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寝たきりのはずではありませんでしたか  作者: 九葉(くずは)


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7/10

第7話 あなたが必要なのは、私ではなく世話係です

「もう一度、俺とやり直してほしい」


セドリック様が差し出した手のひらには、あの日、私が返した婚約指輪があった。


六年間、私の薬指にはめられていたもの。


かつては、眺めるだけで幸せな気持ちになれた。


けれど今は、もう誰かの持ち物のように見える。


「お断りいたします」


私が答えると、セドリック様の手が止まった。


「まだ何も話していない」


「復縁のお申し出でしたら、お答えは変わりません」


「なぜだ? 俺は自分が悪かったと認めている」


「認めたからといって、なかったことにはなりません」


「なかったことにしろとは言っていない。これから償うと言っているんだ」


施療院の玄関前には、仕事を終えた人々が行き交っている。


ここで言い争いを続けたくはなかった。


「場所を変えましょう」


私が告げると、近くにいたジュリアン様が一歩だけ前へ出た。


「エマ様。私は同席したほうがよいですか?」


セドリック様が不愉快そうに彼を見る。


私は少し考えてから、首を横に振った。


「いいえ。自分でお話しします」


「分かりました。私は中にいます。何かあれば、受付へ声をかけてください」


ジュリアン様はセドリック様を牽制することも、私へ意見を押しつけることもなく、施療院へ戻っていった。


その背中を見送り、私は前庭の端にある東屋へ向かった。


セドリック様も黙ってついてくる。


向かい合って座るなり、彼は再び指輪を卓上へ置いた。


「婚約を解消する必要などなかった」


「必要があったから、解消いたしました」


「あの夜、俺も感情的になっていた。君が本当に婚約を捨てるとは思わず、書類に署名した」


「伯爵様から止められたそうですね」


セドリック様の顔がこわばる。


父親から、婚約解消を受け入れろと言われたことではない。


今日ここへ来ることを止められたはずだ。


それでも彼は、自分の望みを優先した。


「父上は関係ない。これは俺たち二人の問題だ」


「婚約を解消した時点で、私たち二人の問題ではなくなりました」


「なら、もう一度申し込む」


「お受けしません」


「エマ!」


強い声で名前を呼ばれても、以前のように身体が縮こまることはなかった。


「せめて俺の話を最後まで聞いてくれ」


「聞けば、私の答えを受け入れてくださいますか?」


「ああ」


即答だった。


けれど、信じる気にはなれなかった。


私は黙って、彼の言葉を待った。


「俺は、君がしてくれていたことを何も分かっていなかった」


セドリック様が療養手帳を手にしたのは、ひと月前だ。


毎日の体調を聞き、食事や薬を記録し、医師へ連絡する。


それを数日続けただけで、私が六年間してきたことの大変さに気づいたのだという。


「医師を呼ぶことも、療養先を決めることも、簡単ではなかった。何人もの相手と日程を合わせなければならないし、少し予定が変わるだけで、すべてやり直しになる」


「ええ」


「婚礼準備も同じだったのだろう。仕立屋や招待客へ謝り、日取りを組み直していた。君が何も言わないから、俺は問題なく済んでいると思っていた」


「私が何も言わなかったから、悪いのでしょうか」


「そういう意味ではない!」


彼は慌てて否定した。


「俺が気づかなかったことを謝っているんだ。これからは、君のしてくれることを当然だとは思わない。必ず礼を言う」


「礼を言っていただくために戻るのではありません」


「欲しいものがあれば贈る。仕事を続けたいなら、それも認める」


認める。


その言葉に、胸の奥が冷えた。


「私が働くには、あなたの許可が必要なのですか?」


「結婚するなら、夫婦で話し合うのは当然だろう」


「話し合う前から、ご自分に認める権利があると思っていらっしゃる」


「言葉の選び方を間違えただけだ。君は昔から、細かいところを気にしすぎる」


これが彼の言う、変わった姿なのだろうか。


以前と何も変わっていない。


私が傷ついたと伝えれば、考えすぎだと言う。


私が断れば、感情的だと決めつける。


自分の望む答えが返るまで、私の言葉を答えとして受け取らない。


「私は、君の価値をようやく理解した」


セドリック様は真剣な顔で続けた。


「君は賢く、頼りになる。社交も家のことも安心して任せられる。父上も君を信頼しているし、アーヴェル伯爵家の妻には君が必要だ」


「それだけですか?」


「それだけとは?」


「あなたが今おっしゃったのは、私に任せられる仕事と、伯爵家にとっての利点だけです」


「君が優れた女性だと言っているんだ」


「では、私の好きなものをご存じですか?」


セドリック様が黙り込む。


「好きなもの?」


「食べ物でも、花でも、色でもかまいません」


「君は……派手なものを好まないだろう。菓子も、あまり食べなかった」


「私が好きな菓子は、林檎の焼き菓子です」


六年間、何度も同じ茶会へ出席した。


彼の前で食べたこともある。


けれど彼は一度も気づかなかった。


「好きな花は?」


「白百合ではないのか?」


「それはリリア様がお好きな花です」


第二話で彼が持ってきた花束も、白百合だった。


私の名でリリア様へ贈ろうとしたもの。


「私は赤い薔薇が好きです。幼いころ、母が育てていたから」


「それくらい、これから覚えればいい」


「私は六年間、あなたに覚えてほしいと思っていました」


自分の好みを押しつけたくなくて、声に出せなかった私にも責任はある。


けれど、セドリック様から尋ねられたこともなかった。


彼が知っているのは、私が何をできるのか。


何を任せても耐えられるのか。


私が何を望み、何を喜び、何に傷つくのかではない。


「あなたが必要としているのは、私ではありません」


「違う」


「あなたの生活を整え、予定を管理し、問題が起きれば黙って後始末をする人です」


「そんな言い方をするな」


「私でなければならない理由を、一つもおっしゃらなかったのはあなたです」


セドリック様の唇が震えた。


「俺は君を愛している」


ひと月前なら、その言葉をどれほど待ち望んだだろう。


一度でも言ってもらえれば、また待とうと思ったかもしれない。


けれど今、その言葉は私の心へ届かなかった。


「リリア様は、どうなさるのですか?」


「必要な世話は使用人に任せる。療養手帳だって、専任の者を雇えばいい」


「会いたいと呼ばれたら?」


「具合が悪ければ、様子を見に行く」


「私との約束がある日でも?」


「それは、そのときの状況によるだろう」


やはり変わらない。


「命に関わる状態でなくても、不安だからそばにいてほしいと頼まれたら?」


「病気の人間を一人にはできない」


「では、これからも彼女を優先なさるのですね」


「違う。今後は君にも、きちんと事情を説明する」


「説明を受ければ、私は後回しにされても納得すると思っていらっしゃる」


セドリック様は、答えられなかった。


彼が変えようとしているのは、私への扱いではない。


私が不満を持たないよう、礼を言い、贈り物をすることだけだ。


私に我慢させるという前提は、何も変わっていない。


「お話は終わりです」


私は立ち上がった。


「待て」


「最後まで伺いました。ですから、約束どおり私の答えを受け入れてください」


「本当に、もう俺を愛していないのか?」


かつて愛していた人の、傷ついた顔。


胸のどこかが小さく痛んだ。


それでも、戻りたいとは思わない。


「愛していたから、六年待ちました」


「だったら――」


「六年待ったから、もう終わりにできたのです」


セドリック様の顔から、血の気が引いていく。


「もしかして、あの医師のせいか?」


「ジュリアン様は関係ありません」


「俺との婚約を解消して、すぐに別の男と働き始めた。何もないはずがないだろう」


「仮にジュリアン様と出会っていなかったとしても、あなたとは復縁いたしません」


「そんなはずはない。君はずっと俺を――」


「一人で生きることになったとしても、戻りません」


はっきりと言い切った。


新しい恋があるから、セドリック様を選ばないのではない。


自分の人生を大切にすると決めたから、戻らないのだ。


「指輪は、お持ち帰りください」


私は卓上の婚約指輪を彼の前へ押し戻した。


「いつか別の方へ贈るのでしたら、その方が好きなものをきちんと尋ねてください」


「別の方などいない。リリアだって、俺にとっては妹のような――」


「妹?」


背後から、震える声がした。


振り返ると、東屋の入口にリリア様が立っていた。


急いで来たのか、浅い呼吸を繰り返している。


その視線は、私ではなくセドリック様へ向けられていた。


「リリア、どうしてここに」


「あなたが婚約指輪を持ってエマ様のところへ行ったと聞いたの」


「今日は診察の日ではないだろう。身体に障る」


「そんなことは、どうでもいいわ」


リリア様の目から、涙がこぼれた。


「私のために何度も婚礼を延期して、夜もずっとそばにいてくれたでしょう?」


「それは君が病気だったからだ」


「私が会いたいと言えば、いつだって来てくれた」


「幼馴染として心配するのは当然だ」


「私は、当然だと思っていなかった!」


リリア様の声が、前庭に響いた。


「あなたが私を選んでくれているのだと思っていたのよ」


セドリック様は何も言えない。


私との約束を捨てるたび、リリア様はそれを愛情だと受け取った。


セドリック様は彼女の期待を知ろうともせず、必要とされる心地よさだけを受け取っていた。


二人とも、自分にとって都合のよい意味へ解釈し続けたのだ。


リリア様は、彼の手元にある婚約指輪を見た。


「エマ様と結婚するつもりなら、私は何だったの?」


彼女の問いに、セドリック様は答えられなかった。

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― 新着の感想 ―
AI利用はいいけど、チェックされていますか? 白百合の話のところで、「第二話でも」との記述があるのは、どうなんでしょう?
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