第6話 今さら、婚約を戻したいそうです
婚約を解消してから、ひと月が過ぎた。
その日は、新しい療養棟が初めて患者を受け入れる日だった。
朝一番に三台の馬車が到着し、それぞれの患者が付き添いとともに部屋へ案内されていく。
診察の順番。
厨房へ伝える食事。
家族への手紙。
薬の受け取り。
帰りの馬車。
すべて、私が作った療養手帳と確認表に記されている。
「エマ様、二号室の方のお食事について確認を」
「厨房用の用紙に変更が書いてあります。念のため、ご本人にも確認してください」
「三号室の薬は、どちらへ?」
「診察が終わるまで保管庫です。受け取った方のお名前を、こちらにお願いします」
次々に声をかけられ、私は一つずつ答えていった。
以前の私なら、すべて自分で抱え込もうとしただろう。
間違いが起きないよう自分で確認し、自分で手紙を書き、自分で馬車の時間まで見に行く。
けれど、それでは私がいなくなった途端、何も動かなくなる。
今は、誰が見ても次に何をすべきか分かるよう、仕組みを作ることを心がけていた。
昼を過ぎても、大きな混乱は起こらなかった。
一人の患者の食事が変更されたときも、医師が療養手帳に記入し、担当者が厨房へ知らせた。
迎えの馬車の時刻が変わったときも、受付から付き添いへすぐに伝わった。
「初日にしては、静かすぎますね」
廊下で会ったジュリアン様が、少し物足りなさそうに言う。
「混乱したほうがよろしかったですか?」
「いいえ。私はもっと走り回るつもりで、朝食を多めに取ってきたのです」
思わず笑ってしまった。
「でしたら、お昼もきちんと召し上がってください。医師が倒れたときの欄は、療養手帳に作っておりませんから」
「それは困ります。今から追加していただけますか?」
「お断りします」
今度は、ジュリアン様が笑う。
気づけば私は、彼の前で自然に笑えるようになっていた。
セドリック様といたころは、言葉を口にする前に必ず考えていた。
これを言えば、嫌われないだろうか。
機嫌を損ねないだろうか。
リリア様への嫉妬だと思われないだろうか。
ジュリアン様は、意見が違っても不機嫌にならない。
私の提案を採用できないときは、理由を説明する。
そして、自分が間違っていたと分かれば、身分に関係なく謝る。
それは特別に甘い言葉を贈られるより、私の心を安心させた。
「エマ様」
笑いを収めたジュリアン様が、姿勢を正す。
「ひと月の試用期間は、今日までです」
「はい」
「今後も、療養棟の運営を手伝っていただけませんか?」
働き始めたときから、考えていた。
侯爵家の娘として、家族の名を支えることも大切だ。
けれどそれだけではなく、自分の力で誰かの役に立ちたい。
必要とされるために無理をするのではない。
できることを仕事として引き受け、その責任に見合う権限と対価を受け取る。
私は、そんな生き方を続けてみたかった。
「お引き受けしたいと思います」
ジュリアン様の表情が明るくなる。
「本当ですか?」
「ただし、条件がございます」
「伺います」
「相談役という名前だけではなく、手順を改善する権限を明記してください。責任者が誰なのかも、曖昧にしたくありません。それから、必要な人員や費用について、私から意見を出せるようにしていただきたいです」
我ながら、ずいぶん要求が多い。
嫌な顔をされるかもしれないと思った。
しかしジュリアン様は、すぐにうなずいた。
「当然の条件です」
「当然、ですか?」
「責任だけ負わせて、判断する権利を渡さないほうがおかしいでしょう」
その言葉が、胸の奥へ静かに染み込んだ。
以前の私は、多くの責任を引き受けていた。
けれど、何かを決める権利はなかった。
婚礼の日取りも。
セドリック様が誰を優先するかも。
私が、いつまで待つのかさえも。
「契約書の案を作ります。エマ様も確認して、納得できないところは遠慮なく直してください」
「ありがとうございます」
「こちらこそ。あなたに残っていただけるなら、心強い」
必要だと言われることは、以前にもあった。
けれど今は、その言葉が重荷ではない。
断る権利も、条件を変える権利もあると分かっているからだ。
午後になると、受付の者が私を呼びに来た。
「エマ様に、お客様がお見えです」
案内された応接室には、ロバート・アーヴェル伯爵が一人で待っていた。
セドリック様の父親だ。
婚約を解消して以来、顔を合わせるのは初めてだった。
「お仕事中に申し訳ない」
立ち上がった伯爵は、私へ深く頭を下げた。
「まずは、謝罪させてほしい」
「伯爵様が頭を下げる必要はございません」
「いや、ある。息子の振る舞いを知りながら、私は止めなかった」
私が向かいへ座ると、伯爵は一通の封書を差し出した。
王宮の印が押されている。
「婚約解消の届け出が、正式に受理された」
封書を開く。
そこには、私とセドリック様の婚約が解消されたことが記されていた。
六年間続いた関係は、これで本当に終わった。
ほっとすると思っていた。
実際、安堵もあった。
けれど胸の奥に、わずかな痛みも残っている。
婚約を解消したことへの後悔ではない。
かつて信じた未来が、本当にどこにもなくなったのだという寂しさだった。
「私は、息子がリリア嬢の療養を支えているものだと思っていた」
伯爵が静かに続ける。
「医師や療養先の手配をしていたのも、息子だと。君が多少手伝っていることは知っていたが、まさかすべてを任せていたとは思わなかった」
「私も、自分が引き受けすぎているとは気づいておりませんでした」
「気づこうとしなかった我々にも責任がある。君が何も言わずに整えてくれることへ、甘えていた」
言い訳をせず認める姿は、セドリック様とは違っていた。
だからこそ、私はその謝罪を素直に受け取ることができた。
「ありがとうございます」
「許してくれとは言わない。ただ、申し訳なかった」
伯爵はもう一度頭を下げた。
「セドリック様は、リリア様の療養手帳を続けていらっしゃるのですか?」
尋ねるつもりはなかった。
けれど、あれほど当然のように私へ押しつけていた彼が、どうしているのか少しだけ気になった。
「最初の三日は続けた」
伯爵の顔に、深い疲れが浮かぶ。
「四日目に、領地から来た管理人との面会があった。息子はリリア嬢の具合が悪いと言って、約束を欠席した」
「また、危篤だと?」
「いや。目眩がしたので、一人にしないでほしいと頼まれたそうだ」
命の危険がないと知ったあとも、セドリック様は同じ選択をしたのだ。
「翌日は?」
「前日にできなかった仕事を片づけるため屋敷へ戻った。するとリリア嬢から、手帳を記入する者がいないと使いが来た。息子は再び出かけ、王宮へ提出する領地報告の確認を怠った」
「間に合ったのでしょうか」
「私が確認して提出した」
伯爵はため息をついた。
「来年から、伯爵家の実務を段階的に息子へ引き継ぐ予定だった。だが、いったん取りやめた」
セドリック様が失ったのは、私との婚約だけではなかった。
自分の責任よりリリア様を優先するという選択を繰り返し、父親からの信用まで失ったのだ。
「リリア様とのご結婚は、どうなさるのですか?」
今の社交界では、二人が結婚するものと思われている。
婚約者との約束を破り、夜会で三度も踊ったのだ。
その直後に婚約が解消されたなら、誰でもそう考えるだろう。
「私も息子へ尋ねた」
伯爵の表情がさらに曇る。
「リリア嬢を何より大切に思うなら、責任を持って妻に迎えるべきではないかと」
「セドリック様は、なんと?」
「リリアは病弱な妹のような存在であって、結婚相手ではないと言った」
思わず目を伏せた。
リリア様は、知っているのだろうか。
彼女がどれほど助けを求めても、セドリック様は結婚相手として見ていない。
けれど、それも私が心配することではない。
「息子は、自分が愛しているのは君だと言っている」
「愛している方との約束を、六年間も後回しにはいたしません」
「そのとおりだ」
伯爵は否定しなかった。
「療養手帳をつけ、医師や使用人との連絡を自分で行うようになって、ようやく君がしていたことに気づいたらしい」
「気づいていただくには、遅すぎました」
「ああ。だが、息子はそう思っていない」
伯爵の声に、わずかなためらいが混じる。
「婚約を戻したいと言い出した」
驚きはした。
けれど、心は揺れなかった。
セドリック様が恋しかった時期は、確かにある。
彼が振り向いてくれるなら、どれほど待ってもよいと思っていた。
けれど今、私が戻りたいのは、彼の隣ではない。
「伯爵様から、私を説得なさるおつもりですか?」
「いや」
伯爵は首を横に振った。
「私は息子へ、自分のしたことの結果を受け入れろと言った。今日は君に警告するために来たのだ。あれは近いうち、自分で君のもとへ来る」
「そうですか」
「会いたくないなら、私から止める」
以前なら、セドリック様との間を誰かに取り持ってほしいと思ったかもしれない。
けれど、最後の言葉だけは自分で伝えたかった。
「いいえ。来られたら、お会いいたします」
「本当によいのか?」
「はい。今度こそ、分かるようにお断りします」
伯爵が帰ったあと、私はしばらく婚約解消の証明書を見つめていた。
応接室の扉が、控えめに叩かれる。
「入ってもよろしいですか?」
ジュリアン様だった。
「お客様はお帰りになりましたか?」
「はい」
彼は私の手にある書類へ目を向けたが、内容を尋ねなかった。
「少し休みますか。それとも、今日はもうお帰りになりますか?」
私の代わりに決めず、選ばせてくれる。
「仕事へ戻ります」
私は証明書を封筒へ収めた。
「今日から正式に、こちらで働くことになりましたから」
「では、初日の成功と新しい契約を、あとでお祝いしましょう」
「林檎の焼き菓子がよいです」
「覚えておきます」
ジュリアン様と並んで廊下へ出る。
その日の仕事を終え、施療院の玄関を出たときだった。
一台の馬車が、正面に停まる。
降りてきたセドリック様の手には、あの日、私が返した婚約指輪があった。
「エマ」
彼は指輪を握りしめ、私をまっすぐに見た。
「もう一度、俺とやり直してほしい」




