの奥に、エミリアとマリーの居住スペースがあり、それぞれが一室ずつ使っている。
隣の部屋から物音が微かにすることから、マリーはまだ部屋の中にいるらしい事が分かる。エミリアは部屋を出ると、隣の部屋のドアを小さく開けてマリーへと声を掛ける。
ちょうど起きたばかりなのだろう、まだ寝間着姿でマリーは立っていた。
「お母さん、おはよう」
「おはよう、エミリア。先に顔を洗ってらっしゃい」
「うん、行ってきます」
マリーの部屋のドアを閉めると、裏口から外へと向かう。
裏口のドアノブに手を掛け開けると、そこには見慣れぬ建物が建っていた。
「…何これ」
裏庭の大部分を占めるその建物は、屋根にある換気口らしき部分から、湯気と思しきものがもくもくと上がっている。しかも、何やら変な匂いまでする始末である。
また、その建物に入るためのドアは何故か二つある。
「…ユーキさんか」
昨日までなかったはずの建物が裏庭に建っている。その事実だけで、誰がやったのか分かってしまう程に、勇気の非常識さについては理解している。
洗顔は後回しにし、ひとまず元凶に事情聴取を行うことをエミリアは決めた。
「ユーキさん、起きてください! ユーキさん!」
「……んん?」
勇気はノックの音と彼を呼ぶ高い声で、意識を浮上させられた。
先ほどからしきりにドアは叩かれ、何か急ぎの用事でもあるのかと思わせるくらいだ。
「ふわぁぁぁ」
上体を起こすと、大きく口を開けて欠伸をする。次いで、腕を上にし身体を伸ばす。
「んんっ…」
まだ思考がぼやけており、ノックの音とエミリアの高い声が頭に響く。
勇気はぼんやりした頭でベッドから降りると、何かに蹴躓きバランスを崩した。転ばなかったのは幸いだろう。
「何だ?」
よく見てみると床の上に畳が二畳、更にその上には布団が敷かれており、赤い忍装束を着た忍者がスヤスヤと寝息を立てていた。畳から発せられた、い草の良い香りが部屋に満ちている。
「何で忍者が寝てるんだ…。まぁいいや」
昨夜、勇気とジャンとミーシャの3人で飲んで騒いでいた事を、アルコールが過剰に入ったせいですっかり忘れていた。
それよりも、今はこのノックの音である。頭に響く音と声から早く解放されたい一心で、ドアへと向かう。
ドアノブを捻って開けた先には、やや怒った様な顔をしたエミリアの姿があった。
「ん? エミリアか。おはよう」
「おはよう、じゃありません! こっち来てください!」
「うわっ!?」
勇気がドアを開けると、挨拶も済ませずその腕を引っ張る。
何が何やら分からぬまま部屋から引きずり出され、腕を引かれて階下へ、そして裏口へと到達し、そのドアを開けて裏庭に出る。
するとそこには見慣れぬ建物が建っていた。
「…何だこれ」
昨日まではなかったはずと、寝起きとアルコールでぼんやりした頭で考える。
「ユーキさんが建てたんじゃないんですか?」
「うーん、どうだったか…。てかこの匂い、温泉か?」
「おんせん?」
だんだんと頭がはっきりしてくる。昨夜はジャンとミーシャと酒を飲んで、飲みすぎたのかどうやら二日酔いらしいことが分かった勇気は、魔法の力で体内の有害物質を除去する。
魔法のお陰で思考がクリアになったところで、昨日の出来事を思い返し始める。
「何したんだっけか…」
記憶の底から何とか情報を手繰り寄せようと、うんうん唸りながら腕を組む。そんな勇気を見てエミリアは半ば呆れていると、不意に後ろから声を掛けられた。
「おはようございマス、勇気さん、エミリアさん。ここで何をしてるんデスか?」
「おはようございます」
「ん? 誰だこの忍者……。あ、ジャンか」
「ハハ、非道いデスね」
ジャンは勇気に忘れられてた事は気にもしていない様子で笑ってみせた。勇気は少しの申し訳なさを感じながらジャンに目を向けると、その手に手拭いがあるのを発見した。
「いや、この建物なんだろうなって話をしててな」
「そうなんです。今朝起きてきたら何故かこんな建物が建っていて、勇気さんの仕業かと思ったんですが、何も思い出せないみたいで」
エミリアは半目になって勇気を睨む。エミリアに冷ややかな目で見られている勇気は、居心地が悪そうにしている。
常識的に考えて、夜中に誰にも気付かれずに建物を建てるなんてことは、通常は無理な話なのだ。しかも1日である。そんな事が可能だとしたら、この男しかいない。
そんな2人の様子を見て、ジャンは大きく頷いた。
「その事デスか。確かに、あの建物は勇気さんが建てたものデスよ」
「やっぱり!」
我が意を得たりと言わんばかりにエミリアは勇気に詰め寄り、勇気は謎の建物に追い詰められる形となった。両の手のひらをエミリアに向けて顔の横に挙げ、少しでも顔と顔の距離を離そうと爪先立ちにもなっており、情けない格好をしている。
「何でこんな建物なんか建てたんですか?」
「ええと、それがさっぱり思い出せなくて…」
エミリアの詰問に、遂には顔を背けて視線だけ向ける。
やらかしてしまった恐怖感が、勇気の心をへし折りにかかっている。
そんな勇気を見かねて、ジャンは助け舟を出すことにした。
「その建物はデスね、この宿屋の更なる発展を祈って建てられたんデスよ」
「え? どういうことですか?」
エミリアは勇気から一旦離れると、ジャンに向き直る。一方で、勇気は建物にもたれ掛かって大きく安堵のため息を吐いていた。
「ちょうどいいデス、中に入ってミマショウ」
そう言って、二つあるうちの一つのドアを開けて中に入っていく。エミリアと勇気も、その後に続いていく。
中はややこじんまりとした広さの部屋となっていた。3段の棚が三つ壁に据え付けられており、各棚には編まれた籠が置かれている。
そこは、温泉などで見かける脱衣場そのものだった。その珍しい光景に、エミリアはキョロキョロと観察している。
奥には更にドアが存在しており、ジャンは立ち止まらずにそのドアへと歩いていく。
ジャンがそのドアを開けた拍子に、モワッとした空気と湯気、そして独特の匂いが脱衣場に流れ込んできた。
ジャンはそれに躊躇わず、中に足を踏み入れる。勇気もそれに続き、最後にエミリアが不安な様子で中に入っていった。
「おお、やっぱりこの匂い、温泉か」
「そうデス」
「これは、お風呂…ですか?」
そこには岩で組まれた大きな浴槽があった。お湯は木製の樋からジャバジャバと勢い良く流れ出ており、小さな湯の花がちらほらと浴槽内を泳いでいた。
ジャンが手に持っていた手拭いは、この温泉に浸かるためだったのだと、勇気は理解した。それに、自分が助かる道も。
「はい。これは温泉と言いマシテ、この湯には様々な効能があると言われてイマス」
「効能ですか? それはどんな…」
「温泉にもよるのデスが、代表的なのは筋肉痛や関節痛、うちみ、それに」
「美肌だ」
美肌と聞いたエミリアの肩が、僅かにピクッと動いた。どこの世界の女性も、美容には気を遣うのだろう。この世界でも共通の認識に、勇気は光明を見出した。
「今、なんと…」
勇気はそれは大事な事だからと言わんばかりに、もう一度同じ発言をした。
「美肌だ」
「…それは本当なんですか」
真偽を確かめるべく、真剣な眼差しでジャンへと問うエミリア。
ジャンはそれに優しく頷いてみせる。
「ええ。湯に含まれる成分が肌にも良いと言われてイマスね」
「そうなんですか…」
成分という単語が意味するところはよく分からなかった様だが、肌に良いと聞くや、エミリアは急にソワソワし始めた。
早速温泉に浸かりたいのだろう、分かりやすい反応である。
勇気は、自分が助かるにはこれしかないと判断した。友が準備してくれたこの状況を活かすべく、言い訳を開始する。
「エミリア。俺はな、この宿屋をもっと立派なものにしたいと、そんな思いでこの温泉を掘り、建物を建てたんだ。春の草花亭の料理、温泉、そして人。それらを求めて、人々が集まる様にと」
「ユーキさん…」
つい先ほどまで、当の本人が建てたことを忘れていたとは思えない発言である。しかし、エミリアは美肌に気を取られて気が付かない。
「何の相談もせずに、敷地内に勝手にこんな建物を建てたことは謝る。だけど、みんなのため、宿屋のためを思ってこその行動だと、それを少しでも分かってくれたら俺は嬉しい。春の草花亭のみんなにも温泉に浸かってもらって、日頃の疲れをぜひ癒やしてほしい」
「…分かりました。では私、いえ、私達はユーキさんの思いを無駄にするわけにはいきませんね。早速、温泉に入らせてもらいます」
「外にもう一つドアがあったデショウ? そちらが女性用の浴場になりマス」
「分かりました。ありがとうございます」
そう言うと、エミリアはいそいそと建物を一旦出て行った。
それを見届けると、勇気はジャンへと向かい手を差し出した。
ジャンも手を差し出し、握手を交わした。
「ジャンのお陰で助かった」
「お礼は必要ありマセン。これはお互いのためでもあるのデス」
「と、言うと?」
勇気の質問にジャンは頷いてみせると、温泉を掘るに至った昨夜の経緯等を話し始めた。
酔っ払った勇気とジャンは、地球とこの世界の文化レベルについて話し合っていた。
因みにミーシャは酒瓶を抱えて酔いつぶれている。
「この世界の何が嫌って、気軽に風呂に入れないことなんだよなぁ。いつも濡らした手拭いで拭いたり、水浴びだし、いい加減湯に浸かりたいよ」
「私もこの世界に来たばかりの頃は辟易シマシタ。今ではたまに入れるくらいの財力を得マシタが」
「このブルジョワジーめ! 裏切り者! かくなる上は温泉を掘ってやる!」
「かなり大変デスよ。そんな事本当に出来るんデスか?」
「あれー? そんな口きいていいのかなー? 勇気ぞ? 我、勇気ぞ? 温泉掘るくらいわけないぜ。ちょちょいのちょいだ」
「おお、私も温泉に浸かりたいので、出来るならぜひ掘ってほしいデス!」
「よし、任せな」
こうして勇気は裏庭で温泉を偶然掘り当て、日本に並々ならぬ思いを持つジャン監督の指示の下、温泉施設が建立されることとなった。
要は、単純に温泉に浸かりたい欲望に駆られた地球人のワガママが発端であった。
「非道い話だな」
「ハハハ、まったくデス」
そんな2人のワガママが、この後春の草花亭を名実ともにブルーノの街1番の宿屋と成した、その理由の一つであることは間違いなかった。
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